名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
目を覚ますと、屋根がなかった。正確には、目の前に屋根の裏側があった。板。
梁。古い蜘蛛の巣。近い。
「埋められた?」
声は、ほとんど息だった。
「起きた!」
ミナの顔が上から入ってくる。私が棺桶に寝ていて、蓋を開けてもらったみたいな眺めだ。
「おはよう。葬儀はもう終わった?」
「終わってないよ!始めてない!」
怒られた。ここは二つ目の避難小屋。
二次雪崩のあと、無事だった巡礼者たちが戸板を担架にして運んでくれたらしい。私は三日眠っていた。
「三日」
確認すると、胸が動いた。
痛い。
息を吸うと、右側だけ深く入らない。背中から腰まで、太い杭で床へ縫われたみたいに重い。
「アデルは?」
「生きてる」
ミナはすぐ答えた。
「歩ける。ご飯も食べた。今は外」
「どうして外?」
「フィアちゃんが起きるまで、顔を見られないって」
アデルが悪いことをしたみたいだ。逆なのに。
「呼んで」
「その前に診察」
「呼びながら」
「しゃべらない」
口へ水差しを当てられた。少し飲む。冷たい水が喉を通り、胸の途中で引っかかる。灯替えでアデルから受け取ったのは、胸骨と肋骨の粉砕、右肺の損傷、腰椎のひび、白夜の冷え。
前から持っていた左脚の骨折と肋骨五本と両手の凍傷も、そのまま。私の体は、ずいぶん賑やかになった。
これ以上増やすと、宿泊料を取ったほうがいい。
「痛い?」
ミナが聞く。
「うん」
練習の成果だ。大丈夫、と言わなかった。
「どこ?」
「全部」
ミナの目が赤くなる。
「答えないほうがよかった?」
「違う。言って」
右手へ弱い治癒灯を当てる。傷は治らない。それでも痛みを少し散らし、呼吸を助けることはできる。
「アデルちゃんの治癒を一回だけ止めた」
「どうして」
「フィアちゃんへ使った分を、自分へ戻そうとしたから」
胸の痛みが、別の形になる。
「止めてくれてありがとう」
「怒らないの?」
「怒る元気がない」
「元気になったら?」
「全力で怒る」
ミナが少しだけ笑った。戸が開く。
アデルが立っていた。歩けると聞いた。本当に立っている。
胸に包帯。顔に擦り傷。それだけだ。
よかった。
「おはよう」
私が言う。アデルは返事をしなかった。寝台の横へ来て、膝をつく。
「なぜ使った」
「おはようが先」
「なぜ」
逃げられない。
「脈が消えかけたから」
「ミナは、まだ治療していた」
「うん」
「使わないと決めた」
「うん」
「約束した」
「うん」
一つずつ認める。ごまかす言葉が見つからないのではない。見つけないようにした。
「怖かった」
アデルの手が震える。
「待ったら、アデルが死ぬと思った。三人が決めたことより、私が今できることを選んだ」
「私の記憶を奪って」
「うん」
「お前の体を壊して」
「うん」
アデルが寝台の縁を握った。
「何が消えた」
言いたくない。言わないのは、また隠すことになる。
「朝麦亭の屋根へ、四人で初めて上った夜」
アデルの顔に、何も浮かばなかった。思い出そうとする動きすらない。
「そんな夜はない」
「あったよ」
「屋根へ上ったことはある。ミナとシエナと三人で」
胸の痛みが強くなる。実際に傷が痛んだだけ。
たぶん。
「毛布は四枚だった」
「三枚だ」
「焼き菓子は四つ」
「三つ」
「アデルは私の服を握ってた」
「握ってない」
一つ言うたび、違うと返ってくる。正しいのは私だ。でもアデルにとっては、私が話を作っている。
「やめて」
ミナが間へ入った。
「二人とも、今は」
「本当なのか」
