名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
ミレイスを出て最初に覚えたのは、荷車の揺れには悪意があるということだった。
「いたっ」
車輪が石を踏む。左脚が跳ねる。
肋骨が遅れて抗議する。向かいではシエナの頭が幌の柱へ当たった。
「この荷車、私たちを殺そうとしてない?」
「道が悪いだけ」
「道と話をつけて」
「無理」
シエナは日記を頭の上へ置いた。次の揺れへの備えらしい。大事な記録の使い方としては、たぶん間違っている。
アデルが御者台から振り返る。
「あと半日で山麓の関所町だ。そこで一泊する」
「立派な宿を希望します。寝台が柔らかくて、食事が多くて、荷車が部屋まで追いかけてこないところ」
「最後の条件なら満たせる」
「前二つは?」
「町が残っていれば」
嫌な言い方だ。ミレイスからトール山へ続く街道には、昔、銀鉱山へ向かう人で賑わった関所町がある。けれど白夜が長くなって鉱山は閉じ、今は旅人が使う宿と倉庫が数軒残るだけらしい。私たちの前を行く隊商も、後ろを来る馬車もない。
白い道が、黒い針葉樹の間へ一本延びている。
「追手は?」
ミナが幌の隙間から後ろを見る。
「今朝まで確認できなかった」
荷車の横を馬で進むレオナさんが答えた。
「だがミレイス北門の名簿は調べられる。夕方には、こちらの行き先が割れる」
「急ぐ?」
「急がない」
私より先に、三人が揃って答えた。
「聞いただけなのに」
「フィアの『急ぐ?』は、『私だけ降りて走る?』と同じ意味だ」
アデルの理解が進みすぎている。
「この脚で走ったら、追手より先に地面が捕まえるよ」
「なら安心」
「少しは心配して」
ミナが私の外套を膝まで掛け直した。灯替えで引き受けた傷は、まだ消えない。普通なら骨折はミナの治癒でつながる。けれどこれは、アデルの命だった傷だ。アデルがもう一度、自分のものとして受け取らないかぎり、私の骨は折れた日の形を覚え続ける。
受け取らせるつもりはない。それは三人にも話した。
話した上で、今は治癒ではなく固定具と薬で付き合っている。少し歩けるまでになっただけでも、私の体は十分がんばっている。
「次の休憩で替えるね」
ミナが脚の添え木を見る。
「布がずれてる」
「まだ平気」
「平気かは私が決める」
「私の脚なのに」
「傷はアデルちゃんの」
「今は私の」
「だから三人で決める」
人数で負けた。四人の決まりを作ってから、私の発言力が四分の一になった気がする。でも、悪くない。少なくとも、戸の外で自分の名前を聞くよりは。
*
関所町ベルクに着いたのは、日が傾く前だった。町は残っていた。宿もあった。
寝台が柔らかいかは分からない。町の入口が、白い布で覆われていたからだ。門柱、屋根、窓、看板。色のあるものへ、薄い白布が掛けられている。風が吹くたび町全体が息をするみたいに膨らんだ。雪ではない。
白夜の霧でもない。人が掛けた布だ。
「お祭り?」
ミナが言う。
「祭りで宿の名前まで隠すか?」
アデルは荷車を止めた。入口には『銀角亭』と彫った看板がある。白布の下から鹿の角だけ出ていた。
「今日は泊まれませんよ」
宿の戸から、痩せた主人が顔を出した。
「満室です」
「窓に灯がない」
シエナが言う。
「客はいます。今夜は、市の日で」
主人の目がレオナさんへ動いた。紋章は外している。それでも馬と外套と、命令するのに慣れた顔は隠せない。
「何の市だ」
「さあ。旅の商人が、たまに」
言葉を濁したとき、町の奥から鐘が一度鳴った。白い布の向こうで、人影が動く。空だった通りへ、次々と露店が開いた。音もなく。
白い天幕。白い仮面。
並ぶ商品だけが、青、赤、黄色に光っている。記憶瓶だ。
「白い市場」
レオナさんが馬を降りた。声が変わった。
監察官の声。
「知ってるの?」
「噂だけだ。記録へ残せない魔術と記憶を扱う移動市。暁鐘院は存在を否定している」
「存在してるね」
「ああ」
否定している組織ほど、よく知っている。朝麦亭でも、母さんが「台所に菓子泥棒はいない」と言う日は、だいたい私が棚の裏にいる。違うのは、こちらの菓子が人の人生だということだ。
