名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
三つ目の火種を手に入れた翌朝、王都から記録が届いた。ずいぶん間の悪い記録である。もう少し早ければ、アデルの記憶を燃やす前に読めた。
もう少し遅ければ、知らないまま王都まで行けた。今だから、いちばん痛い。
「法務院が第七書庫を封鎖した」
レオナさんは、騎士団の伝令から受け取った革筒を卓へ置いた。二つ目の避難小屋。窓の外は雪。
室内には、私たち五人。アデルもいる。昨日、天鐘堂へ置いた剣は持って帰った。鞘へ収め、壁へ立てかけてある。腰には差していない。その距離が、今のアデルと剣の間にある距離だった。
私との間には、卓一つ分。
「告発状の一通が王太子府へ届き、法務院へ強制開示命令が出た。第七書庫の職員三人は逃亡。院長代理は命令書を偽造されたと主張している」
「信じる?」
ミナが聞く。
「信じない。だが証明が必要だ」
レオナさんが革筒の封を切る。
「これは、封鎖前に法務官が写した灯守記録の全文だ」
全文。胸の奥が冷たくなる。知らないことが書かれているのが怖い。
知っていることが書かれているのは、もっと怖い。
「フィア」
シエナが私を見る。
「読める?」
「字なら」
「違う」
あの子は逃がしてくれない。
「読む前に、知っていることを言って」
四人の決まり。危険、記憶、傷、追手の情報は、全員へ話す。一時間以内。
十年前に知ったことは、ずいぶん時間を過ぎている。
「灯替えの使い方」
私は右手を見る。
「相手へ触れて、名前を呼ぶ。傷をもらう。代わりに、その人から私との記憶が消える」
「それは知ってる」
「重い傷ほど、大事な記憶が消える。私を知らない人へ使うと、私の体力や寿命が減る」
「それも」
シエナは待っている。三人とも待っている。
「全部忘れられたら」
喉が狭くなる。
「たぶん、私の名前もなくなる」
ミナの指が動いた。
「たぶん?」
「使い方と同じで、頭の中にある。誰かに教わったわけじゃない。十年前、初めて使ったときから」
「どんなふうに?」
「声じゃない。知ってるだけ。火に触ったら熱いって分かるのと同じ」
「その先は」
アデルが聞いた。雪崩のあと、初めて私へ向ける声だった。
「名前がなくなったら、白夜を入れられる器になる」
言った。室内の火が、一度揺れた。
「いつから知っていた」
「十年前」
アデルの顔から、表情が消える。
「最初から?」
「確かなことじゃないと思った。子どもの私が、術を怖がって作った想像かもしれないって」
「だから黙っていた?」
「うん」
「昨日まで?」
「うん」
短い答えほど、言い訳を隠せない。レオナさんが記録を開いた。
「読む」
止める人はいなかった。
*
『古式灯術、通称・灯替え。
灯守候補は他者の傷、呪い、白夜侵蝕を自己へ移す。その際、対象者の中にある候補との共有記憶を燃料とする。
燃料は感情の強度に従い、対象者の意思を問わず選定される』
知っている。アデルの木剣。シエナの笑い。ミナの熱の夜。
どれも、本人へどれを失うか聞けなかった。
『対象者が候補との共有記憶を持たぬ場合、候補の寿命、感覚、身体機能を燃料とする』
ルルを助けたとき、知った。正確には、思い出した。私は初めてだと思っていた。術のほうは、最初から知っていたのかもしれない。
『移された傷は候補の名へ結びつく。他の治癒を拒み、原所有者が自ら取り戻すか、名の灯が消失するまで存続する』
「名の灯が消えたら、傷は?」
ミナが聞く。レオナさんが次を読む。
『候補を深く記憶する三名を、錨と定める。三名の記憶から候補が完全に消失した場合、候補の個人名、痛覚、情動、帰属意識は段階的に失われる。同時に、移された傷は白夜の霧へ変換され、候補の体内へ貯蔵される』
傷が治るのではない。痛みを感じる私が薄くなる。
「三名」
シエナが言う。
「私たち」
「うん」
胸の中に見えた三枚の札。最初から、三人だった。
『全錨消失後、候補は無名の器となる。生存は維持される。ただし過去の自己との連続性を保証しない』
「生きる」
私は言った。誰へ言ったのか、自分でも分からない。
「死なない」
「それを生きると言うの?」
ミナの声が震えた。
「体は残る」
「フィアちゃんは?」
「残るよ」
「名前を呼んでも、自分だって分からないのに?」
答えられない。
「痛くないんだよ」
代わりに、いちばん言ってはいけないことが出た。
「傷は霧になる。だから、この脚も胸も」
「痛くなければいいの?」
ミナが立つ。椅子が倒れた。
「私たちを忘れても?」
「私が忘れるとは書いてない」
「帰属意識がなくなるって書いてある!」
朝麦亭を見ても、帰る場所だと分からない。三人を見ても、隣へいたいと思わない。記憶が残っても、それが私のものではなくなる。シエナが、葬儀帰りの日記を読んだときと同じ。
記録はある。気持ちはない。
