名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
笑わせるのは、わりと得意だ。少なくとも、昨日まではそう思っていた。
「水鏡の塔から三百本の記憶瓶が戻り、市役所は朝から大混乱です。つまり今なら、市長室のいちばん高そうな椅子を持ち帰っても気づかれません」
療養室の窓辺で、シエナが日記から顔を上げた。
「気づかれる」
「じゃあ二番目」
「値段の問題ではない」
正論である。正論なんだけど、前のシエナなら、ここでほんの少しだけ口元を緩めた。私が分かるか分からないかの瀬戸際くらい。あの子は笑うときまで慎重だから、見逃さないようにするのが私の日課だった。
今日は、何もない。
「しかも椅子を担いで旅をするつもり?」
「第三の火種へ向かう勇者一行には、立派な椅子が必要かなって」
「荷車が先」
「椅子を荷車にする?」
「車輪を四つつけたら、座り心地の悪い荷車になる」
そこまで言って、シエナはまた日記へ目を落とした。失敗。いや、会話は成立している。私の名前も分かる。声をかければ答えてくれる。昨日、鐘の底で死んでいたことを思えば、贅沢すぎる不満だ。笑わないくらい、なんだ。
笑えない日だってある。こっちは三百人分の名前を一晩でほどいた上に、次の鼓動が来なくなる寸前から引き戻されている。朝から機嫌よく笑っていたら、むしろそちらのほうが心配になる。
分かっている。でも私は、分かっていることと我慢できることが、あまり仲よくない。
「フィア」
「はい、椅子泥棒ではありません」
「この記録」
シエナが開いたページをこちらへ向けた。十二歳の冬。父の葬儀から帰った日。村道でフィアが転び、顔から雪へ突っ込んだ。鼻血を出しながら「雪に負けた」と言ったので、私は笑った。彼女の細い文字で、それだけ書かれている。
昨日までは、シエナが自分で覚えていた日だ。葬儀の帰り道、何を言っても返事をしないシエナの前で、私は凍ったわだちに足を取られた。転ぶつもりなんかなかった。本気で痛かったし、鼻血も本物だった。
ただ、シエナが笑ったから、痛くないふりをした。あの日の笑い声は小さかった。雪へ落ちた針みたいに短くて、それでも確かに聞こえた。
「これを書いたのは私」
「うん」
「文字も、言葉の選び方も私のもの。ページの端に雪解けの染みがある。たぶんその日に書いた」
「うん」
「でも、覚えていない」
その言葉はもう、塔を出てから何度も聞いた。聞くたび、胸の同じ場所へ針が刺さる。
「私が転んだのは本当だよ。見事な顔面着地。村の雪かき大会があったら優勝してた」
「日記と同じことを言っている」
「私、昔から話の種類が少ないから」
シエナは笑わない。私も、もう続きが出てこなかった。
「どんな声だった?」
聞かれて、困る。
「私の笑い声」
困るに決まっている。本人へ本人の笑い声を説明するなんて、焼きたてのパンへ小麦の気持ちを尋ねるくらい難しい。
「小さかったよ」
「どのくらい」
「子ねずみが、くしゃみを我慢したくらい」
「私は子ねずみではない」
「知ってる。シエナは冬眠前の山猫」
「もっと違う」
違う、と言った口元が少し動いた。期待した。動いただけだった。
「高い声?」
「いつもより、ちょっとだけ」
「長く笑った?」
「ううん。すぐ止まった。でも、そのあと家までずっと、口元が少し上がってた」
「そう」
シエナは指で文章をなぞった。
「そのときの私は、救われた?」
「知らない」
思ったより早く答えが出た。シエナが顔を上げる。
「私には分からないよ。笑ったからって、悲しくなくなったわけじゃない。お父さんが帰ってきたわけでもない。私が救ったなんて言ったら、あの日のシエナに怒られる」
あの子は泣かなかった。私が転んで笑ったあとも、泣かなかった。
ただ家の前で私の袖をつかみ、離さなかった。私は一緒に玄関の段へ座った。夕方になってミナが温かいミルクを持ってきて、アデルが薪を抱えてきても、シエナの指が離れるまで隣にいた。そこまで話していいのだろうか。