「日記」
シエナが一枚の紙を開く。ミレイスの記憶契約から写した印。三日月を四本の線で囲んだ、細い紋。通りのいちばん奥にある天幕へ、同じ印が下がっていた。
「二十七件の買い手」
「近道が向こうから来たな」
レオナさんは市場を見る。
「正面から入る。私は旅の魔術師、アデルは護衛。シエナは鑑定役、ミナは助手」
「私は?」
「荷車で待て」
四人が黙った。レオナさんが眉を寄せる。
「何だ」
「第一の決まり」
シエナが日記を示す。
「全員へ話す」
「話した」
「第二」
アデルが続く。
「一人を外して決めない」
「それはお前たち四人の決まりだ」
「今は五人」
ミナが言う。私は少し笑った。レオナさんは、かなり嫌そうな顔をした。
「私は入っていない」
「パンを四分の一食べた」
「半分だった」
「じゃあ半人分」
「フィアは市場へ入れない」
低い声で言われ、笑いが止まる。
「なぜ」
「灯替えを探している者がいる。顔を知られている可能性が高い」
「なら、私がいると思ってないところで情報を聞ける」
「見つかれば回収される」
「荷車で待っていても、見つかったら同じ」
レオナさんが口を閉じる。私は三人を見る。
「入りたい」
昔なら、もう勝手に降りていた。今は言って、待つ。アデルが市場までの距離と、町の出口を確かめる。
ミナは私の脚を見る。シエナは白い天幕の紋を写す。
「変装する」
アデルが決めた。
「歩けない商人の娘。荷車ごと入る。何かあれば、私がフィアを連れて西門へ。ミナとシエナはレオナと記録を持って東へ抜ける」
「私が見つかったのに、二組に分かれるの?」
「追手の目的と証拠を分ける」
「合理的」
シエナが頷く。全員が一度に正解を出せなくても、四人だと間違い方が減る。
たぶん。
*
白い頭巾を目深にかぶり、私は荷車の奥へ座った。商人の娘という設定だ。
商品は、ミレイスから持ってきた空の記憶瓶。レオナさんが市場の受付へ銀貨を一枚出すと、白い仮面の男は名を聞かなかった。
「買いか、売りか」
「両方」
「何を」
「白夜を見た記憶」
男の指が止まる。
「新しいものか」
「三日前」
「誰の」
「娘だ」
レオナさんが荷車を示した。頭巾の下で、私はおとなしく俯く。おとなしい娘を演じるのは難しい。喋らないだけで怪しまれる気がする。普段の私を知る人には、確実に死体だと思われる。
「中へ」
通された。市場には、記憶だけでなく術式が売られていた。人の声を一日借りる札。
触れた相手の顔を忘れさせる粉。亡くした子どもの夢を繰り返し見る枕。痛みを別の人間へ移す針。最後の品だけで、背中が冷える。
針は黒い布へ十二本並び、一本ごとに小さな名札がついていた。名前ではない。
番号。
「あれ」
ミナが小声を出す。シエナがすぐ腕を引く。
露店の主人は気づかなかった。
「灯替えと同じ?」
ミナが私の荷車へ寄り、商品を見るふりで聞く。
「違うと思う」
私も声を落とす。
「あれは傷を移すんじゃない。刺した人同士の痛みだけを入れ替える」
「なんで分かるの?」
「針が嫌な感じする」
説明になっていない。でも、灯替えとは違う。
私の術は、もっと根に近い。傷ではなく、傷を負ったという事実ごと受け取る。だから普通の治癒が効かない。
「古式の灯術を知っているね」
露店の主人が、こちらを見た。白い鳥の仮面。
「娘さん。どこで習った?」
「生まれつき鼻がいいんです」
答えてしまった。レオナさんの肩がわずかに落ちる。
黙っている設定だった。
「鼻で術を見る?」
「珍しい鼻で」
主人が笑う。仮面の奥で、目は笑っていない。
「見せてあげよう。もっと古いものを」
白い天幕の奥を示された。三日月を四本線で囲む紋。
目的の場所だ。うまくいきすぎている。こういうときは、だいたいこちらが罠へ入っている。
でも、罠の中にしか欲しいものがないこともある。困った世界である。アデルが荷車の取っ手を握り直した。私と目が合う。
行く?口にはしない。
私は一度だけ頷いた。今度は、私一人の決定ではない。
*
奥の天幕には、商品がなかった。机が一つ。
