名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

6 / 17
約束のない木剣

目を覚ましたら、アデルに泣かれていた。

 少し珍しい。昔はよく泣く子だったけれど、騎士候補生になってからは、人前で涙を見せなくなった。剣の稽古で骨を折ったときも、村長の犬に尻を噛まれたときも泣かなかった。最後の一つは、泣くより先に怒っていた気もする。

 

「おはよう」

 声がかすれた。アデルが顔を上げる。目も鼻も赤い。

 

「誰が寝ていいと言った」

 

「ずいぶん難しい注文だね。寝るときは許可を取ったほうがいい?」

 

「笑うな」

 笑ったつもりはなかった。口元が勝手に上がったらしい。身体を起こそうとする。

 無理だった。胸が痛い。左脚が動かない。頭の奥で鐘が鳴っている。あまり状態はよくなさそうだ。

 

「動かないで!」

 ミナの声が飛んだ。左側にいる。両手を私の胸へ当て、治癒の光を流していた。頬に涙の跡がある。怒っている。泣いている。たぶん両方だ。

 

「骨が五本折れてる。脚も。頭も切れてた。分かってる?」

 

「五本」

 

「そう」

 

「アデル、意外と重傷だったんだね」

 

「これはお前の傷だ!」

 アデルの声が礼拝堂へ響く。そうだった。私へ移した。

 頭の傷。肋骨。脚。白夜の冷え。それから、木剣の約束。

 

「アデルは?」

 

「無傷」

 シエナが答えた。私の足元に座り、日記へ何かを書いている。いつもならこちらを見て話すのに、今は頁から目を上げない。

 

「本当に?」

 

「傷は」

 傷は。記憶は違う。

 

「火種は?」

 尋ねると、レオナさんが祭壇を示した。朝色の結晶はもう浮いていない。代わりに、私の右手首へ細い赤い輪がある。皮膚の下で、淡い火がゆっくり回っていた。

 

「崩落のあと、あなたが祭壇へ触れた」

 

「覚えてません」

 

「意識はなかった。だが火種が自分から入った」

 第一の火種は取れた。なら成功だ。アデルは生きている。火種も取れた。私の骨は折れているけれど、骨なら時間をかければ戻る。

 

「上出来だね」

 誰も答えなかった。いつもなら、ミナが「どこが」と怒る。アデルは顔をしかめ、シエナは日記へ失言と書く。今日は沈黙だけだった。

 私の声が、礼拝堂の石へぶつかって戻ってくる。

 

「何をした」

 アデルが尋ねた。

 

「見てたでしょう」

 

「分からないから聞いてる。瓦礫の下で、私は死にかけていた。お前が触った。それから傷が全部消えて、お前が倒れた」

 

「傷を引き受けた」

 

「それだけか」

 シエナと同じ問い。

 

「それだけではないんだろう」

 アデルは自分の胸へ手を当てた。

 

「何かがない」

 心臓が痛んだ。折れた骨のせいではない。

 

「どんな?」

 

「分からない。分からないものを、どう説明すればいい」

 アデルは立ち上がり、礼拝堂の隅へ置かれた私の荷を取った。中を探り、布に包まれた細長いものを出す。木剣の欠片だ。十年前に二人で作った。刃の真ん中で折れたあとも捨てられず、旅へ持ってきた。

 

「これは何だ」

 知らない。声より、その持ち方で分かった。

 アデルは昔、自分で削った柄を見分けた。右手に合わせて少し細くし、滑らないよう三本の溝をつけた。今はただの古い木片を見る顔だ。

 

「木剣」

 

「見れば分かる。なぜお前が持ってる」

 答えたくない。答えれば、消えたことが確定する。黙っていても、もう分かっているのに。

 

「アデルが作ったから」

 

「私が?」

 

「二人で。裏庭の樫を拾って、厨房の小刀を勝手に使って、母さんに怒られた」

 

「覚えてない」

 短い。言葉が胸へ刺さる。

 

「午前は私が持って、午後はアデル。夜は二人とも寝る。守る役を交代するって決めた」

 

「覚えていない」

 二度目。記憶は戻らない。

 分かっている。

 

「そう」

 笑おうとした。口が動かなかった。

 

「あれ、困ったな」

 代わりに声だけが軽くなる。

 

「せっかくアデルが格好いいことを言ったのに。私一人で覚えてたら、あとで話を大きくできるね」

 

「フィア」

 

「泣きながら、夜も私が守るって」

 

「フィア」

 

「本当は暗いのが怖くて、一人で寝たくなかっただけだと思うけど」

 

「やめろ!」

 木剣が床へ落ちた。乾いた音がする。

 アデルは両手で頭を抱えた。

 

