名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
アデルに殴られた。右の頬。一回。
拳ではなく、開いた手だった。それでも顔が横を向いた。鎮静術が残っていて、痛みは分からない。乾いた音だけが森へ響いた。
「今の、痛かったか」
アデルが聞く。
「分からない」
正直に答える。アデルの顔が、殴った本人より痛そうに歪んだ。
「最悪だ」
「うん」
「お前じゃない。私が」
手を握り、下ろす。
「痛みも分からない相手を殴った」
「私は、殴られて当然で」
「それを言うな!」
剣より鋭い声だった。
「お前は、殴られれば終わると思ってる」
何も返せない。思っていた。一回殴られる。
謝る。許される。痛みが、私のしたことへ値段をつけてくれる。安い値段だ。
「これは私が怒って、間違えた」
アデルは自分の赤くなった手を見る。
「お前が勝手に傷を受け取ったこととは、別だ。相殺しない」
「うん」
「私はあとで謝る。今は怒ってる」
「うん」
アデルは私の前へ座った。森の奥。
暁鐘院の北部治療棟から、まだ半里も離れていない。追手が来る。早く移動しなければいけない。
でも誰も立たない。今度は、私の話を後回しにしないらしい。
「何に怒ってるか、分かるか」
「私が火種を使ったこと」
「違う」
「警報を鳴らしたこと」
「それも怒ってる。だが違う」
「約束を破ったこと」
「近い」
難しい。正解を考える。間違えれば、もっと嫌われる。
「分からない」
アデルは息を吐いた。
「私が、お前を助けると決めた」
「うん」
「北階段を守る役も、私が選んだ」
「うん」
「傷つく可能性も知っていた」
「でも」
「今、『でも』と言うな」
止められる。
「お前は私が傷ついたら、私の選択をなかったことにする。自分だけが正しい答えを出せると思っている」
「思ってない」
「していることは同じだ」
アデルの肩から血が落ちる。切り傷は深くない。
それでも、治したい。触れば、灯替えでなくても布を巻ける。手を伸ばした。
アデルが避ける。
「これは私の傷だ」
「手当てだけ」
「ミナに頼む」
触らせてもらえない。その程度のことまで拒まれると、胸が冷える。
「もう何もしない」
口から出た。
「それも違う!」
アデルが立ち上がる。
「何もしろと言ってる!私たちと相談しろ。任せろ。失敗するところまで見ていろ。助けを頼め!」
「失敗したら死ぬ」
「私たちの人生だ!」
森の鳥が飛び立った。
「死ぬ可能性も、何を守るかも、私たちが決める。お前の罪を軽くするために生きてるんじゃない」
胸の奥へ、まっすぐ入る。三人を救えば、ネネを選ばなかった私が少しだけ正しくなる。三人が無傷なら、あの日の続きで間違えずに済む。
私は守りたい。同時に、三人を使って自分を許そうとしている。
「私、アデルに死んでほしくない」
「私も死にたくない」
「なら」
「だから自分で守る。助けが必要なら言う」
「言えないときは」
「ほかの二人が決めると約束した」
「でも雪崩のときは間に合わなかった」
「間に合わなかったかは、誰にも分からない」
通常蘇生が次の一回で効いたかもしれない。効かなかったかもしれない。灯替えを使わなければ、アデルは死んだかもしれない。私が使ったから、答えは永遠に分からない。
「私は生きてる」
アデルが言う。
「感謝もしてる。だから余計に腹が立つ」
救ってくれてありがとう。選ばせなかったことが許せない。
両方。私には、どちらか一つしかないと思っていた。
「フィアちゃん」
ミナが薬箱を閉じた。
「治療しない」
心臓が縮む。
「アデルを?」
「アデルちゃんはする。フィアちゃんの魔法治療をしない」
「どうして」
「今、痛みを消したら、すぐ動くから」
「追手が」
「来る前に、レオナさんが隠す術を張る。二時間休む」
「二時間も」
「禁止語」
ちょっとだけなら動ける。言おうとしたのが分かったらしい。
「フィアちゃんの胸から、また血が出てる。施設で担架から落ちたとき」
服の下を確認される。包帯へ赤い染み。痛くないから気づかなかった。
「鎮静を抜く薬はある。でも、抜いたらすごく痛い」
「抜いて」
「嫌」
「私の体だよ」
「そうだよ」
ミナは私の目を見る。
「だから、どうするか話す。今すぐ全部抜けば、呼吸が乱れて傷が開く。二時間かけて少しずつ抜く。その間、動かない」
決定ではない。説明。
「選んで」
「今すぐ痛くして」
殴られた頬も。胸も。
全部。
痛ければ、罰になる。
「それは治療のため?」
ミナに聞かれた。
違う。
私が悪いと分かるため。
「違う」
「じゃあ、しない」
薬瓶を箱へ戻す。
「フィアちゃんが自分を罰するために、私は治癒術を使わない」
「でも、痛みがないと」
「私たちが怒ってる」
ミナの声は静かだった。
