名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
朝が来たあと、私は三日眠った。目を覚ますと、白い天井。
「また監禁?」
声が出た。
「治療室」
シエナが答えた。寝台の横。椅子に座って、日記を読んでいる。
「鍵は?」
「ある。内側に」
「よい治療室です」
反対側にミナ。寝台へ突っ伏して眠っている。
窓辺にアデル。剣を手入れしている。三人ともいる。
知らない人を見守る距離で。
「おはよう」
言う。ミナが飛び起きた。
「起きた!」
「今」
「どこ痛い?」
最初の質問がそれ。
「分からない」
三人の顔が険しくなる。
「違う。痛いところはない」
「本当に?」
「今のところ」
体を確かめる。左脚はまっすぐ。胸もへこんでいない。右肺へ空気が入る。
白夜へ変わった傷は、ユリアと一緒に消えた。治った、とは少し違う。
骨が折れた記憶は体にある。動くと、ないはずの痛みを感じることがある。両手の指先は冷たいまま。
「名の灯は?」
シエナが聞く。
「フィア」
自分で言う。
「フィア・ルーメル」
昨日より近い。自分の名前だと思える。
「戻った?」
「新しくついた感じ」
昔の札を貼り直したのではない。三人が今、私を呼んだ。王都の人々も。
その声で、新しい名の灯ができた。
「記憶は?」
「全部ある」
私には。アデルが木剣を作った日。ミナの熱の夜。シエナが笑った葬儀帰り。
全部。
三人の顔を見る。何も思い出した様子はない。
「そちらは?」
「戻ってない」
アデルが答える。
「フィアと話したことも、助けられたことも。記録で読んだだけだ」
「私も」
ミナが自分の手を見る。
「パンを分けたのは覚えてる。白夜の道で。でも、それより前は全然」
「私も」
シエナが日記を閉じる。
「過去のフィアへ、感情はない」
はっきり。胸は痛む。
痛むことに、少し安心した。
「戻らなくていい」
口から出た。三人がこちらを見る。
「よくはない。戻ってほしい」
訂正する。
「でも、戻らないものを、戻ったことにしなくていい」
昔のように振る舞ってほしいとは言わない。ミナに同じ寝台へ来てほしい。アデルに隣へ立ってほしい。
シエナに私だけの冗談へ反応してほしい。望みはある。押しつけない。
「フィアは、私たちを覚えてる」
ミナが言う。
「うん」
「ずるいね」
「うん」
「私たちが知らない私たちを知ってる」
「話してほしくないことは、話さない」
「聞きたいときは?」
「話す」
「本当かは、どうやって分かる?」
痛いところ。私は過去を独占している。都合よく話すこともできる。
「分からない」
正直に答える。
「日記と、母さんと、物を一緒に見て。それでも私の話を信じるかは、三人が決めて」
シエナが頷く。
「そうする」
ミナが私の左手を取った。
「もう一つ、確かめる」
指先へ治癒の灯が触れる。温かい。前なら、ミナの灯が傷を見つけるより早く、その傷を私の中へ引っ張れた。今は何も起きない。
「灯替えは?」
「聞こえない」
傷についた名前も、誰かの命が切れそうな音も。世界が急に静かになったみたいだった。
「使えない?」
「たぶん」
アデルの肩から力が抜ける。喜んだのだと分かって、胸の奥が少しだけ反発した。役に立てなくなった。
最初に浮かんだのは、それだった。
「残念そう」
シエナには見つかった。
「便利だったから」
「便利?」
「誰かが死にそうなとき、私が代われば済む」
三人の顔が同時に険しくなる。知らないはずなのに、この顔だけは昔とよく似ていた。
「済んでない」
ミナが私の手を強く握った。
「少なくとも、私はそう思う。昔の私は分からないけど」
「記録では同じことを言ってた」
シエナが日記の頁をめくる。
「じゃあ二票」
「私は?」
アデルが聞く。
「剣で脅す係」
「三票だ」
可決された。灯替えが消えたことを、私はまだ喜べない。手を伸ばせば救えた命へ、これから届かないこともある。
ただ、三人を守る方法が一つ減った代わりに、三人から選択を奪う方法も一つ減った。それはたぶん、悪いことだけではない。
*
王都は、朝が戻ってからも忙しかった。白夜が消えれば、全部が終わるわけではない。
北部から逃げた人。記憶を失った人。家を失った人。
王都の門外で拒まれた人。治療と食料と寝る場所が必要。ミナは治療室を手伝った。アデルは北部騎士団と避難民の警備へ入った。
シエナは記録の写しを法務院へ提出した。レオナさんは三日眠らず、証言した。
「寝ないと死ぬよ」
四日目、廊下で会った。
「お前に言われたくない」
「今は健康です」
「三日寝ていた」
「効率よくまとめました」
レオナさんは、少し笑った。暁鐘院長代理アルノー・セルムは拘束された。白い市場。
