名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
国を守る方法は、人数で決めるらしい。王都、二十三万人。北部切り捨て区域、四万八千人。
西部、三万二千人。東部、二万一千人。全部足しても王都より少ない。だから外側から冬へ沈める。
「算数としては分かりやすいね」
王墓の地図を見ながら言った。誰も返事をしない。
「分かりやすいだけで、納得はしてないよ」
言い足す。
「分かってる」
ミナが答えた。心配そうに見られたから、笑いそうになった。やめた。今は、冗談で薄くする場面ではない。
リーネ村は地図の北端にある。家が六十七軒。
人口は二百四十一人。王都の通り一本より少ない。朝麦亭。
母さん。ダン。パン窯。川沿いの畑。
ネネの墓。地図では、小さな黒い点だ。
『封鎖区域』
一つの言葉で足りる。地図の横に、別の紙があった。
『北部第三線以遠・資産処理予定』
人ではなく、資産。家畜、穀物、鉱山道具、冬越し用の薪。どれを第三線の内側へ運び、どれを残すかが細かく書かれている。羊は二千百頭。
馬は八百四十六頭。人間は、労働可能者一万三千。
「避難させる予定があった?」
数字を指す。
「人の項目がある」
少し期待した。レオナさんは続きを読み、首を振った。
「第三線内へ移送するのは、鉱山技師、術式師、軍属とその家族。ほかは現地待機」
「現地待機って?」
ミナが聞く。
「避難させない」
アデルの声が硬くなる。
「混乱を防ぐため、白夜流入の事実も知らせない」
知らないまま、朝を待つ。荷造りも。別れも。
逃げる道を探すこともできない。
「技師だけ運ぶ」
トール山で助けた三人を思い出す。あの人たちなら、選ばれた側になるかもしれない。でも妻や子が軍の決めた家族に入らなければ、置いていく。
「人を役に立つ順へ並べてる」
自分の言葉が、胸へ刺さった。役に立つ人を先に。
動ける人。救える人数。私はずっと、似た順番を使ってきた。
違うと言いたい。私は守るため。王都も、守るためだと言う。
「同じ?」
口から出た。
「何が」
アデルが聞く。
「私と、この計画」
三人へ説明しない。選ばせない。生き残る結果だけを渡す。
「同じところはある」
シエナが答えた。否定してくれない。
「でも、違うところもある」
「どこ?」
「フィアは、同じことをしたと認めて変わろうとしてる」
「まだ破ってる」
「うん」
「王都も、あとから認めれば」
「死んだ人は戻らない」
ミナが言う。
「だから今、止める」
優しい言葉ではなかった。正しい。私が変わろうとしているから、今までが許されるわけではない。王都も、あとで謝る予定を作れば人を凍らせていいわけではない。
「この計画を書いた人は、北部を見たことがあるのかな」
ミナが資産表をめくる。
「人の名前が一つもない」
「集計に名前は不要だ」
レオナさんが言う。
「私も監察報告では人数を書いた。任務の損失見込み。保護対象。搬送不能者」
「レオナさんも?」
「制度の中にいた」
自分だけを例外にしない。
「だから告発すれば終わりではない。私が何を見ずにいたかも証言する」
紙の数字を見る。四万八千。大きすぎて、顔にできない。
私はリーネの二百四十一人から始めた。母さん。ダン。ハロルド爺さん。
一人ずつ思い出す。その向こうにも、四万七千人分の名前がある。
知らないから、少なくしていいわけではない。全員を一度に思うことはできない。だからせめて、数字だけで選ばない。
「この命令は、いつ出た?」
アデルが聞く。レオナさんは暁鐘院から持ち出した記録を調べている。
「日付は十二日前。フィアたちがミレイスへ着く前だ」
「火種が集まる前から?」
「集まらない場合に備えた予備計画ではない」
シエナが別の頁を出す。
「四火種を回収しても、地方流入は止めないとある」
