名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
「今夜だけ。フィア抜きで決めたい」
戸の向こうで、シエナが言った。私は廊下に立っていた。両手には夕食の残り。黒パン四枚、川魚の燻製、固いチーズ。明日の道中用に包んできた。ちゃんと四人分ある。
部屋の中は、三人分の声だった。こういう場合、取るべき行動は一つ。
戸を勢いよく開けて、「私抜きで夜食とはいい度胸だ」と乱入する。笑えるし、誤解ならすぐ解けるし、本当に秘密の相談なら相手が分かりやすく慌てる。いつもの私なら、そうする。でも、手が動かなかった。
「明日から、交代で見張ろう」
アデルの声。
「寝ている間も?」
ミナが聞く。
「灯替えは触れて名前を呼ばないと使えない。危険があったら、まずフィアを相手から離す」
「縛る?」
「必要なら」
なかなか物騒な相談である。縛られるなら柔らかい縄を希望します、と割って入るところだ。
なのに、足の裏が廊下へ張りついている。
「でもフィアちゃん、怒るよ」
「怒らせろ。生きているなら怒れる」
「怒って、一人で行く」
「だから先に荷物と靴を隠す」
「右の長靴だけでいい。両方ないと、代わりの靴を探す」
シエナまで真剣だ。私の行動をよく分かっている。分かっている三人が、私のいないところで私の扱いを決めている。
胸の中へ、小さな石が落ちた。痛いというほどじゃない。でも、歩くたびに転がりそうな重さだった。
「ほかにもある」
紙の音がした。シエナの日記だろう。
「塔で、フィアの灯が見えた」
「灯?」
「胸の奥。私を戻したとき、一瞬だけ」
私は息を止めた。
「どんなだった?」
「名前の札が三つ、細い糸でつながっていた。アデル、ミナ、私。ほかは暗くて分からなかった。でも、私の札から一部が欠けた瞬間、フィアの輪郭も薄くなった」
シエナは、そこまで見ていたのか。
「封印記録と同じだ」
アデルが低く言う。
「『名の灯は、共有記憶を錨に保たれる』」
「全部なくなったら?」
ミナの声が震えた。返事はない。私は知っている。
正確には、知っているふりをして、いちばん都合の悪い答えを考えないようにしてきた。三人の中から私が全部なくなったら。私の名前をこの世へ結ぶ錨がなくなったら。灯替えで引き受けた傷も、白夜の冷たさも、私の中へ留まる理由を失う。
そうなった先を、暁鐘院の記録は消している。
「だから調べる」
アデルが言った。
「暁鐘院の追手を捕まえる」
「捕まえるって、どうやって?」
「一人だけ切り離す。レオナにも手伝ってもらう」
「危ない」
「フィアには危ないことをさせない」
「違うよ。アデルちゃんにも危ない」
ミナの言葉が強くなった。
「フィアちゃんを守るためなら、私たちが何をしてもいいわけじゃない」
胸の石が、少しだけ温かくなる。
「分かっている」
「分かってない顔してる」
「見えるのか」
「声で分かる」
「追手を捕まえるのは最後」
シエナが二人を止める。
「先に、記憶市場の帳簿を調べる。記憶炉へ流れた契約のうち、暁鐘院が買い取ったものが二十七件ある」
「何を買ったの?」
「灯替えを見た記憶。白い服の女を見た記憶。百年前の鐘の歌を聞いた記憶」
私の指が、パンの包みへ食い込んだ。白い服の女。
塔で私を呼んだ女。三人はもう、そこまで近づいている。なのに私は、見たことを話していない。
話せば、追うから。危険へ近づくから。私が守らなければいけないから。
「フィアちゃんに、聞こうよ」
ミナが言った。
「白い服の人を見てないか」
「今聞けば、見ていないと言う」
シエナの答えは速かった。
「なんで?」
「何か隠している顔をしていた。レオナも気づいた」
私はそんなに分かりやすいだろうか。分かりやすいのに、隠し事が得意だと思っていたのだろうか。かなり恥ずかしい。
「じゃあ、どうする?」
「逃げ道をなくしてから聞く」
「やっぱり縛る?」
「ミナは縛りたいの?」
「ち、違うよ!」
少し笑いそうになった。でも、笑えなかった。扉一枚。
たった板一枚なのに、向こう側へ入る方法が分からない。私を守ろうとしている。それは分かる。うれしい。
朝、私は見つけてと言った。三人は、見つけたあとどうするかを考えてくれている。うれしいのに。
私抜きで決めたい。その言葉だけが、胸の同じ場所へ引っかかる。私は足音を立てないよう、廊下を戻った。
自分の部屋へ帰る。四枚のパンは、三人のところへ置いていけなかった。
*
明け方、市庁舎の裏口から出た。逃げるつもりはない。少し歩きたいだけ。
荷物は置いてきた。外套と短剣と水袋は持ったけれど、これは散歩の基本装備だ。北部の村では、朝の散歩へ行くときに狼と盗賊と吹雪を想定する。たぶん。右の長靴もある。三人はまだ隠していなかった。町の門は開いている。記憶瓶を運ぶ荷車が何台も入ってきて、市民集会を終えた人々が、眠そうな顔で家へ帰っていた。
