名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

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はじめまして

ミナの中から、私が消える。最初に、匂い。朝麦亭のパン。

 煙。同じ寝台の毛布。ミナが私の服へ顔を埋めると、安心すると言った理由。白い火になる。

 次に、声。フィア姉ちゃん。

 何度も呼ばれた。熱の夜。川へ落ちた日。

 朝、起こしに来る足音。全部が一つにつながり、燃える。ミナの胸にあった私の形が、なくなる。金色の火種が治癒鞄から離れ、私の胸へ入った。

 心臓が凍る。ミナの白夜を受け取る。

 ミナの心臓は動いた。

 

「フィアちゃん」

 最後に呼んだ。次の瞬間、その名前が誰のものか分からなくなる。

 

 *

 

 シエナの中から、私が消える。文字。日記。冗談。

 笑わなかったふりをして、先に水を渡した日。私の嘘を見つけた声。

 葬儀帰りの記憶は、もうない。それでも残っていた、フィアを見るときの視線。全頁の空白。

 自分がなぜ私の言葉を記録したかったのか。一つずつ、青い火へ変わる。私の顔。私の声。

 私の名前。最後に、私へ触れている指の温度。

 消える。青い第二火種が日記を離れ、私の胸へ入る。シエナの名の灯を凍らせた白夜が、私へ来る。

 頭の中へ、文字のない冷たさが広がる。シエナの呼吸が戻った。目は閉じたまま。もう、私を夢に見ることもない。

 

 *

 

 アデルの中から、私が消える。失われたところが多すぎた。木剣。

 屋根。背負われた道。私の後ろへ隠れた日。すでに空席だった場所が、さらに広がる。

 それでも残っていた。剣を向ける相手を、最初に私へ見せた日。

 王都の試験へ出る朝、必ず帰ると私へ言ったこと。泣き虫と呼ばれるのを嫌いながら、私の前でだけ泣いた夜。隣へ立ちたい。

 守りたい。追いつきたい。人生の向きが、私へ向いていた。そこから私だけが抜ける。

 向きは残る。何へ追いつきたかったのか分からない。

 誰を守るため強くなったのか分からない。アデルの剣が、持ち主を失ったみたいに震えた。橙色の火種が柄頭から抜け、私の胸へ入る。

 白夜獣の角。脇腹。肺。アデルの傷が私へ移る。

 呼吸が消えた。三人分。

 耐えられるはずがない。なのに、痛くない。今まで私へ移った傷も。

 折れた脚。砕けた胸。凍った指。右肺。

 背骨。全部が白い霧へ変わる。

 私の体の中へ、空洞ができる。傷を入れる器。名前のない器。

 第一火種も右手首から離れ、胸へ入った。四つの火種が、私の中で揃う。灯替えが閉じた。世界が静かになった。

 耳は聞こえる。避難した村人の声。

 馬の息。母さんが私を呼ぶ声。音は全部ある。

 音へ意味がつくまで、少し時間がかかる。

 

「フィア!」

 フィア。私の名。胸の中には、三本の糸がない。

 今まで、名前を呼ばれると必ずどこかへつながった。アデル。ミナ。シエナ。

 三人の中へいる私が、自分の輪郭を返していた。今は、音がそのまま落ちる。

 

「返事をしな!」

 母さんが頬を叩く。痛くない。触れられたことは分かる。

 

「はい」

 返事をする。

 

「名前は」

 

「フィア」

 言える。

 

「私の名前?」

 

「そうだ」

 母さんが泣いている。なぜ泣いているか分かる。私が母さんの娘だから。

 その事実は覚えている。抱きしめたい。そう思うまでに、また少し時間がかかった。腕を上げる。

 動く。母さんへ回す。

 

「遅い」

 

「何が」

 

「抱きしめるのが」

 

「ごめん」

 謝る理由は分かる。申し訳ない感覚が、薄い。

 

 怖い。

 怖いと思えたことに安心する。自分の感情を一つずつ確かめないと、そこにあるか分からない。

 

「母さん」

 

「いる」

 

「忘れてない?」

 

