名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
白夜の中は、道がない。それでも王都の方角が分かる。私の胸に、四つの火種がある。
赤。青。橙。金。
四本の糸が、南の暁鐘へ引かれている。歩く。
左脚は痛くない。呼吸も苦しくない。凍った指も動く。
傷が治ったように見える。服の下には、折れた骨の形が残っている。胸へ触るとへこんでいる。右肺は空気を入れていない。でも体は動く。痛みを感じる私の名前が、傷から離れていくから。
「便利」
声に出す。誰もいない。冗談へする必要もない。
笑わない。歩く。白夜は村から私へ集まった。リーネの家々が、後ろで色を取り戻す。
朝麦亭の看板も。ネネの墓も。
見えない。振り返らなかった。帰りたいと思ったはずだ。
今も記憶にはある。朝麦亭。パン。母さん。
四つの椅子。大事。
そう書いた札が、一つずつ頭の中にある。札は読める。大事、という感覚が少し薄い。
「急がないと」
自分へ言う。急ぐ理由を忘れる前に。
*
一刻歩くと、村は完全に見えなくなった。普通なら、第三線まで三日。白夜の中では距離が縮む。王都が地方へ霧を流した道を、逆に歩いている。
一歩ごとに景色が変わる。村の森。
第三線の石壁。トール山の麓。見覚えのある場所が、白い幕の向こうへ浮かんでは消える。
体へ傷が増える。白夜に触れた人の冷え。忘れられた記憶。王都から流されたもの。
私の中へ入る。重い。
重いという感覚も遠い。休む必要はない。白夜の中に、人の声がある。
『お母さん』
『家はどこ』
『私の名前を』
王都が地方へ流した霧。凍った人の最後の言葉と、失った記憶が混じっている。触れるたび、私の中へ入る。知らない母親の顔。
鉱山町の食卓。初めて歩いた子ども。
私の記憶ではない。でも、誰かにとって大事だった。
「持っていく」
声へする。王都の鐘まで。
白夜を返すためではない。これ以上、人へ流さないため。霧が濃くなった。
足元に、小さな人影が現れる。ネネ。五歳。赤い手袋。
幻だと分かる。
「姉ちゃん」
胸が動かない。前なら、声を聞くだけで息が止まった。今は、記憶の中の人物が立っていると分かるだけ。
「ネネ」
名前は言える。
「妹」
関係も。愛していた。
その札もある。愛する感覚が、見つからない。
「ごめん」
何へ謝っているか分からない。幻のネネが手を出す。
「もう痛くない?」
「うん」
「よかった?」
答えが出ない。痛くない。ユリアは、それが楽だと言った。
今、本当に楽だった。ネネを思い出しても苦しくない。三人に忘れられても。一人で歩いても。
何も痛くない。
「よくないと思う」
判断だけで答える。
「なぜ?」
「痛かった私が、よくないって言ってた」
今の私は分からない。だから、前の私の記録を信じる。感情がないからと、望みがなかったことにはしない。
「私は帰りたかった」
朝麦亭へ。
「三人に追ってきてほしかった」
言っていない。でも期待していた。
「ネネを忘れたくなかった」
鈴へ触れる。首にない。いつ落としたのだろう。村を出たときには、胸元にあった。
戻って探す。その考えが浮かばない。
大事だと思えないから。
「大事だった」
過去形で言う。道の上へ膝をつき、白い霧を探る。
痛みはない。手の皮が裂けても。土と雪をかき分ける。
小さな音。鈴。拾う。
「大事だから探したんじゃない」
判断で探した。大事だった私を、今の私が裏切らないため。首へ戻す。
幻のネネは消えていた。鈴だけが鳴る。感情がなくても、選択はできる。それを覚えているうちに、王都へ行く。
それでも、古い関所跡で止まった。理由は分からない。
屋根の下を見ると、座りたいと思った。小さな火を起こす。火種ではなく、枯れ枝。
荷物にはパンが一枚ある。朝麦亭で、卓へ残した四枚目。いつ取ったのだろう。母さんが入れたのかもしれない。
半分に割る。一人なのに。
片方を隣へ置いた。
「何してるんだろ」
自分で聞く。答えはない。
パンを一人で食べるのが苦手。記憶にはある。いつも誰かへ分けた。
名前は。アデル。ミナ。シエナ。
言える。顔も思い出せる。
さっき会った。初対面。私の名前を知らなかった三人。
なぜ隣へパンを置いたのかは、分からない。食べ終え、立つ。半分は残した。白夜の風が、北から音を運んだ。
馬。三頭。
もう一頭。追手。暁鐘院かもしれない。
火を消す。白夜へ入る。道の横へ隠れ、待った。霧の向こうから、声がした。
「この火、まだ温かい」
ミナ。名前は分かる。
「パンが半分」
シエナ。
「罠かもしれない」
アデル。もう一人。レオナ。四人が追ってきた。
なぜ。私は一人で行くと言った。
三人は私を知らない。日記を読んだだけ。
「フィアのものだ」
レオナさんが言う。
「パンを半分置く癖がある」
「誰のために?」
ミナが聞く。
「お前たちの誰かへ」
沈黙。
「覚えてません」
「知っている」
レオナさんの声は変わらない。
「覚えていないのに、追うのか」
私も聞きたい。姿を見せず、耳を澄ます。
「私は、追うと決めました」
アデルが答えた。
「理由は?」
「あの人が持っていた剣は、私のものだった」