記憶炉は止まった。昨日まで町の中央で鳴っていた低い音がない。
静かだ。寒い。でも、通りの窓には小さな灯がともっている。
誰かの記憶を燃やす青い炎ではなく、薪と油の黄色い灯。少し暗くて、煙も出る。便利ではない。それでも、誰の名前も奪わない。
「北西へ行くなら、門は逆だぞ」
城壁の上から声が落ちた。レオナさんだ。巡回兵の外套を借り、胸から暁鐘院の紋章を外している。
「日の出を見に来ました」
「白夜のせいで、この季節は東も西も白い」
「雰囲気です」
「一人で?」
「一人で」
レオナさんは階段を下りてきた。
「四人で出るのではなかったか」
「出るよ。朝ご飯のあと」
「では戻れ」
「まだ朝ご飯前です」
自分でも、面倒なことを言っていると思う。レオナさんは私の外套と水袋を見た。
「何を聞いた」
「何も」
「では、何を聞かなかったことにした」
やっぱり、この人はずるい。
「三人が、私を縛る相談をしていました」
「よくある話だ」
「よくあってたまるか」
「私も頼まれた」
聞いていない。
「協力するの?」
「縄の結び方なら教えられる」
「私、王国のために働いてるんだけど」
「王国はお前を任命していない。暁鐘院が呼びつけただけだ」
たしかに。私は王国の勇者でも、正式な灯守でもない。朝麦亭の女将見習いが、成り行きで火種を二つ持っているだけだ。
「三人の相談は間違っているか?」
レオナさんが聞く。
「間違ってる」
「どこが」
「私抜きで決めたところ」
「お前が相手を抜いて決めるのと同じだな」
胸の石へ、指を突っ込まれた。
「私は、急いでるときだけ」
「昨夜は急いでいたか」
「急いで準備しないと、追手が来る」
「白衣の女を見たことを黙ったのも?」
足が止まった。
「なぜ知ってるの」
「知らなかった。今、お前が教えた」
最低だ。大人がしていい罠ではない。
「嫌い」
「そうか」
「もう話さない」
「三人には話せ」
レオナさんは私の前へ立った。
「あの三人は、お前が隠すから隠した。正しくはない。だが原因の半分はお前にある」
「残り半分は?」
「あの三人が、お前を守ることに慣れていない」
私は少し驚いた。
「慣れてない?」
「十年、お前が先に立っていた。アデルは剣で追いつこうとし、ミナは治癒で返そうとし、シエナは記録で失わないようにした。だが今、お前が三人の知らないところで命を削ると分かった。何が正しい距離か、誰にも分からん」
「だから、私を縛る?」
「転ばない歩き方を知らない子どもは、まず壁につかまる」
「三人とも子ども扱い?」
「お前も含めて四人だ」
十七歳は大人に入れてほしい。でも十年前から同じところを歩いているなら、七歳のままなのかもしれない。
三人を守れなかった子。妹へ間に合わなかった子。もう選び間違えないよう、全部自分で決めようとした子。
私は門の外を見た。街道は白い朝靄の中へ消えている。一人なら、すぐ歩き出せる。誰にも相談せず、白衣の女を探せる。
追手を私だけへ引きつけ、三人を町へ残せる。そう考えた時点で、三人の心配は正しい。
「戻る」
レオナさんが頷いた。
「だが、その前に」
「なに?」
「パンを一枚よこせ」
外套の中を見られていた。
「これは四人分」
「お前が全部持っているなら、一人分だ」
返す言葉がない。私はいちばん固い端の一枚を渡した。
「けち」
「王国の食糧事情が厳しいので」
レオナさんは笑わなかった。少し、寂しかった。
*
療養室へ戻ると、三人がいた。正確には、三人と一本の縄がいた。アデルの手に、太くて丈夫そうな縄。冗談だと思いたい。
「おはよう」
私が言う。アデルが縄を落とした。ミナの顔は泣いたあとみたいに赤い。
シエナは長靴を一足抱えている。左だけ。
「右を隠すんじゃなかったの?」
三人が固まった。秘密の相談は、聞かれたと分かった瞬間がいちばん秘密らしい顔になる。
「いつから」
アデルが聞いた。
「柔らかい縄を希望します、の少し前から」
「そんな話はしてないよ」
「私が心の中でした」
ミナが駆け寄る。
「どこ行ってたの?」
「日の出を見に。白かった」
「荷物がなかった」
「外套と水袋だけだよ」
「短剣も」
「散歩の基本装備」
「村でも持ってなかった!」
ばれている。
「逃げようとしたのか」
アデルの声が硬い。
「少し考えた」
嘘をつくのはやめた。今だけかもしれないけれど、今はやめる。
「でも戻ってきた」
「私たちが止めると思ったから?」
「違う。私が戻ろうと思ったから」
その違いは、大事だ。アデルは分かってくれたようで、落とした縄を蹴って遠ざけた。
「聞いたなら、話が早い」
「私を縛る話?」
「全部だ」
