名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
白い冠が、私の名前を切る。音はしない。最初に、フィアという二文字が頭から離れた。
意味は知っている。誰かの名。さっき三人が呼んでいた。私へ向けて。
「名前を言ってください」
アルノーさんが言う。
「何の?」
「あなたの」
「ない」
正しい答え。アルノーさんが頷く。
「接続を開始」
鎖から白夜が抜ける。四つの管へ流れる。暁鐘が鳴る。
私の中にあった人の傷。凍った心臓。失われた記憶。全部を、王都を囲む光へ変える。
外の白夜が後退する。王国が助かる。
いいこと。たぶん。
「フィア!」
上で声がした。鐘の音より大きい。
誰だろう。
「北管が破損!」
兵が叫ぶ。天井から橙色の光が落ちた。
剣。黒い髪の女。名前。
知っている。アデル。なぜ知っているのかは、記憶にある。大事だった理由はない。
「その人から離れろ!」
アデルが兵の槍を剣で払う。三人。四人。
次々に階段から降りてくる。正面の階段ではない。北管の保守穴。人一人がやっと通れる幅を、アデルが剣で広げたらしい。石の粉で髪が白くなっている。
「どうやって」
「日記に塔の図があった」
シエナが答える。王墓の記録。百年前、ユリアが運ばれた経路。現在の暁鐘院は消したつもりだった。
シエナの写しに残った。
「北鐘室から落ちたあと、何分?」
「十七分」
そんなに。私には、名前を一つ失う時間だった。
三人には、壁を二枚切り、兵を避け、管の中を這う時間。
「一度、道を間違えた」
ミナの服が濡れている。
「排水路へ落ちた」
「私は落ちてない」
アデルが言う。
「アデルちゃんが先に飛んだ」
「落ちるのと飛ぶのは違う」
言い争っている。私を助けに来る途中で。
昔も、こうだった気がする。記憶を探す。三人が旅の道で言い争う場面。
たくさんある。懐かしい。感覚が出ない。
「どうして、そこまで」
聞く。アデルが兵の槍を受けた。
「決めたと言った」
「一度決めたら、死ぬまで?」
「途中で変えてもいい」
剣を返す。
「まだ変えてない」
ミナが薬瓶を投げる。
「私は、途中で帰りたくなった」
「帰ればよかった」
「でも、フィアが一人で処置されるって聞いたら、もっと嫌だった」
シエナは床へ術式を置く。
「私は合理的に判断した」
「何を?」
「フィアが器になると、白夜は百年後に再発する。救出が必要」
「私個人は?」
シエナの手が一瞬止まる。
「それだけではない」
「何?」
「分からない」
分からないことを、無理に過去へ結びつけない。
「でも、あなたが落ちたとき、追わなければいけないと思った」
今の身体反応。日記。合理性。
怒り。全部を合わせても、一つのきれいな理由にはならない。それでも来た。
「ありがとう」
感謝している。たぶん。言葉へすれば、少し感覚がついてくる。
「助かってから」
シエナが言う。まだ途中だった。
金髪のミナ。銀髪のシエナ。レオナさん。
名前へ敬称をつける理由が、少し分からない。
「侵入者を拘束!」
アルノーさんの命令。白い兵が囲む。アデルは私の前へ立った。
盾を持っていない。剣だけ。それでも、体で槍を受ける。
「何してるの」
聞く。
「守ってる」
「知らない人を?」
「決めたから」
槍が肩をかすめる。血。灯替えは反応しない。もう、術を使う私の名がない。
「傷ついてる」
「見れば分かる」
「逃げたほうが」
「お前を連れて」
アデルは一度も振り返らない。私を懐かしむ顔も。失いたくないと泣く声もない。
ただ、今ここで盾になると選んでいる。
「東管、閉鎖!」
ミナが治癒鞄を管へ投げる。金色の輪がない鞄。中の薬瓶が割れ、霧が広がった。
兵が咳き込む。
「何の薬?」
私が聞く。
「眠り薬の反対の反対」
「眠り薬?」
「うん」
「最初からそう言って」
「時間ないの!」
ミナが鎖へ近づく。私の腕を見る。
「痛い?」
「分からない」
「じゃあ、私が見る」
脈。瞳。呼吸。知らない患者を診る手。
「右肺が動いてない。胸の骨も折れたまま。これで歩いてたの?」
「動いた」
「動くのと治ってるのは違う!」
怒る。記憶があったころと同じかは分からない。
でも、今の怒りは私へ向いている。
「鎖を外したら、体が止まるかもしれない」
「では、つけたまま」
「嫌」
ミナが鎖へ治癒灯を入れる。
「これは治療じゃない。フィアを燃料にしてる」
「フィア?」
自分の口から出す。音が近い。でも、まだ私にならない。
「あなた」
ミナが言う。
「今は、あなたの名前」
知らない人に名を渡される。
「フィア」
もう一度。金色の光が鎖を止める。
「覚えて」
「無理」
「じゃあ、聞いて」
聞く。
*
シエナは床へ日記を広げた。何冊もある。旅の最初から。私の名前が、どの頁にも書かれている。
「西管は壁の中」
レオナさんが言う。
「鍵がない」
「知ってる」
シエナは青い線を引く。
