名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
トール山は、下から見ると大きな白パンに似ていた。おいしそう、という意味ではない。発酵に失敗して膨らみすぎ、真ん中から割れたパン。触ったら全部しぼみそうな形だ。
「雪崩が多い山ってこと?」
私の説明を聞き、ミナが不安そうに頂上を見た。
「たぶん」
「たぶんで登るの?」
「山へ聞いてみる?」
「返事する?」
「返事の代わりに雪を落としてくる」
「縁起でもないことを言うな」
アデルに頭を叩かれた。痛くはない。手加減している。
五日前なら、それを隠そうとしたかもしれない。弱いものへ触るみたいで嫌だ、と勝手に決めたかもしれない。今は、ちょうどいい強さだったと言える。
「もう一回」
「嫌だ」
言えたのに、してくれなかった。レオナさんの告発状は、北部騎士団の駐屯所から五方向へ送られた。控えを持った伝令も五人。全員違う道を使う。一通でも王都へ届けば、暁鐘院は白い市場を知らないふりができなくなる。
レオナさん自身は私たちと山へ来た。
「告発した本人が一緒だと、私たちの旅がもっと危なくない?」
昨日、聞いた。
「今さら一人増えて変わるか」
そう返された。変わると思う。暁鐘院が私を回収したいだけなら、三人を人質にする。組織の不正を知る監察官まで加われば、全員まとめて消したくなる。
でも、来ないでとは言わなかった。五人で決めたから。それに少しだけ、レオナさんがいると安心する。本人には言わない。調子に乗って私のパンをまた半分食べるかもしれない。
「登山道は二つ」
山麓の案内板を、シエナが指でなぞる。
「東は巡礼道。長いが安全。西は鉱山道。短いが橋が壊れている」
「東」
三人が私を見る。
「なんですか」
「短いほうを選ぶと思った」
「私を何だと思ってるの」
「フィア」
シエナの答えがひどい。
「今日は東。脚が悪い人と、死んだばかりの人がいるから」
「死んだばかりではない」
「五日前は、ばかりに入るよ」
シエナは少し考え、反論しなかった。東の巡礼道を選ぶ。第三火種が眠る天鐘堂まで二日。
途中に避難小屋が三つあり、冬でも巡礼者と鉱夫が使う。白夜が近づく今、山にいる人は少ないはずだった。少ないはず。そういう言葉は、だいたい私たちの前で役に立たなくなる。
*
一つ目の避難小屋を過ぎたところで、救難鐘が二つ鳴った。東から一回。西から一回。
同時だった。
「どっち?」
ミナが振り返る。答えようとした。三人を先に。
ネネを先に。どちらも頭へ浮かび、言葉が出ない。救難鐘は、鳴らし方で人数と危険を伝える。東は短く三回。子どもを含む複数人、動けない負傷者あり。
西は長く二回。雪崩に埋没、呼吸できる時間が少ない。
「西が先」
口が勝手に選んだ。
「埋まってる人は時間がない。東は鐘を鳴らせる人がいるから、少し待てる。アデルとレオナさんは西。ミナとシエナは東。私は――」
「待って」
アデルが止める。
「最後まで聞いて」
「お前は両方に行こうとしている」
「私は途中で」
「その脚で?」
「火種を使えば、道の合図が」
「フィアちゃん」
ミナが私の腕をつかむ。
「今、ネネちゃんのときと同じ顔してる」
そんな顔を知らない。でも、四人の中で私だけが知らない顔は多い。
「時間がないよ」
「だから役割を決める」
シエナが地図を雪の上へ広げた。
「東の鐘は三番尾根。西は旧鉱山橋。間に監視塔がある」
「監視塔なら両方見える」
私が言う。
「そこから火種で合図を送れる。東の負傷者を運ぶそりもあるはず」
「フィアは監視塔」
アデルが決める。
「一人で?」
「私が送る」
レオナさんが言った。
「監視塔までフィアを運び、合図を確認してから西へ向かう。ミナとシエナは東。アデルは先に西へ」
「西は埋まってる人数が分からない」
「見てから火で知らせる」
「東も白夜病だったら、ミナ一人で治しきれない」
「シエナが選別する。重症者をそりで監視塔へ。お前が通常の手当てをする」
「灯替えは?」
