名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
王墓の入口には、こう書かれていた。
『冬の魔女、ここに眠らず』
「では帰りましょう」
担架の上から提案した。
「遠慮するな」
前を持つアデルが、石扉へ近づく。
「遠慮じゃなくて、親切な案内に従っただけです」
「第四火種は中」
シエナが、暁鐘院から持ち出した地図を広げる。
「眠っていないなら、お留守かもしれない」
「火種は留守番してる」
この子は、たまに私より適当なことを言う。北部治療棟から逃げて二日。
王都へ続く街道を避け、古い水路を西へ進んだ。森の地下にある王墓は、初代国王オスカーのために作られたものだ。百年前の王様。白夜から国を救い、四つの暁鐘を作らせた英雄。学校ではそう習う。
私は学校へ三年しか通っていないけれど、宿の客が同じ話を何度もした。英雄王オスカー。冬の魔女を倒し、朝を取り戻した人。
「その王様のお墓に、魔女は眠ってないって書く必要ある?」
ミナが首を傾げる。
「入れないための警告だろう」
レオナさんが扉の文字を読む。
「あるいは、入っていると思われたくないものがある」
後者だ。こういう隠し方は分かる。台所の棚へ『乾燥豆』と書いてある箱には、だいたい母さんのお菓子が入っている。私が見つけるので、三日ごとに名前が変わる。
「開ける」
アデルが第三火種の宿る剣を抜いた。腰へ戻したのは昨日から。持つ理由は、まだ分からないと言った。
分からないまま、今必要だから持つ。それも選び方の一つだ。橙色の火が石扉へ触れる。私の右手首から赤い第一火種が応え、シエナの日記から青い第二火種が上がった。
三つの光。扉の文字が裏返る。
『冬の魔女、ここに名を奪われる』
「やっぱり帰らなくてよかった」
「さっきと違う」
ミナが笑った。アデルも少しだけ口元を緩める。怒りは残っている。
それでも笑う。私は、それを確かめすぎないようにした。
*
王墓の中には、三人しかいなかった。石像が三体。剣を持つ騎士。
杖を持つ術師。王冠を持つ侍女。正面の棺には、英雄王オスカー。壁の碑文へ、三人の功績が刻まれている。
『騎士カレン、王を守り白夜の獣を退ける』
『術師ニルダ、四つの朝の火種を導く』
『侍女マーヤ、王の傷を癒やし冬を終わらせる』
「一人足りない」
シエナが言った。
「三人いるよ」
ミナが像を数える。
「台座が四つ」
騎士と術師の間。何も載っていない台座がある。その前の床だけ、石が深くへこんでいた。誰かが何度も立った跡。
像を壊した傷ではない。最初から、何も置かれなかった場所。
「灯守の位置だ」
レオナさんが王都記録を開く。
「三人の錨と、一人の候補。配置が一致する」
「じゃあ、魔女はここにいた」
私が言う。過去形なのに、室内の温度が下がった。空の台座へ白い霜が集まる。女の輪郭になる。
顔はない。名前もない。
塔で見た白い人。
『おいで』
声は聞こえなかった。今度は、口だけで分かる。
「行かない」
先に答えた。霜の女は消える。空の台座に、一行だけ文字が浮かんだ。
『四人で朝を待った』
アデルが息を止める。屋根の記憶と同じ言葉。
「私たちのこと?」
ミナが聞く。
「違う」
シエナが台座の下へ手を入れる。薄い石板を引き出した。
「百年前の三人」
石板には、侍女マーヤの名が刻まれていた。
『私は四人だったと言う。
記録は三人だと言う。杯は四つあった。
誰の杯だったか、私は知らない』
次は騎士カレンの石板。
『私の剣の鞘には、知らない女の髪が結ばれている。
外せない。
理由を思い出せない』
術師ニルダ。
『日記のすべての頁に、同じ文字で誰かの名を書いた跡がある。
墨は削られた。
私は、その空白を愛していたと思う』
三人とも忘れた。杯。髪。
日記。記憶の外に残ったものから、誰かがいたと知った。アデルは、自分の剣の柄へ触れた。そこには昔、私が巻いた赤い糸がある。
木剣の約束を忘れても、外さなかった。
「同じだ」
声が低い。
「百年前も」
私の未来が、石へ刻まれている。三人の中から私が消える。それでも四人分の物が残る。
誰のものか分からない。理由を思い出せない。空席だけがある。
「続きがある」
シエナが、空の台座の裏を示した。削られた跡。誰かの名。
深く削りすぎて、石が薄くなっている。
「読める?」
