名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
ネネの墓は、村の北にある。白夜が来る方角。
「墓地から先に霜が入った」
母さんが言った。朝麦亭の裏から、墓地へ続く道を見る。
白い。まだ霧はない。でも草も、木の幹も、墓石も、夏なのに凍っている。
「行く」
私は言った。
「その体で?」
「担架で」
「誰が運ぶ」
三人が手を上げた。レオナさんも。
「四人もいらない」
母さんはため息をつく。
「行ってきな」
「怒らないの?」
「戻ったら働かせる」
「怪我人です」
「口は動く」
避難する人の名簿を読む役に決まった。先に墓へ行く。
ネネへ、帰ったと伝えるため。
*
墓地への道は、昔より短かった。子どものころは遠いと思っていた。
曲がり角が三つ。小さな橋。野ばらの垣根。
それだけ。
アデルとレオナさんが担架を持つ。ミナは毛布を押さえる。
シエナは日記を抱えている。
「寒い?」
ミナが聞く。
「指が少し」
白夜の冷えを引き受けた両手は、気温が下がると感覚が薄くなる。ミナが手袋を重ねた。赤い毛糸。
「これ」
「オルガさんが貸してくれた」
ネネが使っていた手袋。片方だけ。もう片方は、十年前の雪の中で見つからなかった。幻がつけていたのは、なくしたほうだった。
「使っていいの?」
「フィアちゃんにって」
母さんは、手袋と一緒に小さな鈴も渡していた。錆びた銅の鈴。音はほとんど出ない。
「これは?」
「ネネちゃんの?」
ミナが裏を見る。柄へ、子どもの歯でつけた跡がある。覚えている。
「迷子鈴」
村の子どもは、森へ木の実を拾いに行くとき、腰へ鈴をつける。ネネは音が鳴るのを面白がり、家の中でも外さなかった。食事中に鳴る。
寝返りで鳴る。母さんに何度も怒られた。
「白夜の夜も?」
シエナが聞く。
「つけてた」
だから場所が分かった。声だけではない。
井戸のそばから、弱い鈴が鳴っていた。
「これ、どこで見つかった?」
「オルガが、ネネの手の中で」
アデルが答える。母さんから聞いたらしい。私がネネを見つけたとき、鈴を握っていた。
凍った指から外せなかった。墓へ入れるつもりだった。でも母さんは残した。
「どうして」
「フィアに渡すため」
「十年も?」
「お前が受け取らなかった」
そうだった。葬儀の日。母さんが鈴を出した。
私は、いらないと言った。ネネを助けられなかった私が持つものではない。そう思った。母さんは捨てず、箱へ入れた。
「今も、持つ資格ない気がする」
鈴を掌へ載せる。軽い。なのに、手を下ろせないほど重い。
「資格は誰が決める?」
シエナが聞く。
「ネネ」
「聞けない」
「うん」
「オルガは、フィアへ渡すと決めた」
「うん」
「フィアは、受け取るか決める」
それしかできない。ネネがどう思うかを、私が作らない。
「持っていく」
鈴を首へかけた。一歩揺れるたび、かすかに鳴る。
十年前と同じ音。今度は、私の居場所を知らせる音になる。手を入れる。
小さい。指の途中までしか入らない。それでも温かい。
「姉ちゃんくさい」
ネネの声を思い出す。
「なに?」
ミナが聞く。
「ネネが、私の手袋を借りるといつも言った」
「くさいの?」
「パンと煙の匂い」
「いい匂いだよ」
「ネネも返さなかった」
少し笑えた。墓は、野ばらの奥にある。
『ネネ・ルーメル五歳』
母さんが彫った字。その下に、小さなパンの印。私が彫った。失敗して、丸い石みたいになっている。
「ただいま」
担架を下ろしてもらう。墓石へ触れる。冷たい。
灯替えの冷たさではない。ただの石。ネネはここにいるわけではない。それでも話す。
「早く帰ったよ」
返事はない。
「怪我した」
返事はない。
「三人は生きてる」