誰も答えない。使わない、と言ってほしい。
使う場面が来るかもしれない、とも思う。
「最後の手段」
シエナが言った。
「使う前に、全員へ合図」
時間がない。考える余裕もない。でも、私一人で決めないための時間は作れる。
「分かった」
怖かった。三つの道へ分かれる。誰かへ何かあっても、私はすぐ触れられない。
それでも頷いた。
*
監視塔までの道は、ひどかった。レオナさんの背へ負われる。もう少し人らしい運び方を希望したけれど、時間がないので言わなかった。
言わなかっただけで、あとで苦情は出す。
「右、岩!」
「見えている」
「左、枝!」
「黙っていろ」
「前、私の頭が枝に当たる!」
レオナさんが身を低くした。枝を避ける。
「ありがとう」
「本当に黙れ」
監視塔は石造りの小さな台だった。雪で階段が半分埋もれている。レオナさんが私を最上段へ下ろし、備えつけの赤旗を立てた。
「西が見えるか」
「見える」
谷の向こう。壊れた吊り橋の近くに、雪の盛り上がりがある。アデルが剣の柄で雪を探っている。赤い光が一回上がった。
「埋没三人。うち一人、深い」
レオナさんが合図を読む。
「私が行く。東は」
青い光が二回。
「負傷者五人。子ども二人。一人歩けない」
両方。胸の奥で、あの夜の声がする。どちらを先にする?
「西へ行って」
私は言った。
「東はミナとシエナがいる。私はここでそりを待つ」
「一人で持つな」
「何を?」
「心配を」
「持たない方法が分からない」
「声に出せ」
レオナさんは信号筒を私へ渡した。
「全員聞いている」
言って、西の斜面を走り下りた。私は塔に残った。
一人。
でも、孤立ではない。東に二人。
西に二人。赤と青の光でつながっている。
「アデル、急いで」
聞こえないのに言う。
「ミナ、無理しないで」
青い光が一回。歩ける負傷者を先に移動。赤い光が二回。一人救出、呼吸あり。
手元の記録板へ書く。私は何もしていない。
見ている。合図を読む。
それだけ。
体が前へ行きたがる。今なら西の斜面を滑って下りられる。脚が折れていても、座ってなら進める。
東へ火種を投げれば、白夜の冷たさを一時的に散らせるかもしれない。何かできる。何かしないと。
私がここにいる意味がない。
「違う」
自分へ言った。監視塔にいる人が必要だ。二つの救助が互いを見失わないよう、合図をつなぐ人。
それが私。役に立っている。分かっている。それでも、誰かの傷を引き受けるより落ち着かない。
痛みは分かりやすい。折れた骨は、私がしたことを教えてくれる。
待つことには跡が残らない。だから怖い。私は信号筒を握った。
「西、一人救出。東へ知らせる」
黄色い光を一回上げる。東から黄色が返る。
了解。見えている。私はここにいる。
声にはならない返事が、山の間を行き来する。
*
最初に監視塔へ着いたのは、東のそりだった。シエナが先頭で縄を引き、ミナが後ろから押している。そりには、十二歳くらいの女の子と、脚を傷めた老人。
ほかの三人は自力でついてきた。
「お疲れさま。診察します。代金は温かいスープ一杯」
私は女の子の前へ座る。唇が青い。白夜病ではない。
ただの低体温と、右足首の捻挫。ただの、という言い方はよくないけれど、私が触れなくても治る傷だ。
「名前は?」
「エマ」
「エマ、眠らないで。好きな食べ物は?」
「りんご」
「いいね。私は焼いたりんご。少し砂糖を焦がして、薄いパンへ載せる」
「おいしい?」
「驚くほど。元気になったら朝麦亭へ来て。お代は取るけど」
女の子の濡れた靴を脱がせ、布で足を包む。ミナが温めの術を弱くかける。シエナは救助者の名と怪我を記録した。
「灯替えは?」
私が聞く。
「必要ない」
ミナが答える。
「全員、通常治療で大丈夫」
胸がゆるむ。東は大丈夫。
「西は?」
シエナが谷を見る。赤い光が一回。
二人目救出。すぐあと、赤が三回。
「深い一人の呼吸が弱い」
私の手が動いた。火種へ触れる。
「合図を」
アデルが連れてくれば、灯替えを使える。助かる。代わりに、アデルの中から何かが消えるかもしれない。名前も知らない人なら、私の寿命が減る。