椅子が二つ。壁一面に、小さな白い札が下がっている。札には日付と町の名と、買い取った記憶の種類。
『冬の魔女の歌を聞いた』
『白夜の中心に女を見た』
『他人の傷を引き受ける少女を見た』
『初代灯守の名を読んだ』
最後の札だけ、黒く塗られている。
「売りたいのはどれだ」
鳥仮面が私の前へ座った。
「三日前の白夜」
レオナさんが答える。
「娘へ聞いている」
仮面の目が私を見る。
「君は、白い女を見たね」
背中へ汗が浮いた。
「白い人なら市場にたくさん」
「名を持たない女だ」
誰にも聞かれないよう、静かな声だった。私の後ろで、シエナのペンが止まる。
「その記憶を売れば楽になる。呼ばれなくなる。眠れる」
「おいくら?」
「望むだけ」
「では、王国を一つ」
「安い」
鳥仮面は机の下から、透明な瓶を出した。
「彼女に見つかった者は、いずれ器になる。自分を覚えている者を失い、名を失い、冬を抱く」
「ずいぶん詳しいね」
「百年前にも見た」
人ではないのか。それとも、誰かの記憶を買っただけか。
「初代灯守は失敗した」
鳥仮面が言う。
「三人しかいなかったから」
息が止まる。アデルの手が剣へ動いた。
「何を知っている」
レオナさんの声が低くなる。
「監察官殿が知らされていないことを」
正体もばれている。
「暁鐘院の者か」
「院は買い手だ。私は売るだけ」
鳥仮面が壁の札を一枚外す。裏に、暁鐘院の封蝋印があった。レオナさんが知っている紋らしい。顔から色が消えた。
「第七書庫」
「ご存じで」
「封印史料の保管庫だ。外部取引は禁じられている」
「表向きは」
鳥仮面は封蝋を割った。中から細い紙が出る。
『灯守候補に接触した者の記憶は、すべて買い取り、冬至まで保管せよ。候補の名の錨を必要数まで減らすこと』
必要数。それがいくつか、書いていない。
でも意味は分かる。暁鐘院は白夜を止めるため、私を無名の器にするつもりだ。火種を集めさせるだけではない。
私を覚えている人を、減らしている。
「これを、なぜ見せる」
レオナさんが聞いた。
「より高く買う者へ売るため」
「望みは」
「第二火種」
シエナが日記を抱いた。
「断る」
「では、娘だけ置いていけ」
「もっと断る」
私が言う。鳥仮面の指が鳴った。
天幕の入口が閉じる。壁の白札が一斉に光った。頭の中から、音が消えた。
アデルの名が浮かばない。目の前にいる。黒い髪。剣を抜こうとしている。知っている人。なのに、名だけが白く霞む。ミナも。
シエナも。
怖い。
私が忘れる側になる。こんなに怖いのか。
「フィア!」
三人が同時に私を呼んだ。自分の名だけは聞こえた。胸の奥で、三本の糸が震える。
アデル。ミナ。シエナ。戻る。
私は荷車の横木をつかみ、立ち上がった。
「名前を奪うなら、品揃えが悪いよ」
脚が痛む。
「うちの三人、声が大きいから」
アデルが天幕の柱を斬った。布が落ちる。ミナが風の術を撃ち、白札を吹き飛ばす。
シエナのペン先から青い線が走り、注文書の封蝋印を写し取った。レオナさんは鳥仮面へ剣を向ける。
「王国監察権により、記憶の違法売買と禁術取引の容疑で拘束する」
「院を捨てた監察官に、何の権限が?」
「院の紋章は外した。王国法は捨てていない」
鳥仮面は笑った。足元の瓶を割る。
白い煙が天幕へ満ちた。
「西門!」
アデルが私を抱え上げる。
「待って、レオナさんが」
「決めたとおりだ!」
荷車は捨てた。アデルの肩へ担がれ、白い市場を走る。景色が上下へ揺れる。荷車よりひどい。あとで苦情を出そう。
でも今は、後ろが見える。レオナさんが煙から出た。ミナとシエナもいる。
シエナが胸の前で、写し取った青い紙を掲げた。証拠は分かれた。鳥仮面は追ってこない。代わりに市場中の白布へ火がついた。
青い炎。売られた記憶が、証拠ごと燃えていく。
「止めて!」
ミナが振り返る。
「無理だ」
レオナさんが腕を引く。
「持ち主の名がない。今触れれば、全員巻き込まれる」
白い市場は音もなく燃えた。誰かが忘れた顔。
忘れた声。忘れさせられた名前。煙が白い空へ上り、どこへも帰れず消えた。
*
町から二里離れた森で、全員が合流した。荷車も荷物も失った。