アデルがミナを見る。ミナは頷いた。
「四人で上ったよ」
シエナも入ってくる。日記を開いたまま。
「十年前、秋月の二十一日。北の流星を見るため、朝麦亭の屋根へ上る。フィアが毛布を四枚、焼き菓子を四つ持ち出す。流星は雲で見えず、夜明けにオルガへ見つかる」
記録を読み上げる。アデルの眉が寄る。
「その日なら覚えている」
「フィアも?」
「いない」
迷いがない。だから痛い。
「三人だった。私と、ミナと、シエナ」
アデルの中では、それが本当だ。私だけが、いなかった人になった。
「分かった」
私は言った。
「もう話さなくていい」
「よくない」
アデルは立ち上がる。
「私は、お前を忘れた」
「全部じゃない」
「一つでも」
「生きてるほうが大事」
言った瞬間、三人の顔が変わった。
違う。
また順位をつけた。命が上。記憶が下。私が決めた。
「ごめん」
すぐ言い直す。
「大事じゃないとは思ってない。私が、生きてほしくて選んだ」
「私は選んでいない」
「うん」
「選ばせないと約束した翌日に」
「うん」
アデルはそれ以上言わず、外へ出た。閉まった戸が、雪崩より大きく聞こえた。
*
三日目の午後、避難小屋の床が鳴った。地震ではない。
私の右手首と、シエナの日記が同時に光る。二つの火種。小屋の真下から、三つ目の灯が呼んでいる。
「天鐘堂」
レオナさんが床板を外す。下に石の階段があった。
「山頂じゃなかったの?」
「山頂にあった」
救助した技師が、崩れた斜面の図を描く。
「二次雪崩で、山の上層ごとここまで滑った。避難小屋は天鐘堂の屋根の上に載っている」
山が、寺院を運んできた。荷車より乱暴である。
「火種を回収する」
レオナさんが言う。
「追手が来る前に、ここを出たい」
私は寝台から起きようとした。胸が痛み、息が止まる。
「フィアちゃんは留守番」
「二つの火種が必要なら?」
「必要になったら呼ぶ」
「第三火種は、四つの火種の中で最も不安定」
レオナさんが古い記録を広げる。
「天鐘堂は、入る者が『同じ屋根で朝を待った人数』を問う。答えが揃わなければ門が開かない」
嫌な問いだ。誰が考えたのだろう。今の私たちへ向けた罠にしか思えない。
「四人で行く」
シエナが決める。
「フィアも」
「運ぶ」
ミナが言う。アデルは黙っていた。
小屋へ戻ってから、必要なこと以外は話していない。私を見ない。それでも階段の前へ立ち、自分の背を示した。
「乗れ」
「レオナさんが」
「私が運ぶ」
拒める声ではない。私はアデルの背へ負われた。胸が当たらないよう、腕で体を支える。昔は私が背負った。
泣いて歩けなかったアデルを、村道から朝麦亭まで。その記憶は残っているだろうか。
聞けなかった。
*
天鐘堂は、上下が半分逆になっていた。雪崩で山肌を滑り、石の床は斜め。天井の鐘が壁へぶつかり、低い音を繰り返している。
奥に、銅でできた小さな家があった。屋根だけの家。壁はなく、四本の柱が銅板を支えている。
その下に、四つの座布団。
「座れということ?」
ミナが一つへ腰を下ろす。私はアデルに下ろしてもらった。四人で屋根の下へ座る。
レオナさんは外。銅板へ文字が浮かんだ。
『同じ屋根で、朝を待った者を呼べ』
ミナが言う。
「アデルちゃん」
青い灯が一つともる。
「シエナ」
二つ。ミナは私を見る。
「フィアちゃん」
三つ。私も呼ぶ。
「アデル。ミナ。シエナ」
灯が四つになる。シエナも三人の名を呼び、光を重ねた。
最後に、アデル。
「ミナ」
一つ。
「シエナ」
二つ。止まる。私の名が出ない。
「アデルちゃん」
ミナが呼びかける。
「分かってる」