墓石の向こうで、十年前の雪が降る。ずっと言わなかったことがある。三人へも。母さんへも。
自分へも、最後まで聞かせなかったこと。
「話していい?」
三人を見る。
「聞く」
アデルが言った。ミナが隣へ座る。シエナは日記を開かず、膝へ置いた。
「十年前、ネネは井戸のそばにいた」
あの夜を、最初から話す。白夜が来る前、私たちは五人で川辺にいた。
夏の終わり。水は冷たく、空はまだ明るかった。アデルは木の枝を剣にしていた。
ミナは木の実を拾いすぎて、服の裾を袋にしていた。シエナは川石へ文字を書いていた。ネネは鈴を鳴らしながら、私の後ろを歩いていた。
『姉ちゃん、待って』
私は待たなかった。
『早く来ないと置いていくよ』
遊びの言葉。ネネは怒って走った。
そのすぐあと、川上から白い霧が来た。鳥が落ちた。水が凍った。
何が起きたか分からなかった。私はネネの手を取ろうとした。アデルが倒れた。振り返った一瞬に、ネネの手が離れた。
白い霧で、道が二つに分かれた。
「最初は、五人一緒だった」
誰かを連れていったわけではない。一瞬で離された。
「私、アデルを起こした。ミナが泣いて、シエナは目が見えないって言った」
三人を集める。ネネを呼ぶ。鈴が井戸のほうで鳴った。
私の声へ、ネネが返した。
『ここ』
私は向かおうとした。そのとき、アデルの呼吸が止まった。七歳の私は、灯替えの使い方を知った。
アデルへ触れる。名を呼ぶ。白夜の凍結を受け取る。時間がかかった。
次にミナ。シエナ。
一人ずつ。
「三人を納屋へ運ぶ前に、もう灯替えを使ってた」
だから私は歩けなかった。手が凍り、息が苦しかった。
ネネのもとへ行くのが遅れた。
「術を使わず、三人を置いて走れば」
もっと早かった。でも三人は死んだかもしれない。
「その間も、ネネの鈴が鳴ってた」
待っている。ここにいる。音だけが知らせる。
「最後に、鈴が止まった」
第17話で話したところ。
白夜が村へ入った。アデルが倒れた。ミナが泣いていた。シエナは目が見えなかった。
ネネの声は反対側から聞こえた。
「フィア姉ちゃん」
ここまでは、何度も思い出した。そのあとの言葉を、私は切り取った。
「ネネは、助けてって言った?」
ミナが静かに聞く。
「最初は、姉ちゃんって」
寒い。
怖い。
来て。たぶん全部、あの呼び方に入っていた。
「私、振り返った」
井戸のそば。ネネは立っていた。まだ歩けた。
赤い手袋を片方落とし、井戸の柱へつかまっていた。三人は、私の足元にいる。
「ネネが三人を見た」
白夜の中でも、見えた。それから叫んだ。
『三人を連れて逃げて』
声が、今も聞こえる。
「私、待っててって言った」
ネネは頷いた。
『私、歩けるから』
「嘘だった」
歩けたなら、納屋へ来られた。五歳の子が、姉を行かせるために言った。
「ネネは、三人を連れて逃げてって頼んだ」
墓石へ額をつける。
「私は、そのとおりにした」
アデルが息を吸った。
「なぜ、今まで」
「言いたくなかった」
これを話せば、皆が言う。フィアはネネの頼みを聞いた。
仕方なかった。悪くない。
「ネネを言い訳にしたくなかった」
五歳の妹へ、私の罪を持たせたくなかった。ネネが頼んだから。
だから私は悪くない。そんなふうに使いたくなかった。
「それに」
もっと嫌な理由。
「私が許されたら、三人を守り続ける理由が一つなくなる」
ネネへの罰。選んだ証明。十年間、私を動かしたもの。
「忘れたふりをした?」
シエナが聞く。
「うん」
記憶はあった。灯替えでも消えていない。
自分で、途中から読まなかった。
「私、ネネの選択も奪った」
自分から三人を逃がした。姉へ頼んだ。
怖くても待った。ネネが最後にしたことを、私は十年間なかったことにした。
「私、あのあと置いていくって言葉が嫌いになった」
