名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
『やっと、呼んだ』
ユリアが笑った。王墓が消えた。三人の手も。担架も。
胸の痛みも。私は白い場所へ立っていた。
立っている。左脚は折れていない。息も深く吸える。
両手の指も動く。
「夢?」
『記憶の底』
ユリアは私の前にいる。石へ残った姿より、少し幼く見えた。黒い髪を一本に結び、白い服の袖を肘までまくっている。灯守というより、洗濯の途中で出てきた宿屋の娘みたいだ。
「私は寝てる?」
『起きている。外では、三人があなたを呼んでる』
聞こえない。胸の糸も感じない。
「戻して」
『まだ来たばかり』
「話なら外で」
『三人がいるところでは、あなたは本当のことを言えない』
「最近は言ってる」
『半分』
腹が立つ。会って一分の人に言われたくない。
「私のこと、知ってるの?」
『あなたが灯替えを使うたび、見ていた』
白い空間へ、景色が浮かぶ。熱を出したミナの手。
泣くアデルの膝。目が見えなくなったシエナ。十年前。
私が三人へ初めて灯替えを使った夜。
『あなたの術は、私の残り火』
「もらった覚えはない」
『白夜に触れた者の中で、器になれる子へ宿る』
「ほかにもいる?」
『いた。でも三つの錨を持つ者は少ない』
誰かを深く覚え、深く覚えられている。それが器の条件。ひどい仕組みだ。一人では使えない術ではない。
一人でない人ほど、使ったときに失う。
『あなたは私によく似ている』
「料理の腕も?」
『私のほうが上手』
「そこは認めません」
ユリアの口元が少し上がる。冗談へ反応した。嬉しいとは思わなかった。今は、笑わせたい相手ではない。
「どうして白夜になったの」
正面から聞く。
『私がなったわけではない』
「記録では、傷が白夜の霧へ変わって器にたまる」
『そう』
「百年たって、あふれた?」
『それもある』
「ほかは」
ユリアが自分の胸へ手を当てる。
『忘れられたくないと思った』
簡単な答えだった。
『名前が消えたあとも、ここだけが残った』
胸の中心。
『痛みも、喜びも、三人を愛したことも薄れた。でも、忘れられたくないという形だけが、空っぽの器へ残った』
中身のない望み。誰に覚えてほしかったかも分からない。それでも呼ばれないことだけが苦しい。
『百年、誰も私の名を呼ばなかった』
その苦しみが、鐘の封印から漏れた。白夜になった。人から、大切な人の記憶を奪う霧。
「三人を憎んだ?」
『いいえ』
答えは速い。
『憎むには、覚えていなさすぎた』
「王国は?」
『分からない』
「じゃあ、どうして人を凍らせるの」
『冬は、誰かを選ばない』
ユリアの残響は、もう人の意志ではない。空っぽへ残った願いが、世界を同じ形にする。忘れられる痛みを、全員へ。
「止めたい」
『止められる』
白い場所へ、王都の暁鐘が現れた。四つの鐘。その下に、私がいる。
傷のない体。白い服。名前がない。
『あなたが代われば』
未来の私は、鐘の下へ座っている。三人が前を通る。アデルは騎士の外套。
ミナは治癒院の鞄。シエナはたくさんの日記を抱えている。誰も私を見ない。私は三人を見ても、何も感じない。
痛くない。
『これで終わる』
ユリアが言う。
『期待しなければ、失望しない』
未来のアデルが、別の誰かと笑う。胸は痛まない。
『覚えてほしいと思わなければ、忘れられても苦しくない』
ミナが私の前で、パンを四枚に分ける。三人と、知らない誰かへ。
私は欲しいと思わない。
『帰りたい場所がなければ、帰れなくても平気』
シエナが日記を燃やす。もう必要がないから。
私は止めない。何も感じない。
「平気は禁止」
言ってみた。ユリアは笑わなかった。
『あなたは疲れている』
「うん」
『痛い』
「うん」
『三人があなたを忘れるたび、一人で覚えている』
「うん」
『これから、もっと失う』
「知ってる」
『最後には、あなたが誰を救ったかも、三人は知らない』
「知ってる」
『感謝されない』
その言葉で、胸が動いた。
「感謝してほしくて助けるんじゃない」
『本当に?』
白い場所へ、私の記憶が並ぶ。ミナが姉ちゃんと呼ぶ。
アデルが私を目標に剣を持つ。シエナが私の冗談だけに反応する。必要とされる私。
役に立つ私。だから四人の中へいられると思っていた私。
『忘れられれば、証明し続けなくていい』
朝麦亭の食卓。三人分のパンを置く。自分の分は最後。
役に立つ前に座ることができない。
『何もできないあなたが、必要ないと分かるのが怖いのでしょう』
第24話で、私が言ったこと。
ユリアも聞いていた。
『名前をなくせば、必要とされたいとも思わない』
楽だ。思ってしまった。三人が私を忘れれば。
私も三人へ帰りたいと思わなくなれば。もう選ばなくていい。誰かが傷つくたび、自分の価値を確かめなくていい。怒られない。
嫌われない。期待しなければ、失望しない。
何も望まなければ、叶わなくても痛くない。
