名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
旅の初日に分かったことが三つある。
王都の馬車は、見た目よりよく揺れる。アデルは日記を書くとき、声まで小さくなる。それからミナは、自分のぶんの蜂蜜を半日で使い切る。
「もうない」
水筒へ薬湯を注いだミナが、深刻な顔で瓶を逆さにした。朝麦亭を出て、まだ半日である。
「世界の終わりみたいな顔をしないで」
「私の薬湯が苦い」
「世界より大事?」
「飲むのは私だもん」
馬車の向かいでは、シエナが日記を開いていた。表紙の内側に日付と天気。次の頁には、朝から誰が何を言ったかが細かい字で並んでいる。私がくしゃみを二回したことまで書いてあった。
「そこ、必要?」
「必要かどうかは、あとで決める」
「私のくしゃみに歴史的な価値が出るかな」
「三回目」
言われた直後に、また出た。シエナが一本、線を足す。どうやら価値があるらしい。
右隣では、アデルが膝の上で紙と戦っていた。筆を握り、眉間へ皺を寄せ、一行書いては消している。
「日記って、敵と同じ顔で書くもの?」
「黙れ」
「何を書いてるの」
「見るな」
「見ませんよ。読める字なら」
肘で押された。凍傷へ当たって、思わず息が止まる。小さな動きだったはずなのに、アデルはすぐ気づいた。
「悪い」
「何が?」
「腕」
「ああ。平気」
言ってから、シエナの筆が止まった。昨日、大丈夫という言葉は使わないよう気をつけようと思った。思っただけで、約束はしていない。だから違反ではない。
「今のは平気です」
「ほかの平気があるみたいな言い方」
ミナまでこちらを見る。
「皆、私を監視しすぎじゃない?」
「信用がないから」
シエナの返事は速かった。まだ根に持っているらしい。馬車が石を踏み、大きく跳ねる。天井へ頭をぶつけかけ、アデルの手が額の前へ差し込まれた。代わりに手の甲が板へ当たる。
「痛くない?」
「これくらい」
「それを平気って言うんでしょう」
「私はいい」
ずるい。守る側は皆、同じ言葉を使うくせに、私へだけ禁止する。
「アデルの手も書いておいて」
「書いた」
シエナが日記を見せた。
『アデル、フィアの頭をかばい、右手を天井へぶつける。腫れなし』
本当に全部書くつもりだ。
「お前も書け」
アデルが白紙を一枚よこした。
「私は覚えてるから」
「忘れない保証はない」
返せなかった。私が忘れることは、考えていなかった。灯替えは相手の記憶を燃やす。使った私の側は覚えている。十年前から、それだけは変わらない。
でも白夜そのものには、大切な人の記憶を奪う力がある。火種へ触れられるからといって、最後まで無事とは限らない。三人を覚えていられなくなる。想像した途端、喉が狭くなった。
「フィア?」
ミナが顔をのぞき込む。
「私も日記、必要かなって」
「書こう。あとで四冊並べようね」
「五冊」
シエナが訂正した。旅のために買ったのは五冊。シエナ、アデル、ミナ、私。最後の一冊は予備だ。
「五冊目は誰が書くの?」
「誰かが失くしたとき」
三人の視線が私へ集まった。
「どうして私を見るの」
「一番失くすから」
「私は荷物を失くしたことありません」
「去年、買い出しの金」
「宿に置いただけ」
「おととし、村長への手紙」
「鞄の底にありました」
「三年前、ミナ」
「人を荷物に入れないで」
あれは祭りの人混みで、ミナとはぐれただけだ。本人は菓子屋の前で食べ比べをしていた。失くしたのは私ではなく、むしろミナが私たちを失くしたのである。
「はい、決定。予備はフィア」
ミナが瓶の底に残った蜂蜜を指で取りながら言った。四人で笑う。私は新しい日記を開いた。最初の頁へ、今日の日付を書く。
四人で村を出て、一日目。その下へ三人の名前を並べた。
アデル。ミナ。シエナ。自分の名も書こうとして、筆が止まる。書かなくても、これは私の日記だ。
でも、もし忘れたら。最後に、フィア、と足した。
*
古砦へ向かう分岐には、昼を少し過ぎて着いた。回収隊は五人だった。濃紺の外套が三人。騎士が一人。いちばん前には、背の高い女性が立っている。短い栗色の髪に、日に焼けた肌。左目の上から頬へ、細い傷が一本走っていた。
「レオナ・ハルトだ」
挨拶も短い。握手を求められたので手を出す。包帯を見たレオナさんは、触れる直前で止まった。
「季節外れの白夜へ接触した傷か」
