名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
入ってと言われても、私は立てない。
水鏡の扉へ手をついたまま、少し考えた。
「迎えをお願いします!」
正直に叫ぶ。すぐに扉が開き、アデルが飛び出してきた。
「何をしてる」
「待ってた」
「声が聞こえたら入れと言った」
「脚が動かない」
アデルが口を閉じる。
「忘れてた?」
「……いや」
「今、絶対忘れてた顔」
「急いでいた」
しゃがみ、私を背負う。
「中は?」
「説明より見たほうが早い」
鐘楼へ入った。扉の向こうに、水はない。石造りの広間。壁も床も天井も濡れている。中央の階段だけが上へ伸びていた。
一階には、町の朝があった。窓の外ではない。壁の中。誰かの記憶が大きな絵のように流れている。
漁師が舟を出す。市場の女が魚を並べる。子どもたちが湖へ石を投げる。全部、別の人の目から見た朝。
「きれい」
思わず言った。
「売られたもの」
シエナが階段の下で待っていた。手に日記。外套は水を吸い、重そうだ。
「燃やされた記憶が、ここへ戻っている」
「どうして?」
「塔が集めてる。火種が燃えかすを捨てられない」
記憶灯で燃やせば、消えると思っていた。でも火種は拾っていた。本人へ返すためか。それとも別の理由か。
「三階までは普通の記憶」
ミナが上から下りてきた。
「四階へ上がろうとしたら、道がなくなったの。シエナが日記を開いたら、フィアを連れてこいって」
「誰が?」
「私」
シエナが答える。
「日記の文字」
見せられた頁に、見覚えのない一行が増えていた。
『忘れられた者を連れてこい』
「私はまだ忘れられてないよ」
「一部は」
そうだった。ミナの看病。アデルの木剣。消えた記憶の中には、忘れられた私がいる。
鐘楼はそれを知っている。
「上へ行く」
レオナさんが言う。
「予定変更。火種へ触れられる可能性がある」
「今夜は確認だけでは?」
「状況が変わった」
三人の顔が険しくなる。レオナさんもすぐ気づいた。
「回収はしない。入口を開くところまでだ」
「フィアは?」
ミナが聞く。
「連れていく。触れる必要があっても、術は使わせない」
「本人の前で決めないで」
私が言うと、全員こちらを見る。
「行きます。ここで待っても、開かないんでしょう」
「身体は」
「アデルが運んでくれる」
「当然みたいに言うな」
アデルが言った。
「嫌?」
「先に頼め」
「お願いします」
「分かった」
背負われたまま、階段を上る。二階は、町の昼。湖で魚を捕る人。記憶市で瓶を差し出す人。病室で眠る子。
三階は、町の夜。家族の食卓。恋人の別れ。誰もいない部屋で名前を呼ぶ老人。四階へ続く階段だけが、水で塞がれていた。シエナが日記を開く。
新しい文字は増えない。
「フィア」
呼ばれる。
「いるよ」
「日記へ触って」
右手を頁へ置く。第一の火種が赤く光った。紙から、三つの景色が浮かぶ。ミナが熱を出した夜。
アデルと木剣を作った日。四人で屋根へ上った朝。
私が覚えている景色。三人が失った景色。
「これ」
ミナが手を伸ばす。指は景色を通り抜けた。
「見えるのに、思い出せない」
「私の記憶だから」
声が震えそうになる。アデルは木剣の景色を見ている。
小さな自分が泣きながら笑う姿。
「私は、あんな顔をしたのか」
「したよ」
「お前の記憶では」
「うん」
アデルのものではない。私だけが持っている。
「書いて」
アデルがシエナへ言う。
「見たことを?」
「全部。私が泣いていたことも」
「格好悪いところまで?」
「お前は黙れ」
少しだけ笑った。その声へ反応し、階段を塞いでいた水が揺れる。中に道が開いた。
「笑うこと?」
ミナが不思議そうに言う。
「思い出に、新しい反応を加える」
シエナが推測する。
「失った記憶を戻すのではない。今の私たちが見て、選ぶ」
アデルが木剣の景色へ手を伸ばす。触れられない。それでも言った。
「泣いていても、よくやった」
小さなアデルが笑う。水の道が広がった。
「私も」
ミナが看病の夜を見る。
「フィアが手を握ってくれたの、覚えてない。でも今なら、ありがとうって言う」
さらに水が退く。最後は屋根の朝。シエナが見た。
「危険」
「感想、それ?」
「今も同じ。フィアが言い出し、三人を巻き込む」
「ひどい」
「でも朝日はきれい」
水が消えた。四階へ階段が続く。思い出は戻らない。
でも三人が今の言葉を足した。私だけの記憶ではなくなった。
「ありがとう」
言う。
「何が?」
ミナが聞く。
「見てくれて」
失った私を。
*
四階は、葬儀の記憶で満ちていた。誰のものかは分からない。黒い服。白い花。閉じた棺。
町の人々が売った、別れの記憶だ。忘れたいのだろう。亡くなった人の顔を。最後に触れた冷たい手を。
残された痛みを。
「足元」
シエナが注意する。床には水が薄く張っている。踏むたび、葬儀の声が立ち上がった。泣き声。祈り。
言えなかった言葉。アデルの背で、私はシエナを見た。
「覚えてる?」
「何を」
「私たちが初めて話した日」
「墓地。雪の鳥」
「猫」
そこではない。