アデルは私を見る。私の名前は知っている。
この旅のことも。子どものころの多くも。でも屋根の上に、私はいない。
「フィア」
三つ目がともる。四つ目は暗い。
『不足』
銅板へ文字が出た。
「四人いる」
アデルが立つ。
『記憶は三人』
「違う!」
剣の柄へ手を置く。斬れる相手ではない。銅の屋根へ、あの夜の景色が映った。
アデルの記憶。屋根の上に三人。毛布は四枚。焼き菓子は四つ。
湯飲みも四つ。真ん中に空いた場所。
ミナとシエナは、その空席へ話しかけている。アデルだけが、誰もいないと思っている。
「何だ、これ」
アデルの声が揺れる。
「私の記憶は、三人だ」
銅板の景色では、三人の影が四つある。私の姿だけが見えない。
「なのに、なぜ四つある」
答えを知っている。誰も言えない。
「なぜ私は、空いている場所へ手を伸ばしてる」
記憶の中のアデルは、私の服をつかんでいる。でも服も腕も消え、手だけが宙にある。
「私がいたから」
言うしかない。
「アデルの隣に、私がいた」
「覚えてない」
「うん」
「何も」
「うん」
「お前がそこにいた感じもない」
「うん」
アデルは自分の右手を見る。十年前、私をつかんだ手。今、私を背負った手。
「こんなものを、私は守っていたのか」
「アデル」
「記憶にも残せないのに」
剣を抜いた。床へ置く。投げたのではない。静かに、両手で置いた。
そのほうが怖かった。
「剣を持つ理由が分からない」
アデルが膝をつく。強くなる。フィアの隣へ立つ。今度は自分が守る。
その始まりだった記憶が、もう二つもない。木剣の約束。
屋根の夜。
「アデルちゃんが忘れても、私は覚えてる」
ミナが言う。
「日記にもある」
シエナが続く。
「それで何になる」
アデルは顔を上げない。
「私の中にない」
シエナの表情が止まった。同じことを、葬儀帰りの記憶へ言った。
記録を信じる。証言も信じる。でも自分のものではない。
私たちは、答えを持っていない。新しい記憶を作ればいい。今の関係を選べばいい。正しい。
でも、なくした直後にそれを言うのは、傷口へきれいな布を置いて治ったことにするのと同じだ。
「ごめん」
私が言う。
「それしか言えない」
アデルは返事をしなかった。銅板に映る空席を見ている。私は這って、剣を拾おうとした。
背中が痛み、手が届かない。
「フィア」
アデルが初めて私を見る。
「触るな」
手を止めた。剣を持つかどうかは、アデルが決める。
私が返してはいけない。私には、待つことしかできない。また。
今度は、人の命ではなく、私たちの間にあるものが戻るかを。長い沈黙のあと、アデルは空席へ手を置いた。
「私は、こいつを知らない」
銅板の中の、見えない私。
「でも三人が、いたと言う」
指が震えている。
「証拠もある」
四つの毛布。四つの焼き菓子。四つの影。
「だから、いたことだけは認める」
記憶が戻ったわけではない。私を感じたわけでもない。アデルは事実を選んだ。
「フィア・ルーメル」
もう一度、私の名を呼ぶ。四つ目の灯がともった。
銅の屋根が割れる。中から橙色の火が上がった。第三火種。
火は床に置かれた剣へ触れ、柄頭へ宿った。アデルは剣を取らなかった。第三火種を得た。私たちは先へ進める。
成功だ。
でもアデルは、膝をついたままだった。
「少し、一人にしてくれ」
誰も動かなかった。
「頼む」
その声で、私たちは立った。私はレオナさんに抱えられ、銅の屋根を出る。振り返る。アデルは剣を床へ置き、空席の前に座っていた。
三人の記憶の中から、私だけがいなくなった夜。そこにいなかった人を、どう悲しめばいいのかも分からずに。