「はい。少し冷えまして」
「少し」
「少し多めに」
ミナが横から口を挟む。
「両手から胸まで凍傷。昨日は半日、意識がありませんでした」
「元気になったばかりの人を売らないで」
「売ってない。伝えてるの」
レオナさんの眉が上がる。
「報告には、村人一名の凍結を引き受けたとある。どうやった」
「触って、名前を呼びました」
「術式は」
「身体の中にあるみたいです」
「代償は」
同じことを聞かれた。シエナが私を見る。
「この傷です」
嘘ではない。全部でもない。レオナさんはしばらく黙っていた。人の嘘を数える仕事でもしているような目だ。
「歩けるか」
「走れます」
「歩けるかと聞いた」
「はい」
「では馬車を降りろ。古砦までは徒歩だ」
荷を背負い、隊列を組む。先頭は王都の斥候。次に騎士、レオナさん、私。後ろにミナとシエナ。アデルは最後尾を命じられた。
「待ってください」
アデルがすぐ異議を出した。
「フィアの隣へ」
「お前の任務は護衛か」
「そうです」
「なら最後尾だ。背後を守れ」
「ですが」
「候補生」
たった一言で、アデルの背が固くなる。レオナさんはフィアだけではなく、全員の使い方を決める人らしい。私はアデルへ手を振った。
「後ろはお願いします。私、背中に目がないから」
「前にも十分あるようには見えない」
「失礼な。二つあります」
「数の話じゃない」
アデルは不満そうなまま、最後尾へ下がった。街道を外れると、道はすぐ細くなった。雪の重みで枝が垂れ、靴の下には凍った落ち葉。北から吹く風が包帯を通って指へ刺さる。
歩ける。痛いけれど、遅れてはいない。それなら問題ない。
「顔色」
レオナさんが前を向いたまま言った。
「何か?」
「悪い」
「生まれつきです」
「昨日より?」
「昨日の顔は見てないでしょう」
「報告書にある」
顔色まで報告されているらしい。王都の仕事は細かい。
「休憩を」
「まだ歩けます」
「歩けなくなってから休むのは休憩ではない。救助だ」
隊が止まる。私一人のために。
後ろから追いついたアデルが、荷を勝手に奪った。
「自分で持てます」
「知ってる」
「なら返して」
「持てることと、持つべきことは違う」
誰に教わったのだろう。たぶん母さんだ。
ミナが包帯の上から治癒の光を流す。白い光は皮膚へ触れたところで弾かれ、細い火花になった。
「また」
唇を噛む。
「治らない?」
「表面だけ。中の冷たさに届かない」
「灯守の傷は通常の治癒を拒む」
レオナさんが言った。
「百年前の記録と同じだ」
「その人はどうなったんです?」
シエナの問いに、レオナさんは答えなかった。答えたくないのではなく、知らない顔だった。
「記録が欠けている。最後の灯守について残るのは、四つの火種を集めたことと、冬の魔女へ堕ちたことだけだ」
「どうして魔女に?」
「分からない。名も消されている」
名も。指先が冷える。凍傷のせいだ。
「まあ、百年前の人がどうなったかより、いまの私たちでしょう」
明るく言って立ち上がる。アデルは荷を返さない。取り返そうとしたら、頭ひとつぶん高いところへ持ち上げられた。
「子どもじゃないんだから」
「なら諦めろ」
「大人は話し合います」
「話した。私が持つ」
決定だった。私は守られるのが嫌いではない。
本当だ。雨の日に外套をかけてもらえばうれしい。疲れたときに荷を持ってもらえば助かる。自分のために誰かが動いてくれると、胸の奥が少し温かくなる。ただ、その温かさを信じるのが怖い。
ネネにも、守ると言った。守れなかった。だから温かくなる前に、自分の足で立っておきたい。
「次の休憩で返してね」
「考える」
「返さない人の言い方だ」
アデルが少し笑った。それで十分な気がした。
*
白夜獣は、古砦まで半日の谷で待っていた。最初に匂いが来た。雪の下から古い鉄を掘り出したような、冷たく錆びた匂い。斥候が手を上げる。
「霧だ」
谷底に、白いものが溜まっている。風に流されない。水みたいに低い場所を満たし、その中で黒い影が四つ動いた。狼に似ている。
ただし足が六本あり、頭の代わりに空洞が開いていた。空洞の奥で、青白い灯が揺れている。
「白夜獣。灯を壊せ!」
レオナさんの声で隊が広がる。王都の術式師が火の輪を投げた。一頭の背へ当たり、白い毛が燃える。騎士の槍が二頭目を止める。私は剣を持っていない。
灯魔法は使えるけれど、両手の感覚が鈍い。術式を結べば失敗する。
