名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

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四枚目のパン

朝麦亭の看板は、半分白かった。

 

『朝麦』

 そこまでは読める。最後の『亭』だけ、白夜に名前を食べられたまま。

 

「新しいのを作ろう」

 私は言った。

 

「同じ名前?」

 ミナが聞く。

 

「母さんが決める」

 

「フィアは?」

 

「朝麦亭がいい」

 帰ってきた名前だから。でも、同じ板へ同じ字を書けば元に戻るわけではない。白くなった跡も残る。

 

「裏返して使う」

 母さんが言った。

 

「新しい板は高い」

 感傷より予算。朝麦亭の女将として正しい。

 

「私が書く」

 シエナが看板を外す。

 

「字は上手?」

 私が聞く。

 

「記録では、あなたより」

 

「勝負しよう」

 

「看板で勝負しない」

 シエナは笑わなかった。でも、筆を二本用意した。あとで一緒に書くらしい。昔、私へ文字を教えたことは覚えていない。

 これは今日の約束。

 

 *

 

 村の家は、十二軒が住めなくなった。北柵は全部白い木になり、畑は半分が凍った。朝麦亭も、窓が三枚割れ、屋根の一部が落ちた。それでもパン窯は残った。

 村人は全員帰ってきた。デナさんと第三線の騎士が、仮の家を建てている。

 ミレイスから記憶瓶を運んでいた職人たちも来た。トール山で助けた技師は、北柵を直すと言った。白夜が終わっても、助けたことが全部消えたわけではない。

 記憶が戻らなくても、今の選択が次へつながっている。

 

 帰ってきた最初の日、母さんは私へ裏口の鍵を渡した。見覚えのある鉄の鍵。昔、失くして叱られた跡の傷まで残っている。

 

「まだ持ってたの」

 

「あんたの部屋も、そのまま」

 

「私が帰るって決めてた?」

 

「決めるのはあんただ」

 母さんは私の手を閉じさせた。

 

「開けたい日に使いな。出たい日に返しな」

 家族だから住め。助けたから休め。そう命令されるより、その鍵は重かった。

 私は手の中を見た。帰りたいと言った。ここまで連れてきてもらった。なのにまだ、いつ追い出されるかを考えていたらしい。

 

「返さないかも」

 

「部屋代は取るよ」

 

「家族なのに?」

 

「女将だからね」

 知っている答えで、知らない明日を渡された。

 

「ただいま、母さん」

 

「おかえり、フィア」

 名前を呼ばれた。今度は、ちゃんと受け取った。

 

「フィア、釘」

 屋根の上からアデルが手を出す。

 

「どうぞ」

 袋ごと渡す。

 

「一本でいい」

 

「大は小を兼ねます」

 

「重い」

 

「鍛錬」

 アデルは袋を受け取り、私を見下ろす。

 

「お前は上がるな」

 

「なぜ」

 

「昨日、梁から落ちた」

 

「半歩だけ」

 

「落ちたことは同じ」

 私の体は、白夜の傷から戻ったばかりだ。骨はつながった。肺も動く。

 でも長く歩くと息が切れ、指先は冷たいまま。痛みも戻った。よいことばかりではない。それでも、自分の体だと分かる。

 

「屋根に上るの、好きだった?」

 アデルが聞く。

 

「好き。四人で流星を待ったこともある」

 

「その話は読んだ」

 

「どう思った?」

 

「知らない子どもの話みたいだ」

 胸が痛む。

 

「でも」

 アデルは新しい屋根板を置く。

 

「今日の屋根は、私が直したと覚える」

 

「私が釘を渡した」

 

「袋ごと」

 

「大事な役です」

 

「そうだな」

 アデルが頷く。慰めではない。今日の事実。私は下で釘を渡し、アデルは屋根を直した。

 新しい屋根の記憶には、私がいる。

 

 *

 

 夜、寝台で問題が起きた。部屋は四つある。昔はミナが私と同じ寝台を選びたがった。今は違う。

 

「一人部屋がいい」

 ミナが言った。

 

「うん」

 すぐ答える。胸は少し寂しい。

 それも今の私の気持ち。

 

「でも、隣」

 ミナが私の部屋の隣を指す。

 

「夜、具合が悪くなったら呼んで」

 

「患者扱い」

 

「患者だよ」

 

「もう治った」

 

「経過観察中」

 厳しい。

 

「ミナも、眠れなかったら呼んで」

 

「私が?」

 

「白夜のあとだから」

 ミナは少し考える。

 

「分かった」

 同じ寝台ではない。でも、扉一枚の隣。

 昔へ戻ったのではなく、今ちょうどいい距離を決めた。

 

 夜中、扉を叩く音がした。

 

「眠れない?」

 開けると、ミナが枕を持っている。

 

「違う」

 

「では枕泥棒?」

 