鞘に赤い糸。記憶のない約束。
「私が拒否した傷を、あの人は勝手に受け取った。腹が立つ」
知らない相手へ、怒っている。
「それに、私の剣を返すかは自分で決めろと言った」
アデルの声が近づく。
「なら、追うかも私が決める」
理屈が強い。私が教えたわけではない。
アデルが選んだ。
「私は治療」
ミナが言う。
「あの人、傷が治ったみたいに歩いてたけど、記録では治ってない。痛みを感じないだけ」
「患者だから?」
「知らない人でも、患者は置いていかない」
それだけ。
姉だからではない。好きだからでも。ミナが今、選んだ理由。
「シエナは」
レオナさんが聞く。
「日記」
紙の音がする。
「私の字で、フィアへ使うなと書いてある」
シエナは、はっきり言う。
「フィアは拒否を破った。許していない」
胸が動く。傷ではない。
「でも、このあとも書いてある」
頁をめくる。
「『忘れた私がどうするかは、その私が決める』」
アデルの言葉。シエナの日記へ残った。
「だから私は、自分で会って決める」
「何を」
「許すか。嫌うか。もう一度、そばにいたいと思うか」
未来を約束しなかった。今、選ぼうとしている。
私が期待したこと。三人が、記憶がなくても私を選ぶかもしれない。まだ選んでいない。
選ぶために追っている。
「姿を見せないのか」
レオナさんの声が、まっすぐこちらへ飛んだ。気づいている。三人が武器へ手をかける音。
知らない人が霧の中にいる。警戒する。私は出ようとした。止まる。
ここで合流すれば、また三人を危険へ連れていく。王都は私を器として封じる。
三人は錨ではなくなった。用済みなら、殺されるかもしれない。置いていくべき。
守るために。また。
「出ない」
霧の中から答えた。三人が息をのむ。知らない声。
レオナさんだけが、私の名前を呼ぶ。
「フィア」
聞こえる。自分のものだと思う。まだ。
「一人で行く」
「それは聞いた」
アデルが言う。
「私たちは追う」
「危ないよ」
「知ってる」
「私を覚えてない」
「知ってる」
「守る理由も」
「今、作った」
剣を抜く音がした。
「一人で死にに行く人を止める。相手を知っている必要はない」
「死なないよ」
「記録には、名前を失うと書いてある」
「体は」
「それを生きると呼ぶかは、私が見て決める」
アデルの言葉。前にも聞いた気がする。
記憶ではある。感情が薄くても、言葉は届く。
「私は、三人に追ってほしいと思ってた」
正直に言う。
「たぶん」
「たぶん?」
ミナが聞く。
「今は、よく分からない」
期待した私が薄くなっている。願いが叶い始めたのに、嬉しさまで遠い。
「だから、早くして」
「何を?」
「私が、追ってきてほしかったことを忘れる前に」
霧から出る。三人が私を見る。
やっぱり懐かしさはない。アデルは剣を下ろさない。ミナは治癒鞄を持つ。
シエナは日記を開いている。レオナさんは少し離れて立つ。
「同行を許可して」
シエナが言う。
「許可しなかったら?」
「追う」
「同じだね」
「うん」
私は三人を置いていけない。三人も、知らない私を置いていかない。
理由は同じではない。過去の続きでもない。
「どうぞ」
道を空ける。アデルは先頭へ。
ミナは私の横。シエナは後ろ。昔と同じ並びかは分からない。
三人は知らない。私は覚えている。でも、同じだから選んだのではない。今、危険を考え、それぞれが立った場所。
「名前を確認する」
シエナが言った。
「誰の?」
「全員」
日記を見ず、まず自分から。
「シエナ・ヴァルカ」
次にミナ。
「ミナ・フェル」
アデル。
「アデル・クロウ」
レオナさん。
「レオナ・ハルト」
私。口を開く。
出てこない。
「フィ」
最初の音だけ。三人が待つ。
答えを渡さない。日記へも、まだ目を落とさない。
「フィア」
やっと出た。
「フィア・ルーメル」
「もう一度」
シエナが言う。
「フィア・ルーメル」
「自分の名前?」
「そう」
答える。自信はない。
「今は借り物みたい」
日記へ記録される。
「十分ごとに確認する」
「忘れたら?」
「私が言う」
「日記を読んで?」
「うん」
「気持ちは戻らないよ」
「名前を知らせる。気持ちは約束しない」
今のシエナは、それを分ける。ミナが私の手を取る。
「冷たい」
「白夜だから」
「脈も弱い」
「動ける」
「動けても診察はする」
指を手首へ当てたまま歩く。
「知らない人と手をつなぐの、嫌じゃない?」
「患者」
「便利な言葉」
「嫌だったら離す」
「今は?」
「離さない」
理由は治療。それで十分。
アデルは前を見たまま、時々振り返る。
「何?」
「いるか確認」
「逃げない」
「お前の記録には、一人で行くと何度も書いてある」
「信用がない」
「今から作れ」
知らない人同士の信用。一歩ずつ。私が消えずについていくたび、少し増える。
「パン」
ミナが関所跡へ戻り、残した半分を持ってきた。
「これ、食べていい?」
「うん」
「なんで置いたの?」
「分からない」
ミナは半分をさらに割った。一つを私へ差し出す。
「じゃあ、一緒に食べよう」
受け取る。嬉しい。かすかに。まだ分かる。
知らない人を追う三人と、白夜の道を王都へ進んだ。