冗談でも。一人で先に行くときも。
なのに何度も、自分が置いていこうとした。三人を守るためと言って。
「ネネにしたことを、三人へしてた」
自分で選び、待たせる。追いつくかは相手へ任せる。
「もうしない、とは言えない」
明日の白夜。また一人で行こうとするかもしれない。
「でも、したら言って」
アデルへ。ミナへ。シエナへ。
「置いていかれたって」
「言う」
アデル。
「追う」
ミナ。
「記録する」
シエナ。いつもの三人。鈴が胸元で鳴った。小さい。
今度は、誰かを待たせたままにしないための音に聞こえた。
「一人で置いていったうえに、言葉まで置いてきた」
涙が墓石へ落ちる。
「ごめん」
ネネへ。
「三人を選んだ私だけ残して、ネネが選んだことを消した」
返事はない。許す声も。
責める声も。もう聞けない。
「フィア」
アデルが、私の背へ手を置く。触れていいかとは聞かなかった。
今は、聞かなくてよかった。
「ネネは、私たちを選んだ」
「うん」
「お前も、私たちを選んだ」
「うん」
「だから正しかった、とは言わない」
「うん」
ネネが死んだ事実は変わらない。ほかの方法がなかったとも証明できない。
「でも、私たちは二人に選ばれた」
アデルの声が震える。
「そのことを、知らないままにはしない」
ミナが墓石へ手を置く。
「ネネちゃん、ありがとう」
簡単な言葉。私が言えなかった言葉。シエナが日記を開いた。
「書いていい?」
私ではなく、墓へ聞く。返事はない。私が代わりに決めてはいけない気がした。
「ネネの言葉として、書いて」
それでも決めた。残すため。
私の罪を軽くする説明ではなく。ネネが選んだこととして。シエナが一行書く。
『ネネ・ルーメルは、三人を連れて逃げて、とフィアへ頼んだ。』
その下へ。
『フィアは三人を連れて納屋へ行き、ネネのもとへ戻った。』
「戻った」
ミナが言う。
「置いていったままじゃない」
「間に合わなかった」
「うん」
「見つけたとき、凍ってた」
「うん」
「名前を呼んでも」
声が出なくなる。ミナが待つ。アデルも。
シエナも。
「戻らなかった」
最後まで言えた。あの夜の全部。選んだこと。
頼まれたこと。戻ったこと。間に合わなかったこと。
「私、ネネを助けられなかった」
これは変わらない。
「でも、見捨てたんじゃなかった」
言葉にすると、胸が痛んだ。許された気はしない。
楽にもならない。ただ、事実が一つ増えた。
「ネネの頼みを聞いた」
墓石のパンの印をなぞる。
「二度目は置いていかない」
記憶の中から。話の中から。私が守る理由の下へ埋めない。
「三人を連れて帰ったよ」
ネネへ言う。アデル。ミナ。
シエナ。十年かかった。全員、少しずつ変わった。記憶も欠けた。
それでも帰った。
「ありがとう」
やっと言えた。
*
墓地を出る前に、白夜が動いた。北の空。白い線が、山の向こうから村へ降りる。
霧ではない。壁。地面から空まで続く白い壁が、ゆっくり近づいている。
「予測より早い」
シエナが日記の地図を見る。
「王都からの流入が増えた」
私たちが北へ戻ったから。王都側が、白夜を早く流したのかもしれない。
「村まで?」
アデルが聞く。
「明日の夜」
あと一日。避難は終わっていない。歩けない人。
子ども。家畜。旧炭焼き道も、荷車が通れる幅は半分だけ。
「戻ろう」
私はネネの墓から手を離す。
「今度は全員で働く」
「フィアは名簿」
ミナがすぐ役を決める。
「指揮もできます」
「動かない指揮」
「女王様みたいに?」
「棺台よりはいい」
シエナが担架を持ち上げる。少し笑う。
墓石へ、最後に振り返った。
「行ってくる」
帰ってくる、とは約束しなかった。でも帰りたい。
ネネの名と、最後の言葉を置き去りにせず。白夜へ向かう村へ戻った。