記憶の買い取り。地方流入計画。灯守候補の無名化。記録と証人が多すぎて、もう逃亡職員だけの責任にはできない。
王太子府は冬至防衛計画を停止し、暁鐘院を法務院の管理下へ置いた。英雄王の像から、冬の魔女を踏みつける彫刻が外された。
中央広場には、新しい板が立つ。
『初代灯守ユリア・アステル』
その下に、カレン、ニルダ、マーヤ。四人の名。
「これで許されたことにはならない」
レオナさんが言う。
「うん」
「王国は百年、彼女の犠牲で守られた。名前を書くだけでは足りない」
「でも最初」
「ああ」
最初の一枚。これから、記録を戻す。被害を調べる。
生きている人へ償う。終わるまで、たぶん長い。板の前には、花だけでなく紙も置かれていた。
『母の冬を返してください』
『買われた記憶の行方を調べてほしい』
『灯守を英雄にして終わらせないで』
きれいな感謝ばかりではない。誰かを名づければ、それで穴が埋まるわけでもなかった。人垣の外で、一人の女の人が私を見ていた。
北門で会った人だ。六歳の娘が白夜熱にかかり、記憶を売ったと証言した。
「灯守様」
呼ばれて、私は足を止める。
「様はいりません」
「では、フィアさん」
名前で呼ばれると、胸の灯が少し熱くなる。うれしい。だからこそ、受け取っていい声か分からない。
「娘は助かりました」
「よかった」
「私の顔は、まだ思い出しません」
次の言葉が見つからなかった。王都を救った。白夜を止めた。そんな大きな答えは、この人の娘が母親を忘れたことへ何の役にも立たない。
「ごめんなさい」
「あなたが買ったのではありません」
「でも、同じ術を使いました」
「だから聞きたいんです。忘れた側は、もう娘ではないんでしょうか」
私は三人を見る。三人は答えを渡してくれない。私が言うのを待っている。
「娘さんです」
言ってから、首を振った。
「違う。私が決めることじゃないです」
女の人の眉が寄る。
「私は、忘れられた側です。昔と同じようにしてほしいって、何度も思います。でも、覚えてない人へ昔の役をさせたら、その人の今をまた取ることになる」
自分へ言い聞かせる声になった。
「娘さんが今、あなたをどう呼ぶか。どこまで近づいていいと思うか。一緒に決めてください。昔の娘さんを取り戻すんじゃなくて」
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないです」
そこだけは、すぐ答えられた。
「毎日、たぶん痛いです」
女の人は長く黙った。
「あなたも?」
「はい」
「それでも帰るんですか」
「帰りたいから」
役に立つ答えではなかった。それでも女の人は、紙を一枚、板の下へ置いた。
『娘と、もう一度暮らす方法を探します』
許しではない。希望だけでもない。今日決めた、次の行動だった。
「レオナさんは?」
「法務院の保護下で証言を続ける」
「反逆者は?」
「王命が違法だったと、正式に判断されるまで保留」
「まだ反逆者」
「便利だぞ」
覚えたらしい。
「村へは?」
「お前たちが先に帰れ」
「一人で?」
「法務官が十人いる」
「パンを食べた仲なのに」
「一生有効ではなかったのか」
レオナさんから言った。今度は私が笑う。
笑えた。自分の内側から。
「あとで帰ってきて」
「任務が終わったら」
「約束?」
「予定だ」
それでいい。
*
王都を出る朝、三人が私の寝台へ来た。
「話がある」
アデルが言う。
「一人ずつ?」
「三人で」
少し緊張する。
「私たちは、リーネへ帰る」
「うん」
「フィアも連れていく」
「荷物として?」
「歩けるだろ」
冗談は通じなかった。
「どうして?」
聞く。理由が知りたい。
昔の家族だからではない。
「日記と物を、朝麦亭で確認する」
シエナが言う。
「フィアの話も聞く」
「怒るため?」
「それも」
正直だ。
「私は、治療の経過を見る」
ミナ。
「あと、朝麦亭のパンを食べたい」
「母さんの?」
「フィアも焼けるって聞いた」
「焼けます」
「じゃあ食べたい」
役に立つから。その言葉が喉まで出た。
違う。
パンを焼けなくても、一緒に帰ると言うだろうか。聞くのが怖い。
「私は」
アデルが剣へ触れる。
「この剣を持つ理由を探す」
「私が教える?」
「聞く。信じるかは私が決める」
「うん」
「それと」
少し止まる。
「フィアを置いていきたくない」
「どうして」
「分からない」
記憶の外へ残った癖かもしれない。今の選択かもしれない。分けられない。
「分からないままでもいい?」
アデルが聞く。
「うん」
「フィアは、帰りたい?」
朝麦亭を思い浮かべる。空席。母さん。
ネネの墓。前より近い。
「帰りたい」
自分の望みとして言えた。
「連れていって」
三人が頷く。知らない私を。
過去を思い出すためではなく。これからどうするか決めるために。朝が来た王都を出た。