名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
避難名簿は二百四十一人。印がついたのは、二百三十八人。
「あと三人」
朝麦亭の食堂で、名前を読む。
「ハロルド爺さん」
「来たよ」
厨房から声がした。足の悪いハロルド爺さんは、荷車へ乗るのを嫌がり、パン窯の前で豆を煮ている。
「印がない」
「お前さんが見落とした」
「私は間違えません」
「シエナに聞け」
シエナが別の名簿を見る。
「印が薄い。来てる」
「失礼しました」
私の間違いだった。
「残り二人。ルルド母子」
村の北端。白夜に一番近い家。
「迎えに行く」
ミナが治癒鞄を持つ。
「私も」
アデルが立つ。
「二人で十分」
シエナは避難路の術式を維持している。村から旧炭焼き道まで、青い杭を十本。白夜の霧が入っても、杭の内側だけは方角と名前を失わない。
「フィアはここ」
三人が言う。
「分かってる」
今の私は、朝麦亭の長椅子へ寝かされている。名簿。鐘。四つの火種を結ぶ地図。
村全体が見える位置。動かない指揮。
「十分ごとに火種で合図」
私は右手を上げる。
「危険なら赤二回」
シエナの日記が青く光る。
「負傷者は金」
ミナの鞄。
「敵は橙」
アデルの剣。
「何もなければ?」
「パン」
ミナが答える。
「何色?」
「茶色」
「火種にない」
「じゃあ、何もなし」
笑った。普通の避難みたいに。そうしたかった。
「行ってくる」
アデルとミナが北へ出る。シエナは青い杭を確認しに西門へ。
レオナさんは避難隊の先頭。母さんは朝麦亭で食料を積む。全員が自分の役を持っている。
私は名簿を読む。二百四十一人。一人ずつ。地図の点ではない。
名簿の横へ、村の鍋を並べた。大鍋が六つ。
水が十二樽。焼いたパンが三百枚。食べる人は二百四十一人なのに多い。
「逃げながら二日分」
母さんが言う。
「一人一日一枚では足りない」
「豆もある」
「パンは別腹だ」
母さんの計算は、たいてい食べさせる側へ多い。避難荷車は九台。一台目に歩けない人。
二台目に乳幼児。三台目に白夜病の疑いがある人。四台目から食料と毛布。馬が足りない。
「私が一台引く」
アデルが言う。
「馬より遅い」
「人より速い」
「剣は?」
「引きながら持つ」
「格好悪い」
「お前に言われたくない」
ミナが、治療所から患者を連れてきた。一人ずつ名を聞き、手首へ布を巻く。赤は歩けない。黄は付き添いが必要。
青は自力で歩ける。
「フィアちゃんも赤」
私の手首へ赤い布。
「指揮官色にして」
「重症者色」
「同じ赤なら分かりません」
「フィアちゃんだけ二本」
両手へ巻かれた。重症者の強調になった。シエナは旧炭焼き道の地図へ、家ごとの印をつける。
「同じ家族を一台へ集めない」
「どうして?」
「荷車が一台止まっても、家族全員が残らないように」
冷たい決め方に聞こえる。でも、必要。
「子どもは親と一緒がいい」
ミナが言う。
「幼児は一緒。十歳以上は隣の車」
「嫌がるよ」
「説明する」
本人へ選ばせる。急いでいても。母さんが食堂の中央で手を叩いた。
「聞きな!」
二百人近い声が止まる。
「同じ家の者を二台へ分ける。離れたくない者は名乗りな。ただし、その車が止まったら全員で歩く」
何組かが顔を見合わせる。ルルドさんは二人の子を抱き、同じ車を選んだ。
炭焼きの夫婦は別々。ハロルド爺さんは一人でいいと言った。
「一人でいい人はいない」
私は名簿を見る。
「爺さんは私と同じ車」
「お前さんの車は動かんだろ」
「ひどい」
笑いが起きた。怖い人たちの顔が、少しだけゆるむ。役に立った。
冗談が。傷を引き受けなくても。
「指揮所の移動車へ、ハロルド」
シエナが書く。
「勝手に決めるな」
爺さんが言う。
「嫌?」
「豆の鍋も一緒なら」
「条件つきで同意」