「フィアは、そこまで知っていた?」
シエナが聞く。
「言葉までは」
「でも、近いことは?」
「……うん」
シエナは日記を閉じた。音は小さい。
怒っているときの動きだった。
「続きがある」
レオナさんが言う。声が硬い。
『無名の器へ四つの朝の火種を集め、王都暁鐘へ接続することで、白夜を最長百年封印可能。
器は鐘下へ安置し、外部接触を禁ずる。名を与える行為は封印を弱めるため、記録、墓標、肖像を残してはならない』
「安置」
アデルが繰り返す。
「人を置く言葉じゃない」
「そうだ」
レオナさんは記録を持つ手へ力を込めた。
「院は最初から、お前を人として帰すつもりがない」
地下へ置く。名前を呼ばない。
記録を残さない。百年。
生きている。
だから、死なない。そう考えていた。
考えようとしていた。
「フィア」
アデルが立った。卓を回り、寝台の前へ来る。
「私たちを王都へ連れていけば、錨を消されると知っていたのか」
「院がわざと消すとは知らなかった」
「自然に全部なくなる可能性は?」
「あった」
「それでも旅へ来た」
「白夜を止めないと村が」
「私たちを連れて」
「三人が来るって」
「お前は何と言った」
第2話。
三人が同行すると言った。私は一度、止めた。危ないから村に残って、と。でも最後は、三人がいれば火種を集められると思った。
三人の記憶が燃料になるとも知りながら。
「来てほしかった」
胸が苦しい。
「一人では怖かった」
それも本当。
「でも、来たら三人の記憶が消えるかもしれないと思ってた」
「私たちが全部忘れれば、お前は器になる」
「うん」
「そのことだけを言わなかった」
「うん」
アデルの手が上がった。殴られると思った。目を閉じる。
何も来なかった。目を開けると、アデルの手は途中で止まっている。震えながら、下ろされた。
「今のお前は殴れない」
体が壊れているから。そういう意味だ。殴ってほしいと思った。
痛みなら、何をしたか分かる。でもアデルは、私が楽になる罰をくれなかった。
「ありがとうとは思っている」
アデルが言う。
「雪崩から助けられた。生きていて、よかったとも思う」
顔は、少しもよかったと思っているように見えない。
「それより、怒っている」
はっきり言われる。
「私は、お前を忘れて無事に生きる人生を選んでいない」
「死んだら選べない」
「だからお前が決めた?」
「うん」
「私の人生を?」
分かっていたはずのことが、今初めて届く。私は命を救った。アデルがそのあと何を抱えて生きるかは、考えなかった。生きていればいいと決めた。
「ごめん」
「謝れば、次は使わないのか」
答えられない。アデルは待った。ミナも。シエナも。
「分からない」
やっと言う。
「また三人が死にかけたら、使わないって約束できない」
アデルが目を閉じた。
「なら、今は話せない」
壁の剣を取る。腰へ差さず、手に持つ。
「外にいる」
戸を開け、出ていく。ミナは倒れた椅子を直した。私を見ない。
「薬の時間になったら来る」
治療はやめない。そばにはいない。
それがミナの怒り方だった。シエナは記録の全文を写し取る。一文字も間違えないように。
「日記へ書くの?」
「書く」
「私が知ってたことも?」
「書く」
嫌だと思った。でも、消してとは言えない。
「私の気持ちは?」
シエナのペンが止まる。
「何を思っていた?」
「三人と帰りたい」
「ほかは」
「忘れられたくない」
「ほか」
もっと深いところ。言葉にしたくないところ。
「全部忘れられたら」
私は天井を見る。屋根の裏。蜘蛛の巣。
「もう、誰かが私を忘れるたびに痛くならなくて済むとも思った」
シエナのペン先から、墨が一滴落ちた。
「それも書く」
「うん」
「今は、フィアを慰めたくない」
「うん」
「でも一人にすると、また勝手に決める」
椅子を寝台の横へ寄せる。
「だから、ここにいる」
怒っている。そばにいる。両方だった。私はそれを受け取るしかない。
レオナさんは記録を畳んだ。
「私も謝罪する」
「レオナさんは知らなかった」
「知らないまま、お前を任務へ連れ出した。知ろうとするのが遅かった」
「それは私が」
「私の責任を取るな」
止められた。今日は誰の罪も引き受けられない。
自分のものだけで、もう重い。三つの火種が光っている。王都へ運べば、白夜を止められる。
同時に、私を無名の器へする準備が進む。四つ目を集めるのか。王都へ行くのか。止まれば、村が白夜へ沈む。
進めば、三人の中から私が消える。また二つの道だ。
でも今度は、私一人では選べない。三人は怒っている。感謝より、ずっと強く。
それでいい。そう思おうとした。思えなかった。
「嫌われたくない」
声が出た。シエナのペンが止まる。レオナさんも顔を上げる。
「怒られるの、怖い」
子どもみたいだ。でも今は、それしか言えなかった。
シエナは慰めなかった。
「記録した」
ただ、そう答えた。