名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
王都へ着くまで、半日もかからなかった。白夜の道は速い。使う人の都合を、少しも考えないくらい。
最後の一歩を踏むと、王都北門の前へ出た。空は夜。門の内側だけ、朝。四つの暁鐘が作る薄い光が、王都を丸い壁で囲んでいる。壁の外は白夜。内側には市場の灯と、家々の煙。
二十三万人分の生活があった。
「きれい」
ミナが言う。私は、きれいだと思った。思ったはず。景色へ『きれい』と書かれた札が浮かぶ。
胸は動かない。
「大丈夫?」
ミナが聞く。
「その言葉は禁止」
答える。
「誰が決めたの?」
覚えていない。そうだった。
「前のあなたたち」
「じゃあ今は?」
ミナが少し考える。
「禁止にする」
同じ選択。嬉しい。そう思うまでに、一呼吸かかった。
「体は?」
「動く。痛くない。名前は」
自分の名を言おうとした。出ない。音は知っている。二文字。
何だっただろう。
「フィア」
シエナが日記を見て言う。
「そう」
借りた服みたいな名前。
「私は、フィア」
口へ出す。自分のものだと思えない。
「急ぐ」
シエナが私の手を取った。なぜ触るのか、本人も分からない顔だった。それでも離さない。北門の上から、鐘が鳴る。
「灯守候補を確認!」
暁鐘院の兵が並ぶ。アルノーさんもいた。白い外套。
傷一つない。
「お待ちしていました」
「待たせた?」
「想定より早い」
アルノーさんは私の後ろを見る。アデル。
ミナ。シエナ。レオナさん。
「錨は消失したはずです」
「消えました」
シエナが答える。
「では、なぜ同行している」
「私たちが決めた」
アデルの声。アルノーさんが初めて、不思議そうな顔をした。
「記憶がないのに?」
「記憶がなければ決められないのか」
「候補との関係は存在しない」
「今、ある」
アデルが剣を抜く。その人の名前を、私は知っている。
大事だった。今も大事。なぜ大事か、少しずつ分からない。
「戦わない」
私は言った。アデルが振り返る。
「また一人で決めるのか」
「鐘を開ける」
王都の中へ、白夜を連れてきた。私の足元から霧が広がっている。
門外の木が凍る。
「ここで戦ったら、外の人が」
避難民がいる。第三線から逃げてきた人たち。
門へ入れてもらえず、壁の外へ集まっている。王都を守る光は、外の人を数えない。
「四つの火種を入れれば、外壁を広げられる」
「そのあと、フィアは?」
ミナが聞く。名前。思い出す。
「封じられる」
「分かってるのに?」
「外の人が死ぬ」
「フィアも」
「体は」
「それを言わないで」
知らないミナが、同じところで怒る。
「体だけ残るのを、生きてるって決めないで」
胸が少し動いた。でも時間がない。王都の光が弱くなる。
四つの鐘は、火種がなければ冬至まで持たない。
「先に火種」
私は門へ向く。
「そのあと、封じられない方法を一緒に考える」
「時間は?」
「少ない」
「正直」
シエナが言う。
「練習したから」
覚えている。誰と練習したかは、目の前の日記に書いてある。
「条件があります」
アルノーさんへ言う。
「四人を王都へ入れる。火種を入れるところまで一緒」
「レオナ・ハルトは反逆者です」
「では五人」
数え直した。
「全員」
「拒否すれば?」
「ここで器を割る」
胸へ手を当てる。四つの火種。
白夜。全部を外へ出せば、王都の壁は持たない。するつもりはない。
でもアルノーさんには分からない。
「脅しを覚えましたね」
「誰に習ったか、忘れました」
少し笑う。自分の冗談なのに、遠い。門が開いた。最初に入ったのは、私たちではなかった。
壁の外で待っていた避難民。門兵が止める。
「灯守候補が先だ」
「外壁を広げるまで、同じ」
私は道を譲った。
「候補を危険へ」
「名前で呼んで」
兵が止まる。
「何と?」
自分の名。出てこない。シエナが横から言う。
「フィア・ルーメル」
「そう」
また借りる。
「フィアが最後」
門兵は理解できない顔をした。灯守候補。器。
火種。役割の名なら、迷わず呼べる。人の名だけが書類にない。
「北部第三線、炭焼き町から!」
レオナさんが避難民へ声をかける。一家族ずつ門を通す。王都の兵は嫌そうに数えた。
一人。
二人。役に立つかは聞かない。
病気かだけ確認する。白夜病の人も、ミナが治療対象と署名して中へ入れた。
「責任者名」
門兵が紙を出す。
「ミナ・フェル」
迷わず書く。私はその字を見る。知っている字。何度も日記や薬袋で見た。
好きだった。たぶん。
「私も書く?」
「患者」
「もう歩ける」
「傷は治ってない」
同じやり取りをした気がする。記憶にはある。今、少しだけ面白いと思った。避難民の最後は、小さな女の子だった。
母親の手を握っている。私を見上げる。
「白い人」
私の髪には霜がつき、足元から白夜が出ている。怖がると思った。女の子は空いた手を差し出した。
「寒い?」
聞かれる。
「分からない」
「これ」
毛糸の紐。赤。手首へ巻かれる。
「あったかい色」
実際の温度はない。でも、赤を見て温かいと判断する。
「ありがとう」
女の子は母親と門へ入った。名前を聞き忘れた。追おうとする。もう人の波に入って見えない。