「忘れるか」

 母さんの中には、私がいる。でも錨ではない。

 灯替えが選んだ三人とは違う。なぜ三人だけだったのか。一緒にいた時間か。

 私が必要とされた強さか。術へ聞いても、もう答えない。私の胸には白夜しかない。母さんの記憶へつながろうとする。

 届かない。名前は、誰か一人が覚えていれば足りるものではなかった。

 自分で自分だと思える灯が必要。それが今、薄くなっている。

 

 *

 

 最初に目を開けたのは、アデルだった。地面へ手をつき、起き上がる。

 傷はない。白夜の角も。私を見る。

 知らない人を見る目。

 

「誰だ」

 分かっていた。それでも、胸の奥が裂けた。傷ではない。

 まだ痛い。感情は、すぐ全部なくなるわけではない。だから間に合った。悲しいと思えた。

 

「フィア」

 名前を言う。声が震えそうになる。笑う。

 今だけ。

 

「フィア・ルーメルです。職業は宿屋の女将見習い。最近、運搬される荷物も始めました」

 アデルの眉が寄る。笑わない。知らない人の冗談だから。

 

「その剣」

 私の膝にある剣を見る。灯替えの前、渡された。

 アデルの剣。

 

「あなたの」

 両手で差し出す。アデルはすぐ取らない。

 

「なぜ持っている」

 

「預かったから」

 

「誰に」

 

「あなたに」

 

「覚えていない」

 

「うん」

 アデルの指が、鞘に巻かれた赤い糸へ触れる。何の糸か分からない。

 

「返すかは、あなたが決める」

 地面へ置く。アデルは剣と私を見比べた。

 最後に、剣を取った。私から距離を置くため、切っ先をこちらへ向ける。正しい。

 知らない、傷だらけだったはずなのに無傷で立つ人。警戒する。

 

「アデル!」

 母さんが呼ぶ。

 

「剣を下ろしな!」

 

「オルガさん」

 アデルは母さんを覚えている。

 

「この人を知っているんですか」

 

「私の娘だ」

 アデルの顔が動く。

 

「娘は」

 言いかけ、止まる。母さんの娘がいることは知っていた。

 名前も。でも私とつながらない。

 

「フィア?」

 他人の名前として確認する。

 

「そうだ」

 母さんが私の隣へ来る。腕をつかんだ。

 

「何をした」

 

「三人を助けた」

 

「何をした!」

 同じ問い。答えも知っている。

 

「灯替え」

 母さんの手に力が入る。

 

「全部?」

 

「うん」

 母さんは私を抱きしめた。今度は、傷を避けない。傷がないから。痛みもない。

 腕の温かさは分かる。それが嬉しい理由が、少し遠い。

 

「馬鹿娘」

 

「うん」

 

「帰ってきたばかりだ」

 

「うん」

 

「また行く顔をしてる」

 どんな顔だろう。自分では分からない。

 王都への白い流路が見える。私の中へ集まった白夜が、南へ道を作っている。

 

「行かないと」

 

「駄目だ」

 

「ここにいたら、村へ白夜が戻る」

 私の体は器になった。リーネを包んだ白夜が、今、私へ集まり始めている。白い村の輪郭が少しずつ戻る。その代わり、私の足元から霧が出る。

 

「王都の鐘へ四つの火種を入れる」

 

「三人が起きてから」

 

「起きたら、止める」

 

「知らない相手だ」

 

「だから」

 止める理由がないかもしれない。でも日記がある。母さんがいる。すぐ事情を知る。

 

「一人で行く」

 ミナが目を覚ました。

 

「ここ、どこ?」

 顔を上げる。母さん。

 アデル。シエナ。最後に私。

 目が止まる。

 

「誰?」

 二回目。さっきより痛みが薄い。それが怖い。

 

「フィアです」

 笑う。

 

「はじめまして」

 ミナは母さんを見る。

 

「知り合い?」

 

「家族だ」

 

「オルガさんの?」

 

「あんたの家族でもある」

 ミナが困った顔をする。私の匂いも、声も、温度も知らない。同じ寝台で眠った理由も。

 

「ごめんなさい」

 ミナが言った。

 

「覚えてなくて」

 悪くない。でも、そう言う資格が私にあるだろうか。消したのは私だ。

 

「謝らないで」

 それだけ言う。ミナは自分の治癒鞄を開く。金色の火種がない。

 

「何これ」

 留め具の四つの輪を見る。

 

「あなたが持ってた火種。今は私の中」

 

