名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
朝起きると、壁に紙が貼られていた。
『禁止』
大きな字。その下に三つ。
『大丈夫』
『平気』
『ちょっとだけ』
「宿屋の規則が厳しすぎる」
私は寝台から紙を見上げた。
「ここ、宿屋じゃない」
薬を混ぜているミナが答える。昨日は、薬の時間以外ほとんど話さなかった。今日は話してくれる。
怒りが消えたわけではない。乳鉢を回す音が、普段より強い。
「誰が書いたの?」
「三人で」
「私に相談は?」
「フィアちゃんが寝てる間に決めた」
「本人抜きで本人のことを決めない約束」
ミナの手が止まった。戸のそばにいたアデルが、少し気まずそうな顔をする。シエナは日記をめくった。
「これはフィアのことではない」
「では誰の?」
「言葉」
逃げ方が上手になっている。
「禁止に反対です」
「理由は」
「便利だから」
「だから禁止」
アデルが言った。
「お前の大丈夫は、何も説明しない」
「大丈夫なときに使うよ」
「大丈夫ではないときにも使う」
「半分くらい」
「『ちょっとだけ』も言った」
しまった。紙の一番下に、シエナが線を一本引いた。
「何それ」
「違反回数」
「罰は?」
「一回につき、本当のことを一つ言う」
「横暴だ」
「二回」
「今は禁止語を使ってない」
「横暴も、逃げるときに使う」
「勝手に増やさないで」
アデルの口元が動いた。笑いそうになって、止めた。
まだ笑ってはいけないと思ったのかもしれない。私に怒っている間は、楽しくしてはいけないと。それは困る。
「三人とも、怒ったままでいいよ」
急に言ったから、全員がこちらを見る。
「私の前で笑っても、怒りが軽くなったことにはしないから」
「誰もそんな話は」
アデルが言いかけ、止まる。考えていたらしい。
「本当のこと、一つ目」
シエナがペンを持つ。
「今の体調」
「あちこち痛い」
「あちこちでは分からない」
ミナが寝台の横へ座る。
「胸は?」
「息を吸うと痛い。右は半分くらいまでしか入らない」
「背中」
「動かなければ重い。起きると刺さる」
「脚」
「ずっと痛い。昨日より少し強い」
ミナの顔が険しくなる。
「なんで昨日言わなかったの?」
「聞かれなかったから」
「聞いたよ!」
そうだっただろうか。薬を持ってきて、痛みは、と聞かれた。私は、いつもの三つのうちどれかを答えた。
「たぶん、平――」
三人の視線が刺さる。
「普通だと言いました」
「三回」
「今のは途中」
「意味は同じ」
シエナの判定が厳しい。ミナは添え木を外し、左脚を診た。
昨日より腫れている。
「天鐘堂で無理に動いたから、骨がずれてる」
「ごめん」
「謝る前に言って」
「今、言った」
「私が見つけたの!」
ミナの目に涙が浮く。私は口を閉じた。ここで冗談を言うと、たぶん間違える。
「怒ってる?」
「怒ってる」
「まだ?」
「まだって何」
「昨日のこと」
「昨日のことも。今の脚のことも」
「嫌い?」
聞いてしまった。ミナはすぐ答えなかった。
怖い。
禁止語を使いたくなる。答えが何でも、笑って受けられるように。
「嫌いになりたい」
ミナが言った。胸が縮む。
「でも、なれない。だからもっと怒る」
治療の布を強く絞る。
「フィアちゃんが自分を壊すたび、好きな私まで使われてる気がする」
「使うつもりは」
「なくても、使ってるよ」
ネネを救えなかった罰。三人を選んだ証明。私は三人への気持ちを、そのための燃料にしている。
三人が私を大事に思う気持ちまで、錨として使う。
「ごめん」
「四回」
シエナが言う。
「謝罪は本当のことではない」
「そこまで禁止する?」
「今は」
逃げ道が減っていく。
「怖い」
私は言った。ミナが顔を上げる。
「ミナに嫌われるのが怖い」
笑わない。言ったあと、息を吸う。胸が痛い。
それでも、続ける。
「アデルが剣を置いたのも怖い。私が、アデルの大事なものを壊した」
アデルは壁の剣を見た。今日は腰へ差している。でも帯の結び目が緩い。
いつでも外せるように見える。
「剣は私が持つか決める」
「うん」
「お前が壊した記憶だけが、私の全部ではない」
「うん」
「だが、許してはいない」
「うん」
胸の中に、許してほしい私がいる。今すぐ。
全部仕方なかったと言って、頭を撫でてほしい。そんなことをされたら、また同じことをするかもしれない。
「許してほしい」
言うだけならいい。
「でも、今すぐじゃなくていい」
アデルが頷いた。シエナが線を二本消す。
「何で?」
「二つ言った」
「残り二つ?」
「残りはあとで」
きっちりしている。
*
昼前、山を下り始めた。王都へ続く南街道を目指す。
最後の第四火種は、王都北西の古い王墓にある。今の速度で五日。北鐘が止まるまで、あと二十日。
急がなければいけない。私は戸板で作った担架に固定された。急げない。
「女王様みたい」
前をアデル、後ろをレオナさんが持つ。頭のそばをミナが歩き、シエナは後方を警戒。