「葬儀の帰り」
シエナの足が止まる。七歳の春。シエナの父親が亡くなった。鉱山の事故だった。
葬儀で、シエナは泣かなかった。大人に混じって棺を見つめ、一度も顔を動かさなかった。帰り道、私は隣を歩いた。
何を言えばいいか分からなかった。だから、母さんが焼いたパンの失敗を話した。塩と砂糖を間違えたこと。
客が一口で水を三杯飲んだこと。シエナは笑わなかった。でも村へ着く直前、私が石につまずいて転んだ。そのとき初めて笑った。
「覚えてる」
シエナが答えた。胸が緩む。
「よかった」
「フィアが、わざと転んだ」
「違うよ。本当に転んだ」
「今もそう言うと思った」
「本当です」
シエナの口元が上がる。この笑い方。声を出さず、ほんの少しだけ。
私が何度も見たくて、くだらない話を探した顔。
「私、あの日うれしかったんだよ」
「転んで?」
「シエナが笑ったから」
シエナの足が止まる。
「人が転んだのに」
「ひどい子だね」
「フィアが笑わせた」
「偶然」
「それでも」
シエナは日記を開く。新しい頁へ書いた。
『父の葬儀の帰り、フィアが転んだ。私は笑った。フィアはうれしかった』
「そこまで書く?」
「忘れたくない」
強い言葉だった。景色が揺れる。白い花が水へ落ちる。
「忘れないよ」
言ってから、無責任だと思った。灯替えを使えば、消えるかもしれない。
「約束できない」
言い直す。
「ごめん」
「私が書く」
シエナは頁を閉じた。
「忘れても、また読む」
日記を胸へ抱く。それは思い出の代わりにはならない。シエナも分かっている。
それでも何もないよりいい。四階の奥に、上への扉があった。扉の前には人が立っている。水でできた女性。
顔が次々変わる。母親、老人、子ども、兵士。町で記憶を売った人々の顔。
『返して』
全員の声で言った。
「誰に?」
ミナが尋ねる。
『名前を』
水の女性が私を指す。
『お前は持っている』
身体の中で、第一火種が熱くなる。
「私は町の人の名前を知りません」
『三人の中から奪った』
アデルの木剣。ミナの看病。シエナの笑い。忘れられた私の記憶。
『返せ』
水の腕が伸びる。レオナさんが剣で払った。刃は水を通り抜ける。
「後退!」
私たちは階段へ戻る。女性は追ってこなかった。
扉の前に立ち、同じ言葉を繰り返す。
『返して』
その声を残し、四階から下りた。
*
塔を出たのは、約束より二十分遅れた。市庁の治療室へ戻る。今夜はこれ以上進まないと決まった。水の女性が何者か。
なぜ私の持つ記憶を求めるのか。答えを探す。
シエナは寝台の横へ椅子を置き、日記を開いた。
「まだ書くの?」
「今のうち」
「眠らないと」
「忘れる前に」
筆を動かし続ける。私は横から頁を見た。
水鏡の構造。四階の葬儀。水の女性の言葉。その途中に、父親の葬儀の日が丁寧に書かれている。
「シエナ」
「なに」
「これから、私が話した昔のことも全部書く?」
「必要なら」
「大変だよ」
「フィアはよく喋るから」
「そこは少し選んで」
「選ぶ」
シエナは筆を止めた。
「フィアが何を覚えて、何を怖がって、何を隠したか。全部は書けない」
「うん」
「だから私が残したいものを書く」
「それでいい」
記録は正しさのためだけではない。シエナが、何を残したいと思ったか。
それもシエナの一部だ。
「見せて」
手を伸ばす。
「今?」
「最初から」
「長い」
「眠くなるまで」
シエナは日記の最初の頁を開いた。旅立ちの日。私がくしゃみを三回。アデルが馬車の天井へ手をぶつける。
ミナが蜂蜜を使い切る。くだらない。
大切だ。
「私、こんなに喋ってる?」
「もっと」
「減らしてる?」
「かなり」
少し傷ついた。頁をめくる。
古砦。灯替え。怒り。
泣いたこと。木剣。ルル。全部ある。
「フィア」
シエナが呼ぶ。
「いるよ」
「これを忘れても、私は私?」
すぐには答えられなかった。記憶が人を作る。でも記憶を失ったアデルは、知らない木剣を拾った。
ミナは理由を忘れても、私の隣を選んだ。
「シエナだよ」
答える。
「何を忘れても?」
「うん」
「フィアを忘れても?」
怖い。
それでも。
「シエナ」
名前を呼ぶ。
「日記をつける人。知らない文字を見ると寝なくなる人。薬草を焦がす人」
「焦がしてない」
「火が強い」
「適切」
「それから、私が何か隠すと黙って水をくれる人」
シエナが卓の水差しを取る。寝台の横へ置いた。
「今も?」
「今も」
「なら、シエナだよ」
記憶だけではない。今の選び方。
目を向けるもの。差し出すもの。
「フィアも」
シエナが言う。
「何を忘れられても、フィア」
その言葉へ、安心してはいけない気がした。忘れられても平気だと、自分をだます材料にしてしまう。
「忘れられたくない」
正直に言う。
「うん」
「シエナには、覚えていてほしい」
「努力する」
約束ではない。私と同じ言い方。
「弱い」
「頑張る」
「まだ弱い」
「善処」
二人で笑った。シエナの笑い方を、よく見た。日記の字も。
水を置く指も。全部、覚えていたい。翌夜、鐘楼へ戻る。水の女性を越え、第二火種へ進む。
その先で何を失うか、まだ誰も知らなかった。