名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
山が崩れる音は、大きすぎて聞こえない。最初に消えたのは、人の声だった。
「地下へ!」
レオナさんが叫んだはずなのに、口の動きしか分からない。避難小屋の窓が白くなる。
雪が落ちてくるのではない。白い壁が、小屋ごと飲みに来る。私は立とうとした。
左脚が動かない。誰かの肩がぶつかり、床へ倒れた。助けた巡礼者と技師たちが、奥の貯蔵穴へ押し合う。地下と言っても、食料を保管するための石室だ。十三人全員が入れるかは分からない。
「子どもから!」
声が出たか分からない。女の子をミナが抱えた。シエナは老人へ肩を貸す。
レオナさんが床板を引き上げ、人を中へ送る。アデルは入口の柱を押さえている。小屋が傾いた。棚から鍋が落ちる。
暖炉の火が床へ散った。私は這った。
貯蔵穴まで十歩もない。手をつき、右膝で進む。一歩。
二歩。床が跳ねた。体が宙へ浮く。壁が割れ、白い雪が入ってきた。
冷たい。息ができない。
誰かに首の後ろをつかまれた。
「フィア!」
今度は聞こえた。アデルが私を引きずる。
「柱は?」
「もう持たない!」
「先に下へ」
「お前が先だ!」
怒鳴られる。私は笑おうとした。そういう場面ではない。分かっている。
でも怖いと、口が勝手にいつもの形を探す。
「年長者を敬って」
「黙れ!」
アデルが私を抱え上げた。貯蔵穴へ投げる。
本当に投げた。石床へ肩から落ちる。
痛い。
上には、まだアデルがいる。
「早く!」
手を伸ばす。その向こうで、屋根が落ちた。黒い梁。白い雪。
アデルの背中。全部が一度に落ちる。
伸ばした指の先から、姿が消えた。
*
雪崩が止まっても、音は耳の中に残った。石室は暗い。
ミナの治癒灯だけが、緑色に揺れている。
「人数!」
レオナさんが言う。一人ずつ名を答える。
巡礼者五人。技師三人。レオナさん。
ミナ。シエナ。私。
「アデルは」
答えを知っている。上だ。屋根の下。
「掘る」
私は立とうとした。レオナさんが肩を押さえる。
「待て」
「待たない」
「上の雪圧が分からない。床板を開ければ、ここまで埋まる」
「じゃあ別の出口」
技師の一人が、石室の奥を示す。
「換気穴がある。大人一人が通れる幅だ。外まで五間」
「掘って」
私が言う。
「お願いします」
技師たちはすぐ動いた。つるはしは上。使えるのは短剣と、割れた棚板だけ。
石と凍った土を削る。
「私も」
「フィアちゃんは座って」
ミナが止める。
「手は使える」
「脚がまたずれてる」
「今はアデル」
「だから」
ミナが私の両肩をつかむ。
「フィアちゃんが動けなくなったら、アデルちゃんを助けたあと運べない」
正しい。嫌いだ。
私は壁へ背をつけた。
待つ。
さっきできた。今もできる。
皆が掘っている。私が行かなくても。アデルは強い。
屋根が落ちる直前、頭を腕で守っていた。雪の隙間があるかもしれない。呼吸できる。待てる。一分。
二分。換気穴から土が落ちる。
進みが遅い。
「アデル!」
床板の隙間へ呼ぶ。返事はない。
「聞こえたら、何か叩いて!」
音はない。頭の中で、ネネが呼ぶ。フィア姉ちゃん。今度は三人を先にする?
「違う」
アデルは上にいる。場所も分かる。皆が助けようとしている。
あの夜と同じではない。同じではないのに、胸が分かってくれない。
「火種を使う」
右手首へ触れる。第一火種が皮膚の下で赤く光る。
「雪を溶かせる?」
シエナが聞く。
「少しなら」
「駄目」
レオナさんが即答した。
「上だけ溶かせば雪が締まり、梁へさらに重さがかかる」
「じゃあ何に使うの」
「位置を探る」
シエナが私の手へ、青い線を重ねた。
「アデルが持つ護符へ呼びかける。熱を送らず、返る灯だけを見る」
一人で使わない。私は頷いた。
二つの火種へ意識を向ける。赤い灯と、青い灯。天井の向こうへ細い線を伸ばす。
何かに触れた。弱い。でも、ある。
「右上。戸口から三歩。深さは一間半」
技師が頷く。
「換気穴の出口から回れる」
「あと何分?」
「早くて十五分」
十五分。長い。でも、それしかない。
「急いで」
私は待った。
*
換気穴が外へ抜けた。最初に技師が出る。
次にレオナさん。外から雪を掘り、穴を広げる。巡礼者と負傷者を先に出した。
ミナ。シエナ。私。最後に外へ引き上げられた。
小屋はなかった。白い丘があるだけだ。
煙突の先が雪から出ている。
「こっちだ!」
レオナさんたちが掘っている。私は這って近づいた。
止められなかった。手で雪をかく。指の凍傷が裂ける。
血が雪へつく。痛くない。そんなわけはない。
痛い。
でも今は、痛いと言っている時間も惜しい。
「梁!」
黒い木が見えた。全員で持ち上げる。