「フィアは後ろ!」
アデルが私の前へ出た。盾を構え、白夜獣の爪を受ける。金属に霜が走った。二撃目を剣で払い、首の空洞へ突き込む。青白い灯が砕けた。
速い。格好いい。昔は私の後ろに隠れていたなんて、もう言えない。
「左!」
シエナの氷槍が飛ぶ。アデルの左から跳んだ一頭を貫き、地面へ縫い止めた。ミナが後方から光の膜を広げ、霧を押し返す。三人とも、自分の役目を果たしている。
なら私は何をする。前へ出ない。邪魔をしない。
待つ。
簡単なはずなのに、身体が落ち着かなかった。斥候が谷の上を指す。
「もう一頭!」
岩壁の上。大きい。
馬ほどある白夜獣が、こちらではなく後衛を見ていた。ミナ。影が跳ぶ。
「下がって!」
考える前に走った。後ろへいろと言われた。
分かっている。でもミナまでの距離は私のほうが近い。身体をぶつけ、ミナを押し倒す。
白い爪が背へ落ちる。来る。衝撃を待った。来なかった。
金属が砕ける音。アデルの盾が、頭上で爪を受けていた。
「どけ!」
怒鳴られる。その顔を見た瞬間、動けなくなった。アデルの右肩へ爪が食い込み、外套が白く凍っていく。
「アデル!」
手を伸ばした。
「触るな!」
叫びと同時に、盾で獣を押し返す。シエナの火線が空洞を貫き、レオナさんの剣が灯を断った。獣が白い灰になって崩れる。
戦いは終わった。アデルが膝をつく。肩から血が流れている。傷の縁へ霜が広がり、首へ向かっていた。
「ミナ」
「いま治す!」
ミナの手が傷へ光を流す。血は止まる。けれど霜は止まらない。白夜の呪い。私なら引ける。
手を伸ばす。アデルがその手首をつかんだ。
「何をする気だ」
「呪いを取る」
「ミナが治してる」
「霜は残ってる」
「だからって、お前が」
声が途切れた。霜が顎へ届く。時間がない。
「名前を呼ぶよ」
「やめろ」
「アデル」
「やめろ、フィア!」
拒まれた。十年前は、三人とも意識がなかった。昨日のミナも。起きている相手に、やめろと言われたのは初めてだった。
手が止まる。アデルの命。アデルの記憶。どちらを選ぶか。
選ぶのは誰だろう。
「フィア、離れて」
シエナが言った。
「霜止めの術式を試す」
「間に合う?」
「分からない」
分からない。
怖い。
また遅れるかもしれない。
「大丈夫だ」
アデルが苦しそうに笑った。
「私を信じろ」
私がいつも言う側だった。大丈夫。
信じて。任せて。そう言って三人の前へ立ってきた。
いまは逆だ。信じなければいけない。
「……分かった」
手を引いた。シエナが術式を描く。ミナが血を止め、レオナさんが白夜の灰から核片を拾って霜へ当てる。一秒が長い。
霜が首を越えたら、私は使う。顎の下。止まった。青白い光が揺れ、少しずつ肩へ戻っていく。
アデルが息を吐いた。
生きている。
私はその場へ座り込んだ。立っていられなかった。
「成功」
シエナの声がした。
「……上出来」
返した声が震えていた。アデルが傷のないほうの手を伸ばす。
「フィア」
「なに?」
「勝手に前へ出るな」
「ミナが危なかった」
「私が間に合った」
「間に合わなかったら」
「お前が傷ついた」
「私は引き受けられる」
「引き受けるな!」
谷へ声が響いた。皆がこちらを見る。アデルは気にしなかった。私の外套をつかみ、引き寄せる。
「私は、お前の代わりになるために強くなったんじゃない。お前と並ぶためだ」
その言葉を、前にも聞いた気がした。いつだっただろう。
木剣。二人で削った、曲がった木剣。アデルは覚えているだろうか。
尋ねたかった。今はまだ怖かった。
「じゃあ、並んでね」
代わりに言った。
「私より前へ出るのは禁止」
「お前もだ」
「二人とも前に出なかったら、誰が戦うの」
「横だ」
アデルが隣の地面を叩いた。
「守る順番を、勝手に決めるな」
答えられなかった。守る順番なら、十年前に決めた。三人が先。私はあと。
ネネは――間に合わなかった。その順番を変えるのが、怖い。
それでも私は、アデルの隣へ座った。肩が触れる。温かい。
記憶は消えていない。今日は誰も、私を忘れなかった。それだけで、泣きたくなるほど安心した。
「少し休んだら行こう」
レオナさんが言う。
「古砦は谷の先だ。日没前に入る」
岩壁の向こうに、黒い塔が見えた。第一の火種。
まだ遠い。私は日記を開き、震える指で一行書いた。アデルを信じた。
誰も忘れなかった。