名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
古砦が見えてから、たどり着くまでに二時間かかった。
旅には、こういうことがよくあるらしい。遠くの塔は「もうすぐですよ」という顔で立っているくせに、歩いても歩いても近づかない。宿屋なら看板の位置を直すよう苦情を言われるところだ。
「砦に苦情を言わないで」
シエナが言った。
「まだ言ってないよ」
「顔に出てる」
「シエナ、私の顔を読むの上手になったね」
「昔から」
そうだった。口に出してから、二人とも黙った。昔から、という言葉が最近は怖い。誰が覚えていて、誰が忘れているのか、確かめなくてはいけなくなる。
「あの塔が意地悪なのは事実だと思う」
話を戻すと、シエナもうなずいた。
「距離の術式がある」
「本当に?」
「たぶん」
「では私の文句は正当でした」
「砦には届かない」
それは残念だ。日没までに着くはずだった私たちは、谷の途中にある古い監視小屋で夜を越すことになった。小屋と呼ぶには大きい。宿と呼ぶには、屋根の穴が多い。
石壁は残っているものの、扉は半分腐り、二階の床は一部落ちていた。寝台は三つ。どれも藁が湿っている。暖炉だけは使えたので、野宿よりは立派である。
「朝麦亭なら、一泊いくら?」
ミナが聞いた。
「お客さまから修繕費をいただくなら銀貨五枚」
「泊まるのに?」
「泊まったあと、直して帰ってもらいます」
「それ、宿じゃない」
シエナが火の術式で湿気を飛ばし、アデルと王都の騎士が屋根穴へ布を張る。ミナは負傷者の手当て。私は夕食係になった。傷のある手で刃物を持つな、と三人から言われた。
だから鍋へ材料を入れるだけだ。干し肉、豆、刻まれた蕪、水。刻んだのはマーヤさんである。包丁を渡したら、紙を切るみたいに同じ厚さへ揃えた。王都の伝令官は料理まで正確らしい。
「味つけは?」
「塩を三つまみ」
「三つまみは人によって違います」
「ではフィアさんが」
「手袋ではつまめません」
二人で鍋を見た。困った。
「適当でいい」
レオナさんが後ろから塩を入れた。かなり多い。
「監察官」
「なんだ」
「人は一晩で、どのくらい水を飲めます?」
「多かったか」
「いえ。今夜の警備は眠くならずに済みそうです」
水を足した。豆も足す。
鍋がいっぱいになった。
「結果として量が増えましたね」
「よいことだ」
「反省してます?」
「次は減らす」
無表情なのに、少しおかしい人かもしれない。夕食は十人で食べた。
王都の回収隊五人、マーヤさん、私たち四人。床へ毛布を敷き、鍋を囲む。塩はまだ少し強かったけれど、歩いたあとなので皆よく食べた。私の椀は、アデルがよそった。
豆が多い。
「多くない?」
「普通だ」
「アデルの普通、騎士の量でしょう」
「食べろ」
「命令?」
「お願い」
お願いの顔ではない。仕方なく口へ運ぶ。
温かい。塩辛い。豆がやわらかい。身体の中に、少しずつ熱が戻る。
「フィア、もっと肉いる?」
ミナが自分の椀から干し肉を一つ入れた。
「ミナが食べて」
「私はもう三つある」
「最初、二つだったよね」
「数え間違い」
「増える数え間違いってある?」
ミナは知らないふりでスープを飲んだ。シエナは私の右側へ座り、椀の減り方をときどき確認している。
三人とも露骨だ。
「皆、私を太らせて冬眠させるつもり?」
「できるなら」
アデルが答えた。
「火種は私が取ってくる」
「触れられないでしょう」
「手袋をする」
「そういう問題ではない」
笑いが起きた。王都の人たちも笑っている。
アデルは真面目に言ったのかもしれない。耳が少し赤い。
「候補生クロウ」
レオナさんが呼ぶ。
「はい」
「明日の砦では、お前をフィアの護衛へつける」
「承知しました」
「命令を聞けるなら」
アデルの返事が止まる。
「今日、隊列を離れた。フィアをかばった判断は結果として正しかったが、後衛のミナとシエナを無防備にした」
「ですが、あのままでは」
「お前が一人で全部を守れると思うな」
アデルが黙る。自分が言われたような気がした。
「役目を分けろ。助けを求めろ。守られる側が誰を頼るかも、その者の選択だ」
レオナさんの視線が私へ移る。やっぱり私にも言っている。
「分かりました?」
アデルへ小声で聞く。
「お前もな」
「私は何も言われてません」
「顔を見られてた」
「顔を読む人が増えて困る」
