名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
王都から来た使者は、私の凍傷を見るなり「好都合です」と言った。
アデルが剣へ手をかけた。気持ちは分かる。私も、もう少し言い方というものがあるだろうと思う。
「待ってください。誤解です」
使者の女性は両手を上げた。四十歳くらい。旅装の上へ濃紺の外套を重ね、髪はひとつに固く結んでいる。馬から降りたばかりなのに靴の泥を落としてから入ってきたので、悪い人ではなさそうだ。少なくとも、母さんの床を汚す人ではない。
「季節外れの白夜へ接触し、生存している者を探していました。凍傷を歓迎したわけではありません」
「そう先に言ってください」
「申し訳ありません」
女性は素直に頭を下げた。アデルも剣から手を離す。まだ目は怖いけれど。
「暁鐘院伝令官、マーヤ・ノルンです。フィア・ルーメルさんに、王都への召命をお持ちしました」
差し出された筒には、赤い封蝋が三つ並んでいた。王家、暁鐘院、北部辺境伯。ずいぶん立派である。私一人へ用意するには、少し多い。
「返事はどの封へすれば?」
「どれにもできません」
「では三つも押す必要はなかったのでは」
「王命です」
なるほど。やわらかい筒に入っていても、中身は首輪らしい。マーヤさんは広間を見渡した。朝麦亭へ避難した村人は、まだ暖炉の周りにいる。凍傷の手当てをする者。眠った子を抱く者。皆、こちらを見ないふりをして、きちんと聞いていた。
「王国各地で、白夜の早期発生が確認されています。北部だけではありません。三日前には西の港が凍結し、昨日は南部で一村が霧へ沈みました」
広間の空気が冷えた。暖炉の火は燃えているのに。
「冬至までは、まだ四十七日あります」
シエナが言う。
「白夜が暦を外れた記録は?」
「暁鐘の建立以降、一度も」
「なら原因は鐘」
「院も同じ見解です。四基ある暁鐘のうち、北鐘の火がほとんど消えています」
マーヤさんは地図を卓へ広げた。王都を中心に、四方へ赤い線が伸びている。線の先には小さな鐘の印。そのさらに外側、山、湖、森、王墓に、黄色い丸が一つずつあった。
「暁鐘は百年前、白夜を退けた四つの『朝の火種』を分けて作られました。ですが長い年月で火種は鐘から離れ、元の聖地へ戻りつつあります。すべて回収し、王都の鐘へ納めなければ、次の冬至に朝は来ません」
「朝が来ない、とは?」
母さんの声だった。
「比喩ではありません。王国全土が白夜へ沈みます」
誰かが息をのむ。私は地図を見た。最初の黄色い丸は、リーネ村から南東へ七日の古砦。二つ目は湖の町。三つ目は北の山。四つ目は王都の先、古い王墓。
四か所を回って王都へ戻る。
冬至まで四十七日。今日の霧が前触れなら、使える時間はもっと短い。
「それで、どうしてフィアなの」
ミナが私の手を握ったまま尋ねた。マーヤさんの目が、巻かれた布へ落ちる。
「火種へ触れられるのは、白夜の霧を身体へ受け入れ、なお名を保てる者だけです。過去の記録では『灯守』と呼ばれていました。今回、接触者の調査と古い家系記録から、候補は王国に七名」
「七人いるなら、ほかの六人へ頼んで」
ミナにしては強い声だった。
「二名はすでに死亡。三名は白夜へ触れた途端、家族の名も自分の名も失いました。残る一名は八歳です」
七から私を引いて六。そこから二と三と一を引く。残りはゼロだ。
嫌な計算は、だいたい簡単にできている。
「私だけですね」
「現時点では」
「現時点ってことは、明日になれば増えるかも」
「白夜へ触れて生き延びる者がいれば」
「その前に凍るでしょう」
アデルが低く言った。マーヤさんは黙った。否定しないなら、そういうことだ。ミナの手が強くなる。痛い。凍傷に響く。
でも離されたくないので、そのままにした。
「出発は?」
「明朝。王都から回収隊が古砦との分岐で待っています。指揮は監察官レオナ・ハルト」
「傷が治ってない」
ミナがすぐに言う。
「馬車を用意します」
「そういう意味じゃない」
