名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
古砦の門を開けたのは、人ではなかった。
鎧である。正確には、鎧だけ。中身は空っぽで、兜の隙間から白い霧がこぼれている。錆びた両手で鎖を巻き上げ、門が人一人ぶん開くと動きを止めた。
「歓迎されてる?」
ミナが私の後ろから聞く。
「宿なら、主人が出迎えてくれたところかな」
「あれを主人って呼びたくない」
「では従業員」
「もっと嫌」
空の鎧が、ぎぎ、と首を回した。こちらを見た気がする。目はないのに。
「黙って」
レオナさんが剣を抜く。回収隊も武器と術式を構えた。鎧は襲ってこない。胸へ片手を当て、私に向かって頭を下げた。
「フィアを呼んでる」
シエナが言う。
「どうして分かるの?」
「私たちを見てない」
なるほど。うれしくない招待である。
「行ってきます」
一歩出ると、アデルが肩を並べた。
「一人で行くな」
「昨日、並ぶって言いましたね」
「覚えていたか」
「そこまで昔じゃないから」
言ったあと、アデルの顔を見た。昨日のことなら覚えている。木剣のことも、今は。
その「今は」が消えなかった。空の鎧は門の奥へ歩き出す。私とアデルが続き、ミナとシエナ、回収隊も入った。砦の中は雪に埋もれていた。外壁は残っているのに、中央の塔は半分崩れている。兵舎の窓は白く凍り、訓練場には折れた槍が何十本も立っていた。
風がない。鳥の声もない。
私たちの足音だけが、雪の下から返ってくる。
「百年前、ここは第一暁鐘を守る砦だった」
レオナさんが説明する。
「白夜戦争の最後に全員が凍死。火種は地下礼拝堂へ安置された」
「全員?」
「記録では三百十二名」
数字にすると多い。でも三百十二人にも、一人ずつ名前があった。朝に弱い人。塩を入れすぎる人。眠ると誰かの袖をつかむ人。この鎧も、その一人だったのだろうか。
先を歩く背中は、霜で白い。
「名前は残っています?」
「兵士名簿は焼失した」
残っていない。名前が消える。その人が何を食べ、誰と笑ったかも、誰にも呼ばれなくなる。嫌な場所だ。
灯替えのことを考えるには、あまり向いていない。
「フィア」
アデルに呼ばれる。
「はい」
「近い」
「なにが?」
「鎧へ寄りすぎだ」
気づけば手を伸ばせる距離だった。空の鎧は振り向かない。敵意もない。でも中から漏れる霧が、靴の先へ触れかけている。
「名前を聞けるかなと思って」
「口がない」
「胸へ書いてあるかも」
「触るな」
外套の襟をつかまれ、後ろへ戻された。
「朝から二度目」
「何が」
「私を荷物みたいに運ぶの」
「荷物より勝手に動く」
「大事に扱ってください」
「だからつかんでる」
言い返せなかった。背後でミナが笑い、シエナの筆が紙を走る。
「今のも書くの?」
「書く」
「格好よく直して」
「フィア、鎧へ触ろうとしてアデルに回収される」
「そのままだ」
訂正してもらえなかった。訓練場を抜けると、鎧が止まった。地下へ続く扉がある。石の表面には四つの円と、中央に人の手形。手形の周りを古い文字が囲んでいた。
「読める?」
レオナさんが王都の術式師へ尋ねる。術式師は首を振った。
「古暁語です。院の資料にも一部しか」
「シエナ」
私が呼ぶと、もう扉の前にいた。
「『朝を望む者、守るものを示せ』」
「読めるのか」
王都の術式師が驚く。
「村の墓碑と似てる」
リーネの共同墓地には、白夜戦争より古い墓がある。シエナは子どものころから読めない文字を写し続け、十歳のころには村の神官より詳しくなっていた。本人は、暇だったからと言う。暇だけで古代文字を読める人は少ないと思う。
「手を置くのは?」
「火種を継ぐ者」
