名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
猟師小屋には、椅子が二つしかなかった。私たちは三人。
「これは戦争です」
私は宣言した。
「病人が二人いる」
シエナが椅子へ座る。
「私も病人」
「フィアは床」
「扱いが雑になってない?」
ミナは暖炉の前へ毛布を敷いてくれた。
「ここがいちばん温かいよ」
「それなら許します」
床へ座り、壁へ背を預ける。椅子より楽だった。
左脚を伸ばせるし、火も近い。猟師が置いていった干し肉も手が届く。あとは、アデルとレオナさんが戻るのを待つだけ。正午まで。
今は朝。待つ時間は長い。
「何かしようか」
ミナが言った。
「しりとり」
「三人で?」
「しりとりは何人でもできるよ」
「シエナが強すぎる」
この子は辞書を一冊覚えている。前に四人でやったとき、聞いたこともない薬草の名前を十五個続けた。最後はアデルが剣の名前を勝手に作り、喧嘩になった。
「では、昔話の照合」
シエナが日記を出す。
「もっと楽しいもの」
「大事」
「朝から記憶の欠落を数えると、昼ご飯がおいしくなくなる」
「フィアは何でも食べる」
「失礼だなあ。苦手なものもあります」
「なに?」
「空腹」
ミナが笑った。シエナは笑わず、干し肉を一枚こちらへ投げる。受け取った。
悪くない朝だった。小屋の窓が、外から白く塗られるまでは。
「雪?」
ミナが立つ。
「違う」
シエナはもう日記を閉じていた。窓の向こうへ、白い霧が流れている。
季節外れの白夜。町から持ってきた警報石は鳴っていない。火種も反応していない。
「幻」
シエナが言う。
「市場で燃えた記憶が、私たちへついてきた」
戸を叩く音がした。一回。二回。小さな手で叩く音。
「開けないで」
ミナが私を見る。
「うん」
三回目。
「フィア姉ちゃん」
声がした。喉の奥へ、冷たいものが入った。
「開けない」
自分へ言う。
「フィア姉ちゃん、寒い」
十年前と同じ声。少し舌足らずで、私の名を呼ぶときだけ最初の音が長くなる。
ネネは、五歳だった。赤い髪を二つに結んで、私のお下がりばかり着ていた。右の前歯が一本抜けていて、笑うとそこから息が漏れた。寒い、とよく言った。
私が外套を貸すと、姉ちゃんくさい、と文句を言って、それでも返さなかった。
「聞かなくていい」
シエナが窓へ封印符を貼る。
「声を遮る」
「待って」
「フィアちゃん」
「分かってる。幻だよ」
分かっている。ネネは死んだ。
私が見つけたときには、もう名前を呼べなかった。灯替えは死んだ人へ使えない。だから、戸の向こうにはいない。
「フィア姉ちゃん」
戸の隙間から、赤い毛糸が見えた。手袋。
片方だけ。あの夜、ネネがつけていたものだ。
「今度は、先に来て」
立とうとした。左脚が痛み、壁へ手をつく。
ミナが私の肩を押さえた。
「行かないで」
「行かない」
口ではそう言った。手は戸へ伸びている。
「開けるだけ」
「開けたら出る」
「出ないよ」
「フィアちゃんは出る」
ミナが泣きそうな顔をする。十年前のミナと重なった。
六歳。凍った指で私の服をつかみ、声が枯れるまで泣いていた。その向こうでネネが呼んでいた。
私はミナを抱えた。先に。
「そうだね」
手を下ろす。
「私は出る」
認めると、戸を叩く音が止まった。静かになった。
次に、窓の外からアデルの声がした。
「フィア、助けて」
反対側の壁から、シエナの声。
「ここ」
暖炉の奥で、ミナが泣く声。目の前にいる二人とは別の声だ。白い霧が、小屋の隙間から入り込む。床へ線を引いた。
右に、三人。左に、ネネ。
十年前と同じ。
『どちらを先にする?』
白い女の声が、頭の中で聞こえた。鳥仮面ではない。
塔で見た女。
『今度は選び直せる』
「選ばない」
シエナが言った。聞こえている。
「これは過去ではない」
青い術式を床へ引く。霧の線が少し揺れた。
「今のフィアへ、同じ選択をさせようとしているだけ」
『同じではない』
白い声が返す。
『今度は妹を救える』
戸が開いた。開けていない。白い霧が勝手に形を変え、外の景色を見せた。雪の中に、ネネが立っている。
