名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

17 / 17
妹の名前

猟師小屋には、椅子が二つしかなかった。私たちは三人。

 

「これは戦争です」

 私は宣言した。

 

「病人が二人いる」

 シエナが椅子へ座る。

 

「私も病人」

 

「フィアは床」

 

「扱いが雑になってない?」

 ミナは暖炉の前へ毛布を敷いてくれた。

 

「ここがいちばん温かいよ」

 

「それなら許します」

 床へ座り、壁へ背を預ける。椅子より楽だった。

 左脚を伸ばせるし、火も近い。猟師が置いていった干し肉も手が届く。あとは、アデルとレオナさんが戻るのを待つだけ。正午まで。

 今は朝。待つ時間は長い。

 

「何かしようか」

 ミナが言った。

 

「しりとり」

 

「三人で?」

 

「しりとりは何人でもできるよ」

 

「シエナが強すぎる」

 この子は辞書を一冊覚えている。前に四人でやったとき、聞いたこともない薬草の名前を十五個続けた。最後はアデルが剣の名前を勝手に作り、喧嘩になった。

 

「では、昔話の照合」

 シエナが日記を出す。

 

「もっと楽しいもの」

 

「大事」

 

「朝から記憶の欠落を数えると、昼ご飯がおいしくなくなる」

 

「フィアは何でも食べる」

 

「失礼だなあ。苦手なものもあります」

 

「なに?」

 

「空腹」

 ミナが笑った。シエナは笑わず、干し肉を一枚こちらへ投げる。受け取った。

 悪くない朝だった。小屋の窓が、外から白く塗られるまでは。

 

「雪?」

 ミナが立つ。

 

「違う」

 シエナはもう日記を閉じていた。窓の向こうへ、白い霧が流れている。

 季節外れの白夜。町から持ってきた警報石は鳴っていない。火種も反応していない。

 

「幻」

 シエナが言う。

 

「市場で燃えた記憶が、私たちへついてきた」

 戸を叩く音がした。一回。二回。小さな手で叩く音。

 

「開けないで」

 ミナが私を見る。

 

「うん」

 三回目。

 

「フィア姉ちゃん」

 声がした。喉の奥へ、冷たいものが入った。

 

「開けない」

 自分へ言う。

 

「フィア姉ちゃん、寒い」

 十年前と同じ声。少し舌足らずで、私の名を呼ぶときだけ最初の音が長くなる。

 ネネは、五歳だった。赤い髪を二つに結んで、私のお下がりばかり着ていた。右の前歯が一本抜けていて、笑うとそこから息が漏れた。寒い、とよく言った。

 私が外套を貸すと、姉ちゃんくさい、と文句を言って、それでも返さなかった。

 

「聞かなくていい」

 シエナが窓へ封印符を貼る。

 

「声を遮る」

 

「待って」

 

「フィアちゃん」

 

「分かってる。幻だよ」

 分かっている。ネネは死んだ。

 私が見つけたときには、もう名前を呼べなかった。灯替えは死んだ人へ使えない。だから、戸の向こうにはいない。

 

「フィア姉ちゃん」

 戸の隙間から、赤い毛糸が見えた。手袋。

 片方だけ。あの夜、ネネがつけていたものだ。

 

「今度は、先に来て」

 立とうとした。左脚が痛み、壁へ手をつく。

 ミナが私の肩を押さえた。

 

「行かないで」

 

「行かない」

 口ではそう言った。手は戸へ伸びている。

 

「開けるだけ」

 

「開けたら出る」

 

「出ないよ」

 

「フィアちゃんは出る」

 ミナが泣きそうな顔をする。十年前のミナと重なった。

 六歳。凍った指で私の服をつかみ、声が枯れるまで泣いていた。その向こうでネネが呼んでいた。

 私はミナを抱えた。先に。

 

「そうだね」

 手を下ろす。

 

「私は出る」

 認めると、戸を叩く音が止まった。静かになった。

 次に、窓の外からアデルの声がした。

 

「フィア、助けて」

 反対側の壁から、シエナの声。

 

「ここ」

 暖炉の奥で、ミナが泣く声。目の前にいる二人とは別の声だ。白い霧が、小屋の隙間から入り込む。床へ線を引いた。

 右に、三人。左に、ネネ。

 十年前と同じ。

 

『どちらを先にする?』

 白い女の声が、頭の中で聞こえた。鳥仮面ではない。

 塔で見た女。

 

『今度は選び直せる』

 

「選ばない」

 シエナが言った。聞こえている。

 

「これは過去ではない」

 青い術式を床へ引く。霧の線が少し揺れた。

 

「今のフィアへ、同じ選択をさせようとしているだけ」

 

『同じではない』

 白い声が返す。

 

『今度は妹を救える』

 戸が開いた。開けていない。白い霧が勝手に形を変え、外の景色を見せた。雪の中に、ネネが立っている。

 五歳のまま。赤い手袋を片方だけつけ、頬を青くしている。

 

