名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

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忘れられた魔女の名前

王都の人々が、空を見上げている。白い女。暁鐘を抱くほど大きい。

 顔は見えない。声だけが降る。

 

『名を返して』

 通りの看板から、文字が消えた。人々が自分の名を忘れる。母親が子どもを見て、誰、と聞く。

 兵が隣の兵へ剣を向ける。王都が初めて、地方へ流していた白夜を受ける。

 

「止めないと」

 アデルの背で言う。

 

「どうやって」

 シエナが日記を開く。

 

「名前」

 白い女を見上げる。

 

「ユリア」

 声へした。空の顔が、こちらを向く。

 

『誰』

 

「ユリア・アステル」

 

『それは、誰』

 自分の名を、自分のものだと思えない。私と同じ。名前だけ返しても、百年の空白は埋まらない。

 

「話す」

 アデルの背から下ろしてもらう。立てない。中央広場の鐘台へ座る。

 シエナが隣に日記を置く。レオナさんが封印塔から出てきた。アルノーさんは兵に拘束されている。

 

「中央鐘を使える?」

 レオナさんへ聞く。

 

「四管は止まった。放送だけなら」

 

「王都中へ?」

 

「届く」

 

「記録を読んで」

 王墓から持ち出した石板の写し。初代灯守の記録。

 白い市場への注文書。無名の器の規則。

 

 全部。

 

「混乱する」

 王城の役人が止める。

 

「もうしてる」

 ミナが言った。知らない子どもを抱いた母親が泣いている。

 名前を忘れた兵が、自分の胸章を読んでいる。

 

「歴史を公表すれば王国の信頼が」

 

「名前より大事?」

 ミナが睨む。役人は黙った。

 

「読む」

 レオナさんが中央鐘の壇へ上がった。声を増幅する術式へ、記録を置く。

 

「レーヴェン王国の民へ」

 王都中の鐘が、声を運ぶ。

 

「百年前、王国は一人の女性を無名の器とし、白夜を封じた」

 広場が静かになる。

 

「公式史は、その女性を冬の魔女と呼ぶ。これは偽りだ」

 広場の端で、王城の記録官が声を上げた。

 

「その記録は偽造だ!」

 人々が揺れる。

 

「英雄王オスカーは魔女を討った。百年、そう伝えられている」

 

「百年伝えれば、嘘は事実になるのか」

 レオナさんが問い返す。

 

「王墓の石板は」

 シエナが写しを掲げる。

 

「削られた文字の深さ、石の年代、術式の残光。すべて記録した」

 

「反逆者の仲間の記録だ」

 

「では王都の術式師へ調べさせて」

 シエナは写しを一枚ずつ、広場へ投げた。風の術に乗る。大学の紋章をつけた老人が拾う。教会の司祭。

 暁鐘院の若い術師。別々の人が読む。

 

「石圧の復元式は正しい」

 最初に老人。

 

「王墓の封蝋も本物です」

 若い術師。

 

「初代王の祈祷文に、四人目へ向けた空白がある」

 司祭。一つの記録だけではない。

 消した人たちは、全部を消せなかった。

 

「騙されるな!」

 記録官が叫ぶ。

 

「王国の秩序が崩れる!」

 

「もう崩れてる」

 門外から入った炭焼きの男が言った。

 

「俺の村へ白夜を流したのは誰だ」

 別の女が続く。

 

「第三線で娘を止められた」

 

「検疫だと聞いた」

 

「食料はどこへ行った」

 声が増える。真実を話せば、皆が一つになるわけではない。

 怒る人。信じない人。自分に関係ないと離れる人。

 それでも、知らないまま決めさせられるよりいい。

 

「静粛に!」

 王城兵が槍を床へ打つ。アデルが前へ出た。

 

「武器を向ける相手を間違えるな」

 

「反逆者が」

 

「そうだ」

 認める。

 

「だから私の言葉も疑え。記録を自分で読め」

 兵は槍を下ろさない。でも、前へも出なかった。人々が写しを回す時間ができる。

 一人ずつ、自分の目で。白い女が、レオナさんを見る。

 

『嘘』

 

「あなたの名は、ユリア・アステル」

 レオナさんが言う。

 

『知らない』

 