五歳のまま。赤い手袋を片方だけつけ、頬を青くしている。
「姉ちゃん」
私は知っている。幻だ。それでも、立った。
「フィアちゃん!」
ミナが腰へ抱きつく。シエナが戸の前へ立つ。
「どいて」
「嫌」
「幻だって分かってる。触ったら消えるかもしれない」
「触ったら連れていかれる」
「それでも」
「それでも?」
シエナの声が鋭い。
「私たちを置いていく?」
胸の奥に、三本の糸がある。今は見えない。でも、呼ばれれば震える。
ネネにはない。あの子はもう、私を呼べない。だから、幻の声へ行きたい。偽物でも、もう一度だけ姉ちゃんと呼ばれたい。
「ごめん」
私はミナの腕を外した。シエナの横を抜ける。左脚が床へついた瞬間、折れた骨がきしんだ。
止まらない。
「今度だけ」
戸口へ手をかける。
「今度だけ、ネネを先にしたい」
「フィア!」
外から本物のアデルの声がした。白い霧の向こうを剣が裂く。レオナさんの火術が、戸口へ赤い線を引いた。
ネネの姿が半分崩れる。
「消さないで!」
私は叫んだ。全員が止まった。自分の声だけが、小屋へ残る。
こんな声が出ると思わなかった。笑う余地もない。ネネは霧の中で、手を伸ばしている。
「フィア」
アデルが私を見る。
「妹さんの幻だ」
レオナさんが言った。
「分かってる」
「なら、消す」
「待って」
「何を待つ」
「話すから」
口が震える。今まで、話したと思っていた。
ネネを助けられなかった。三人を先に納屋へ運んだ。戻ったときには遅かった。
事実は話した。でも、いちばん大事なところだけ、言っていない。
「私、ネネの場所を知ってた」
ミナが息をのむ。
「あの夜?」
「うん」
十年前の白い道が、今の床へ重なる。七歳の私は、倒れているアデルの腕を引いていた。ミナは歩けなかった。
シエナの目は白夜に焼かれ、何も見えていなかった。納屋まで、あと二十歩。ネネの声は、井戸のそばから聞こえた。反対側。
「最初から聞こえてた」
喉が痛い。
「ネネが呼んでた。どこにいるかも分かった。でも、三人を置いたら凍ると思った」
アデルが何か言おうとする。手で止める。
今は最後まで言わないと、また隠す。
「アデルは歩けた。ミナは泣けた。シエナは術を使えた。だから本当は、三人を置いてネネへ行けばよかったって、ずっと思ってる」
でも。
「あのときの私は、三人を置けなかった」
納屋へ運んだ。一人ずつ。灯替えで白夜の凍りを引き受けた。アデルが私の手を引いて逃げた記憶。
ミナが私の膝で眠った記憶。シエナが私へ文字を教えた記憶。
十年前に何が消えたのか、今も三人は全部知らない。
「三人を中へ入れて、戸を閉めた。そのあと戻った。ネネは待ってた。でも、間に合わなかった」
霧のネネが、首を傾げる。
「姉ちゃん、どうして来なかったの」
「三人を選んだから」
初めて答えた。十年間、頭の中で何度も聞かれたのに、答えなかった。
吹雪のせい。子どもだったから。遠かったから。
全部、本当。でも私は選んだ。
「ネネより、三人を先にした」
ミナが口元を押さえた。シエナの日記を持つ手が震える。アデルは剣を下ろした。
「だから、今度は一人も後にしない。三人が危なくなったら、絶対に先に助ける。知らない子でも、名前を呼ばれなくても、間に合うなら助ける」
「それでネネへ謝っているのか」
アデルが聞いた。
「分からない」
「私たちを助けるたび?」
「分からない」
「私たちを使って、あの日が正しかったと証明したいのか」
「分からない!」
声が裏返った。
分からない。
守りたい。失いたくない。
必要とされたい。罰を受けたい。全部が混ざって、もうどれがきれいな気持ちか選べない。
「三人が生きててよかった」
それだけは本当だ。
「でも、よかったって思うたび、ネネを選ばなかった私まで許すことになる気がする」
だから痛くなければいけない。忘れられなければいけない。三人を救うために何かを失えば、あの日の続きになる。私は十年間、あの雪の中から出ていなかった。
「フィア」
ミナが私の前へ来た。
「私、あのとき泣いてた」
「うん」
「歩けなかった。息も苦しかった。フィアちゃんが来なかったら、たぶん死んでた」
「うん」