全員の視線が私へ向く。
「はいはい、私の仕事ですね」
手形へ右手を置く。冷たい。傷の感覚が鈍いせいで、石の冷たさはよく分からない。それでも胸の奥の灯が引かれるのを感じた。
扉の四つの円へ光が走る。一つ目にアデル。二つ目にミナ。三つ目にシエナ。
最後の円には、私が映った。小さい。
十年前の私だ。雪の中で、三人を納屋へ押し込んでいる。泣くミナをアデルへ渡し、動けないシエナへ自分の外套をかける。その向こうで、ネネが呼んでいた。
フィア姉ちゃん。待って。声が聞こえる。指を離そうとした。
石が手をつかんでいる。
「フィア?」
今のアデルの声。返事をしなくては。
「大丈夫」
違う。
約束は、名前を呼ばれたら返事をすること。
「いるよ」
円の中の景色が変わった。三人を納屋へ入れた私が、霧へ戻っていく。ネネを捜して、白い道を走る。見つけたときには、妹の顔まで霜に覆われていた。抱きしめても、名前を呼んでも、戻らなかった。
どうして私が残ったの、と何度も考えた。三人ではなく、ネネを先に捜せばよかった。アデルは歩けた。ミナは泣けた。シエナは自分で術式を使えた。ネネだけが一人だった。
「違う」
声がした。アデルだ。円の光へ手を伸ばしている。
「お前は私たちを助けた。間違ってない」
「でもネネが」
「それとこれは別だ」
「別じゃないよ」
三人を助けた時間が、ネネへ届かなかった時間だ。計算はどうやっても変わらない。
「お前一人が、全員を救えなかっただけだ」
アデルの手が私の手首をつかむ。石から引き離された。光が消える。扉は開いていた。
暗い階段から、暖かい風が吹き上がってくる。
「試す扉か」
レオナさんが円を見た。
「守れなかった記憶を見せ、なお進む者だけを通す」
「趣味が悪い」
ミナが私へ抱きつく。
「フィア、大丈夫?」
大丈夫ではない。でもネネの幻は消えた。三人はここにいる。
「少し、昔のことを見ただけ」
「妹さん?」
昨日、三人へ話した。守れなかった人がいる、とだけ。
「うん」
「名前は?」
喉が詰まった。十年前から、声に出せなかった名前。
「ネネ」
言えた。ミナの腕へ力が入る。
「覚えておく」
アデルもうなずく。シエナは日記へ書いた。ネネ。私以外の字で残る妹の名を見たら、少しだけ息がしやすくなった。
*
地下礼拝堂には、盾が並んでいた。左右の壁へ十二枚ずつ。大きさも形も違う。木、鉄、皮、銀。中央の祭壇には火のない灯台があり、その奥に朝色の結晶が浮いている。第一の火種。
暗い地下で、そこだけが夜明け前の空みたいに薄赤い。
「先に罠を確認」
レオナさんが全員を止める。斥候が床を調べ、術式師が壁へ灯を飛ばす。私は祭壇を見た。
火種は近い。触れれば一つ目が手に入る。あと三つ。早く取って、村へ帰りたい。
「動くなよ」
アデルが言った。
「まだ動いてません」
「目が動いてる」
「目は許してください」
アデルは傷のある右肩をかばい、左手で盾を持っている。昨日の白夜呪いは止まったが、傷は深い。ミナが塞いでも、剣を振るたび開きかける。
「アデルこそ、後ろへ」
「護衛だ」
「片腕でしょう」
「もう一本ある」
昨日も似た話をした気がする。アデルは昔から、身体の数え方が乱暴だ。
「罠なし」
斥候が報告する。
「ただし祭壇前に圧力板。火種へ近づけば動く」
「壁の盾も術式につながっています」
王都の術式師が言う。
「全部?」
「二十四枚。侵入者へ向けて飛ぶ可能性が」
ミナが盾を数える。
「盾が飛ぶの?」
「守る道具なのに」
「守る相手が違う」
シエナの答えだった。火種を守るため、私たちを攻撃する。なるほど。
道具は悪くない。誰を守れと決められたかの問題だ。
「私が行く」