四人で卓を囲む。昨日まで市長が使っていた会議机だ。椅子は三番目くらいに高そうで、盗まずに座れる。
「最初に謝る」
アデルが言った。
「フィア抜きで決めようとした。悪かった」
まっすぐすぎる。言い訳をしてくれれば、こちらも意地を張れたのに。
「私も」
ミナが続く。
「隠し事をやめてって言いながら、隠した」
「私も」
シエナが日記を卓へ置く。
「フィアが聞けば一人で動くと決めつけた」
「それは当たってる」
「当たっていても、決めつけたことは別」
あの子は細かい。細かいから、逃げ道がなくなる。
「私も謝る」
三人の顔を見る。
「塔で、白い服の女を見た」
空気が止まった。
「やっぱり」
シエナだけが小さく息を吐く。
「どこで?」
「三百人の記憶がほどけたとき。塔の奥じゃなくて、その向こう。女の人がこっちを見て、おいでって」
「声は?」
「聞こえなかった。口だけ」
「顔は」
「分からない。白くて、輪郭が薄かった。でも」
首元へ触れる。
「この人も、自分の名前がないと思った」
根拠はない。水の女と同じ。呼ぼうとしても、名が浮かばなかった。
「フィアを知っていた?」
アデルが聞く。
「たぶん。私じゃなく、灯替えを見ていたのかもしれない」
「なぜ黙ったの」
ミナの問いは、責める声ではなかった。だから余計に、正直に言うしかない。
「三人が追うから」
「追うよ」
「危ないから」
「危なくても?」
「うん」
ミナは両手を卓の下へ隠した。火傷した右手を、左手が包んでいる。
「フィアちゃんが一人で追ったら、危なくないの?」
「危ないよ」
「じゃあ同じ」
「同じじゃない」
「同じだよ」
ここで、いつもの言葉が出そうになる。私は大丈夫。
三人より丈夫。痛みに慣れている。全部、今まで使って、全部、もう効かなくなった言葉だ。
「怖い」
代わりに出たのは、それだった。
「三人を連れていくのが怖い。一人で行くのも怖い。だから、どっちが正しいか分からない」
認めてしまうと、少しだけ呼吸が楽になる。アデルが卓へ手を置いた。
「なら、四人で考える」
「四人とも間違えたら?」
「四人で責任を取る」
「私が三人を巻き込んだら?」
「私たちは自分で歩く。お前が巻き込むんじゃない」
昨日、シエナに言われたことと同じだ。私だけの罪にしないで。アデルは簡単そうに言う。簡単じゃない。
でも、簡単じゃないから、何度も言ってくれるのだろう。
「決まりを作ろう」
シエナが新しい紙を出した。
「第一。四人の誰かに関係する危険、記憶、傷、追手の情報は、全員へ話す」
「いつまでに?」
私が聞く。
「知ってから一時間以内」
「戦ってる最中だったら?」
「安全を確保したあと一時間」
「寝てたら?」
「起こす」
「ミナは寝起きが悪いよ」
「フィアちゃんよりいいよ」
たしかに私は朝が弱い。パン屋の娘として致命的なので、母さんには内緒である。
「第二」
アデルが言う。
「灯替えを使う場合は、今までどおり本人へ聞く。意識がなければ、ほかの二人とレオナで決める」
「三人とも意識がなかったら?」
「そのときはフィアが決めろ」
「縛らない?」
「決定に反したら縛る」
「柔らかい縄で?」
「鎖にする」
交渉に失敗した。
「第三」
ミナが私を見る。
「誰かを守るために、一人でいなくならない」
「散歩も?」
「場所を言えばいい」
「お手洗いは?」
「そういうのじゃなくて!」
ミナが赤くなる。今度は、アデルの口元が少し上がった。シエナも息を吐く。
笑い声ではない。それでも部屋の空気が、少しだけ軽くなる。
「第四」
私は言った。三人が待つ。
「私抜きで私のことを決めない」
「分かった」
「その代わり」
胸の石へ触れる。まだある。でも、もう冷たくない。
「私も、三人抜きで三人のことを決めないようにする」
「ように?」
シエナがすぐ拾う。
「します」
「記録した」
「消して」
「消さない」
四人分の決まりが、シエナの日記へ増えた。記憶が消えたときのためだけではない。今の私たちが、同じ間違いを繰り返さないために。
私は外套から、潰れたパンの包みを出した。
「朝ご飯にしよう」
「四枚ある?」
ミナが聞く。
「三枚半」
「一枚どうしたの?」
「悪い大人に奪われた」
ちょうど戸が開いた。パンをかじっているレオナさんが立っていた。
「誰が悪い大人だ」
「証拠を持って現れた」
ミナが笑う。アデルも笑った。
シエナは、やっぱり昨日までと同じようには笑わなかった。でも、自分のパンを半分に割り、私の前へ置いた。
「四人分」
その言い方は、昔と同じか分からない。今のシエナが選んだ声だった。
私は半分を受け取る。
「ありがとう」
もう一度、言えた。朝食のあと、ミレイスを出る。
記憶炉の止まった町を背に、第三火種のある山へ。四人の決まりと、四人目の秘密を、今度こそ全員で持って。