『楽でしょう』
「うん」
答えた。嘘をつかなかった。
「少し、安心した」
ユリアが手を差し出す。細い指。
触れれば、痛みがなくなる。王都へ行く前に、器になれるのかもしれない。そうすればアルノーさんに閉じ込められても、怖いと思わない。
村は救える。三人は生きる。私が忘れられても、三人は悲しまない。私も。
「嫌だ」
手を取らなかった。安心した。それでも嫌だ。
『なぜ』
「痛いのは嫌。怒られるのも、忘れられるのも嫌」
未来の三人を見る。私を知らない。私も何も感じない。
「でも、ミナのパンがほしい」
『意味を失う』
「今は意味がある」
「アデルが剣を持つ理由を、また一緒に探したい」
『忘れる』
「今は覚えてる」
「シエナに日記を読んでほしい。私の都合の悪いところまで」
『言葉へ気持ちは戻らない』
「新しい気持ちは作れる」
シエナが、舟小屋へ来た。昔の笑いを覚えていなくても。アデルが、事実だけを選んで私の名を呼んだ。ミナが、忘れた約束ではなく今のパンを半分くれた。
なくなったものは戻らない。だから、なくなっていいわけではない。
「私は期待する」
怖い。
「三人が、記憶がなくても私を選んでくれるかもしれないって」
『選ばないかもしれない』
「うん」
それがいちばん怖い。日記を読んでも。
四つの杯を見ても。私がいたと信じても。今の私を好きにならないかもしれない。
「そのときは、痛いと思う」
『痛くない道がある』
「知ってる」
「でも、痛くない私じゃなくて、痛いと思う私でいたい」
格好いいことを言いたいわけではない。痛みは好きじゃない。
できれば一生、転ばず、殴られず、玉ねぎも切らずに生きたい。でも痛みだけを消すために、ほしいものまでなくすのは違う。
「私、帰りたい」
朝麦亭へ。四人の食卓へ。
役に立たない日も。怒られている日も。
「忘れられたくない」
今の私が望んでいる。未来の私が望まなくなるからといって、今の望みを捨てたくない。
ユリアは手を下ろした。
『私も、そう言った』
初めて、声が揺れた。
「誰に?」
『三人へ』
百年前。最後の灯替えの前。
『忘れないで、と頼んだ』
「三人は?」
『忘れないと約束した』
でも灯替えは、意思を聞かない。約束ごと燃やした。
『最後には、私の前を通り過ぎた』
「ユリアは後悔した?」
『後悔する私が、いなくなった』
だから今、残響だけが答える。ユリア本人の気持ちは、もうどこにもない。
『それが救いだったと思う』
「本当に?」
ユリアが黙る。
「救いだったなら、どうして白夜になったの」
忘れられたくない。
その形だけが百年残った。痛くないはずの器が、世界を凍らせるほど痛みを残した。
「なくした気持ちは、消えたことにならない」
私の言葉か、シエナの言葉か分からない。ずっと一緒にいると、言葉も混ざる。それでいい。
『あなたも最後には選ぶ』
ユリアが言う。
『三人の命と、あなたの名を』
「そのとき、考える」
『間に合わない』
「一人で考えない」
『三人は使うなと言う』
「たぶん」
『あなたは使う』
否定できない。未来を知っているみたいに言われる。
「それでも、今から無名にはならない」
ユリアの後ろへ、氷の扉が現れた。中に、金色の火がある。第四火種。
『これを取れば、王都の鐘へ道がつながる』
「開けて」
『取る資格を示して』
「何をすれば?」
氷の向こうで、影が動く。三人。
カレン。ニルダ。マーヤ。
百年前の錨。白夜の獣へ変わり、火種を守っている。
『私を忘れた三人を、もう一度殺して』
「嫌」
『残響よ。本人ではない』
「それでも、嫌」
『では火種は渡せない』
白い場所が崩れる。三人の声が聞こえた。フィア。戻って。
今度は、はっきり。
「戻る」
私は答えた。
「三人と戦い方を考える」
ユリアの顔が遠くなる。
『あなたは、いつまで四人でいられる?』
「今は」
シエナの言葉を借りる。
「今は、四人」
*
王墓へ戻る。息を吸った。胸が痛む。
ミナが私の手を握っている。アデルが名を呼んでいる。シエナの顔が近い。
「何分?」
「一分」
シエナが答えた。長い時間に感じた。
「ユリアと話した」
一時間以内。忘れないうちに、全部話す。無名になれば楽だと言われたこと。
少し安心したこと。それでも拒んだこと。第四火種の前に、ユリアの三人がいること。
「安心した?」
ミナの声が小さい。
「うん」
ごまかさない。
「三人が私を忘れたあとなら、もう三人を失うのが怖くなくなる。私も痛くない。そう思ったら、少しだけ」
アデルの手が離れそうになる。離れなかった。
「それでも帰った」
シエナが言う。
「うん」
「なぜ」
「三人に、まだ期待してるから」
「何を?」
「忘れても、もう一回私を選んでくれるかもしれないって」
三人は約束しなかった。できない約束だ。私も求めなかった。
「期待してる」
それだけ、もう一度言う。忘れられれば痛くない。
でも今は、痛いまま三人の手を離したくなかった。