「初代灯守。騎士カレン、術師ニルダ、侍女マーヤと四人で、百年前の白夜から王国を救った人」

 空へ、王墓の記憶が映る。四人で笑う姿。兜を鍋にするユリア。日記へ献立を書くユリア。

 菓子を盗むユリア。王都の人々が見る。

 冬の魔女ではない。笑う人。

 

「ユリアは三人を救うたび、三人の中から自分との記憶を失った」

 カレンが忘れる。ニルダが忘れる。

 マーヤが忘れる。最後に、全員がユリアを知らない人として見る。広場から声が消える。

 

「王国は、ユリアの名、記録、肖像を消した。英雄王オスカーが魔女を倒したと歴史を書き換えた」

 

『やめて』

 白い女が叫ぶ。鐘が揺れる。白夜がレオナさんへ集まる。

 アデルが前へ出た。剣で霧を切る。

 

「続けろ!」

 

「ユリアは生きたまま、暁鐘の地下へ隔離された。百年、誰にも名を呼ばれなかった」

 

『やめて!』

 

「なぜ」

 私は白い女へ聞く。

 

「名を返してほしいんじゃないの?」

 

『それは私じゃない』

 ユリアの顔が少し戻る。黒い髪。細い頬。

 

『私は、三人に呼ばれたかった』

 カレン。ニルダ。

 マーヤ。もういない。百年前に死んだ。

 

『知らない人に呼ばれても、戻らない』

 正しい。王都中が名を呼んでも、三人の記憶は戻らない。

 ユリアが欲しかった日々は返らない。

 

「うん」

 私は答える。

 

「戻らない」

 

『なら黙って』

 

「嫌」

 

『なぜ』

 

「なかったことにしないため」

 

『あなたは、私を知らない』

 

「うん」

 

『私の好きな食べ物も』

 

「知らない」

 

『笑い方も』

 

「王墓で少し見た」

 

『それは記録』

 

「うん」

 

『三人だけが知っていた私を、あなたは知らない』

 ユリアの言うとおり。兜を鍋にした人。

 日記へ献立を書いた人。それは灯の記録で見た姿。本人のすべてではない。

 

「知らないまま呼ぶ」

 

『なぜ』

 

「知ってるふりをしないため」

 私の三人も、今の私を知らない。日記には昔の私がいる。でも今、名前を失いかけ、何も感じなくなっている私は、記録のどこにもいない。それでも名前を呼んだ。

 

「ユリアがどんな人だったか、全部は分からない」

 

『なら、冬の魔女かもしれない』

 

「人を凍らせた」

 

『そう』

 

「王国を救った」

 

『そう』

 

「三人を愛した」

 

『そう』

 

「全部、同じ人」

 英雄だけにもしない。かわいそうな犠牲者だけにも。

 冬の魔女という嘘を、今度は完全な聖女という嘘へ替えない。

 

「許さない人もいる」

 広場では、家族の名を失った人が空を睨んでいる。

 

「感謝する人も」

 白夜から救われた人。

 

「どちらも、ユリアの名前へ向けられる」

 

『怖い』

 ユリアが言った。初めて。

 

『魔女と呼ばれるより、私として憎まれるほうが怖い』

 

「分かる」

 私も三人へ記録を残した。拒否を破った。自分のために救った。未来の三人に嫌われるかもしれない。

 

「でも名前がないと、許すか嫌うかも選べない」

 ユリアの顔が戻っていく。逃げるように、また白くなる。

 

「ここにいて」

 命令ではない。

 

「名前を呼ばれて。怒られて。感謝されて。それから、どうするか決めて」

 

『遅い』

 

「うん」

 

『私には、もう決める体がない』

 

「残響でも、今返事をしてる」

 ユリアは黙った。完全に人ではない。

 完全にただの霧でもない。今の声を、今の選択として聞く。過去は戻らない。

 名前を公表しても、百年の孤独は消えない。それでも、冬の魔女だったことにはさせない。

 

「あなたが救ったことを、今の人が知る」

 

『遅い』

 

「遅い」

 

「あなたが三人を愛したことを残す」

 

『三人は忘れた』

 

「忘れても、杯と髪と日記を残した」

 シエナが王墓の記録を読む。

 

『私は四人だったと言う。記録は三人だと言う。杯は四つあった。』

 マーヤの言葉。アデルが続く。

 

『私の剣の鞘には、知らない女の髪が結ばれている。外せない。理由を思い出せない。』

 カレン。ミナが読む。

 