「女王は担架で山を下りない」
シエナが答える。
「新しい流行です」
「流行らない」
道は細い。雪崩の跡で何度も途切れ、岩を回るたび担架が傾く。
「痛いか」
アデルが聞く。
「だい」
最初の音が出た。シエナが後ろで紙を出す音がする。
「少し痛い。背中」
「どのくらい」
「十段階で五」
ミナが首を振る。
「フィアちゃんの五は信用できない」
「では八」
「急に上げないで」
「六。下りで揺れると七」
アデルとレオナさんが担架を下ろした。
「休む」
「時間が」
「十分」
「それくらいなら」
口を閉じる。危なかった。
ちょっとだけ、と言いそうになった。ミナが背中へ丸めた毛布を入れ、担架の角度を変える。もう一度持ち上げられた。
痛みが三まで下がる。
「どう?」
「楽」
たった二文字。今までなら言わなかった。痛いと話せば、皆を止める。だから黙る。
そのつもりだった。言ったら、止まるのは十分だけだった。
道も、旅も終わらない。私が迷惑をかけたせいで全部失敗する、ということもなかった。
「不思議」
「何が?」
ミナが聞く。
「言っても、進めるんだね」
「当たり前だよ」
私には当たり前ではなかった。
*
夕方、山腹の石橋へ出た。橋の向こうに、黒い外套の一団がいた。
暁鐘院。胸に銀の鐘の紋。追手が、先回りしている。
「十二人」
シエナが数える。前方に六。
森の中に四。後ろの道から二。囲まれている。
先頭の男が、武器を持たずに進み出た。
「レオナ・ハルト監察官」
「その呼び方をされる筋合いはない」
「解任命令は出ていません。告発についても、院長代理が誤解を解く用意をしております」
「伝令を拘束し、白い市場で記憶を買っていた誤解か」
「不正を働いた職員は、すでに特定されました」
速い。まだ告発状が届いて二日。悪い人を三人だけ用意し、全部その人たちがしたことにする。朝麦亭でも皿を割った犯人はだいたい私だけれど、今回はそう簡単ではない。
「灯守候補を保護します」
男が私を見る。
「重傷です。院の治療棟なら、苦痛を抑えられる」
「治せるとは言わないんだ」
「痛みを感じなくする方法があります」
名前をなくす。感情をなくす。痛い私を消す。
「お断りします」
声が少し震えた。男の後ろに、屋根つきの馬車がある。柔らかそうな寝台。
治療術師。白い毛布。この担架より、ずっと楽に見える。
「王都まで運びます。三名のご友人も同行できます」
三人も。ばらばらにされない。本当とは限らない。
「拒否すれば?」
「王命に基づき保護します」
強制という意味だ。アデルが剣へ手を置く。ミナが私の担架へ寄る。
シエナは術式紙を三枚出した。戦えば、誰かが傷つく。十二人。こちらは五人。
そのうち私は運ばれる荷物。灯替えを使える。
今から名前を呼ぶ相手を決めれば。
「フィア」
アデルが振り返らずに言う。
「何を考えている」
「灯替え」
禁止語を使わず、正直に答えた。三人の肩が揺れる。
「誰かが傷ついたら、使いたいと思ってる」
「使わないと言って」
ミナが頼む。言えば安心する。
嘘でも、今だけは。
「言えない」
私は答えた。
「使わないとは約束できない」
ミナが目を閉じる。
「でも、使う前に言う。今みたいに」
シエナが日記を開く。
「一呼吸、待てる?」
昨日は待たなかった。
「分からない」
「今は?」
息を吸う。胸が痛む。
吐く。
「待てた」
「なら、もう一呼吸」
もう一度。吸う。吐く。
その間に、レオナさんが言った。
「戦わない」
驚いて顔を向ける。
「全員、武器を下ろせ」
「レオナさん?」
「ここで戦えば、負傷者が出る。フィアは灯替えを使う。院の狙いどおり、錨が減る」
正しい。
「保護を受ける」
アデルが振り返る。
「信用するのか」
「しない。だから、内部へ入る」
低い声。
「五人一緒という条件を飲ませる。記録の原本を探し、院長代理の命令を暴く」
捕まるのではない。入る。
言葉を変えただけかもしれない。でも、選ぶのは私たちだ。
「怖い」
私は言った。禁止語の代わり。
本当のこと。
「連れていかれたら、三人と離されるのが怖い」
「離れない」
アデルが答える。
「離されそうになったら?」
「戦う」
「そのとき私が術を」
「まず言え」
「うん」
三人の顔を見る。
「忘れられたくない」
声がかすれた。残っていた、いちばん大きな本当。
「三人の中から、これ以上いなくなりたくない」
ミナが担架の上の私の手を握る。シエナも反対の手へ触れた。アデルは剣から手を離し、私の肩へ置く。
「覚えている」
三人が同時には言わなかった。簡単に約束できないと、もう知っているから。
「今は」
シエナが言う。
「今は覚えてる」
それでよかった。私たちは武器を下ろした。暁鐘院の馬車が、橋の向こうで待っている。大丈夫ではない。
平気でもない。少しだけの危険でもない。
痛い。
怖い。
忘れられたくない。
全部を口にしたまま、私たちは自分から檻へ入った。