名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
水の女性を越える方法は、三つ考えた。
一つ目。凍らせる。却下。水鏡の塔ごと凍り、私たちも帰れなくなる。二つ目。蒸発させる。
却下。町で売られた思い出が、湯気になって天井へ張りつく。たぶん後始末が大変だ。三つ目。話し合う。
「最初からそれでよくない?」
ミナが言った。
「話し合える相手ならね」
「『返して』って喋ってた」
「要求が一つしかない人は、話し合いが難しいんだよ」
こちらに返せるものがない。水の女性は、私が三人から奪った名前を返せと言った。たぶん、灯替えで消えた記憶のことだ。返したい。
返せるなら、こちらから頼みたいくらいだ。
「返せないと伝える」
シエナが日記を閉じる。
「それでも通さないなら、理由を聞く」
「さらに通さなかったら?」
アデルが剣の留め具を確かめる。
「そのとき考える」
「シエナまで、ずいぶんゆっくりになったね」
「フィアが速すぎる」
今日は私も鐘楼へ入る。一日の休息で、指は三本動くようになった。脚はまだ立たない。アデルの背中が私の足だ。
人へ運ばれる生活にも慣れてきた。慣れたくはなかったけれど。
「重い?」
「昨日より重い」
アデルが言う。
「よかった」
「もっと食べろ」
「いま重いって」
「ちょうどいいとは言ってない」
基準が厳しい。ミナが持つ籠には、パンと魚の燻製。それから蜂蜜。
「塔で食べるの?」
「帰ってから」
「では町へ置いても」
「帰る理由」
ミナが籠を抱き締める。
「お腹がすいたら戻るでしょう」
「誰が?」
「私」
自分だった。それでも帰る理由が一つ増えるならいい。
シエナは日記を三冊持った。一冊目は自分の記録。二冊目は町の記憶市から借りた契約者名簿。
三冊目は白紙。
「白紙は?」
「水の女性が返したい名前を書く」
「何人ぶん?」
「九千人」
「足りる?」
「足りない」
シエナは迷わない。
「それでも書く」
この人は、全部できないから何もしない、という選び方をしない。私とは違う。私は全員を助けられないと、自分を使う。シエナは一人目から書く。
「私も手伝うよ」
「右手は?」
三本の指を見せる。
「三本あれば字は」
「読めない」
「書く前から決めないで」
昔、母さんには「酔った鶏が泥を歩いた字」と言われた。読めないとは言われていない。
「フィアの役目は、名前を呼ぶこと」
シエナが言う。
「書いた名前を、一人ずつ」
「九千人?」
「全部ではない」
「少し安心した」
「声が枯れる前まで」
「厳しい」
アデルの背で、水鏡へ続く階段を下りる。満月は昨日より細く欠けていた。
湖の中へ入れる時間も短くなる。第二の火種を持ち出す。町の防壁を残す。
売られた記憶へ帰る道を作る。全部できるか分からない。それでも、四人で考えた。私一人の答えではない。
*
四階の水の女性は、昨日と同じ場所に立っていた。顔は一つに定まらない。泣く母親。
笑う子ども。眠る老人。そのすべてが、こちらを向く。
『返して』
「返せません」
シエナが答えた。最初から正直だ。
『奪った』
「フィアが持っているのは、自分側の記憶。三人から消えた記憶そのものではない」
『同じ灯』
「同じではない」
シエナは日記を開いた。
「アデルは木剣を覚えていない。フィアは覚えている。でも、二人が感じたことは別。フィアの記憶を渡しても、アデルの記憶は戻らない」
水の顔がアデルへ変わる。六歳。
泣きながら木剣を握る顔。私の記憶を読んだのだ。
『返せ』
「これは私のじゃない」
アデルが言う。
「失ったものがあったことは知っている。だがフィアから奪っても、私の過去にはならない」
