名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

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三つの名前

三人を救えば、三人から私が消える。誰かに教えられたわけではない。灯替えが知っている。

 アデルへ触れたとき。ミナへ触れたとき。シエナへ触れたとき。それぞれの奥に、私の名を持つ灯が一つだけ見えた。

 最後。意味の近い記憶をまとめて燃やしてきた。

 守られた日。手を引いた日。笑った日。

 温めた夜。残ったものが、もう分かれていない。フィアという人。それ自体が、一つの灯になっている。

 触れれば、中身が見えた。ミナの最後の灯。

 朝麦亭の厨房。九歳のミナが、小麦粉を頭からかぶっている。私が笑い、ミナが泣き、最後は二人で床を掃いた。

 それだけではない。熱の夜はもうない。川の記憶も、最初のパンもない。欠けた場面の間を、今まで残った日々がつないでいる。

 ミナにとって『フィア』は、パンの匂いがする人。怒ると声が低くなる人。

 左側から抱く人。自分より先に他人の皿を見る人。何千もの小さな判断が、一つの人物を作っていた。

 救えば、全部燃える。厨房を思い出しても、そこに私だけいない。小麦粉を誰と掃いたか分からない。抱かれた体温の理由も。

 姉ちゃんと呼んだ相手も。なくなる。

 

「こんなにあるのに」

 声が出た。ミナは聞き取れない。白夜に凍った目で、私を見ている。シエナの最後の灯。

 文字が多い。日記だけではない。

 私が読めなかった看板を、シエナが一文字ずつ教えた日。シエナが話せないとき、私が隣で勝手に喋り続けた午後。互いに言葉を補った時間。

 葬儀帰りの笑いは消えた。でも、私が冗談を言う直前に息を吸う癖を、シエナは知っている。嘘をつくと右眉が動くことも。泣く前に語尾だけ明るくなることも。

 その知識は、記録ではない。十年見てきた目が覚えたもの。

 救えば、それも消える。日記に『フィアは嘘をつく』と残っていても、目の前の私のどこを見ればいいか分からなくなる。読めても、使えない。

 アデルの最後の灯。剣を持つ手。村道を歩く背中。私を追うことから始まった人生。

 木剣の約束はない。屋根の夜もない。

 それでも、アデルは剣を振るたび、最初に私の立つ位置を確かめる。私が右にいれば左を守る。後ろにいれば前へ出る。

 隣にいれば、歩幅を合わせる。本人は理由を一つずつ説明できる。戦術。年長者の責任。

 騎士の習慣。でも全部を重ねると、フィアの隣へ立つための形になる。

 救えば、向きだけが残る。何を目指したか分からない剣。誰へ追いつきたかったか分からない足。

 それを私は、もう一度作ってしまう。三人は、生きる。三人の中から私だけがなくなる。灯替えは、それを救命と呼ぶ。

 

「値段じゃない」

 今さら思う。命の代わりに記憶を払う。そんな計算ではなかった。

 三人の人生の形を変える。私がいない形へ。その選択を、今から三人へ聞く。

 

「使わないで」

 最初に言ったのは、ミナだった。レオナさんの腕の中。髪も睫毛も白い。

 唇は動かない。声だけが、かすかに出る。

 

「まだ話せる」

 

 私はミナの手を握り返す。冷たい。灯替えは、今すぐ名を呼べと急かす。

 

「だから、聞いて」

 

「聞いてる」

 

「使わないで」

 お願いではない。ミナの選択。

 

「私、このままだと死ぬ?」

 

「そうかもしれない」

 ごまかさない。

 

「あとどのくらい?」

 

「分からない。心臓まで凍ってる」

 

「治癒は」

 

「白夜本体の凍結。普通の治癒では」

 ミナ自身が知っている。

 

「そっか」

 目を閉じる。

 

「じゃあ、死ぬほうを選ぶ」

 

「嫌」

 すぐ出た。

 

「フィアちゃんが選ぶんじゃないよ」

 

「嫌だ」

 

「私の命」

 

「分かってる」

 

「分かってない」

 声が弱い。それでも怒っている。

 

「フィアちゃんを知らないで生きるの、私は選んでない」

 

「生きてたら、また」

 

「新しく好きになる?」

 言おうとしたことを取られた。

 

「なるかもしれない」

 ミナは目を開ける。

 

「ならないかもしれない」

 

「うん」

 

「今の私は、今のフィアちゃんが好き」

 胸の奥が痛い。

 

「忘れた私に、続きを押しつけないで」

 返せない。今のミナの人生を、未来の知らないミナへ渡す。生きていればいいと決めて。

 

「でも、死んだら」

 

