名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

30 / 39
朝麦亭の空席

リーネ村へ着いた。最初に見えたのは、朝麦亭の煙突だった。煙が出ている。

 窯が生きている。

 

「残ってる」

 荷馬車の寝台から身を起こした。胸が痛い。ミナに押し戻される。

 

「見る」

 

「寝たまま見えるよ」

 

「ちゃんと」

 幌の隙間へ顔を向ける。石垣。北柵。粉ひき小屋。

 教会の小さな鐘。知っているものが、一つずつ戻ってくる。

 全部、白い霜をかぶっていた。季節の霜ではない。白夜の先触れ。

 畑の端へ触れ、道標の文字を半分消している。村の北では、昼なのに空が白い。間に合った。まだ。

 

「人がいない」

 アデルが御者台から通りを見る。家々の戸は開いている。荷物が外へ積まれている。

 でも、声がない。

 

「避難してる?」

 ミナが立ち上がる。教会の鐘が三回鳴った。村の広場から、人が走ってきた。

 

 一人。

 二人。十人。

 鍋や毛布を持ったまま。

 

「フィア!」

 誰かが叫ぶ。次々に名前を呼ばれた。

 アデル。ミナ。シエナ。

 レオナさん。反逆者と書かれた人の名まで。村へ王命はまだ届いていないらしい。

 

「おかえり!」

 声が重なる。胸の中の糸とは別の場所が、温かくなった。

 

「ただいま!」

 叫んだ。胸が痛んだ。

 

「いたっ」

 今度はすぐ言った。ミナが睨む。

 

「叫ばないで」

 

「でも、ただいまは大きく言いたい」

 通りの奥から、母さんが来た。オルガ・ルーメル。朝麦亭の女主人。大きな体。

 小麦粉のついた前掛け。麺棒を持っている。

 どうして。

 

「フィア」

 低い声。

 

「ただいま」

 

「何日で帰ると言った」

 

「予定では四十日」

 

「今、何日目だ」

 シエナが日記を確認する。

 

「二十五日目」

 

「早く帰りました」

 

「その体でか」

 母さんの目が、私の包帯を上から下まで見る。胸。

 両手。左脚。担架。

 

「旅先で少し」

 三人が息を吸った。禁止語。

 

「たくさん怪我をしました」

 言い直す。母さんは麺棒を置いた。荷馬車へ上がる。殴られると思った。

 抱きしめられた。傷へ当たらないよう、頭と肩だけ。

 母さんは抱きしめるのまで上手い。

 

「馬鹿娘」

 

「ただいま」

 

「聞いた」

 

「おかえりは?」

 

「あとだ」

 声が震えている。顔は見えない。私も泣きそうになった。

 今日は泣く予定ではない。予定は変更された。

 

「帰ってきた」

 

「ああ」

 

「村、残ってる」

 

「まだな」

 母さんは離れ、私の頬を両手で挟んだ。

 

「おかえり」

 泣いた。

 

 *

 

 村には、デナさんが送った二人目の伝令が届いていた。白夜へ入ったあと、馬を失い、歩いて村まで来たらしい。昨日の朝。母さんはすぐ、避難準備を始めた。

 歩けない人を朝麦亭へ集める。荷車を修理する。

 食料を一軒ずつ分ける。南へ逃げる道は第三線で閉じられていると聞き、森の西を回る旧炭焼き道を開く。私たちが帰らなくても、村は動いていた。

 

「母さんが指揮したの?」

 食堂へ運ばれながら聞く。

 

「ほかに誰がいる」

 

「村長」

 

「腰を抜かした」

 

「教会の司祭」

 

「祈っていた」

 

「母さん」

 

「働かせた」

 朝麦亭の女将は、王様より強いかもしれない。食堂には、大きな卓がある。いつもの場所。椅子が四つ。

 一つは、少しだけ後ろへ引かれている。私の席。

 旅へ出てから誰も座らなかったのだろう。

 

「フィアちゃん、こっち」

 ミナが担架を席の横へつける。アデルが椅子をどけた。

 シエナは日記を卓へ置く。母さんがパンを四枚持ってきた。

 

「食べる前に」

 箱を一つ、卓へ載せる。古い木箱。

 蓋に、私たち四人の名前。子どもの字で書いてある。フィア。

 アデル。ミナ。シエナ。

 

「なに、これ」

 

「あんたたちの忘れ物だ」

 母さんが蓋を開ける。紙。手紙。絵。

 壊れた玩具。全部、四人の昔のもの。

 

「どうして集めたの?」

 