書き直す。一人ずつ。大人数だからと、声を省かない。
時間は減る。それでも、自分の避難を自分で選んだ人は動きが早かった。何を持つか。誰と乗るか。
家を振り返るか。自分で決めて、荷車へ乗る。
「フィア」
母さんが空の袋を投げる。
「なに?」
「パンを数えな」
「三百枚」
「数え直す」
「信用が」
「あんたは途中で一枚ずつ渡す」
当たっている。
「今度は全員分を確かめてから」
「私の分も?」
「最初に入れた」
袋の底。
『フィア』と炭で書いた包みがある。
一枚。私が働き終える前から、分けられていた。
「食べる時間あるかな」
「作る」
母さんが言う。白夜が迫っても。
逃げている途中でも。私が自分の分を後回しにしない時間を、予定へ入れる。名簿の余白へ書いた。
『第二隊出発後、フィア、パン。』
シエナが確認し、日記にも写す。
「そこまで記録する?」
「重要」
三人が頷いた。白夜が来る前の最後の準備。
私は一人も救っていない。でも、全員が逃げる順番を一緒に作った。
*
白夜は、夜を待たなかった。
夕方。北の壁が村へ触れた。音はない。
最初に、北柵の色が消える。黒い木が白くなる。次に、見張り台。屋根。
鐘。触れたものから、名前が消える。
「北柵、侵入!」
教会の見張りが叫ぶ。私は第一火種を鳴らした。赤一回。全員へ、白夜到達。
西門から返事。青一回。
避難路維持。北端から橙一回。アデル。
合図確認。金は来ない。ミナも無事。
「第三隊、出発!」
レオナさんの声。荷車が朝麦亭の前を通る。子ども。
老人。家畜。持てるだけの荷物。
「フィア、一緒に」
母さんが私の担架へ手をかける。
「最後」
「駄目だ」
「ここが指揮所」
「指揮所を西門へ移す」
言い返そうとした。母さんの顔を見る。
相談する。
「あと何分?」
「五分」
「北の二人が戻るまで」
「十分で戻らなければ担架ごと運ぶ」
「分かった」
決めた。母さんは私の毛布を結び直す。
「勝手に残ったら、今度こそ麺棒だ」
「怪我人にも?」
「口は元気だ」
外へ戻る。白夜が村道へ入った。家の看板から文字が消える。朝麦亭の看板。
『朝』
最初の一文字が白くなる。胸の中へ、冷たい指が入る。
「名前、呼んで!」
私は鐘へ向かって叫ぶ。
「自分の名前!一緒にいる人の名前!」
避難民が声を上げる。オルガ。ダン。ハロルド。
一人ずつ。白夜は名前を奪う。
なら先に、何度でも呼ぶ。
「フィア!」
誰かが私も呼んだ。
「います!」
返事をする。
今は。
まだ。金色の光が二回上がった。北端。
負傷者。重い。
「ミナ」
右手へ火種を集める。使いたい。でも距離がある。
「アデル、状況!」
橙の光が一回。搬送中。
赤が一回。白夜獣。
「レオナさん!」
西門から戻ったレオナさんへ合図を渡す。
「北へ援護!」
「お前は」
「五分で移る!」
レオナさんが走る。自分で行けない。
待つ。
怖い。
声にする暇はない。名簿を読む。避難した人。
まだの人。ルルド母子。アデル。ミナ。
レオナ。
「シエナ」
西門を見る。青い杭が一本、消えた。白夜が避難路へ回り込んでいる。シエナが日記を開き、第二火種を地面へ置いた。
青い線を引き直す。
「無理しないで!」
聞こえない距離。青い光が二回。危険。でも維持。
「第四隊、走って!」
残る避難民を西へ出す。朝麦亭の客室は空。厨房も。
食堂には私だけ。四つの椅子。四枚目のパンが、卓に残っている。あとで食べるつもりだった。
「フィア!」
外から母さん。
「時間だ!」
「あと二人!」
「戻ってくる!」
担架を持ち上げられる。抵抗しない。約束した。朝麦亭を出る。
看板の『麦』が消えた。残るのは『亭』だけ。
家の名前がなくなる。
「母さん」
「いる」
「朝麦亭」
「ある」
「覚えてて」
「忘れるか」
西門へ向かう。そのとき、北の道からアデルが出た。背にルルドさん。腕に小さな男の子。