アデルが前へ出る。
「圧力板を踏み、盾を受ける。その間にフィアが火種を」
「右肩で?」
「左の盾がある」
「二十四枚だよ」
「全部が一度には来ない」
「根拠は?」
「通路が狭い」
壁から祭壇まで、十歩。盾は左右から飛ぶ。
アデルなら受けられるかもしれない。でも傷が開く。二十四枚目まで立っていられる保証はない。
「別の方法を」
シエナが床へ術式を描く。
「圧力板の周りを凍らせて固定する」
「火種の熱で溶けます」
王都の術式師が止める。
「なら、順番に解除」
「四十日あるとはいえ、ここで二日使うのは」
レオナさんが祭壇を見た。
「アデル案で行く。私も盾へ入る」
「私が先頭です」
「候補生」
「護衛対象の前は譲れません」
アデルは頑固だ。小さいころから変わらない。私が木剣を持って前へ出ると、必ず隣へ来た。怖くて泣きながら、それでも袖をつかんで離れなかった。ある日、二人で木の枝を削った。
一本しか作れなかった剣を半日ずつ持つことにした。午前は私が守る。
午後はアデル。順番を決めた。その記憶があるから、アデルは今も前へ出るのだろうか。
「準備」
レオナさんの声。アデルが圧力板へ足を置いた。
石が沈む。壁の盾が一斉に震えた。
「走れ!」
アデルとレオナさんが前へ。二人の盾を重ね、その後ろを私が走る。一枚目が飛ぶ。
鉄がぶつかり、腕へ響く音。二枚、三枚。左右から来る盾を、二人が受け流す。
祭壇まで六歩。アデルの右肩から血が飛んだ。
「交代!」
レオナさんが前へ出ようとする。
「まだです!」
アデルが押し返す。九枚目。
木の盾が砕け、破片が頬を切った。三歩。火種へ手を伸ばす。
床が揺れた。圧力板ではない。天井。古い石が一つ落ちる。
それを合図に、礼拝堂全体が鳴った。
「崩れる!」
誰かの声。祭壇の上から、太い梁が落ちてきた。アデルが振り向く。私を突き飛ばした。
床へ転がる。背後で石と木がぶつかる。
振り返った。アデルの姿がない。灰色の瓦礫だけ。
「アデル!」
返事がない。約束。
呼ばれたら返事をする。
「アデル!」
石の下から、かすかな声がした。
「……いる」
生きている。
瓦礫へ駆け寄る。梁が胸から下を押さえている。頭から血。呼吸が浅い。ミナたちがこちらへ来ようとしている。残った盾が飛び続け、進めない。
「先に火種を!」
レオナさんが叫ぶ。
「取れば罠が止まる!」
祭壇まで二歩。先に火種。それが正しい。
分かっている。でもアデルの呼吸が止まりかけた。
「触るな」
アデルが言う。
「まだ何も」
「お前の顔で分かる」
右手を伸ばし、私の手首をつかむ。力がない。
「先に、火種」
「その間に死んだら?」
「死なない」
「大丈夫って言う人は信用できないんだって」
自分で言って、ひどいと思った。アデルが笑いかける。
「お前が、言うな」
呼吸が途切れた。待てなかった。手を額へ当てる。
「アデル・クロウ」
灯がつながる。頭の傷。折れた肋骨。潰れた脚。白夜の冷え。全部こちらへ来る。
痛みより先に、記憶が燃えた。裏庭。曲がった木剣。泣き虫のアデルが、震える手で柄を握っている。
『午前はフィア。午後は私』
『午後だけでいいの?』
『夜も』
『夜は寝ようよ』
笑った。アデルも、泣きながら笑った。二人で決めた。
守る側を、交代する。炎が景色を食べる。
「だめ」
手を離そうとしても、もう遅い。アデルの中から、約束が消える。代わりに傷が私へ落ちた。
頭の奥で何かが割れる。息ができない。脚の感覚が消えた。でもアデルの胸が上がる。
「よかった」
声になったか分からない。最後に見えたのは、開いたアデルの目だった。私を見ている。
知っている人を見る目。まだ全部は消えていない。安心して、目を閉じた。