動かない。技師がてこの板を差し込む。
「せーの!」
梁が浮く。下に、黒い髪が見えた。
「アデル」
返事はない。雪をどける。体が出る。顔は白い。
胸が動いていない。
「ミナ!」
ミナが滑り込む。首へ指を当て、胸へ耳を置く。
「脈、ある。すごく弱い」
緑の灯を両手へ集める。
「胸がつぶれてる。右肺が動いてない。背骨も」
「治せる?」
ミナは答えない。答えの代わりに、もっと強い光を出す。右の掌から血がにじむ。
「ミナ」
「待って」
治癒の光がアデルの胸へ入る。消える。もう一度。
消える。
「なんで」
ミナの声が細くなる。
「白夜の冷えが入ってる。普通の圧迫だけじゃない」
雪崩に、白夜が混じっていた。なら灯替えで移せる。
私はアデルへ手を伸ばした。シエナにつかまれる。
「待って」
「待てない」
「話す」
「もう脈が分からない」
「ある!」
ミナが叫ぶ。
「まだあるよ。だから、決める時間もある」
一秒かもしれない。でも、約束した。
意識がないときは、ほかの二人とレオナさんで決める。私は三人を見る。
「使わせて」
シエナの顔が歪む。
「代わりに何が消える?」
「分からない」
「フィアの体は?」
「たぶん、胸と背骨と冷え」
「耐えられる?」
「分からない」
正直に答える。時間が流れる。アデルの唇が青くなる。
「お願い」
ミナが目を閉じた。
「私は」
声が出ない。決められない。それでも決めてもらわなければいけない。
「やめて」
ミナが言った。意味が分からなかった。
「今のフィアちゃんの体じゃ、二人とも死ぬ。治癒をもう一回試す。シエナ、肺だけ術式で動かして」
「分かった」
シエナがアデルの胸へ線を引く。レオナさんも頷いた。
「先に通常蘇生だ」
三人が決めた。灯替えを使わない。
約束なら、従うべきだ。さっき私は、待って全員を救えた。仲間を信じて。
自分だけで選ばずに。今も同じ。同じにしなければいけない。ミナの光が入る。
シエナの線が肺を押す。アデルの胸は動かない。
一回。二回。ミナの掌が焼ける。
「止めないで」
ミナが自分へ言う。アデルの脈が、指先で拾えないほど弱くなった。
「ミナ」
「まだ」
「消えかけてる」
「まだ!」
私はアデルの頬へ触れた。冷たい。名前を呼べばいい。
それだけ。
「フィア」
シエナが私を見る。止める声だった。私は止まらなかった。
「アデル・クロウ」
名前が雪の上へ落ちる。三人の返事を待たない。右手を、アデルの胸へ置いた。
「その傷、私にちょうだい」
灯がひらく。白い冷たさが腕へ噛みついた。
胸の骨が内側から砕ける。息が消える。背中へ熱い刃が入る。
体が倒れたはずなのに、地面へ着いた感覚がない。アデルの記憶が見えた。朝麦亭の屋根。十一歳のアデル。
十歳の私とシエナ。九歳のミナ。
四人で初めて、母さんに隠れて梯子を上った日。北の空に流星が来ると聞いて、毛布と焼き菓子を持ち出した。アデルは高いところが怖かった。
私の服を握り、絶対に離さなかった。
『一番に見る』
震えながら、私の隣へ座った。流星は来なかった。雲が厚く、星すら見えなかった。
それでも四人で夜明けまでいた。母さんに見つかり、全員叱られた。アデルにとって、初めて私の後ろではなく隣へ座った夜。その記憶へ、白い火がつく。
「だめ」
声にならない。手を離せない。灯替えは始まった。
屋根の上から、私だけが薄くなる。アデルの隣に空席ができる。毛布は四人分。焼き菓子も四つ。
なのに、そこにいるのは三人だけ。私が消える。
アデルの胸が動いた。息を吸う。私の息が止まる。
白い火が、屋根の記憶を燃やしきった。
*
音が戻った。ミナが泣いている。シエナが私の名を呼んでいる。
レオナさんが何か指示している。アデルが咳をした。
生きている。
よかった。
それだけ言いたいのに、胸が動かない。息を吸えない。誰かが私の口へ管を入れた。痛みより、冷たさが強い。
左脚も、肋骨も、指も、もうどこがどこか分からない。
「フィア」
アデルの声がした。目を開ける。すぐ隣にいる。
生きている。
「どうして」
かすれた声。意識が戻ったらしい。
「何をした」
答えたい。息がない。
「屋根」
やっと、それだけ出た。アデルが眉を寄せる。
「何の話だ」
分かっていた。それでも、胸の傷とは違うところが痛んだ。
「朝麦亭の」
「私は、お前と屋根へ上ったことはない」
アデルは言った。迷いもなく。記憶の中で、私がいた場所だけがなくなっている。四人で最初に屋根へ上った夜。
アデルが初めて、私の隣を選んだ夜。私だけが覚えている。
「そっか」
それ以上は話せなかった。今度こそ、息がなくなる。意識が沈む前に、シエナの声が聞こえた。
「約束を破った」
責める声ではなかった。そのほうが、苦しかった。分かっている。
私はまた、一人で選んだ。