ミナがいない。
「ミナは!」
「後ろ!」
白い霧の中。ミナが立っている。
もう一人の子どもを抱いている。ルルドさんの娘。七歳。
足が凍り、動けない。白夜獣が迫る。骨だけの鹿。角がミナへ向く。
「避けて!」
ミナは動かない。子どもを地面へ伏せ、自分の背で覆う。金色の第四火種を開いた。
治癒鞄から四つの輪が広がる。鹿の角を受け止める。金の壁。一秒。
二秒。鹿が砕ける。
同時に、金色の壁へ白夜が入った。ミナの背が白くなる。
「ミナ!」
アデルが子どもを母さんへ渡し、戻る。レオナさんも霧から出る。
二人でミナを抱える。子どもは生きている。ミナも目を開けている。
でも唇が白い。
「フィアちゃん」
私を呼ぶ。灯替えが反応した。致命的な白夜凍結。
心臓まで、あと少し。
「使いたい」
声へする。
「まだ」
ミナが首を振る。
「子ども、先」
自分で選んだ。私は待つ。母さんが子どもを荷車へ載せる。ミナはアデルの腕で運ばれる。
西門まで。全員で。
*
避難路の半分で、青い杭が三本消えた。
「シエナ!」
術式の中心に、シエナがいる。日記を地面へ開き、白夜の文字を一つずつ書き換えている。霧が入る。
『ここは北』
白く消える。
『西門へ』
消える。
『あなたの名は』
途中で消える。シエナは自分の指を切り、血で書き直す。
「やめて!」
私が叫ぶ。
「あと三十人」
シエナは顔を上げない。
「道が消えたら、森で名前を失う」
「交代して」
「できる人がいない」
事実。シエナが選んだ役。
止められない。
「使いたい」
灯替え。シエナの白夜侵蝕を受け取れば。
「まだ」
シエナも答える。
「全員が門を越えてから」
待つ。
名簿を読む。二百三十八。ルルド母子。二百四十。
最後。ハロルド爺さん。
「いない」
荷車を探す。朝麦亭へ残った。豆の鍋。
「私が戻る」
母さんが言う。
「駄目」
「私の客だ」
「私が」
動けない。誰も戻せない。アデルがミナをレオナさんへ預けた。
「私が行く」
「アデル」
「選んだ」
剣を抜く。第三火種。
「必ず戻って」
「約束はしない」
「帰りたい?」
私が聞く。アデルは振り返る。
「帰る」
白夜の中へ走った。私は待つ。
ミナの凍結が胸へ達する。シエナの指が白くなる。アデルの橙色の光が、村の中を進む。
待つ。
待つ。
村人が西門を越える。二百四十人。最後の荷車が炭焼き道へ入る。
青い杭が、あと一本。
「シエナ、もういい!」
シエナが日記を閉じた。立とうとする。立てない。
両脚が白夜に凍っている。青い火種だけが、まだ光る。
「記録、守った」
日記を私へ投げた。受け取る。シエナが倒れた。
「シエナ!」
レオナさんが抱き上げる。灯替えが、また反応する。
二人。ミナ。シエナ。
どちらも致命傷。私は右手を握る。
「まだ」
自分へ言う。アデルが戻っていない。橙色の光。
村の中心。止まった。
「アデル」
返事の光がない。十秒。二十秒。
白夜の霧から、人影が出た。ハロルド爺さん。アデルが背負っている。剣は左手。
右の脇腹へ、白夜獣の角が刺さっている。折れた角を体に残したまま、歩いてくる。
「遅い」
私は言った。声が震えた。
「豆の鍋を持っていくと言って」
アデルが笑おうとする。できなかった。ハロルド爺さんを門の外へ下ろす。
膝をつく。白い角が、脇腹から胸へ霜を伸ばしている。
「全員?」
アデルが聞く。
「二百四十一人」
「なら、閉じろ」
シエナの最後の杭を抜く。西門の術式を閉じる。白夜が、村全体を包んだ。
朝麦亭が見えなくなる。ネネの墓も。リーネ村の名前が、白い中へ沈む。村人は全員、門の外。
助かった。私の三人は、倒れている。
ミナの心臓が凍る。シエナの名の灯が消えかける。アデルの呼吸が浅くなる。
三つの傷が、私の中の灯替えを呼んでいた。今すぐ。三人の名前を。