話せば、記録になる。けれど、記録を増やすほど、シエナの中にないものを並べることになる。
「でも、私はうれしかった」
これなら私の話だ。
「シエナが笑ったから?」
「うん。やっとこっちを見てくれたと思った」
「葬儀の日に転んで笑わせて?」
「言い方が悪いなあ。私がすごく不謹慎みたい」
「実際に不謹慎」
「あれは事故です」
シエナはページへ視線を戻した。
「私は、この記録を信じる」
胸が少し浮く。
「フィアが覚えていることも、信じる」
浮いたものが、止まる。
「でも、私のものではないみたい」
きれいに落ちた。仕方がない。あの記憶はもう燃えた。私が燃やした。
「それでいいよ」
口は、いつも私より先に正解を選ぶ。
「急いで自分のものにしなくていい。昔のシエナがどんな気持ちだったかなんて、今のシエナには関係ないし」
「関係はある」
「なくていいって」
「フィアにはある」
それ以上聞くと、うまく笑えない気がした。だから立ち上がる。
「薬をもらってくる。ついでに市長の椅子も」
「フィア」
「二番目の椅子にするから」
逃げるのは速い。左脚はまだ痛むし、肋骨も仲よくきしんでいるけれど、こういうときだけは働き者だ。
*
ミレイスの市庁舎は、人で詰まっていた。記憶瓶を受け取りに来た人。売った覚えはあるのに中身が分からず、瓶の前で立ち尽くす人。亡くなった家族の名を帳簿から探す人。見るかどうか決められず、市の職員へ怒鳴る人。
無理もない。十年前に捨てたはずの痛みが、町を歩いて帰ってきたのだ。お帰りなさい、と扉を開けられる人ばかりじゃない。
入口の長椅子に、ロイと母親が座っていた。二人の間には青い瓶が一本ある。
「フィア姉ちゃん」
ロイが私を呼び、隣を叩いた。姉ちゃん。知り合って五日目の呼び名だ。
それが今日は、やけにまぶしい。
「受け取ったんだ」
「うん。おれが二歳のときの記憶だって。母さんが売ったやつ」
母親は膝の上で両手を握っている。
「見るの?」
ロイは瓶を持ち上げ、朝の光へ透かした。青い中身が、赤ん坊の手みたいに揺れる。
「まだ決めてない」
「そっか」
「見たら、母さんは昔のおれを好きになるのかな」
母親が息を詰めた。私は危うく、なるよ、と言いかけた。分からないのに。
「昔のロイを知ることはできる」
「好きには?」
「それは、見てから選ぶんじゃないかな」
ロイがむっとする。
「母さんばっかり選ぶの、ずるい」
「じゃあロイも選べばいいよ。記憶の中のお母さんを、今のお母さんと同じ人だと思うか」
「同じだろ」
「うん。同じだけど、同じじゃないところもある。人って毎日少しずつ変わるし」
お母さんは、その間ずっと泣かなかった。ただ、ロイの手から瓶が滑らないよう、下へ手を添えた。
「見なくてもいい」
彼女が言った。
「あなたが決めて」
「母さんは見たい?」
「見たい。でも、怖い」
「なんで」
「私が知っているあなたを、知らない私が出てくるから」
ロイはしばらく瓶を見ていた。それから母親へ預ける。
「昼飯のあとにしよう」
「え?」
「腹減ってると、いいこと考えられないってフィア姉ちゃんが言ってた」
言った。たぶん昨日、市長へ。大事な決断と空腹を同じ席へ座らせるな。だいたい空腹が勝つから。
「じゃあ、何を食べる?」
「魚の煮込み。母さんが今作るやつ」
昔の味ではなく。今の母親が作るもの。二人は並んで立った。母親がロイの肩へ触れ、ロイは嫌がる顔をして、その手を払わなかった。なくなったものは、戻せるかもしれない。
戻さなくても、新しく作れるかもしれない。私はそれを知っている。
知っているはずなのに、シエナの笑い声だけは、今も私の中で鳴っている。あの子へ渡せない。私だけのものになってしまった。
「薬を取りに来た顔ではないな」
背後からレオナさんに言われた。
「薬を取りに来た美人の顔です」
「美人は否定しない。薬はすでにミナが持っていった」