「どうして」
ミナの声が小さくなる。
「王都の鐘を完全に回復させるには、無名の器が必要だから」
レオナさんが私を見る。
「火種だけでは、白夜を一時的に散らすことしかできない。院はフィアの錨がすべて消えるまで、地方へ時間を稼がせるつもりだ」
時間。四万八千人分。私が三人から忘れられるまで。
「急げば?」
私は地図へ近づく。担架を寄せてもらった。
「王都へ行って、鐘の内側の封印を壊す。四つの火種を入れる。無名になる前でも、一時的には白夜を弱められるんでしょ」
「可能性はある」
「その間に村を逃がせる」
「誰が知らせる」
アデルの指が、王都とリーネの距離を測る。
「王都まで六日。封印を破る時間は不明。そこから北部へ命令が届くまで最短四日」
「十日」
「白夜本体がリーネへ着く予測は」
シエナが床の光を読む。
「七日から九日」
間に合わない。
「北部騎士団へ知らせる」
「第三線の封鎖準備を命じられている。区域から出る者を止める側」
「告発状を受け取った人たちは?」
「法務院は記録を押さえた。だが軍の命令を止める権限はない。王太子府は沈黙している」
王国は大きい。大きいと、悪いことが分かっても、止めるまでにたくさん紙が必要になる。白夜は紙を待たない。王墓の入口で、馬の音がした。
全員が武器へ手を伸ばす。私は右手の火種へ触れた。
「使うかもしれない」
先に言う。
「待って」
シエナが耳を澄ます。
「一頭。騎士団の呼び笛」
レオナさんが入口へ向かった。すぐ、一人の女性を連れて戻る。
短い茶髪。北部騎士団の外套。右腕に矢傷がある。
「デナ曹長」
アデルが知っていた。
「騎士候補の試験官」
「今は候補を迎えに来たんじゃない」
デナさんは息を整え、封書をレオナさんへ渡す。
「王命だ」
赤い封蝋。王冠と暁鐘の紋。レオナさんが開く。顔が変わらない。
だから、悪い内容だと分かった。
「読んで」
私が言う。
「全文?」
シエナが確認する。
「全部」
レオナさんは紙を広げた。
『元暁鐘院監察官レオナ・ハルトは、国家機密窃取、灯守候補誘拐、王命への武装抵抗により、反逆者と認定する』
「誘拐された覚えはありません」
私は手を上げた。
「記録する」
シエナが書く。
『同行するアデル・クロウ、ミナ・フェル、シエナ・ヴァルカも同罪。ただし灯守候補フィア・ルーメルおよび四火種を王都へ引き渡した場合、四名の罪は問わない』
「四名?」
ミナが数える。
「レオナさんと三人。私を渡せば」
「フィアは罪を問う対象ではない」
デナさんが言う。
「物だから?」
自分で言った。少し痛い。
「候補は王国の保護対象だ」
「言い方が違うだけ」
『冬至防衛計画を妨害する者は、北部四万八千の住民と王都二十三万の生命を危険へさらすものとする』
数字。私たちが悪い側になる。王都へ行かず、村へ戻れば。四つの火種を鐘へ入れなければ。
二十三万人を見捨てる反逆者。
「王都は、地方を見捨ててる」
ミナが言う。
「先に」
「先かどうかで、人が死んでいいことにはならない」
デナさんは疲れた顔で頷いた。
「だから来た」
外套の内側から、もう一枚の地図を出す。北部第三線。封鎖門。
騎士の配置。
「私は、この命令に従えない」
「曹長も反逆者になる」
アデルが言う。
「明日の朝には」
デナさんは肩をすくめた。
「今夜、第三線の西門を一刻だけ空ける。北へ行くなら通れる」
「第三線では、何が起きてる?」
レオナさんが聞く。
「柵を二重にした。北から来た荷車を止めている」
「もう避難民が?」
「計画を知らなくても、白夜を見れば逃げる。昨日だけで百七十人。公式には『検疫待ち』だ」
「食べ物は?」
ミナ。
「二日分」
「そのあと」
「王都から補給指示はない」
デナさんは外套の留め具を外す。内側から、折り畳んだ紙が何枚も出た。検疫待ちの人たちの名簿。