「そんな顔で、笑うな」

 どんな顔だろう。自分では分からない。

 ミナの手が胸から離れる。治癒の光も消えた。

 

「言って」

 声が震えている。

 

「何が起きたの。私が忘れたことも、アデルが忘れたことも、フィアの術のせいなの?」

 シエナが日記を閉じた。

 

「約束した」

 第一の火種を取ったら話す。取った。逃げられない。

 逃げてはいけない。

 

「灯替え」

 術の名を言う。レオナさんがわずかに動いた。やはり知っている。

 

「相手の傷や、白夜の呪いを、私へ移す術。触って、名前を呼べば使える」

 

「代償」

 シエナが促す。

 

「相手の中にある、私との思い出」

 ミナが息をのむ。

 

「助けたぶんだけ、一つ消える。たぶん、命に近いほど大事な記憶が選ばれる」

 

「たぶん?」

 

「私にも選べないから」

 

「いつから知ってた」

 アデルの声は低かった。

 

「十年前」

 

「最初の白夜から?」

 

「うん」

 

「私たちに使ったのか」

 答えられなかった。それが答えになった。十年前。

 三人を納屋へ運ぶまでに、私は一度ずつ灯替えを使った。アデルから脚の凍結を。ミナから肺の冷えを。シエナから、心臓へ届いた白夜の針を。

 あのとき何が消えたか、私は知らない。三人との時間は短く、記憶の数も今より少なかった。それでも確かに何かが燃えた。

 

「使った」

 アデルが一歩下がる。知らない人から距離を取るように。

 

「私たちは、それを知らないまま十年?」

 

「言っても、戻らないから」

 

「だから黙っていた?」

 

「知ったら、次に使わせてくれないでしょう」

 礼拝堂が静かになる。言ってしまった。本当の理由。

 三人のためだと思っていた。余計な恐怖を与えないため。戻せないことで苦しませないため。それも嘘ではない。でもいちばんは、拒まれたくなかった。

 次に三人が死にかけたとき、自分で助ける道を残しておきたかった。

 

「当たり前だ!」

 アデルが叫んだ。

 

「私の記憶だぞ。私がお前を忘れるんだぞ!」

 

「死ぬよりいい」

 

「お前が決めるな!」

 胸が痛い。息をすると骨が擦れる。

 それでも、今は目を逸らせなかった。

 

「じゃあ、あのまま死にたかった?」

 

「そういう話じゃない」

 

「同じだよ。使うか、死ぬかだった」

 

「別の方法を探す時間が」

 

「呼吸、止まったんだよ」

 アデルの顔が白くなる。

 

「待って、信じて、間に合わなかったら?私、また三人の誰かを置いていくの?」

 ネネの顔が浮かぶ。霜に覆われた目。

 開かなかった指。

 

「できないよ」

 声が落ちた。

 

「私は、もう間に合わないのは嫌」

 誰も言葉を挟まなかった。言い切ったあとで、自分が泣いていることに気づいた。涙が耳へ流れる。両手が動かないので、拭けない。

 困る。人前で泣くと、皆がどうしたらいいか分からない顔をする。

 

「ごめん。今のなし」

 

「なしにしない」

 ミナが言った。泣きながら、私の涙を袖で拭く。

 

「フィアが怖いのは分かった。でも、私も怖い」

 

「ミナ」

 

「次に目を覚ましたら、フィアのことをもっと忘れてるかもしれないんでしょ。抱きつく理由も、同じ寝台で眠りたい理由も分からなくなる」

 ミナは自分の胸を押さえた。

 

「好きなのに。大好きなはずなのに、その理由がなくなるの、怖いよ」

 理由がなくなっても、大好きだと言ってくれる。うれしい。

 それを喜んではいけない気がした。

 

「私たちにも選ばせて」

 シエナが日記を開く。

 

「怪我をする前に話して。危険を避ける。別の方法を探す。使うかどうかは最後に決める」

 

「最後に決めるのは?」

 

「全員」

 

「間に合わなかったら」

 

「その結果も全員のもの」

 シエナは迷わない。

 

「フィア一人の罰にしない」

 胸の奥に隠していたものを、見つけられた。私は三人を守りたい。同時に、十年前の罰を受け続けたい。助けるたびに痛めば、ネネへ少しだけ謝れる気がする。誰かの命を優先し続ければ、あの日の選択が間違いではなかったと証明できる気がする。

 三人を使って。

 

「すぐには、約束できない」

 正直に言った。アデルの眉が動く。

 

「また使うかもしれない。たぶん、同じ場面なら使う」

 

「フィア」

 

「でも話す。使う前に、話せる時間があれば」

 小さな約束。十分ではない。

 それでも今できるのは、そこまでだった。

 