「怖いよ」

 ミナが泣く。涙まで凍って、目尻へ白く残る。

 

「死にたくない。でも忘れたくない。どっちも嫌」

 

「なら」

 

「フィアちゃんだけで決めないで」

 三人で決める時間はない。でも今、本人が決めた。使わない。私は従えない。

 

 *

 

 シエナは、日記へ手を伸ばした。私が持っている。指が届かない。

 私は日記を胸の上へ置く。

 

「頁」

 

「どこ?」

 

「最後」

 開く。白い紙。

 

「書いて」

 

「何を?」

 

「私の言葉」

 ペンを持つ。両手の凍傷で、うまく握れない。それでも待つ。

 

「私は灯替えを拒否した」

 一文字ずつ書く。

 

『シエナ・ヴァルカは、灯替えを拒否した。』

 

「理由。フィアを忘れたくない。自分の人生を自分で選びたい」

 書く。

 

「もしフィアが使っても、私が許したことにしない」

 手が止まる。

 

「書いて」

 

 書く。

 

『使用されても、同意ではない。』

 

「これを、忘れた私へ見せる?」

 聞く。

 

「見せて」

 

「読んだら、私を嫌うかもしれない」

 

「今の私も怒ってる」

 声は平ら。息の間隔だけが長い。

 

「フィア」

 

「なに」

 

「私は、フィアを選びたい」

 

 頷いた。

 

「だから今、使わないでと言う」

 

「分かってる」

 

「忘れた私が、日記を読んで同じ選択をするとは限らない」

 

「聞く」

 

「それも私」

 過去の気持ちを、未来へ強制しない。今の拒否を、なかったことにもしない。

 

「私、シエナに生きてほしい」

 

「それはフィアの選択」

 

「うん」

 

「私の選択と違う」

 

「うん」

 分かっている。

 

 違う。

 どちらかが譲らなければ、両方は守れない。

 

 *

 

 アデルは、自分で白い角を抜いた。血が出る。すぐ凍る。剣を杖にして座っている。

 

「こっちへ来い」

 呼ばれた。私は動けない。母さんとレオナさんが担架を運ぶ。

 アデルの前へ。

 

「剣を持て」

 第三火種の剣を渡される。重い。

 

「何で?」

 

「私が死んだら、お前が持て」

 

「嫌」

 

「聞け」

 怒られる。

 

「剣を持つ理由は、まだ全部分からない」

 木剣の約束。屋根の夜。原点を失った。

 

「でも、今日持った理由は分かる」

 村へ帰る。ハロルド爺さんを迎えに行く。自分で選んだ。

 

「お前のためだけじゃない」

 

「うん」

 

「村のため。私のため」

 

「うん」

 

「だから、この傷も私のものだ」

 脇腹から胸へ白夜が上がる。呼吸のたび、血の泡が唇へつく。

 

「灯替えを使うな」

 

「死ぬよ」

 

「知ってる」

 

「怖くないの?」

 

「怖い」

 アデルは震えている。寒さだけではない。

 

「剣を持てなくなるより、死ぬほうが怖い」

 正直な言葉。

 

「お前を忘れるのも怖い」

 

「死んだら、何も」

 

「決めるな」

 止められる。

 

「死んだあとのことを、お前が軽くするな」

 私は何度、同じことをした。生きていればいい。

 死ねば選べない。だから私が決める。

 

「私の名を呼ぶな」

 アデルが言った。

 

「呼んだら?」

 

「許さない」

 

「忘れるのに?」

 

「日記に書かせる」

 シエナと同じ。

 

「忘れた私が許すかは、そいつが決める」

 

「アデル」

 

「呼ぶな」

 まだ術の呼び方ではない。でもアデルが顔をしかめる。

 

「ごめん」

 

「謝るなら使うな」

 

 できない。

 

 *

 

 三人の答えは揃った。使わないで。自分たちの死を選ばせて。私は聞いた。

 

 全部。

 レオナさんは、少し離れたところにいた。剣を地面へ置き、三人の呼吸を数えている。

 

「私へ決めろとは言わないのか」

 聞いた。意識がない場合は、ほかの二人とレオナさんへ決定を委ねる。

 昔の約束。

 

「三人とも意識がある」

 

「でも死にかけてる」

 

「判断できる」

 

「レオナさんは?」

 

「私の答えが、お前の許可証になる」

 何も言えない。

 

「使えと言えば、王国の監察官が命じたことにできる。使うなと言えば、私はお前へ三人の死を見届けろと命じたことになる」

 

「それでも意見は」

 

「ある」

 レオナさんは三人を見る。

 

「生きてほしい」

 

「なら」

 