『日記のすべての頁に、誰かの名を書いた跡がある。私は、その空白を愛していたと思う。』

 ニルダ。三人が読んでいる。

 ユリアの三人ではない。私のことも覚えていない三人。だからこそ、今の言葉だ。

 

「私たちも、この人を忘れた」

 アデルが私を示す。

 

「名前は」

 少し止まる。

 

「フィア・ルーメル」

 胸の奥で、何かが灯った。小さい。昔の記憶ではない。

 今、アデルが私を見て、呼んだ灯。

 

「私はフィアを懐かしいと思わない」

 アデルは王都中へ言う。

 

「だが、この人が私の拒否を破って命を救い、一人で器になろうとしたことを知っている。怒っている。置いていきたくないと思っている」

 橙色の新しい灯。ミナが私の手を取る。

 

「私はフィアの匂いも、声も覚えてない。でも、傷が治ってない患者を置かないって決めた。パンを半分にしたら、一緒に食べたいと思った」

 金色。シエナも手を重ねる。

 

「私は記録を信じる。気持ちは戻らない。でも、今、フィアの手を離したくない」

 青色。三つの新しい錨。過去の代わりではない。

 今の三人が作ったもの。フィアという音が、胸へ戻る。まだ借り物みたい。でも、さっきより近い。

 

「ユリア」

 私は白い女を見る。

 

「三人は、あなたを思い出せない」

 

『知っている』

 

「でも、残したものを私たちが読んだ」

 

『それで何になる』

 

「今の四人が、あなたの名前を残すと決めた」

 ユリアの顔が歪む。怒り。悲しみ。

 百年ぶりの感情。

 

「忘れられたことは戻らない。でも、忘れられたままにもさせない」

 中央鐘へ手を置く。四つの火種は、鐘の中にある。その光で、ユリアの名を王国中へ送る。

 

「ユリア・アステル」

 鐘が鳴る。アデル。

 

「ユリア・アステル」

 ミナ。

 

「ユリア・アステル」

 シエナ。

 

「ユリア・アステル」

 レオナさん。広場の人は、すぐには続かなかった。

 知らない名前。冬の魔女と教わった人。王国の罪。

 一人の子どもが、最初に呼んだ。

 

「ユリア」

 

「その人、悪い人?」

 子どもが母親へ聞く。母親はすぐ答えなかった。

 

「分からない」

 

「いい人?」

 

「それも、分からない」

 

「じゃあ、どうして呼ぶの?」

 

「名前がある人だから」

 母親も呼ぶ。母親が子どもの名を忘れて泣いていた人。その母親も。

 

「ユリア・アステル」

 兵。商人。役人。

 王都の人々。一人ずつ。鐘が名前を広げる。北部へ。

 ミレイスへ。トール山へ。

 リーネへ。シエナが各地へ残した写しを読む人々も、呼ぶ。何万人もの声。

 ユリアの白い体へ、色が戻る。黒い髪。茶色い目。白い服には、古い染み。

 灯守ではない。魔女でも。

 一人の女性。

 

『三人に、呼んでほしかった』

 

「うん」

 

『遅い』

 

「うん」

 

『許さない』

 

「許さなくていい」

 私も三人に言われた。許しは、終わりではない。許されなくても、残すことはできる。

 

『それでも、聞こえる』

 ユリアが目を閉じた。王国中の声を聞く。名前。

 百年、呼ばれなかった名前。

 

『もう、寒くない』

 白夜が止まった。ユリアの体から、霧が離れる。空へ上がる。

 雪ではなく、水になる。王都へ雨が降った。白い壁が溶ける。看板の文字が戻る。

 人々が自分の名を思い出す。大切な人の記憶は、戻らない。

 奪われた過去は、そのまま。でも、これ以上は消えない。東の空に、光が出た。

 本物の朝。ユリアは最後に、私を見た。

 

『あなたは、帰れる?』

 

「分からない」

 朝麦亭を思い出す。帰りたい感覚は、まだ薄い。

 

「でも、帰るって決めたい」

 ユリアが笑った。王墓で見た、いたずらをする前の顔。

 

『では、はじめまして』

 

「はじめまして」

 

『さようなら』

 

「さようなら、ユリア」

 名前を呼ぶ。ユリア・アステルは、朝の光へ消えた。

 忘れられた魔女ではなく。名前を持つ、一人の灯守として。

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