「扉を使わない」
壁を四角く切る。治療棟と同じ方法。
白い板が倒れ、管が出る。
「なぜ分かるの」
聞く。
「日記」
「日記がなかったら?」
「分からなかった」
シエナは正直に言う。
「あなたを見ても、何も思い出さない」
「うん」
「懐かしくない」
「うん」
「大事だったと書いてある。でも今の私には、その気持ちはない」
「知ってる」
胸は痛まない。痛む部分がなくなったから。なのに、聞きたくないと思う。
「それでも来た」
シエナが西管を切る。白夜の流れが一つ止まる。
「私の記録を、他人が書いたことにしたくない」
「自分の字?」
「うん」
「でも気持ちは」
「戻らない」
「それで、私を助ける?」
「助けてから、怒る」
順番が決まっているらしい。
「記録では、私はあなたに腹を立ててる」
「今も?」
シエナは私を見る。
「今は、勝手に一人で封じられたことに腹が立ってる」
新しい怒り。私たちの過去がなくても生まれた。
「フィア」
名前を呼ぶ。
「私がそう?」
「今は、そう」
今。その言葉だけが、白い中へ残る。
*
アルノーさんは、南管を自分で守っていた。杖を上げる。
暁鐘院の術師が、レオナさんを囲む。
「あなたは何をしているか分かっているのか」
「よく分かっている」
レオナさんは王墓から持ち出した記録を掲げた。
「百年前の罪を、同じ方法で繰り返している」
「一人で国が救える」
「一人が人でなくなる」
「死にはしない」
「それを決める権利が、お前にあるのか」
「王国にはある」
「ない」
レオナさんは暁鐘院の古い印章を投げた。監察官の銀紋。
アルノーさんの足元へ落ちる。
「暁鐘院規則第一条。灯を持つ者の意思なく、記憶を燃料としてはならない」
「非常時例外が」
「灯守候補を物として扱う例外はない」
「王命だ」
「王命は法ではない」
剣を抜く。レオナさんは術師ではなく、アルノーさんへ向かった。周りの兵が迷う。
監察官だった人。院長代理。どちらへ従うか。
「記録は中央広場へ出した」
レオナさんが言う。
「北部各地からも同じ告発が届いている。もう白い市場を三人の逃亡職員だけにはできない」
アルノーさんの顔が崩れた。
「それでも封印は必要だ!」
杖を床へ突く。南管から白い光が逆流した。白夜が、私の中へ一気に戻る。頭の冠が締まる。
名前。なくなる。
三人の声も遠くなる。
「フィア!」
誰。
「手を!」
誰の。銀色の髪の人が、私へ手を伸ばす。取る理由はない。それでも。
体が先に動いた。シエナの手を取る。
記憶ではない。今、差し出されたから。ミナが反対の手。
アデルが前で白夜を受ける。レオナさんが南管を斬った。四本すべて止まる。白い冠へ、ひびが入った。
鎖が外れる。体が床へ落ちる。
右肺が動かない。骨が支えない。今度こそ、体が止まる。
ミナが受け止めた。治癒灯。傷は治らない。でも呼吸を補う。
「そばにいる」
誰かが言う。ミナ。名前は分かる。
「治せなくても」
日記に書いてあった約束。今のミナが、もう一度言う。
「なんで」
聞く。
「私が、そうしたいから」
アデルが私を背負う。知らない人の背中。
「行くぞ」
「どこへ」
「外」
「どうして」
「ここに置いていかない」
理由は、それだけ。シエナは手を離さない。四人で封印塔の階段を上る。
一段目で、足が止まった。体が壊れている。アデルに背負われていても、呼吸が続かない。ミナが首へ手を当てる。
「ここで休む」
「白夜が」
「十秒」
「そんな」
「数える」
シエナが言う。
「一」
階下で兵が動く。レオナさんが足止めしている。
「二」
白夜が管から漏れる。天井へ集まる。
「三」
急がないと。私のせいで遅れる。降りれば、三人は速く進める。
「置いて」
「四」
誰も聞かない。
「私はここで」
「五」
「王都を」
「六」
「聞いて」
「七」
アデルの背が上下する。本人も肩から血を流している。
「アデルも休んでる」
ミナが言う。私だけのためではない。全員が十秒必要。
「八」
呼吸が少し入る。
「九」
自分の名を思い出そうとする。出ない。
「十」
「フィア」
三人が言った。音が胸へ落ちる。
「行くぞ」
アデルが立つ。十秒。世界は終わらなかった。止まっても、また進めた。
階段を上る。二段目。
三段目。途中で、壁に古い引っかき傷があった。文字。
『ユ』
一文字で途切れている。百年前、ユリアが残したのかもしれない。
名前を忘れる前に。
「シエナ」
「見た」
日記へ写す。今度は途中で消させない。アルノーさんはレオナさんと兵に囲まれている。
王都の鐘が乱れて鳴る。封印が途中で止まった。白夜は、私から出る場所を失った。塔の上へ集まる。
女の形になる。黒い髪。
白い服。名前。知っている。
何だっただろう。
『名を返して』
女の声が、王都中へ響いた。白夜が四つの鐘を覆う。ユリア・アステル。
思い出した。歴史から忘れられた人が、王都へ戻ってきた。