「では、市長の椅子を」
「二階にいる。本人ごと運べ」
今日は誰も笑わない。水の町の人は冗談が通じない。そういうことにしておこう。レオナさんが私の隣へ立つ。雑踏を見たまま、小声で言った。
「シエナは?」
「元気。私より元気」
「笑ったか」
ずるい質問だ。
「まだ朝だから」
「そうか」
「お昼には大笑いするよ。お腹を抱えて転げ回る。あの子、実は笑い上戸だから」
「私は三年シエナを見ているが、その姿は想像できない」
「想像力を鍛えて」
レオナさんは黙った。慰めない。
あの人は必要なとき、正しい言葉がないことを認められる。今は、それがありがたくて困る。
「町の防壁は?」
「記憶を返しても、灯は減っていない。むしろ名を呼んだ分だけ安定している。バルド市長は今夜、市民集会で記憶炉の停止を宣言する」
「よかった」
「お前たちは明朝、北西のトール山へ出る。第三火種は山頂の天鐘堂だ」
レオナさんは新しい地図を渡した。
「王都からの追手は?」
「二日前、街道の検問所へ入った。私がここにいると知られれば、私だけでなくお前たちも拘束対象になる」
「旅が賑やかになるね」
「フィア」
「はい」
「追手は、お前の灯替えを回収しに来る」
回収。人に使う言葉ではない。道具か、失くした荷物へ使う。
「壊さないように気をつけます」
「違う」
「分かってる」
胸の奥へ、白い冷たさが触れる。塔で三百の記憶に触れたとき、誰かがこちらを見た。名のない女。白い衣。
暁鐘院が百年前の記録から消した、最初の灯守。あれが私を見た。
おいで、と口が動いた。まだ誰にも言っていない。
「顔が変わった」
「美人から超美人に?」
「嘘をつく顔へ」
ばれている。
「シエナのことだ」
半分だけ本当を出す。
「少し、一人になってくる」
「護衛をつける」
「一人の意味を辞書で調べて」
「なら、三十分だ。戻らなければ探す」
「レオナさんって、私のお母さんだった?」
「お前の母親なら、十年前に尻を叩いている」
「今からでも遅くない?」
「戻らなければ試す」
脅しとしては効いた。
*
湖岸の北に、小さな舟小屋がある。市庁舎から近いのに、記憶瓶を運ぶ舟が使わなくなったから誰も来ない。湿った縄と古い櫂が積まれ、屋根の隙間から細い光が落ちていた。
一人になるには、ちょうどいい。私は壁へ背を預け、ゆっくり座った。笑わなかった。
シエナが笑わなかった。たったそれだけだ。名前を忘れられたわけじゃない。嫌われたわけでもない。日記を捨てられたわけでもない。それでも。
「嫌だなあ」
声にすると、ひどく子どもっぽい。私は、あの笑いを覚えていてほしかった。私が雪へ転んだことも。鼻血を出したことも。あの日、シエナの隣へ座ったことも。
だって、あれは私がシエナの人生にいた証拠だった。フィアがいたから笑った。フィアがいたから一人ではなかった。そう思っていた。
記憶がなくなった途端、それを言えるのは私だけになった。私が勝手に話をきれいにしているかもしれない。笑い声の高さも、袖をつかんだ指も、本当は少し違ったかもしれない。
シエナは訂正できない。だから、あの日のシエナまで私の持ち物になってしまう。それが怖い。
同時に、うれしいと思っている自分もいる。私しか知らない。なら、私が持っていればいい。誰にも渡さず、誰にも確かめさせず、ずっと。
「最低」
膝へ額をつける。目の奥が熱い。泣くほどのことじゃない、と何度も思った。
シエナは生きている。生きているから、新しい記憶を作れる。正しい。全部、正しい。
正しい言葉を積み上げても、その隙間から涙は落ちた。最初の一滴が膝へ染みる。
止めようとしたら、二滴目が出た。これは困る。私の涙腺は普段、もっと仕事を選ぶ。玉ねぎを刻むときとか、煙が目へ入ったときとか、人へ説明しやすい場面で働いてほしい。
今日は説明できない。シエナを救えてよかった。記憶を失わせたくなかった。生きていてほしい。
あの日を覚えていてほしい。選んだのは私だ。