「それを聞いて。自分を痛くして、聞いたことにしないで」
逃げ道が、また一つなくなる。私は毛布へ横たえられた。
動けないからではない。動かないと選ぶ。二時間。
長い。その間ずっと、三人の怒りから逃げられない。
*
シエナは日記を開いた。
「読む」
「何を?」
「フィアがした約束」
「全部?」
「全部」
嫌な予感しかしない。
「第一火種の砦。使う前に話せる時間があれば話す」
アデルを雪崩から救ったとき、話せる一呼吸を待たなかった。
「湖の町。ミナが意識を失っていなければ、拒否を無視して使わない」
まだ破っていない。
「四人の決まり。危険情報は安全確保後一時間以内に全員へ共有する」
白い女のことを黙った。
「本人抜きで本人のことを決めない」
アデルの人生を決めた。
「誰かを守るため、一人で消えない」
何度も消えようとした。
「灯替えを使いたいと思ったら、先に言う。一呼吸待つ」
施設では言った。でも拒否されたあと、使った。
「禁止語。大丈夫、平気、ちょっとだけ」
「それは約束では」
「黙って」
怒られた。
「フィアは、約束を守る気がある?」
シエナが聞く。
「ある」
「結果は」
「守れてない」
「なぜ」
「怖いから」
「何が」
「待って、間に合わないこと」
「ほか」
「三人に任せて、失敗すること」
「ほか」
「何もできない私が、いらないって分かること」
最後は、考える前に出た。全員が黙る。言ってしまった。
いちばん見たくなかったもの。
「三人が自分でできるなら、私は何のためにいるの」
声が震える。
「守らなくても、治さなくても、痛くなくても、私が四人の中にいる理由が分からない」
朝麦亭の食卓。四枚目のパン。
私はいつも最後だった。働いて、焼いて、配って。全員の分があると確かめてから、自分の席へ座る。
「だから、三人が傷つくと安心するのかもしれない」
ひどい言葉だ。
「助けられるから。私が必要になるから」
守りたい気持ちに、そんなものが混ざっている。言いたくなかった。三人に知られたくなかった。アデルが何か言おうとした。
シエナが手で止める。
「今は、私たちが話す」
日記の次のページ。
「フィアは、私の心の灯が砕けかけたとき灯替えを使った。私は葬儀帰りの笑いを失った」
平らな声。
「私は今も、あの日を思い出せない。フィアの話を聞いても、自分のものだと思えない」
「ごめん」
「まだ」
続ける。
「でも私が怒っているのは、忘れたことだけではない。私の失ったものを、フィアが一人で持っていることでもない」
日記を閉じる。
「フィアが、私の人生を自分の罰へ使うこと」
アデルが頷く。
「私が強くなることも、傷つくことも、お前を許すためにあるんじゃない」
ミナも言う。
「私がフィアちゃんを好きなのも、フィアちゃんが自分を壊す燃料じゃない」
三人の怒りが、同じ場所へ向く。死ぬな。痛いことをするな。
それだけではない。
「私たちの人生を、勝手に決めないで」
アデルが言った。
「守るためでも」
ミナ。
「愛しているつもりでも」
シエナ。私は返事を探した。怖かったから。間に合わなかったら。
三人を失いたくなくて。全部、本当。
全部、言い訳になる。
「ごめんなさい」
それだけ言った。アデルが待つ。
ミナも。シエナも。私は続けなかった。
でも、をつけない。仕方なかった、と説明しない。許して、と頼まない。
「ごめんなさい」
もう一度。アデルはすぐ許さなかった。ミナも抱きしめなかった。
シエナも日記へ、仲直りしたとは書かなかった。三人は、ただそこにいた。怒ったまま。二時間。
レオナさんが森へ隠蔽の術を張り、追手の音を遠ざける。ミナは少しずつ鎮静を抜いた。
頬が熱を持つ。胸の傷が戻る。脚が痛む。
「痛い」
言った。
「うん」
ミナが答える。
「怖い」
「うん」
「三人に怒られてる」
「うん」
「それでも、ここにいていい?」
三人は顔を見合わせた。すぐには答えない。その間も待った。アデルが、私の横へ置かれた毛布の端を直す。
「いるかどうかは、お前も決めろ」
ミナが水を渡す。
「私たちは、今は一緒に行くって決めてる」
シエナが日記へ書く。
「四人で、第四火種へ」
許されたわけではない。でも、席はなくなっていない。何もできなくても。怒られていても。
私は三人と同じ毛布の端を持った。
「行きたい」
自分の望みとして言う。
「四人で、行きたい」
アデルが自分の頬を一度叩いた。私へしたのと同じ側。
「さっきは、悪かった」
「うん」
「許さなくていい」
私が言われたかった言葉だ。
「今は痛いから、あとで考える」
「分かった」
帳消しにはしない。それでも一緒に進む。二時間後、私たちは森を出た。暁鐘院から奪った記録を持ち、第四火種のある王墓へ向かう。
怒ってくれる人たちと。怒られても残っていた、私の席を持って。