「フィアの部屋、枕が一つしかなかった」

 

「一人部屋だから」

 

「予備」

 私の寝台へ、二つ目を置く。自分は隣へ戻った。理由は分からない。

 昔の癖かもしれない。今日、患者へ予備を渡しただけかもしれない。どちらでもいい。枕は二つになった。

 

 *

 

 シエナは、古い日記を読み終えなかった。三冊目の途中で閉じた。

 

「もう読まない?」

 

「今日は」

 朝麦亭の窓辺。新しい日記を開く。表紙に何も書いていない。

 

「昔の気持ちが多すぎる」

 

「嫌?」

 

「分からない」

 正直な答え。

 

「昔の私は、あなたをよく見てる」

 

「今は?」

 

「今も見てる」

 少し期待した。

 

「患者として?」

 

「嘘をつかないか監視」

 

「残念」

 

「それと」

 シエナが新しい頁へ書く。

 

「知りたい」

 

「何を?」

 

「今のフィア」

 昔の私ではない。日記にいる私でも。

 

「質問して」

 

「好きな食べ物」

 

「パン」

 

「種類」

 

「焼きたてなら何でも」

 

「雑」

 

「パンは広いんです」

 シエナの口元が、少し動いた。葬儀帰りと同じ笑いではない。比べない。

 

「今、笑った?」

 でも聞いた。

 

「笑ってない」

 

「日記に書く」

 

「嘘になる」

 

「私の感想です」

 シエナが日記を閉じる。取り上げられる前に逃げた。

 今のシエナは、追ってこなかった。次の頁には、たぶん今日のことを書く。過去の続きではなく。

 

 *

 

 食堂が直る前に、四人でネネの墓へ行った。墓地の雪は薄くなっていた。墓石の横に置いた迷子鈴は、白夜の風にさらされて黒ずんでいる。

 

「妹さん」

 ミナが墓石を読む。

 

「うん。ネネ。私の妹」

 

「私たちは会った?」

 

「会ってる」

 三人とも覚えていない。当然なのに、ネネまで二度忘れられた気がして、すぐには続きを言えなかった。

 

「ネネは、アデルの木剣を勝手に持ち出した。ミナのお菓子を隠して、あとで半分くれた。シエナの本へ花びらを挟んだ」

 

「迷惑」

 シエナが言う。

 

「好きだったでしょ」

 

「今の私は知らない」

 

「うん」

 昔の気持ちを押しつけない。ネネがいた証拠まで捨てない。両方をするのは、思っていたより難しい。

 

「白夜が来た日、私はネネを置いて逃げたと思ってた」

 三人へ、墓前で聞いた言葉を話した。三人を連れて逃げて。姉ちゃんまで死なないで。

 

「私は最後まで聞いてた。でも、忘れたことにした」

 

「どうして?」

 ミナが静かに聞く。

 

「許されたくなかったから。守れなかった私が生きているには、ずっと罰が必要だと思った」

 迷子鈴を指で鳴らす。小さな音。

 

「その罰に三人も使った。守れば、私は正しい姉でいられた。三人が嫌だって言っても」

 謝って終わる話ではない。三人は、そのために人生の一部を本当に失った。

 

「今の私たちに、謝う?」

 アデルが聞いた。

 

「謝りたい。でも、覚えてない三人に許してもらって、昔の三人も許したことにはしたくない」

 

「なら、何をする」

 

「もう勝手に守らない。怖いときは、怖いって言う。できなかったら、怒って」

 

「それはできる」

 

「アデルは得意そう」

 

「記録にもそうある」

 シエナまで言う。ミナが墓石の雪を払った。

 

「ネネちゃん。私はミナ。フィアのことは覚えてないけど、今は一緒に帰ってきたよ」

 アデルも名乗った。シエナも。

 三人は昔を思い出さない。ネネを知っていた気持ちも戻らない。それでも、今日の名前を墓前へ置いてくれた。最後に、私が墓石へ手を触れる。

 

「ただいま、ネネ」

 連れて帰ったよ、とは言わなかった。三人は私の荷物ではない。自分でここへ来た。

 

「私は、生きて帰った」

 それを報告した。鈴がもう一度鳴った。風のせいでも、返事でなくても、聞こえた音は私のものだった。

 

 *

 

 一週間後。朝麦亭の食堂が直った。新しい看板は、私とシエナで書いた。

 二人の字が少し重なり、『麦』だけ太い。母さんは文句を言った。裏返しても同じ板。白夜で消えた『亭』の跡は、内側へ残っている。

 消さなかった。朝食の卓へ、四つの椅子を置く。

 アデル。ミナ。シエナ。

 私。座る前に、三人が顔を見合わせた。

 

「まだ、ちゃんとしてなかった」

 ミナが言う。

 

「何が?」

 