「姉ちゃん」

 私は知っている。幻だ。それでも、立った。

 

「フィアちゃん!」

 ミナが腰へ抱きつく。シエナが戸の前へ立つ。

 

「どいて」

 

「嫌」

 

「幻だって分かってる。触ったら消えるかもしれない」

 

「触ったら連れていかれる」

 

「それでも」

 

「それでも?」

 シエナの声が鋭い。

 

「私たちを置いていく?」

 胸の奥に、三本の糸がある。今は見えない。でも、呼ばれれば震える。

 ネネにはない。あの子はもう、私を呼べない。だから、幻の声へ行きたい。偽物でも、もう一度だけ姉ちゃんと呼ばれたい。

 

「ごめん」

 私はミナの腕を外した。シエナの横を抜ける。左脚が床へついた瞬間、折れた骨がきしんだ。

 止まらない。

 

「今度だけ」

 戸口へ手をかける。

 

「今度だけ、ネネを先にしたい」

 

「フィア!」

 外から本物のアデルの声がした。白い霧の向こうを剣が裂く。レオナさんの火術が、戸口へ赤い線を引いた。

 ネネの姿が半分崩れる。

 

「消さないで!」

 私は叫んだ。全員が止まった。自分の声だけが、小屋へ残る。

 こんな声が出ると思わなかった。笑う余地もない。ネネは霧の中で、手を伸ばしている。

 

「フィア」

 アデルが私を見る。

 

「妹さんの幻だ」

 レオナさんが言った。

 

「分かってる」

 

「なら、消す」

 

「待って」

 

「何を待つ」

 

「話すから」

 口が震える。今まで、話したと思っていた。

 ネネを助けられなかった。三人を先に納屋へ運んだ。戻ったときには遅かった。

 事実は話した。でも、いちばん大事なところだけ、言っていない。

 

「私、ネネの場所を知ってた」

 ミナが息をのむ。

 

「あの夜?」

 

「うん」

 十年前の白い道が、今の床へ重なる。七歳の私は、倒れているアデルの腕を引いていた。ミナは歩けなかった。

 シエナの目は白夜に焼かれ、何も見えていなかった。納屋まで、あと二十歩。ネネの声は、井戸のそばから聞こえた。反対側。

 

「最初から聞こえてた」

 喉が痛い。

 

「ネネが呼んでた。どこにいるかも分かった。でも、三人を置いたら凍ると思った」

 アデルが何か言おうとする。手で止める。

 今は最後まで言わないと、また隠す。

 

「アデルは歩けた。ミナは泣けた。シエナは術を使えた。だから本当は、三人を置いてネネへ行けばよかったって、ずっと思ってる」

 でも。

 

「あのときの私は、三人を置けなかった」

 納屋へ運んだ。一人ずつ。灯替えで白夜の凍りを引き受けた。アデルが私の手を引いて逃げた記憶。

 ミナが私の膝で眠った記憶。シエナが私へ文字を教えた記憶。

 十年前に何が消えたのか、今も三人は全部知らない。

 

「三人を中へ入れて、戸を閉めた。そのあと戻った。ネネは待ってた。でも、間に合わなかった」

 霧のネネが、首を傾げる。

 

「姉ちゃん、どうして来なかったの」

 

「三人を選んだから」

 初めて答えた。十年間、頭の中で何度も聞かれたのに、答えなかった。

 吹雪のせい。子どもだったから。遠かったから。

 全部、本当。でも私は選んだ。

 

「ネネより、三人を先にした」

 ミナが口元を押さえた。シエナの日記を持つ手が震える。アデルは剣を下ろした。

 

「だから、今度は一人も後にしない。三人が危なくなったら、絶対に先に助ける。知らない子でも、名前を呼ばれなくても、間に合うなら助ける」

 

「それでネネへ謝っているのか」

 アデルが聞いた。

 

「分からない」

 

「私たちを助けるたび?」

 

「分からない」

 

「私たちを使って、あの日が正しかったと証明したいのか」

 

「分からない!」

 声が裏返った。

 

 分からない。

 守りたい。失いたくない。

 必要とされたい。罰を受けたい。全部が混ざって、もうどれがきれいな気持ちか選べない。

 

「三人が生きててよかった」

 それだけは本当だ。

 

「でも、よかったって思うたび、ネネを選ばなかった私まで許すことになる気がする」

 だから痛くなければいけない。忘れられなければいけない。三人を救うために何かを失えば、あの日の続きになる。私は十年間、あの雪の中から出ていなかった。

 

「フィア」

 ミナが私の前へ来た。

 

「私、あのとき泣いてた」

 

「うん」

 

「歩けなかった。息も苦しかった。フィアちゃんが来なかったら、たぶん死んでた」

 

「うん」

 