名前。年齢。出身村。
「私たちが勝手に記録した」
一枚目。炭焼きの夫婦。二枚目。
鉱山町の子ども六人。三枚目。白夜病の老人。四万八千より、ずっと少ない。
でも、一人の形がある。
「王命へ従う騎士も、全員が計画を知っているわけじゃない」
デナさんが言う。
「封鎖は白夜病の拡大を防ぐためだと聞かされている。私も昨日までそう思っていた」
「どうして知ったの?」
「この命令書を運んだ伝令が、酒場で漏らした」
デナさんの右腕の矢傷を見る。
「殴った?」
「一発」
「矢傷は?」
「仲間に止められた」
なかなか激しい一発だったらしい。
「そのあと命令書を奪って逃げた。今の私は、正式には脱走兵だ」
「反逆者が増えた」
「私はまだ曹長」
「肩書きは大事?」
「部下へ門を開けさせるまでは」
そのあと失うつもりでいる。職も。居場所も。
「怖い?」
聞いた。
「怖い」
デナさんはすぐ答えた。
「王命へ従えば、明日も曹長でいられる。従わなければ、部下に斬られるかもしれない」
「それでも?」
「私の妹が第三線の北にいる」
個人的な理由。正しさだけではない。
「妹がいなければ、計画を読んでも迷ったかもしれない」
デナさんは名簿を握る。
「だから立派な理由にはしない。私は自分の家族を助けたい。そのために、ほかの家族も門へ通す」
私と同じ。村が自分の家だから助けたい。身勝手さを隠さず、それでも行動する。
「立派じゃなくても、門は開く」
私が言う。
「そう思う」
デナさんは頷いた。
「村へ知らせた?」
「伝令を二人送った。一人は戻らない。もう一人は白夜へ入った」
届いたか分からない。
「王都へ行くなら、南門まで案内する。今はまだ、レオナ以外の顔は全隊へ回っていない」
二つの道が、地図にできた。南。王都。二十三万人。
暁鐘。北。
リーネ村。二百四十一人。母さん。
「どちらでも、全員は助からないかもしれない」
デナさんが言った。その言葉を、十年前にも聞きたかった。
全部できると決めつけなくていい。選べないことを、一人で選ばなくていい。
「王都の計画を止めるには?」
レオナさんが聞く。
「中央鐘室を開き、地方流入の術式を切る。王命か、暁鐘院長の印か、四火種を持つ灯守本人の接続」
「フィアで開ける」
「無名化の処置が始まる」
「途中で止める」
「できる保証はない」
「村を先に避難させてから王都へ向かう時間は?」
「ない」
デナさんの答えは速かった。
「北へ戻れば、北鐘が止まるまでに王都へは着かない」
王都か。村か。今度は、本当に両方を選べない。
胸の奥へ、ネネの声が戻る。どちらを先にする?私は口を開こうとした。いつもの答えが出る。
人数が多いほう。急いでいるほう。
私が傷つけば助けられるほう。
「今は決めない」
先にアデルが言った。
「一時間」
シエナが日記を開く。
「全員で、知っていることと望むことを分ける」
「望むこと?」
私が聞く。
「フィアは、どちらへ行きたい?」
答えが出なかった。正しいほうではなく。助かる人数でもなく。
私が行きたいほう。
「考えたことない」
「今、考える」
レオナさんが王命を火へ入れた。デナさんが目を見開く。
「それ、原本」
「覚えた」
赤い封蝋が燃える。反逆者と書いた文字も。
「私は、北部を白夜へ流す王命へ従わない」
レオナさんは火を見ていた。
「王国を守るために、王命へ逆らう」
「反逆を認める?」
デナさんが聞く。
「法を破る王命へ従わないのは、私の仕事だ」
暁鐘院の紋章を外したときより、声が静かだった。レオナ・ハルトは反逆者になった。
私たちも、とっくに同じだ。王墓の外では、日が落ちる。デナさんが西門を開けられるのは、今夜一刻。
南へ行くなら、今すぐ。北へ行くなら、今夜。どちらにも朝はない。王都が、朝を止めたから。