「話が合わなくなったからだ」

 十年前の白夜のあと。アデルは、私に背負われて朝麦亭へ帰ったことを覚えていなかった。

 ミナは、私の膝で眠った夜を忘れていた。シエナは、私から文字を習った最初の日を失っていた。当時の私たちは、子どもだから忘れただけと思った。

 母さんは違った。

 

「同じ日に三人が、フィアといたことだけ忘れた」

 母さんは箱から絵を出す。四人の子ども。一人が大きなパンを持っている。

 ミナの絵だ。裏に日付。十年前の白夜より前。

 

「これ、私が描いた?」

 ミナが受け取る。

 

「そうだ」

 

「覚えてない」

 絵の中のミナは、私の服を握っている。今のミナも、無意識に自分の袖をつかんだ。

 

「次」

 木剣の設計図。二本。

 アデルの字。

 

『フィアの剣』

 

『アデルの剣』

 守る側を交代する日の記憶はない。でも、紙には二本ある。

 

「これは、古砦で見た」

 アデルが言う。

 

「欠片だけ」

 母さんは図をアデルへ渡した。

 

「全部、あんたが描いた」

 アデルは長く見ていた。記憶は戻らない。それでも、設計図を剣の鞘へしまった。

 シエナには、小さな文字表。幼い私が書いた、ひどく曲がった文字。横に、シエナの訂正。その下に一文。

 

『フィアは「むぎ」が書けた。次は「パン」。』

 

「私が教えた」

 シエナは事実として言う。

 

「覚えてない?」

 母さんが聞く。

 

「覚えていない」

 日記へ挟む。

 

「でも、残す」

 箱の底に、四つの木の杯があった。王墓の杯と似ている。

 

「これも?」

 

「あんたたちが七つのころ、作った」

 底に名前。四人分。どれもたくさん使った跡がある。

 

「三人の記憶では、杯は?」

 母さんが聞く。アデルが答える。

 

「三つだったと思う」

 

「ミナは」

 

「四つ。たぶん。でも、誰のがどれか」

 

「シエナ」

 

「記録では四つ。記憶は場面ごとに三つと四つが混ざる」

 母さんは頷いた。

 

「そうやって、ずっと合わなかった」

 

「気づいてたなら、どうして言わなかったの?」

 私が聞く。

 

「言った」

 

「いつ?」

 

「何度も。あんたが笑って、子どもの記憶なんてそんなものだと言った」

 覚えている。母さんに疑われるたび、私がごまかした。三人が忘れたと認めれば、灯替えがばれる。禁術だと知られる。

 村から追い出されるかもしれない。三人に怖がられるかもしれない。

 

「ごめん」

 

「今は聞く」

 母さんが椅子へ座る。

 

「何をした」

 私は全部話した。灯替え。三人を助けたこと。記憶が消えたこと。

 全部忘れられれば、無名の器になること。王都がそれを望んでいること。

 三人が怒っていること。私が約束を破ったこと。ユリアのこと。

 村へ白夜が来ること。長かった。途中で水を飲んだ。母さんは止めなかった。

 聞き終えてから、立ち上がる。今度こそ殴られると思った。

 頭を撫でられた。

 

「七歳のあんたが、十年隠したのか」

 

「うん」

 

「馬鹿娘」

 

「うん」

 

「三人も馬鹿だ」

 三人が顔を上げる。

 

「忘れたことに気づかなかった」

 アデルが言う。

 

「そうじゃない」

 母さんは卓を指す。四つの椅子。

 

「気づいてた」

 

「覚えてない」

 

「頭じゃない」

 旅へ出る前。朝麦亭で四人が食べるとき。

 私が厨房にいる間、三人は決して食べ始めなかった。私が「先に食べて」と言っても。なぜ待つのか聞くと、全員が違う理由を答えた。

 スープが熱い。パンを切るナイフがない。母さんを待っている。

 

「あんたの席へは、誰も座らなかった」

 私が町へ買い出しへ行った日も。熱を出して二階で寝ていた日も。三人しか食堂にいないのに、四つ目の椅子を残した。

 

「空いてるから片づけようとすると、誰かが戻す」

 アデルが椅子を見る。

 

「私が?」

 

「三人とも」

 ミナは、自分の椅子を私の席へ少し近づけた。無意識だ。

 シエナは、卓の四辺へ一人ずつ座る形に日記を置いた。アデルは、私の席の背へ自分の外套をかけている。今も。

 

「記憶じゃなくても、残るものがある」

 母さんが言った。希望にしていいかは分からない。

 癖は、過去の代わりではない。三人が完全に忘れたあとも同じとは限らない。でも、今ここに空席がある。

 私が役に立つ前から。旅で世界を救う前から。三人が私を待つ理由を覚えていなかったころから。

 