「自己紹介」

 王都で名前は聞いた。でも、あれは戦っている途中。封印塔。

 白夜。落ち着いて知る時間ではなかった。

 

「では年長者から」

 アデルが立つ。

 

「アデル・クロウ。十八歳。王国騎士候補」

 

「反逆者候補も」

 私が加える。

 

「それは保留になった」

 

「残念」

 

「なぜ残念なんだ」

 

「格好いい」

 アデルは無視して続ける。

 

「剣が得意。高いところは」

 止まる。屋根の記録には、怖がったとある。本人は覚えていない。

 

「今は平気」

 

「禁止語」

 私が言う。

 

「何が」

 

「いいです、続けて」

 

「フィアとの過去は覚えていない。これからどうなるかも分からない」

 まっすぐ見る。

 

「でも、今は隣に座ってもいいと思っている」

 

「よろしく」

 

「よろしく」

 次はミナ。

 

「ミナ・フェル。十六歳。治癒術師見習い。甘いものが好き」

 

「知ってる」

 

「初対面のふりして」

 

「はい」

 

「患者には厳しくします。フィアは患者」

 

「異議あり」

 

「却下」

 三人が少し笑う。

 

「フィアのこと、覚えてない。でも一緒にパンを食べるのは好き」

 

「私も」

 

「よろしくね」

 

「よろしく」

 シエナ。

 

「シエナ・ヴァルカ。十七歳。術式師。記録係」

 

「趣味は?」

 

「読書」

 

「私の嘘を見つけること」

 

「それは仕事」

 

「給料は出ません」

 

「今後、請求する」

 シエナは新しい日記を卓へ置く。

 

「過去は、必要なときに読む。今の気持ちと同じにしない」

 

「うん」

 

「あなたを許したとは決めてない」

 

「うん」

 

「嫌いとも決めてない」

 

「うん」

 

「これから決める」

 

「よろしく」

 

「よろしく」

 三人が私を見る。私の番。

 

「フィア・ルーメル。十七歳。朝麦亭の女将見習い」

 灯守。無名の器。王国を救った人。

 そういう呼び名もある。今は言わない。

 

「パンを焼けます。口が少しだけ達者です」

 三人の視線が壁の禁止語へ向く。母さんが、まだ紙を貼っている。

 

『大丈夫』

 

『平気』

 

『ちょっとだけ』

 

「今のは量の表現」

 

「違反」

 シエナが新しい日記へ線を引いた。

 

「それから」

 真面目に続ける。

 

「三人のことを覚えています。でも、私の記憶を三人の過去にしません」

 できるかは分からない。ときどき、昔の名前で呼びたくなる。前と同じ反応を期待する。寂しくなる。

 

「寂しいときは、寂しいって言うようにします」

 

「記録する」

 シエナ。

 

「抱きしめていいか、聞いて」

 ミナ。

 

「勝手に傷を取るな」

 アデル。

 

「はい」

 

「返事が軽い」

 

「努力します」

 

「よろしく」

 三人が言う。

 

「よろしく」

 自己紹介が終わった。母さんが厨房から来る。パンを四枚持って。

 いつもなら、私は立つ。皿を運ぶ。スープをよそう。三人へ先に配る。

 自分の分は最後。立とうとした。

 

「座ってな」

 母さんが言う。

 

「手伝う」

 

「今日は客だ」

 

「家族でしょ」

 

「何もしない家族の日だ」

 難しい日だ。母さんは一枚目のパンを、私の前へ置いた。間違いだと思った。

 

「先に三人へ」

 

「これはあんたの」

 

「でも」

 

「食べな」

 一枚目。焼きたて。

 いちばん端が少し焦げている。私が好きなところ。

 

「何かしなくていいの?」

 聞く。

 

「食べる」

 

「それだけ?」

 

「それが仕事だ」

 役に立つ前。パンを焼く前。誰かを守る前。

 何もしていない私の前に、一枚目がある。三人は待っている。理由を覚えていない。でも今日は、私が食べるのを見ている。

 

「いただきます」

 パンを取る。一口。温かい。

 おいしい。ちゃんと、そう思える。母さんが二枚目をアデルへ。三枚目をミナへ。

 四枚目をシエナへ置く。順番は、明日変わるかもしれない。

 誰が最後でもいい。全員の分がある。

 

「明日は私が焼く」

 言う。

 

「手伝う」

 ミナ。

 

「焦がすな」

 アデル。

 

「記録する」

 シエナ。四人の最初の日が始まる。

 失った過去は戻らない。私だけが覚えている日も、これから何度も痛む。三人が私を選ばない日が来るかもしれない。

 私も、三人へ言えないことをまた作るかもしれない。そのたび話す。選び直す。新しい日を、古い日の代わりにはしない。

 それでも並べて持っていく。一枚目のパンは、ちゃんと私の味がした。

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