選ばせてもらったのも私だ。誰も責められない。誰も責められないのに、苦しい。
声を殺そうと口を押さえた。十年前、ネネへ間に合わなかった夜も、私は泣かなかった。泣いたら、三人が私を見るから。私に助けられた三人が、私を慰めるから。
そんなのはおかしいと思った。それからずっと、泣く順番は私のところまで回ってこなかった。
今日、来てしまった。遅すぎるし、場所も悪い。古い舟小屋で一人。なんとも景気の悪い泣き方だ。
笑ってしまおうとした。息だけが震えた。
「フィア」
外から声がした。最悪。いや、知っている声だから、最悪の中でも上等なほうだ。
「三十分はまだです」
鼻声になった。
「レオナではない」
「聞けば分かるよ」
戸が開く。シエナが立っていた。
日記を胸へ抱き、靴のまま浅い水溜まりへ入っている。まだ一人で歩くなと言われていたはずだ。
「患者さん、脱走は犯罪です」
「椅子泥棒に言われたくない」
私は顔を伏せた。
「見ないで」
「見ていない」
「すごく見てる」
「では、目を閉じる」
本当に閉じた。そのまま壁を探り、私の隣へ座ろうとする。手が古い樽へ当たり、樽が転がった。
「ちょっと、危ない」
思わず腕をつかむ。シエナは目を開けた。
「見た」
「フィアがつかんだ」
「そうだけど」
「では、お互いの責任」
理屈が雑だ。雑なのに、笑えない。シエナは私の隣へ座った。肩が触れないくらい、少しだけ間を空けて。
「どうして分かったの」
「薬を取りに行ったまま戻らなかった。ミナが泣きそうだった」
「ミナは?」
「アデルとレオナに止められた。三人で来ると、フィアは逃げるから」
よく分かっている。
「シエナなら逃げないと思った?」
「走れば追いつける」
「患者さんに追いかけられたら、私の評判が悪くなる」
「もう悪い」
ひどい。前ならここで、笑っただろうか。私はまた確かめようとしている。シエナの口元を見るたび、昔の子を探している。
「ごめん」
「なぜ」
「さっき、笑わせようとした」
「いつものこと」
「笑うか確かめるために」
シエナは日記へ目を落とした。
「私は笑わなかった」
「うん」
「それで、フィアが泣いた」
「違うよ」
「日記に書く」
「待って。本人の証言を尊重して」
「フィアはよく嘘をつく」
「よくではない。必要なときだけ」
「今が必要なとき?」
答えられない。シエナは新しいページを開いた。
紙を押さえた左手が、少し震えている。死んでいた体だ。元気なはずがない。
それでも探しに来た。
「書かないで」
「なぜ」
「今日のこれは、記録にしたくない」
「忘れたい?」
「そうじゃない」
忘れたいわけじゃない。
忘れられたくない。
でも、泣いた私を残して、いつかシエナがそれを読むのも怖い。今と同じだ。文字だけで私を信じようとする。
「日記が嫌になった?」
「違う。日記は大事だよ。でも、書いてあるから本当だって思わなくていい」
「嘘がある?」
「嘘じゃなくても、全部じゃない。書いたときのシエナにしか分からなかったことがある。今のシエナが同じ気持ちになれなくても、悪くない」
シエナはしばらくペンを持ったまま動かなかった。
「私は、あの日を取り戻したいと思っている」
「うん」
「でも、取り戻したいと思う理由が分からない」
その声は平らだった。平らにしないと崩れるときの声だ。
「日記に大切だと書いてある。フィアも大切だったと言う。だから失った私は悲しむべきだと思う。でも、何も感じない」
私は、自分の涙を忘れた。
「それが怖い」
シエナはいつだって、私より先に怖いものの名前を言う。
「ごめん」
今度は私から出た。
「私が燃やした」
「私が使ってと言った」
「でも」
「三人が見ていた。皆で決めた。私も選んだ」
「死にかけてた」
「それでも私の選択」
日記が閉じられる。
「フィアだけの罪にしないで」
同じようなことを、何度言われただろう。そのたび分かったふりをして、次の朝にはまた全部を背負おうとする。荷物なら得意なのだ。重ければ重いほど、他の三人へ渡さずに済む。