「どうして」

 

「助けてもらったから」

 嘘ではない。ミナは私を助けた。何度も。

 知らない子へ言っているみたいだった。シエナも目を開けた。最初に日記を探す。胸の上にある。

 開く。私を見る前に、文字を読んだ。

 

『シエナ・ヴァルカは、灯替えを拒否した。』

 その下。

 

『フィアは拒否を聞いた上で、自分のために三人を救ぶと決めた。』

 文字を追う。顔が白くなる。

 

「あなたが、フィア?」

 三回目。

 

「うん」

 

「私は、あなたを拒否した」

 

「うん」

 

「あなたは使った」

 

「うん」

 シエナは日記を閉じない。次の頁。

 その次。私の名前が何度もある。自分の字。

 でも気持ちは戻らない。

 

「信じられない」

 

「うん」

 

「記録は私の字。でも、あなたを知らない」

 

「うん」

 

「なぜ泣いてるの」

 聞かれた。頬へ触れる。涙がある。まだ。

 

「三人に忘れられたくなかったから」

 

「なのに、忘れさせた?」

 

「うん」

 

「分からない」

 

「私も」

 分からなかった。自分で選んだ。それでも痛い。痛みは、少しずつ遠くなる。

 村人たちも、三人の目覚めに気づいた。ハロルド爺さんが近づく。

 

「助かったか」

 

「はい」

 ミナが答える。

 

「フィアのおかげだ」

 

「その人が?」

 ミナは私を見る。爺さんの顔が止まる。

 

「覚えてないのか」

 

「ごめんなさい」

 

「謝る相手が違う」

 

「やめて」

 私は言う。

 

「三人は悪くない」

 周りの村人へ。

 

「私が使った。三人は拒否した」

 

「でも命を」

 

「拒否した」

 繰り返す。助けてもらったのだから感謝しろ。忘れても恩はある。村の人が、そう言い始める前に。

 

「三人へ、私を大事にしろって言わないで」

 自分で言うと、胸が少し痛んだ。大事にしてほしい。でも村全体で囲み、過去の関係を押しつけたくない。

 

「私が選んだこと。三人が今どうするかは、三人が決める」

 シエナが日記を見る。

 

「同じことが書いてある」

 私を見る。

 

「あなたは、これを言うために記録させた?」

 

「たぶん」

 

「覚えてない?」

 

「覚えてる。でも、今の私と少し遠い」

 シエナはその答えも日記へ書いた。新しい記録。過去の自分の命令ではなく、今目の前にいる私の状態。

 アデルが村人へ剣を向けるわけではない。でも、私と人々の間へ立った。

 

「今は、質問をやめてください」

 私を守るためか。自分たちを守るためか。どちらでも。

 

「三人で話します」

 ミナも言う。

 

「この人とも」

 私を指す。名前ではなく、この人。それでも話す相手に入れた。嬉しい。

 少し遅れて、そう感じた。

 

「行く」

 母さんの腕を外す。立ち上がる。左脚は動く。胸も。

 傷が治ったわけではない。白夜になった。

 

「歩ける」

 ミナが驚く。

 

「歩けるようになったんじゃない」

 シエナは記録から答えを見つける。

 

「無名の器になり始めている」

 

「止められる?」

 アデルが聞く。

 

「分からない」

 三人は私を見ている。知らない人として。

 それでも話している。引き止めるか、決められずに。

 

「村から白夜を連れていく」

 私は南を指す。

 

「四つの火種を王都へ運ぶ」

 

「一人で?」

 アデルが聞く。

 

「うん」

 

「危険は」

 

「あります」

 

「なぜ、私たちへ説明する」

 知らない人だから。でも体が、三人へ説明しなければいけないと思っている。

 

「約束したから」

 

「誰と?」

 

「前のあなたたちと」

 アデルが剣を握る。シエナは日記を抱く。

 ミナは私の手を見ている。

 

「はじめまして」

 もう一度言った。

 

「それから、さようなら」

 最後は笑えなかった。笑い方を忘れたわけではない。今はまだ、悲しかった。そのうち、悲しい理由もなくなる。

 なくなる前に、三人へ背を向けた。白い霧の道へ入る。

 王都へ。名前を呼ばれても、自分のものと思えなくなる前に。

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