どちらでも、助けられる。それが、安心に似ていた。
「待って」
ミナが私の手へ重ねる。
「まだ、アデルちゃんとレオナさんが助けてる」
「呼吸が弱い」
「だから二人が掘ってる」
「間に合わなかったら」
「そのとき考える」
「今考えないと」
「今は、二人を信じるとき」
怖い。
信じて、間に合わなかったら。ネネの顔が浮かぶ。私は火種から手を離せなかった。
「フィア」
シエナが私の名を呼ぶ。
「二人を見て」
谷の向こう。アデルが雪へ穴を掘っている。
レオナさんが術式で雪を固め、崩れない道を作る。止まっていない。私を待ってもいない。
二人が選び、動いている。
「私が行かなくても」
言葉が震えた。
「二人がいる」
「うん」
「私は、ここにいていい?」
「いて」
ミナの答えは速かった。私は火種から手を離した。
赤い光を待つ。一秒。二秒。
十秒。息が苦しい。信号筒へ手を伸ばしそうになる。その前に、谷から緑の光が上がった。
救出。呼吸回復。
生存。力が抜けた。座っていたはずなのに、さらに床へ沈む。
「助かった」
ミナが笑う。シエナが黄色い光を返す。
東も全員生存。両方、助かった。私は誰も選ばなかった。
何もしなかったわけではない。役割を分けて、それぞれが自分の場所で動いた。灯替えは使わなかった。誰の記憶も燃えなかった。
「よかった」
声にした途端、涙が出そうになった。悲しくない。怖かった。
今は安心している。誰かへ守られたことに。私が全部を持たなくてよかったことに。そんなのは、もっと悔しいと思っていた。
「ねえ」
ミナが顔を覗き込む。
「今、どんな気持ち?」
「お腹すいた」
「その前」
逃がしてくれない。
「安心した」
小さく言う。
「二人が助けてくれて、私が行かなくて済んで、安心した」
言っても、誰も怒らなかった。自分だけ休んだと責められなかった。
ミナが私の肩へ頭を載せる。
「私も」
シエナも頷いた。
「記録した」
「そこは書かなくていい」
「大事」
「恥ずかしい」
「もっと大事」
ひどい。でも日記を取り上げる気にはならなかった。
*
西の救助者は、鉱山跡を調べに来た三人の技師だった。最後に掘り出された男性は意識がなかったけれど、レオナさんの蘇生術で呼吸が戻った。東の五人は、天鐘堂へ火を供える巡礼者。先頭の老人が足を滑らせ、助けようとした女の子まで斜面へ落ちたらしい。
八人を一つ目の避難小屋へ運んだ。狭い小屋へ十三人。
椅子は四つ。今度こそ戦争かと思ったけれど、私は暖炉の前の床を選んだ。ここがいちばん温かい。
干し肉と豆を鍋へ入れ、薄いスープを作る。助けた人たちが食べる。アデルが隣へ座った。
「聞いた」
「何を?」
「安心したと」
ミナが告げ口したらしい。
「撤回します」
「遅い」
「アデルが間に合わせるから悪い」
「次も間に合わせる」
簡単に言う。約束できないことを嫌う人なのに。
「無理なときは?」
「無理だと言う」
「そのときは私が」
「一緒に考える」
先を取られた。
「フィア」
「なに」
「私も、安心した」
アデルはスープを飲んでいる人たちを見る。
「お前が監視塔にいてくれたから、東の状況も分かった。戻る場所もあった」
「私は旗を振ってただけ」
「それが必要だった」
必要。その言葉は好きだ。
少し怖いくらい好きだ。でも今日は、傷を引き受けたからではない。旗を振り、記録を取り、帰る場所にいたから必要だった。
それなら、好きでいてもいい気がした。
「次は、もう少し格好いい役がいい」
「贅沢を言うな」
「剣を持って雪崩を斬る役」
「お前には無理だ」
「即答」
アデルが笑った。私も笑った。小屋の外では、雪が降り始めている。大粒ではない。
風も弱い。明日の朝まで休めば、天鐘堂へ進める。
全員が助かった。灯替えは使わなかった。今日は、うまくできた。
そう思ったときだった。山の上から、低い音がした。雷ではない。長く、腹の底へ響く音。
技師の一人が立ち上がる。
「二次雪崩だ」
窓の向こうで、白い山肌が動いた。