「分かっています。ですが四十日後、北鐘は完全に停止します」
四十日。冬至より七日早い。私の身体が治るのを待てば、村が凍る。ミナがまた霧に触れる。アデルも、シエナも、母さんも。選べる形をしているだけで、答えは一つだ。
「行きます」
ミナが顔を上げた。アデルは何も言わない。シエナだけが、最初から分かっていたように私を見ている。
「フィア」
「火種を四つ持って帰って、鐘へ入れる。それで白夜が止まるなら、分かりやすい仕事だよ」
「一人では行かせない」
アデルが言った。
「騎士候補生アデル・クロウ。北部詰所所属。護衛として同行する」
「アデル、任務は」
「この村の防衛も任務だ。原因を止める」
「私も行く」
ミナまで手を上げた。
「治癒術師は必要でしょ。フィア、すぐ怪我するし」
「すぐではないよ。怪我するときが少し派手なだけ」
「同じ」
「私も」
シエナの声は小さい。けれど、断られると思っていない声だった。
「火種は古代術式。読める人がいる」
「回収隊にも術式師はいます」
マーヤさんが言うと、シエナは彼女を見た。
「季節外れの白夜を止められなかった人たち?」
痛いところをきちんと選んで刺した。マーヤさんが視線を落とす。
「……同行者の選定は、ハルト監察官へお任せします」
つまり分岐までは一緒に来てもいい。その先も、三人ならたぶん勝手についてくる。困った。
うれしい、はずがない。三人を危ない旅へ連れていくのだ。白夜へ触れれば、今日のミナと同じになる。私がそばにいれば助けられるかもしれないけれど、そのたびに何かが消える。ミナの中から、熱の夜はもうなくなった。次は何だろう。
朝食か。初めて四人で雪だるまを作った日か。アデルと喧嘩して、シエナとミナが仲直りの菓子を盗んだ夜か。私が三人を救うほど、三人の中にいる私は減っていく。
でも置いていくと言えば、きっと怒る。
「分かった」
笑った。
「四人で行こう。ただし旅費は割り勘ね」
「王命なら王国持ちだ」
「アデル、こういうときだけ頭がいい」
「こういうときも、だ」
ミナがようやく少し笑った。シエナは笑わなかった。私の手を見ていた。
*
村人がそれぞれの家へ戻ったあと、朝麦亭は急に広くなった。床には溶けた霜と泥。長椅子には使い終えた毛布の山。割れた椀が三つ。明日の仕込みは手つかず。出発の支度より、片づけをしたかった。
手を動かしている間は、考えなくて済む。濡れた毛布を拾おうとして、指が曲がらなかった。
「触らない」
ミナに取り上げられる。
「でも、乾かさないと」
「私がやる」
「出発の荷物は?」
「そのあと」
「ミナ一人では夜になります」
「三人いる」
アデルが反対側を持ち、シエナが乾燥の術式を描いた。毛布から白い湯気が上がる。三人で作業すると速い。私がいなくても。それはいいことだ。
胸の奥が少し痛んだのは、凍傷のせいにした。
「フィアは座って」
「母さんと同じこと言わないでよ」
「オルガさんが正しい」
「今日は皆、母さんの味方だね」
「いつもだよ」
ミナが当然のように答える。昔からだっただろうか。
思い返すと、私が無茶をして三人が怒り、母さんが最後に拳骨を落とす場面ばかり出てくる。たしかに昔からかもしれない。私は丸卓へ座らされ、荷物の一覧を書くことになった。着替え。厚手の外套。火打ち石。水筒。保存食。包帯。薬。地図。縄。小鍋。
「蜂蜜」
ミナが言う。
「必要?」
「薬湯が苦かったときに必要」
「薬なんだから苦いものだよ」
「苦くない薬もある」
「それは効かない薬」
「偏見」
蜂蜜、と書き足した。
「予備の手袋」
アデルが言う。
「自分の穴あきも替えてください」
「分かってる」
「日記」
シエナが言った。手が止まりかけた。
「いつも持ってるでしょう」
「新しいものがいる」
「長旅だから?」
「記録が増える」
シエナは乾いた毛布を畳みながら、こちらを見ない。
「今日のことも書く?」
「書いた」
「早いね」
「忘れる前に」
その一言だけ、厨房へ落ちた。ミナの手も止まる。アデルが顔を上げる。私は一覧の最後へ、日記帳二冊、と書いた。