「私は、自分が笑ったことを思い出せない」
シエナが言う。
「でも、今の私は、泣いているフィアの隣へ来た」
空いていた間が、少し縮まる。肩が触れた。
「これは日記を読んだからではない」
「ミナに頼まれたから?」
「半分」
「半分なんだ」
「残りは私が来たかった」
それは、昔の記憶じゃない。今日、シエナが選んだことだ。私が作った話でもない。
「もし私が、明日また今日を忘れたら」
シエナは閉じた日記を私の膝へ置く。
「フィアは、教えて」
「いいの?」
「うん。でも、私が同じ気持ちにならなくても許して」
胸の奥が痛む。
「ずるいお願いだなあ」
「フィアほどではない」
「私は善良で有名だよ」
「椅子を盗もうとした」
「未遂です」
シエナの口元が動いた。今度も、昔と同じ笑いではない。息がひとつ、鼻から抜けただけ。笑った、と呼んでしまえばそうかもしれない。
でも私は、確かめなかった。前のシエナを探すのをやめて、今の横顔を見た。
「ねえ、シエナ」
「なに」
「私、寂しかった」
言えた。声は格好悪く震えたけれど、言えた。
「うん」
「笑ってほしかった」
「今は、うまく笑えない」
「うん」
「でも、ここにいる」
肩の温度がある。昔を覚えている温度ではない。今、私の隣を選んだ温度だ。
「それで我慢する」
「我慢?」
「満足します」
「言い直しても失礼」
「じゃあ、ありがとう」
シエナは答えず、肩をもう少し押しつけた。舟小屋の外で、水が岸へ触れている。一定ではない音。
寄せて、離れて、ときどき古い杭へぶつかる。泣き止むまで、シエナは何も言わなかった。私も笑わなかった。
*
戻ると、ミナが療養室の前で待っていた。私を見つけた途端、走ってくる。
「フィアちゃん!」
「はい、無断外出の患者を確保しました」
「シエナじゃない!」
抱きつかれた。肋骨が鳴いた。でも声は出さない。出したらミナがすぐ離れるから、今は少しだけ、このままでいい。
「泣いた?」
「湖風が目に入って」
「両目に?」
「器用な風だね」
ミナは私の胸へ額を押しつけたまま、腕へ力を込めた。
「帰ってこないかと思った」
「薬を取りに行っただけだよ」
「薬はここにあるよ」
「迷子になりました」
「フィアちゃんは、迷子になると一人で泣くの?」
逃げ道を全部ふさがれた。後ろではアデルが腕を組み、レオナさんが壁へ寄りかかっている。シエナは助けてくれない。
「たまには」
私は答えた。
「たまには、一人で泣く」
ミナの腕がまた強くなる。アデルが顔をそむけた。たぶん、泣きそうなのを隠している。
「でも、次は見つけて」
そんなことまで言ってしまった。言った途端、恥ずかしくなる。十七歳にもなって、泣いているところを見つけてほしいなんて。
朝麦亭の女将見習いとしては失格だ。泣くならせめて帳簿をつけながら、経費にできる形で泣くべきである。
「分かった」
ミナは笑わずに答えた。アデルも頷く。シエナが日記を開き、一行だけ書いた。
何を書いたのかは見なかった。明日の朝、私たちはミレイスを出る。第三火種のあるトール山へ。記憶を燃やして守られていた町では、夜通し市民集会が開かれる。今まで燃やしたものも、これから戻ってくるものも、一人ずつ選び直すために。
なくしたものは、なかったことにはならない。戻らないものもある。
それでも、その人が今ここにいるなら、また選べる。ロイと母親がそうしたように。シエナが私の隣へ来たように。
私も、三人へ見つけてと言えたように。だから大丈夫。そう思った。夕食のあと、廊下を曲がるまでは。
戸の隙間から、三人の声が聞こえた。
「フィアには、まだ言わないで」
アデルの声。
「話せば、絶対に一人で決めるから」
「でも、隠すのは嫌だよ」
ミナが答える。
「シエナは?」
少し間があった。
「今夜だけ。フィア抜きで決めたい」
私の名が、私のいない部屋で呼ばれている。見つけて、と頼んだばかりなのに。
今度は私が、戸の外にいた。