シエナが椀を置く。
「分かりやすいから」
そこは、もう少し難しい人だと言ってほしかった。
*
寝台が三つで、女が六人。王都の術式師が一つ。斥候の女性が一つ。マーヤさんは入口で眠ると言った。残る一つを、私たち四人で使うことになった。
「無理じゃない?」
寝台の幅を見て、ミナが言う。
「縦なら二人。横なら三人」
「四人は?」
「積む」
シエナの答えに、アデルが嫌な顔をした。
「私は床でいい」
「肩を怪我した人は禁止」
ミナが即座に止める。
「私が床へ」
「凍傷の人も禁止」
「じゃあ、私」
「治癒術師を冷やすのはだめ」
三人がシエナを見る。
「私は床」
「術式師も冷やすと指が動かなくなるよ」
言うと、シエナが少しだけ眉を寄せた。これで全員禁止だ。
「仲よく詰めよう。小さいころは四人で寝てたでしょう」
アデルとシエナはうなずいた。ミナだけが首を傾げる。
「そうだっけ」
また。声が出なかった。
「ほら、冬に二階の窓が割れたとき。部屋が寒くて、母さんの寝台へ四人で潜り込んだ」
アデルが説明する。
「オルガさんは?」
「追い出された」
シエナが言った。
「私たちが寝台を取ったから」
「フィアが、四人で固まれば暖かいって」
「覚えてない」
ミナは困ったように笑った。
「ごめん。まただね」
「謝らないで」
すぐに言えた。
「忘れるようなことだよ。寝ただけだもん」
嘘。あの夜、ミナは窓の音が怖いと言って私の袖を離さなかった。アデルは自分が端に寝ると主張し、十五分後には真ん中へ潜り込んだ。シエナは狭いと文句を言いながら、誰より早く眠った。
母さんは床で寝たのではない。朝まで暖炉の前に座り、私たちへ毛布をかけ直していた。全部覚えている。
「でも」
ミナが寝台へ腰かけた。
「ここ、フィアの隣がいい」
当たり前のように場所を空ける。
「覚えてないのに?」
「うん。なんでだろ」
ミナは自分でも不思議そうに、掛け布をめくった。
「このほうが眠れそう」
記憶はない。でも身体は覚えているのだろうか。
夜中に怖くなったとき、誰の袖をつかめばいいか。うれしかった。同じくらい、悲しかった。理由ごと覚えていてほしかった。
「では、ご指名なので」
軽く言って隣へ入る。壁側からアデル、私、ミナ、シエナの順。狭い。肩が重なり、足を曲げないと全員入らない。
「シエナ、落ちない?」
「半分落ちてる」
「私と替わる?」
「いい」
シエナは寝台の縁へ片手をつき、もう片方で私の外套をつかんだ。落ちないためだ。
たぶん。
「アデル、壁との間に隙間ある?」
「ない」
「私の背中へ剣の柄が当たってる」
「外す」
「寝台の下へ入れてね」
「分かってる」
ミナが笑い出す。
「なに?」
「ほんとに積んだ荷物みたい」
「荷崩れ注意だね」
笑うと寝台が揺れた。古い脚が嫌な音を立てる。
四人とも止まる。
「笑うの禁止」
アデルが真面目に言った。
「それは難しい注文だなあ」
「壊れたら全員床だ」
「では静かに面白いことを考えます」
「それも揺れるでしょう」
ミナがまた笑い、寝台が鳴る。シエナの肩も小さく震えていた。今日の戦いで怖かったことも、火種のことも、忘れられることも消えてはいない。でも四人で一つの寝台にいる。
いまはそれでいい。
「明日、砦へ入る」
暗闇でアデルが言った。
「私が前。フィアは隣。勝手に走るな」
「分かってます」
「声が軽い」
「重く言ったほうが信じる?」
「言ってみろ」
息を吸う。
「絶対に、勝手に前へ出ません」
三人が黙った。
「ほら、嘘っぽいでしょう」
「最初から約束する気がない」
「何が起きるか分からないのに、絶対は言えないよ」
「なら、何なら約束できる?」
シエナが尋ねた。考える。
灯替えを使わない。約束できない。一人で決めない。たぶん、できない。怪我を隠さない。自信がない。
「呼ばれたら、返事をする」
小さすぎる約束だった。
「皆が私を呼んだら、返事をする。聞こえるかぎり」
ミナが私の袖をつかむ。
「聞こえなかったら?」
「聞こえるところまで来て」
「ずるい」
「じゃあ、私も呼ぶ。見失ったら、ちゃんと名前を呼ぶ」
十年前、できなかったことだ。ネネを捜したとき、声が出なかった。霧の中で三人の名前を数えるだけで、妹の名を呼べなかった。
「約束」
アデルの手が暗闇から伸びた。小指が私の小指へ絡む。
「私も」
ミナが重ねる。シエナの指も触れた。四本では、うまく結べない。それでもしばらく、誰も離さなかった。