「本人の拒否を、私が上から消したくない」

 制度の中で、何度もされたこと。専門家。

 王命。非常時。本人が嫌だと言っても、正しい人が決める。

 

「私は使わない」

 レオナさんは言った。

 

「私に灯替えがあっても」

 

「うん」

 

「だがお前が使う手を、斬って止めることもしない」

 

「どうして」

 

「それも、お前の体と選択を奪う」

 止めない。許さない。

 選択の結果を、私へ返す。

 

「卑怯だと思うか」

 

「少し」

 

「私もだ」

 母さんは、私の後ろに立っていた。ずっと何も言わない。

 

「母さんは?」

 

「母親に聞くのか」

 

「うん」

 

「三人も私の子みたいなものだ」

 答えが簡単ではない。

 

「フィアにも生きてほしい。アデルにも、ミナにも、シエナにも」

 

「それは無理」

 

「知ってる」

 

「私が三人を助けたら」

 

「あんたが一人になる」

 

「使わなかったら」

 

「三人が死ぬ」

 母さんの手が、私の肩へ触れる。

 

「私なら使う」

 三人が息をのむ。

 

「でも、私の答えをあんたの正解にはしない」

 

「母さんも?」

 

「三人に恨まれる。あんたにも恨まれる。それでも使うと思う」

 きれいな答えはない。同じ選択をする人がいても、正しくはならない。

 

「だから、したことを忘れるな」

 

「私は忘れない」

 

「自分を罰する材料にするな」

 先を読まれた。

 

「三人へ返せ。三人が忘れても、記録へ残して、何度でも判断させろ」

 シエナの日記。拒否。

 非同意。私が自分のために使うこと。

 

「分かった」

 

「それでも使うんだな」

 

「使う」

 母さんは私を抱かなかった。灯替えを始める手も止めなかった。肩へ置いた手だけが震えていた。聞かなかったことにはできない。

 

「フィア」

 母さんが隣へ座る。

 

「あんたは、どうしたい」

 

「助けたい」

 

「三人は嫌だと言ってる」

 

「分かってる」

 

「それでも?」

 

「それでも」

 声が出る。

 

「三人に生きてほしい」

 私の選択。三人の人生を奪う選択。

 

「正しいとは言わない」

 許されるとも。ネネのためとも。

 世界のためとも。

 

「私が、三人を失いたくない」

 自分のため。言葉にすると、醜い。

 でも隠さない。

 

「一人になりたくない」

 

「使ったら、一人になる」

 母さんが言う。

 

「三人はあんたを忘れる」

 

「うん」

 

「もっと一人になる」

 

「うん」

 分かっている。それでも、死体のそばで覚えているより、生きている三人に忘れられるほうを選ぶ。

 その比較自体を、三人は拒んだ。私は押し切る。

 

「最低だ」

 自分で言う。

 

「それを私たちに言わせるな」

 アデルが怒る。そのとおり。

 

「ごめん」

 

「フィアちゃん」

 ミナが泣いている。

 

「やだ」

 

「うん」

 

「忘れたくない」

 

「うん」

 

「フィアちゃんがいい」

 

「私も、ミナがいい」

 未来の知らない子ではなく。今、泣いて怒っているミナが。

 

「だから助ける」

 

「違うよ」

 

「うん」

 

 違う。

 分かっている。

 

「シエナ」

 日記を見る。

 

「全部、残して」

 

「残す」

 

「私が拒否を破ったこと」

 

「書く」

 

「三人が許さなかったこと」

 

「書く」

 

「私が、自分のために使ったこと」

 シエナは頷いた。

 

「もう書いた」

 アデルが剣を私の膝へ置く。

 

「返せとは言わない」

 

「うん」

 

「忘れた私が決める」

 

「うん」

 三人の顔を見る。覚える必要はない。私は全部覚えている。

 灯替えが、奪う瞬間まで。

 

「ありがとう」

 言った。感謝される場面ではない。それでも。

 

「私を覚えててくれて」

 三人が泣く。私も。

 

「使う」

 最後に宣言する。

 

「嫌」

 ミナ。

 

「拒否する」

 シエナ。

 

「呼ぶな」

 アデル。聞いた。私は右手を伸ばす。三人へ同時に触れられない。

 だから三つの火種をつなぐ。アデルの剣。

 シエナの日記。ミナの治癒鞄。それぞれへ私の灯を通す。

 

「ミナ・フェル」

 金色の火が燃える。

 

「シエナ・ヴァルカ」

 青い火が燃える。

 

「アデル・クロウ」

 橙色の火が燃える。三つの名前。三つの最後の記憶。

 

「その傷、私にちょうだい」

 灯替えが開いた。

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