火種と日記、写し取った注文書、身につけていた武器だけはある。
「先に言っておくけど」
アデルの肩から下ろされながら、私は言う。
「担ぎ方が荷物」
「荷物より暴れた」
「心配で」
「決めたとおり分かれた」
「うん」
それを言われると弱い。決めたとおり動いたから、全員ここにいる。
レオナさんは木の根元へ膝をつき、注文書の写しを見ていた。手が震えている。
「本物?」
私が聞く。
「封蝋は第七書庫。署名は院長代理の秘書官。私が出した開示要求を止めた部署と同じだ」
「一部が勝手に?」
「そう信じたい。だが、これだけの記憶を百年買い続けるには予算と人員がいる。少数ではできない」
レオナさんは紙を畳む。
「暁鐘院は、白夜を止める方法を知っていた」
火種を四つ集める。灯守候補から、覚えている者を減らす。
名前の錨を切る。最後に、無名の器へする。
「百年前の灯守と同じ術式だ」
シエナが、写しの端を示す。注文書の隅に、灯替えの紋がある。
二つの灯を重ね、一方のひびを他方へ移す古い印。
「フィアの術は、初代灯守のもの」
知っていたわけではない。でも、驚かなかった。
塔で白い女を見たときから、どこかで分かっていた。あの人と私は、同じ道の前後に立っている。
「三人しかいなかったから、失敗した」
鳥仮面の言葉を思い出す。
「あれ、どういう意味かな」
誰もすぐには答えない。
「三つの錨」
シエナが言う。
「フィアの胸に、私たち三人の札があった」
「初代灯守にも三人いた?」
「たぶん」
「その三人から忘れられた?」
声が、自分のものではないみたいに聞こえた。百年前の女。
守るたび、三人に忘れられた。最後は歴史からも名を消され、冬の魔女と呼ばれた。私の未来だ。
そう思った。思ったけれど、口にはしなかった。一時間以内に話す決まり。まだ一分も経っていない。
「私も、あの人と同じになるのかな」
言った。アデルがすぐ否定しようとする。その前に、私は続けた。
「大丈夫って言ってほしいんじゃない。分からないなら、分からないって言って」
アデルの口が閉じる。ミナが私の手を握った。
「分からない」
「うん」
「でも、同じにさせたくない」
「うん」
シエナが日記を開く。
「同じ術でも、同じ人ではない」
記録の新しいページへ、四人の名を書く。
「同じ道を通る必要もない」
分からないまま、一緒に考える。今は、それしかない。
レオナさんが立ち上がった。
「王都へ戻る」
三人が警戒する。
「フィアは渡さない」
アデルが言う。
「渡すためではない。告発する」
レオナさんは、もう暁鐘院の監察官の顔をしていなかった。
「この注文書を五通写す。王国法務院、北部騎士団、ミレイス市議会、王都新聞局、そして王太子府へ送る。私の名と階級を添える」
「捕まるよ」
「もう伝令を一人捕まえられている。黙れば、次はお前たちだ」
「一人で戻るの?」
「途中の騎士団駐屯所までだ。告発状を出したら合流する」
「四人の決まり」
私が言う。
「私は四人に入っていない」
「パンを食べた」
「まだ言うか」
「今は五人でしょ」
ミナが繰り返す。レオナさんは目を閉じた。諦めた顔だ。
「では、五人で決める。私は駐屯所へ行く。アデルが同行。フィア、ミナ、シエナは街道を外れた猟師小屋で待つ。明日の正午までに戻らなければ、三人だけでトール山へ」
「戻らなかったら探す」
私が言う。
「決定に反する」
「じゃあ正午になったら、もう一度三人で決める」
「抜け道を覚えたな」
「成長しました」
レオナさんの口元が、ほんの少しだけ動いた。笑ったことにしておこう。
白い市場の煙は、森の向こうでまだ上がっている。私を無名にするため、誰かが百年かけて消した記憶。その黒幕は、私たちを呼び出した暁鐘院だった。
そして私の灯替えは、歴史から名を消された女と同じもの。二つ目の火種を得た日より、行き先は暗くなった。でも、道を外れてはいない。私たちは第三火種へ向かう。
レオナさんは、帰る場所だった組織を告発する。今まで通りではいられない。
それでも五人で、次に何をするか決めた。それだけは、百年前と同じではないと思いたかった。