「日記に書いて」

 シエナへ言う。

 

「灯替えのことも。今日、アデルから消えた記憶も。私が隠してたことも」

 

「全部?」

 

「全部」

 

「私たちが怒っていることも書く」

 

「少しやわらかく」

 

「そのまま」

 

「はい」

 シエナが書き始める。ミナは私の手を握り直した。アデルは床へ落ちた木剣を拾わない。拾ってほしい。

 でも知らない思い出を大切にしろと頼むのは、残酷だ。

 

 *

 

 礼拝堂の崩落で、回収隊にも二人の負傷者が出た。幸い、命に別状はない。第一の火種が罠を止めたあと、皆で瓦礫を取り除き、地上へ戻った。私は板へ乗せられた。

 

「歩けます」

 

「脚が折れてる」

 ミナに言われる。

 

「片方だけ」

 

「一本折れたら普通は歩けないの」

 

「もう一本ある、は使えない?」

 

「使えない」

 アデルの真似だった。本人は反応しなかった。板の前を持ち、黙って歩いている。

 木剣の欠片は、礼拝堂へ置いたままだ。取りに戻りたいと言えなかった。地上へ出ると、空は夕焼けだった。火種が私の手首で赤く光るたび、砦へ積もった雪が少しずつ溶けていく。凍っていた窓から水が落ち、長いあいだ止まっていた旗が風に揺れた。

 空の鎧が、訓練場の中央で待っている。私たちを見ると、また胸へ手を当てた。

 

「火種は取りました」

 声をかける。返事はない。

 

「あなたが守っていたもの、王都へ届けます」

 鎧の霜が割れる。中から何かが落ちた。小さな銀の札だった。

 レオナさんが拾い、汚れを拭う。

 

「名前がある」

 

「なんて?」

 

「エッダ・ラン」

 女の人だった。三百十二人の一人。

 名を失っていた砦の守り手。

 

「エッダ」

 呼んでみる。鎧の空洞で、朝色の火が一度灯った。

 それから金属が静かに崩れた。もう動かない。百年ぶんの仕事を終えたのだ。

 

「お疲れさま」

 誰かに名前を呼ばれるまで、どんな気持ちで待っていたのだろう。私は三人を見た。

 アデルは前を向いている。ミナは手を握っている。シエナは日記へ、エッダの名を書いた。

 いまはまだ、私の名も三人の中にある。でも火種は一つ。残りは三つ。何度、灯替えが必要になるだろう。

 

「次は湖の町だ」

 レオナさんが地図を開いた。

 

「ここから九日」

 九日。骨がつながるには短い。記憶を守る方法を探すには、もっと短い。

 

「監察官」

 シエナが呼び止めた。

 

「灯替えを知ってるでしょう」

 レオナさんの目が私へ向く。

 

「百年前の記録に名だけある」

 

「代償も?」

 

「欠落している」

 

「嘘」

 シエナは言い切った。レオナさんの護衛たちが動く。

 

「構わない」

 彼女は片手で止めた。

 

「私が閲覧できる記録にはない。ただし封印指定の記録が王都にある。灯守候補を七人調べながら、院がその内容を我々へ開示しなかった」

 

「なぜ?」

 

「知られて困るからだろう」

 レオナさんは自分の外套の紋章を見た。

 

「私は、その理由も調べる」

 味方だと言ったわけではない。でも院の命令だけを信じている人でもないらしい。

 

「フィア」

 アデルの声がした。

 

「はい」

 すぐ答える。振り返ると、アデルは古砦の入口を見ていた。

 

「木剣を、取りに戻ってくれ」

 胸が詰まる。

 

「覚えてないんでしょう」

 

「ああ」

 

「なら、無理しなくていいよ」

 

「お前が覚えている」

 アデルはこちらを見た。

 

「今は、それで十分だ」

 回収隊の斥候が礼拝堂へ戻り、木剣を探してくれることになった。記憶は戻らない。

 約束も、アデルの中にはない。それでも捨てないと選んでくれた。私は泣かなかった。

 今日はもう、泣きすぎた。

 

「ありがとう」

 冗談にせず言った。アデルは少し迷ってから、うなずいた。

  1. 目次
  2. 小説情報
  3. 縦書き
  4. しおりを挟む
  5. お気に入り登録
  6. 評価
  7. 感想
  8. ここすき
  9. 誤字
  10. 閲覧設定

▲ページの一番上に飛ぶ
X(Twitter)で読了報告
感想を書く ※感想一覧
内容
0文字 10~5000文字
感想を書き込む前に 感想を投稿する際のガイドライン に違反していないか確認して下さい。
※展開予想はネタ潰しになるだけですので、感想欄ではご遠慮ください。