「大げさだなあ。ミナが昔のことを一つ忘れてただけでしょう」
「一つ?」
シエナがこちらを見た。失敗した。
「ほかにもあるの?」
ミナの声が近い。
「言葉のあや」
「フィア」
「ほら、誰だって昔のことは忘れるよ。私だって昨日の夕飯を」
「豆の煮込み」
「そう、それ」
「一昨日は?」
「鶏肉と蕪」
「五日前」
「川魚。アデルが骨を喉に」
「刺してない」
「刺しかけた」
覚えすぎていたらしい。シエナが畳んだ毛布を置き、自分の鞄から小さな日記帳を取り出した。
「六年前、霜熱。ミナは九日間寝込んだ。フィアが毎晩同じ寝台で看病した。十日目の朝、ミナはフィアの髪を握って寝ていた」
「そんなこと、書いてたの?」
ミナは日記をのぞき込んだ。ページを読み、眉を寄せる。
「覚えてない」
分かっていても、その言葉は痛い。
「その次。五年前の冬。ミナが川へ落ちた。フィアが飛び込み、二人とも熱を出した」
「川へ落ちたのは覚えてる。アデルが怒って、シエナが火を起こしてくれて」
「フィアは?」
ミナの視線がさまよう。
「……いた?」
胸の内側で、何かが崩れた。今日の灯替えで消えたのは、一つの夜だけではないのかもしれない。
命一つ。ミナとの思い出を、いくつ使った?
「いた」
シエナが日記を示す。
「飛び込んだのはフィア」
「私、アデルに引き上げられたと思ってた」
「アデルは二人を岸へ運んだ」
ミナが私を見る。知らない人の話を確かめるような目だった。ほんの一瞬。
すぐにいつもの顔へ戻ったのに、その一瞬が消えない。
「ごめん」
ミナが言った。
「謝ることじゃないよ」
「でも、フィアが助けてくれたのに」
「忘れられるくらい昔の話ってことでしょう。助けた側が覚えてれば十分」
「十分じゃない」
アデルの声がした。
「命を助けられたことを忘れるのは、おかしい」
「じゃあ、ミナが薄情?」
「そんなことは言ってない!」
「なら、いいじゃない」
少し強くなった。三人が黙る。まずい。笑わなくては。
「私、恩を売って老後に養ってもらうつもりだったんだけどね。証文を取っておくべきだったかな」
ミナは笑わなかった。アデルも。シエナが日記を閉じる。
「フィア」
「なに?」
「今日、ミナに何をしたの」
まっすぐだった。逃げ道がない。それでも答えるわけにはいかなかった。灯替えを知れば、次は止める。今日と同じことが起きたとき、三人は私の手を拒む。
私はまた、間に合わなくなる。
「凍結を引き受けた」
「どうやって」
「分からない。触ったら、できた」
「代償は?」
「この手」
「それだけ?」
嘘をつくとき、私はよく喋る。昔からだ。だから短く答えた。
「それだけ」
シエナは私の顔を見た。何も言わない。
信じてはいないと思う。でも、今は追及しなかった。
「日記、二冊では足りないかも」
代わりにそう言った。
「三冊にします?」
「五冊」
「荷物が重くなるよ」
「私が持つ」
アデルが言った。
「なら私も書く」
「アデルが?」
「悪いか」
「字、読めるようになったんだね」
「お前は私をなんだと思ってる」
泣き虫。剣が得意。方向音痴。守ると言うときだけ顔が怖い。口にする前に、アデルが拳を握ったのでやめた。ミナも紙を一枚取る。
「私も。毎日書く。食べたものと、誰といたか」
「食べたものが先なんだ」
「大事だもん」
三人が記録を始める。私が何を隠しているのか、見つけるために。
怖い。
見つけてほしい気持ちも、少しだけあった。全部話して、それでもそばにいてくれるのだと確かめたい。けれど次に白夜が来たら。ミナが凍ったら。
アデルが倒れたら。シエナの心臓が止まりかけたら。
私はまた使う。使わない約束はできない。だから、知られないほうがいい。
「旅の日記かあ」
なるべく楽しそうに言った。
「帰ったら、皆で読み返そうね。私の格好いいところは、少し大きめに書いてください」
「自分で書けば」
「本人の記録は信用されないでしょう」
「もうされてない」
シエナの返事は冷たかった。正しい。正しいから、胸に残った。
*