「表からは無理」
シエナは灯を指先へ集める。
「石の裏へ、削る前の圧が残っている」
青い火種を重ねる。文字は記憶ではない。消された溝の形を、石の内側から拾う。
一文字ずつ、光が戻る。
『ユ』
空気が震えた。
『リ』
王墓の奥で、鐘が鳴る。
『ア』
白い霜が、女の顔を作った。赤茶ではない。黒い長い髪。細い頬。
私より少し年上に見える。十九歳くらい。
顔を見た瞬間、知っていると思った。会ったことはない。でも、灯替えの奥にいる。
私が傷を引き受けるたび、白い火の向こうから見ていた人。石はさらに名を返す。
『ユリア・アステル』
冬の魔女。初代灯守。
名前があった。
「ユリア」
私が呼んだ。王墓全体が震えた。棺の後ろの壁が割れ、隠されていた回廊が開く。
白い光が流れ出した。そこに、百年前の朝があった。
*
記憶ではない。石へ焼きついた灯の残り。私たちは、百年前の王墓を見た。
ユリアが立っている。まだ名前がある。カレンが剣を振るい、ニルダが術式を描き、マーヤが傷を癒やす。四人で白夜と戦っていた。
今の私たちより、少し大人。少し強い。
ユリアはよく笑う人だった。騎士の兜を鍋に使い、術師の日記へ料理の献立を書き、侍女の菓子を勝手に食べる。
「親しみが湧く」
私が言う。
「フィアほどではない」
シエナが答えた。その声の間も、百年前は進む。ユリアがカレンを救う。胸を貫いた槍を、自分へ移す。
カレンの中から、二人で初めて剣を買った日の記憶が消える。ユリアがニルダを救う。
白夜に焼かれた目を受け取る。ニルダは、ユリアから文字を教わった日を失う。ユリアがマーヤを救う。
凍った心臓を引き受ける。マーヤは、ユリアと同じ寝台で朝を待った冬を忘れる。一度ではない。何度も。
救うたび、三人の中からユリアが減る。ユリアは笑い続けた。
『また自己紹介すればいい』
百年前の声が聞こえる。
『何度でも友達になれるよ』
私と同じことを言う。ミナの手が、担架の横木を強く握った。アデルは目をそらさない。
シエナは日記へ書かない。今は、見る。最後の戦い。王都の暁鐘の下。
ユリアは三人へ何かを話している。音は残っていない。
三人が首を振る。泣きながら、ユリアの腕をつかむ。ユリアは笑った。
その手を一人ずつ外す。灯替えを使う。三人から、最後の記憶が消えた。ユリアが無名になる。
白夜を体へ入れる。鐘が鳴る。
王国に朝が戻る。
「成功した」
ミナが言う。
「記録には、失敗と」
「封印は成功した」
シエナが百年前の光を見る。
「でも、百年後に白夜が戻った」
無名の器は、最長百年。記録にあったとおり。百年後の今、また私へ同じことをさせる。そのための制度。
そのための暁鐘院。記憶の中のユリアは、鐘の下へ運ばれた。
歩いている。
生きている。
カレンが前を横切る。気づかない。
ニルダが記録板を持って通る。見ない。マーヤがユリアの傷を診る。
他人へする顔で、脈を取る。
『名は?』
聞かれる。ユリアは答えない。答えられない。
自分の名を、自分のものだと分からない。地下の鐘室へ入れられる。扉が閉まる。その前に、一度だけ振り返った。
三人はもう、そこにいなかった。ユリアは笑わなかった。
初めて。百年前の光が消える。王墓へ戻った。
私は息ができなかった。胸の傷のせいではない。あれが未来だ。三人に忘れられる。
名前をなくす。知らない人として脈を取られる。
地下へ置かれる。誰にも呼ばれない。
「怖い」
声にした。三人が私を見る。
「ああなるのが、怖い」
笑わなかった。軽くしなかった。
「一人になりたくない」
アデルが担架の横へ膝をついた。触れる前に、一度手を止める。
「触っていいか」
「うん」
手を握られる。ミナも反対側。シエナは私の肩へ触れた。
「今はいる」
シエナが言う。永遠とは言わない。
「ユリアの名も、今は四人が知ってる」
ミナが空の台座を見る。
「レオナさんも」
「五人だ」
レオナさんが訂正する。
「告発状の次は、この名を写す。消せない数まで」
ユリア・アステル。冬の魔女ではない。国を救うたび、愛する三人から忘れられた灯守。
私と同じ術を持った人。私が進んでいる道の、終わりにいた人。名を呼ばれた王墓の奥で、白い霜がもう一度集まった。今度は、顔がある。
ユリアが私を見た。少しだけ笑う。
『やっと、呼んだ』
声が聞こえた。私にだけ。