「でも、助けてって言ったのは私」

 ミナは自分の胸へ手を置く。

 

「覚えてないけど、きっと言った。今も言う。助けてほしい」

 次に、アデルが言う。

 

「私は歩けたかもしれない。だが七歳のお前が、それを判断する責任まで持つ必要はなかった」

 

「誰かが決めないと」

 

「私も決めるべきだった」

 

「アデルも子どもだった」

 

「なら、お前もだ」

 返せない。

 

「私は術を使えた」

 シエナが続ける。

 

「でも目が見えなかった。どちらへ歩けばいいか分からなかった」

 声は平らで、指だけが強く日記を握っている。

 

「フィアが私たちを選んだ事実は消えない。ネネを先にしなかった事実も消えない」

 優しい嘘を言わない。だから聞ける。

 

「どちらかを正しいことにしなくていい」

 

「じゃあ、どうすればよかったの」

 七歳の私が聞いている。十年間、誰にも聞けなかった。

 

「分からない」

 シエナは答えた。

 

「私にも、分からない」

 アデルが言う。

 

「今考えても、全員を救う方法は見つからない」

 ミナも頷いた。

 

「そんなの、答えになってない」

 

「答えがなかったんだよ」

 ミナが泣いた。

 

「フィアちゃん一人で答えを作らなくてよかったんだよ」

 霧のネネが、まだ手を伸ばしている。

 

「姉ちゃん。今度は私を選んで」

 選びたい。今度こそ。でも目の前にいるのは、十年前の妹ではない。

 私の後悔が、妹の声を使っている。

 

「ごめんね」

 私はネネへ言った。

 

「あのとき、先に行けなかった」

 一歩だけ近づく。赤い手袋へ触れない距離で止まる。

 

「今も、三人を置いてはいけない」

 ネネの顔が歪んだ。悲しそうに。怒ったように。本当のネネがどう思うか、私は知らない。

 永遠に確かめられない。

 

「でも、忘れない」

 私は妹の名を呼んだ。

 

「ネネ」

 後ろで、ミナも呼んだ。

 

「ネネちゃん」

 アデルが続く。

 

「ネネ」

 シエナが、日記へ書いた名を読む。

 

「ネネ・ルーメル」

 初めて、姓まで残った。私だけの中にいた妹の名を、三人が呼ぶ。白い幻へ、赤い亀裂が入った。

 レオナさんの火術ではない。名を返された霧が、自分からほどけていく。ネネは最後に笑ったように見えた。右の前歯がない笑顔。

 でも、それが本当の記憶か、私の望みかは分からない。分からないまま、白く消えた。

 

 *

 

 小屋へ静けさが戻った。私は床へ座り込んだ。泣いてはいない。泣くより先に、体から力が抜けた。

 ミナが右。シエナが左。

 アデルが正面へ座る。逃げ道がない。

 

「近い」

 

「逃げないように」

 

「逃げないよ」

 三人が見る。

 

「今日は」

 言い直した。アデルがため息をつく。

 

「約束してほしい」

 

「何を?」

 

「もう、私たち三人を選ばないでくれ」

 心臓が止まりそうになった。

 

「それは」

 

「違う」

 アデルがすぐ否定する。

 

「私たちを見捨てろという意味じゃない」

 ミナが私の手を取る。

 

「フィアちゃん一人に、私たちと誰かを並べさせない」

 

「次に道が二つへ分かれたら」

 シエナが言う。

 

「私たちも自分で選ぶ。歩ける者が歩く。助けられる者が助ける。フィア一人へ、全員の命を載せない」

 

「でも、間に合わなかったら」

 

「そのときは、一緒に後悔する」

 アデルの言葉は、慰めではなかった。

 

「責任も一緒に持つ」

 私は三人を見た。十年前、納屋へ運んだ子どもたちではない。剣を持つアデル。

 傷を診るミナ。道を記すシエナ。今まで何度も見ていたのに、守る相手としてしか見ていなかった。

 

「選ばせ続けない」

 アデルが言った。

 

「お前を守るためでもある。私たちが、自分の人生を選ぶためでもある」

 うれしい。

 

 怖い。

 私が決めなければ、間違ったときに誰も責められない。私だけを責めていれば済んだのに、それができなくなる。

 

「努力します」

 

「約束」

 シエナが厳しい。

 

「約束する」

 三人の手が重なった。私の手は、いちばん下。つぶれそうだ。

 

「重い」

 

「四人分」

 ミナが言った。その重さを、今度は逃がさなかった。窓の外に、細い朝日が差している。

 偽物の白夜は消えた。ネネは戻らない。あの日の選択も変わらない。でも、次の選択は一人でしない。

 妹の名前を、私以外の三人が呼んでくれた。それだけで十年前が許されるわけではない。

 ただ、もう私一人の罰ではなくなった。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。

評価する
※参考:評価数の上限
評価する前に 評価する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。