「私の席?」

 聞く。

 

「ほかに誰が座る」

 母さんは四枚のパンを置いた。一枚ずつ。

 私の前にも。

 

「食べな」

 

「避難の準備は」

 

「食べてからだ」

 

「時間が」

 

「食べる時間を削って助かる命は、ろくな助かり方をしない」

 母さんらしい。私はパンを取った。焼きたて。

 外側が固く、中が温かい。朝麦亭の味。

 

「ただいま」

 三回目。

 

「おかえり」

 今度は、三人も一緒に言った。食べ終わると、母さんは三人とレオナさんを外へ出した。

 

「避難名簿を確認してきな」

 

「私も」

 

「あんたは残る」

 フィアだけ、と言われる。三人が少し止まった。

 

「一人で大丈夫?」

 ミナが聞く。

 

「禁止語」

 反射で答えた。ミナは意味が分からない顔をする。

 

「あとで説明する」

 

「十分後に戻る」

 アデルが時間を決める。

 

「親子の話に時間制限?」

 

「フィアが逃げるかもしれない」

 

「ここ、私の家」

 

「窓がある」

 信用がない。三人が出る。レオナさんは最後に母さんへ頭を下げた。

 

「娘さんを任務へ」

 

「あとであんたも座りな」

 謝罪を途中で止められた。戸が閉まる。母さんと二人。

 食堂が急に広くなる。

 

「服を上げな」

 

「親子の話では?」

 

「傷を見る」

 包帯を外される。胸。

 脇腹。背中。古い傷と新しい傷が重なっている。

 母さんは触らない。目だけで見る。

 

「全部、三人から?」

 

「ほとんど」

 

「知らない子のも?」

 

「一人」

 

「寿命は」

 

「分からない」

 母さんは私の服を戻した。前掛けで手を拭く。

 汚れていないのに。

 

「怖かったか」

 

「うん」

 

「今は」

 

「村へ白夜が来るのが怖い」

 

「あんた自身は」

 聞かれると、答えを探す。

 

「忘れられるのが怖い」

 

「それを三人へ言ったか」

 

「言った」

 

「何と」

 

「覚えてて、って」

 

「三人は?」

 

「約束できなかった」

 母さんが頷く。

 

「まともだ」

 

「そこ、慰めるところでは」

 

「守れない約束をするよりいい」

 

「母さんは覚えててくれる?」

 聞いてしまった。灯替えの錨は三人。母さんの記憶は術の代償にはならない。でも王国が記録を消せば。

 白夜がもっと深くなれば。絶対はない。

 

「忘れない」

 母さんは言った。

 

「約束できる?」

 

「できない」

 すぐ訂正した。

 

「年を取る。病気にもなる。明日、頭を打つかもしれない」

 

「怖いことを」

 

「だから、忘れても残す」

 保存箱を叩く。

 

「あんたの話を、人へした。村の帳簿にも書いた。パン窯の内側にも名前を彫った」

 

「窯に?」

 

「焼けても残るところ」

 見に行きたい。動けない。

 

「あとで」

 母さんが言う。

 

「あんたが忘れても、私が忘れても、誰かが見つける」

 

「それで私?」

 

「全部じゃない」

 母さんも分かっている。記録は、本人ではない。

 

「でも、なかったことにはさせない」

 ユリアの名。王国が消した記録。

 私たちも同じことをしようとしている。

 

「私、三人の記憶を守れなかった」

 

「守るのは、あんた一人の仕事か」

 

「違う」

 

「なら今度は、皆で残せ」

 母さんは私の髪を梳いた。旅の間に、ずいぶん絡まっている。

 

「切る?」

 

「嫌」

 

「なら痛いぞ」

 

「痛い」

 

「言えて偉い」

 

「子ども扱い」

 

「私の子だ」

 櫛が引っかかる。

 

 痛い。

 でも、触れられている。母さんは私を覚えている。

 

 今は。

 

「母さん」

 

「何だ」

 

「何もしない日も、ここにいていい?」

 聞くのに、世界を救うより勇気がいった。母さんの櫛が止まる。

 

「何もしないなら、皿を割らない分だけ助かる」

 

「そういう意味?」

 

「いていいに決まってる、馬鹿娘」

 櫛が動く。声が震えていた。私も泣いた。

 今度は、一人で隠れなかった。私の席だけが、ずっと空いていた。消えた記憶の数だけでは測れないものが、ここに残っていた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定
▲ページの一番上に飛ぶ  X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。