水面が揺れた。次はミナ。
熱を出した夜、私の髪を握って眠る顔。
『返して』
「今の私が欲しいのは、フィアが生きてること」
ミナは私の手を取る。
「昔の私に返すため、今のフィアを削らないで」
最後にシエナ。葬儀帰りの坂。
私が転び、初めて笑った瞬間。昨日、日記へ書いた記憶。
『返せ』
シエナは長く見た。
「欲しい」
胸が痛む。
「思い出したい。でもフィアの記憶を取らない」
水の女性へ日記を見せる。
「新しく残す」
白紙の頁。
「あなたたちも。誰へ返したいか、名を教えて」
女性の顔が止まった。一人の少女になる。十歳くらい。青い髪。痩せた頬。
『名前』
「あなたの?」
シエナが聞く。少女は首を振る。
『ない』
記憶の集まりだから。誰か一人の名を持たない。
「では、あなたが覚えている名前」
シエナが筆を持つ。
「教えて」
少女の口が開く。
『ロイ』
最初の名は、あの男の子だった。母親に売られた、五年分。シエナが書く。
『ロイ・オーネ。母を呼んだ。手を握った』
次の名。
『ルル』
ロイの妹。
『ルル・オーネ。兄に菓子を半分もらった』
名前が続く。契約者名簿と照らし、三人で書く。私は読み上げる。
「ロイ・オーネ」
水の中から、子どもの笑い声が離れる。
「ルル・オーネ」
小さな手の感触。
「サラ・ミード」
結婚式の朝。
「ゲオル・レイ」
亡くした妻の子守歌。呼ぶたび、水の女性の身体から灯が一つ抜け、階段を下っていく。
町へ帰る。元の持ち主へ記憶が戻るわけではない。売ったという事実と、受け取るかを選べる形で、瓶へ戻る。
「声」
アデルが水を差し出す。
「まだ」
「飲め」
百二十人目で喉が痛い。水を飲む。
もう一度呼ぶ。すべては無理だ。九千人。
日記は三冊。月が沈むまで、二時間。それでも一人ずつ。
「フィア」
シエナが新しい名を示す。
「エマ・トール」
「エマ・トール」
母親の手。
「カイ・レス」
「カイ・レス」
父親の背。三百人を越えたとき、水の少女が泣いた。涙も水だ。
頬へ筋は残らない。
『足りない』
「うん」
否定しない。
「でも続ける」
シエナが言う。少女の向こうにある扉が、少し開いた。上階から青い光が差す。
第二の火種。同時に、塔全体が揺れた。月が雲へ隠れたらしい。
「入口が閉じ始める!」
下からレオナさんの部下が叫ぶ。
「撤退!」
レオナさんが命じる。水の少女が扉へ手を伸ばした。
『火』
「今は取らない」
シエナが答える。
『火を』
少女の身体から水が噴き出した。四階の床が一気に満ちる。アデルが私を背負い直す。
「下りる!」
「シエナ!」
名前を呼ぶ。
「いる」
最後まで日記を拾い、こちらへ走る。水の壁が背後から来た。ミナが防壁を張る。レオナさんの術式師が凍らせる。
止まらない。階段まであと十歩。水の中に、無数の記憶が見えた。
帰りたい。
忘れないで。寒い。声が身体へ流れ込む。
自分の思考が分からなくなる。
「フィア!」
アデルの声。
「いる!」
「ミナ!」
「いる!」
「シエナ!」
返事がない。振り返る。
シエナが水へ膝をついていた。日記が一冊、流されている。白紙の記録。三百人ぶんの名前。それへ手を伸ばした。
「捨てて!」
叫ぶ。シエナは首を振る。
水が胸まで上がる。
「アデル、下ろして!」
「待て」
「シエナが!」
「私が行く!」
ミナが戻ろうとする。その前に、シエナが術式を結んだ。
水の中へ青い線が走る。日記を中心に、三百人の名が光った。一つずつの記憶を分け、道を作る術。
水が左右へ割れる。シエナが立ち上がる。
「走って!」
今度は声が届いた。全員で階段へ入る。背後で術式が砕けた。