「でも、助けてって言ったのは私」
ミナは自分の胸へ手を置く。
「覚えてないけど、きっと言った。今も言う。助けてほしい」
次に、アデルが言う。
「私は歩けたかもしれない。だが七歳のお前が、それを判断する責任まで持つ必要はなかった」
「誰かが決めないと」
「私も決めるべきだった」
「アデルも子どもだった」
「なら、お前もだ」
返せない。
「私は術を使えた」
シエナが続ける。
「でも目が見えなかった。どちらへ歩けばいいか分からなかった」
声は平らで、指だけが強く日記を握っている。
「フィアが私たちを選んだ事実は消えない。ネネを先にしなかった事実も消えない」
優しい嘘を言わない。だから聞ける。
「どちらかを正しいことにしなくていい」
「じゃあ、どうすればよかったの」
七歳の私が聞いている。十年間、誰にも聞けなかった。
「分からない」
シエナは答えた。
「私にも、分からない」
アデルが言う。
「今考えても、全員を救う方法は見つからない」
ミナも頷いた。
「そんなの、答えになってない」
「答えがなかったんだよ」
ミナが泣いた。
「フィアちゃん一人で答えを作らなくてよかったんだよ」
霧のネネが、まだ手を伸ばしている。
「姉ちゃん。今度は私を選んで」
選びたい。今度こそ。でも目の前にいるのは、十年前の妹ではない。
私の後悔が、妹の声を使っている。
「ごめんね」
私はネネへ言った。
「あのとき、先に行けなかった」
一歩だけ近づく。赤い手袋へ触れない距離で止まる。
「今も、三人を置いてはいけない」
ネネの顔が歪んだ。悲しそうに。怒ったように。本当のネネがどう思うか、私は知らない。
永遠に確かめられない。
「でも、忘れない」
私は妹の名を呼んだ。
「ネネ」
後ろで、ミナも呼んだ。
「ネネちゃん」
アデルが続く。
「ネネ」
シエナが、日記へ書いた名を読む。
「ネネ・ルーメル」
初めて、姓まで残った。私だけの中にいた妹の名を、三人が呼ぶ。白い幻へ、赤い亀裂が入った。
レオナさんの火術ではない。名を返された霧が、自分からほどけていく。ネネは最後に笑ったように見えた。右の前歯がない笑顔。
でも、それが本当の記憶か、私の望みかは分からない。分からないまま、白く消えた。
*
小屋へ静けさが戻った。私は床へ座り込んだ。泣いてはいない。泣くより先に、体から力が抜けた。
ミナが右。シエナが左。
アデルが正面へ座る。逃げ道がない。
「近い」
「逃げないように」
「逃げないよ」
三人が見る。
「今日は」
言い直した。アデルがため息をつく。
「約束してほしい」
「何を?」
「もう、私たち三人を選ばないでくれ」
心臓が止まりそうになった。
「それは」
「違う」
アデルがすぐ否定する。
「私たちを見捨てろという意味じゃない」
ミナが私の手を取る。
「フィアちゃん一人に、私たちと誰かを並べさせない」
「次に道が二つへ分かれたら」
シエナが言う。
「私たちも自分で選ぶ。歩ける者が歩く。助けられる者が助ける。フィア一人へ、全員の命を載せない」
「でも、間に合わなかったら」
「そのときは、一緒に後悔する」
アデルの言葉は、慰めではなかった。
「責任も一緒に持つ」
私は三人を見た。十年前、納屋へ運んだ子どもたちではない。剣を持つアデル。
傷を診るミナ。道を記すシエナ。今まで何度も見ていたのに、守る相手としてしか見ていなかった。
「選ばせ続けない」
アデルが言った。
「お前を守るためでもある。私たちが、自分の人生を選ぶためでもある」
うれしい。
怖い。
私が決めなければ、間違ったときに誰も責められない。私だけを責めていれば済んだのに、それができなくなる。
「努力します」
「約束」
シエナが厳しい。
「約束する」
三人の手が重なった。私の手は、いちばん下。つぶれそうだ。
「重い」
「四人分」
ミナが言った。その重さを、今度は逃がさなかった。窓の外に、細い朝日が差している。
偽物の白夜は消えた。ネネは戻らない。あの日の選択も変わらない。でも、次の選択は一人でしない。
妹の名前を、私以外の三人が呼んでくれた。それだけで十年前が許されるわけではない。
ただ、もう私一人の罰ではなくなった。