夜中、荷造りを終えた私は厨房へ下りた。眠れなかった。出発前はいつもそうだ。子どものころ、隣町の祭りへ行くだけでも夜中に三度起きた。忘れ物がないか。寝坊しないか。帰るまでに宿で何か壊れないか。
今回は、少し遠い。火種を四つ拾い、世界の朝を直しに行く。言葉へすると、とても私の仕事には聞こえなかった。窯の前へしゃがむ。火は落ちている。朝の灰だけが薄く残っていた。
灰へ手をかざす。感覚はまだ鈍い。
「痛む?」
暗がりから声がした。シエナが壁にもたれている。
「驚いた。泥棒なら、もっと音を立ててね」
「泥棒は立てない」
「では私が気づけません」
「気づかれたら泥棒が困る」
それもそうだ。シエナは隣へしゃがみ、私の手を取った。包帯を外す。黒ずんだ指先が、消えた炭みたいに見えた。
「痛む?」
二度目。
「少し」
「どれくらい」
「パンをこねるのは無理かな」
「そうじゃない」
分かっている。でも痛みに数字をつけるのは苦手だ。痛いと言ったあと、相手が困る顔を見るほうが痛い。だったら最初から小さくしておけばいい。
「七」
「十で?」
「百で」
「フィア」
「三十。たぶん」
シエナの指が止まる。
「怖い?」
その質問は予想していなかった。
「旅が?」
「忘れられること」
窯の灰が小さく崩れた。シエナは何を知っているのだろう。
「ミナが忘れたからって、私まで忘れるわけじゃないでしょう」
「質問に答えて」
逃がしてくれない。私は暗い厨房を見た。丸卓には椅子が四つ。壁には、子どものころ四人でつけた背丈の傷。いちばん上がアデル。その少し下が私とシエナ。ミナの線は途中から急に伸びた。なくしたくない。
「怖いよ」
声にすると、思ったより小さかった。
「忘れられるのは、嫌」
シエナが手を握る。記憶のない人へ同じことを頼んでも、仕方がない。それでも体温はあった。
「私は書く」
「うん」
「忘れても、読める」
「読んだら、同じかな」
「同じではない」
正直すぎる。優しい嘘くらい、ついてくれてもいいのに。
「でも、何もないよりいい」
シエナは自分の手帳を開いた。今日の日付。その下に、四人の名前が並んでいる。アデル。ミナ。シエナ。フィア。
「明日も書く」
「毎日?」
「毎日」
「途中で喧嘩したら?」
「怒っていると書く」
「私が格好悪い失敗をしたら」
「詳しく書く」
「そこは忘れてくれていいのに」
シエナの口元が、ほんの少し上がった。ああ、よかった。今日も笑わせられた。
この顔を、私は覚えておこう。シエナが忘れても。
*
翌朝、村の門には見送りが集まった。母さんは泣かなかった。私たち四人へ大きな荷袋を一つずつ渡し、マーヤさんの馬車へ保存食を積み、最後に全員の外套を引っ張って留め具を確認した。
「四人で帰ってきな」
短い。それだけだった。
「はい」
アデルが答える。ミナはもう泣いている。シエナは母さんの手を両手で握った。私は笑った。
「帰ったら、宿を一週間休みにしよう。世界を救った人には休暇が必要だからね」
「一日だ」
「短い」
「二日」
「交渉の余地がある」
「フィア」
母さんに呼ばれる。向き直った途端、抱きしめられた。
パンと薪と石鹸の匂い。私の家の匂いだ。
「お前もだよ」
「なにが?」
「四人で帰る。その四人に、お前も入ってる」
朝から同じ間違いを指摘された。困る。今日はちゃんと、自分のパンも荷へ入れたのに。
「分かってる」
嘘をついた。母さんの腕が強くなる。その温かさまで、誰かの記憶から消えるわけではない。そう思うと少し安心し、同時に寂しくなった。
馬車へ乗る。アデルが右、ミナが左、シエナが向かい。いつもの並びだ。マーヤさんが手綱を鳴らし、リーネ村がゆっくり遠ざかる。門の前で、母さんが手を上げていた。
「絶対、帰ろうね」
ミナが言う。
「もちろん」
アデルが答える。シエナは日記を開き、最初の一行を書いた。
私は三人の顔を順に見た。全員いる。まだ、私を知っている。
「じゃあ出発。朝を迎えに行こうか」
明るく言うと、三人がうなずいた。その瞬間を忘れないよう、胸の中でもう一度繰り返した。
四人で出発した。四人で。