青い光が逆流し、シエナの身体を貫く。
「シエナ!」
細い身体が水へ倒れた。ミナが抱き上げる。胸に傷はない。
でも、指で拾えるはずの鼓動がない。ミナが耳を当て、治癒灯を細く入れる。
「まだ切れてない。ずっと奥で、一回ずつ動いてる」
死んではいない。名の灯も残っている。ただ、次の一回まで体が待てるか分からない。
「術式の反動」
王都の術式師が言う。
「自分の灯を、名の分だけ裂いた」
「治して」
ミナが光を流す。反応しない。
「治してよ!」
もう一度。シエナの唇は青い。時間がない。
「灯替え」
言う。
「だめ」
アデルが止める。
「ミナ」
本人へ聞く。ミナはシエナの胸へ手を当てたまま、泣いている。
「私の術だけじゃ引き上げられない」
治癒術師として答えた。
「このままじゃ、次の鼓動が来ない」
選ぶ時間。シエナは意識がない。
私に決めさせると、ミナと約束した場面。
「使う」
告げる。
「シエナの灯を戻す」
ミナがうなずいた。アデルは目を閉じ、道を空けた。
「戻ってこい」
私へ言う。
「努力します」
シエナへ触れる。名前を呼ぶ。
「シエナ・ヴァルカ」
灯替えが開いた。裂けた灯が、青い糸に見える。三百本。一本ずつ拾い、胸へ戻す。
代わりに、私との記憶が燃える。葬儀の帰り道。
白い花。石につまずいた私。シエナの最初の笑顔。
「それは、だめ」
思わず言った。昨日、覚えていてほしいと頼んだ。
シエナは努力すると言った。日記へ書いた。それでも術は止まらない。
シエナにとって大切な、私との記憶。だから選ばれた。炎が坂道を包む。小さなシエナが消える。
笑い声が消える。最後に、私が転ぶ。
誰も笑わない。記憶が燃え尽きた。シエナの胸が動く。
一度。二度。目が開く。
「フィア」
名前を呼ばれた。まだ知っている。でも、あの日はない。
「いるよ」
答えた。泣かないように笑った。
水の向こうで、鐘が鳴った。一度。塔の奥から、朝色の火が飛んでくる。
私ではなく、シエナの日記へ入った。表紙へ青い輪が灯る。第二の火種。取れた。
誰も喜ばなかった。
*
塔を出ると、湖面は夜明け前だった。市庁の人々が岸で待っていた。水鏡から何百本もの記憶瓶が浮かび上がり、一人ずつの名を光らせている。バルド市長が一本を拾った。
亡くした妻の声が入っていた。
「これは」
「塔が返したい記憶です」
シエナの代わりに答える。
「元の持ち主へ返してください。見るか、燃やすか、捨てるか。その人に選ばせて」
第二火種は日記へ宿った。それでも湖の防壁は消えていない。返された記憶瓶が水面へ浮かぶたび、青い光が町壁へ流れていく。
「火種は、記憶を奪うためのものではなかった」
レオナさんが言う。
「名前を呼び、持ち主へ道を戻す。その行為が新しい灯になる」
九千人すべてには、まだ届かない。でも方法は分かった。
市長は妻の瓶を見た。
「これを戻せば、防壁が弱まる」
「戻すかは、あなたが決める」
シエナがかすれた声で言う。アデルに支えられている。
「町のために燃やすなら、それも自分で」
市長は長く黙った。瓶を胸へ抱く。
「市民へ、すべて話す」
今までの契約も。必要な灯の数も。選択肢も。
「それから決める」
一人ではなく。町で。私たちは二つの火種を得た。
ミレイスは、記憶を燃やす町から、記憶の持ち主を探す町へ変わり始める。
成功だ。
上出来。そう言えばいい。でもシエナが私を見ていた。
笑っていない。
「フィア」
「なに?」
「なぜ泣いてるの」
自分では気づかなかった。
「少し、疲れたみたい」
嘘をついた。シエナはもう、葬儀帰りの笑いを知らない。それでも日記は胸へ抱いている。青い火種と、失った日の記録を。