「名前」
私が言う。
「何?」
ミナ。
「あの子の名前、聞かなかった」
「また会ったら聞こう」
「会えなかったら?」
「門の名簿にある」
記録。全部ではない。でも、探せる。赤い紐を外さず、王都へ入った。
*
王都の人は、白夜を見ていなかった。空が薄暗いとは思っている。物価が上がった。
北部の荷が来ない。冬至祭が中止になった。
それだけ。
通りには店が開き、酒場から音楽が聞こえる。壁の外で、村が凍ったことを知らない。知らされていない。
「知らせる」
レオナさんが言う。
「鐘を開けたら、中央広場の告知板へ記録を出す」
「捕まる」
「もう反逆者だ」
便利。一度なれば、あとは自由らしい。暁鐘は、王城の四方にある。
東。西。南。北。
中央の封印塔から、地下水路でつながっている。私たちはまず北鐘へ入った。
北鐘までの通りで、四回、自分の名を確認した。一回目はシエナ。二回目はミナ。
三回目はアデル。四回目はレオナさん。
「順番を決めたの?」
「決めてない」
シエナが言う。気づいた人が呼ぶ。誰か一人の役にしない。
「フィア」
アデル。
「はい」
「返事はできる」
「まだ」
「まだ、って言うな」
「どうして」
「消えることを、もう決まったみたいに言う」
アデルは私を覚えていない。それでも、消える予定として扱われる私へ怒る。
「消えないと思う?」
「分からない」
「なら」
「分からないまま、呼ぶ」
今までと同じ。保証がなくても、今の選択を重ねる。
「フィア」
「はい」
五回目。北鐘の扉まで、名前を落とさずに着いた。扉に鍵はない。
治療棟と同じ。外から術式で開く。アルノーさんが印を当てる。
「入って」
鐘の下へ立つ。胸の赤い火種が反応する。第一火種。
古砦で得たもの。どうやって得たか覚えている。アデルを救った。記憶を奪った。
エッダ・ランの名を呼んだ。事実はある。
そのとき何を思ったか、薄い。
「返す」
胸から赤い光を出す。北鐘へ入る。
鐘が鳴った。王都の北壁が外へ広がる。門外の避難民を光が包む。
歓声が聞こえた。嬉しい。たぶん。次は西鐘。
青い第二火種。水鏡の塔。
シエナの日記。葬儀帰りの笑い。シエナを見る。
本人は覚えていない。
「何?」
「あなたが笑った」
「いつ」
「もうない日」
「そう」
何も感じない顔。私の胸も、さっきより何も感じない。青い火を鐘へ返す。西の外壁が広がる。
第三は南。アデルの橙。
木剣。屋根。剣を持つ理由。
「返していい?」
聞く。
「火種は王国へ」
「あなたの剣にあった」
アデルは柄頭を見る。空になった場所。
「返して」
私ではなく、火種へ言った。橙の火を鐘へ入れる。南壁が光る。最後は東鐘。
金色。ミナの治癒鞄。
四人分の杯。今、ミナは鞄を持って私の横にいる。
「私が入れる」
手を出す。火種を胸から取り出し、ミナの掌へ置く。
金色の光。ミナは驚く。
「熱くない」
「朝の火だから」
「朝って熱いの?」
「たぶん」
二人とも知らないみたいな会話。ミナが火種を東鐘へ入れた。
四つ目の鐘が鳴る。王都全体へ、朝の光が満ちた。白夜の流入が止まる。
地方へ流していた術式も、四火種の力で一度押し返される。成功。
「フィア」
シエナが呼ぶ。音は分かる。自分の名だと、すぐには分からなかった。
「フィア」
二回目。
「私?」
「うん」
シエナの顔が硬くなる。
「名前が消えてる」
火種がなくなった胸へ、白夜だけが残る。重い。でも重いと感じない。
「急いで出る」
アデルが私の腕を取る。知らない人の手。振り払う理由もない。
鐘室の扉が閉まった。内側から。今度はアルノーさんもこちら側にいない。
「条件が」
私が言う。壁から声がする。
「火種を納めるまで一緒、という条件は守りました」
また言葉遊び。白い術式が床へ浮かぶ。
私の足だけを囲む。
「無名の器を、中央封印塔へ移送します」
アデルが剣を抜く。シエナが壁を調べる。
ミナが私の腕を引く。レオナさんは天井を見た。
「分断術だ!」
床が割れる。私だけが落ちた。
三人の手が届く。指先。触れない。
白い穴へ沈む。
「フィア!」
三人が名前を呼ぶ。聞こえる。誰の名か分からない。
私の名だった気がする。答え方を思い出す前に、鐘室が遠くなった。
*
中央封印塔の最下層。百年前、ユリアが置かれた場所。鎖。
四つの鐘へつながる管。中央に、白い椅子。
「座ってください」
アルノーさんが待っていた。
「嫌」
すぐ言えた。
「理由は?」
分からない。
嫌だと思う。理由の札が薄い。
「誰かと帰る」
「誰と?」
三つの顔。名前。
アデル。ミナ。シエナ。
「あの三人」
「あなたを知らない」
「知ってる」
「あなたも、間もなく執着を失う」
「その前に帰る」
白い兵が周りを囲む。傷つけられても痛くない。戦う力はない。
火種も鐘へ渡した。椅子へ押さえつけられる。鎖が腕へ巻かれる。
「王国を救ったのです」
アルノーさんが言う。
「誇ってください」
「誇るって、どんな感じ?」
聞く。もう分からない。アルノーさんは答えなかった。
白い冠が、私の頭へ下りてくる。名前を最後まで切る道具。処刑ではない。体は残る。
だから王国は、これを封印と呼ぶ。私を殺さないまま、私を終わらせる。