*
夜中に目を覚ました。寒さではない。名前を呼ばれた気がした。
「フィア」
本当に呼ばれていた。ミナだ。
目は閉じている。眠ったまま、私の外套を握っていた。
「いるよ」
小声で答える。ミナの指から力が抜ける。
記憶が消えても、夢の中ではまだ私を捜す。安心していいのか、怖がるべきなのか分からない。反対側で、アデルも眠っている。肩の傷が痛むのか、眉間に皺が寄っていた。壁との間へ追いやられ、身体の半分がこちらへ重なっている。
シエナは起きていた。暗い中で目だけが見える。
「起こした?」
「最初から」
「眠れないの」
「見張り」
「交代は王都の人でしょう」
「記憶の」
シエナは片手で日記を示した。
「寝ている間も?」
「夢は起きたら消える」
「夢まで書くつもり?」
「覚えていたら」
そこまでしなくても、と言いかけてやめた。シエナは怖いのだ。自分が何を忘れるか分からない。忘れたことにさえ、気づけないかもしれない。
その恐怖を、日記へつないでいる。私がそうさせた。
「シエナ」
「なに」
「ごめん」
何についてとは言わなかった。シエナも尋ねない。
「説明して」
「今は」
「いつ」
「分かったら」
「分かってるでしょう」
暗くても、視線が逸らせない。
「灯替え。ミナの凍結を引き受けた術」
名前まで知っている。
「どこで?」
「あなたの寝言」
今度は私が黙る番だった。眠っている間、何を喋ったのだろう。
「便利な口だね。本人が寝てても働く」
「フィア」
「調べた?」
「マーヤの資料を見た。記載なし。レオナは何か知ってる」
「まだ聞かないで」
「なぜ」
「知らないほうがいいから」
「私が決める」
短い。怒りを抑えている声だった。
「私の記憶でしょう」
胸が痛んだ。正しい。灯替えで燃えるのは、三人の記憶だ。私は自分の傷を差し出しているつもりだった。でも一人で払っているわけではない。三人からも、奪っている。
「次の休憩で話す」
嘘が出かかった。代わりに、ほんの一部を出す。
「危ない術だよ」
「知ってる」
「使うと、私以外にも何か起こる」
「記憶」
答えられない。それが答えになった。
シエナの指が、私の外套から離れる。寝台の端が急に遠くなった。
「いつから」
「シエナ」
「私たちは、いつから忘れてるの」
ミナが寝返りを打つ。二人とも口を閉じた。アデルも眠っている。話せば三人は灯替えを拒む。
次に誰かが死にかけても、使わせてくれない。私はそれが怖い。
三人の選択を尊重して、三人を失うことが。
「砦が終わったら」
ようやく言った。
「第一の火種を取ったら、話す」
シエナはしばらく動かなかった。
「書く」
「うん」
「約束したと」
「書いていいよ」
「破ったら、残る」
「分かってる」
日記へ筆が走る。暗闇でも書けるよう、小さな青い灯が頁を照らした。
私は目を閉じる。明日、火種を取る。そのあと話す。
何を、どこまで。答えが出ないまま、ミナの手がまた私の袖を探した。今度は握られる前に、こちらから手を重ねた。
*
朝、最初に起きたのは寝台の悲鳴だった。ぎしり、と大きく鳴り、片方の脚が折れる。四人そろって床へ落ちた。
アデルが壁へ頭をぶつけ、ミナが私の上へ乗り、シエナだけが直前に飛び降りて無事だった。
「重い」
「私?」
「全員」
床から言うと、ミナが慌ててどいた。入口で見張っていたマーヤさんが笑いをこらえている。王都の人たちも起き出し、壊れた寝台と私たちを見比べた。
「笑っていいですよ」
許可すると、皆が笑った。アデルだけは頭を押さえて怒っている。
「だから笑うなと言った」
「寝てる間は笑ってません」
「重さの問題だ」
「誰が重いって?」
ミナが睨む。
「寝台が古いと言った」
「今、重さって」
「古さだ」
言い直した。アデルも成長したものである。朝食を済ませ、荷をまとめる。外へ出ると、昨夜より塔が近かった。
黒い石の古砦。その門を、白い霜が閉ざしている。第一の火種は、あの中だ。
「フィア」
アデルが呼ぶ。
「はい」
返事をした。ミナが呼ぶ。
「フィア」
「いるよ」
最後にシエナ。
「約束」
それは名前ではなかった。でも意味は分かる。
「覚えてる」
第一の火種を取ったら話す。守るために秘密にするのか。守るという名前で、三人から選ぶ権利を奪うのか。砦の門が開く前に答えたかった。
白い霧の向こうで、重い鎖が動き始めた。向こうから、門が開いていく。