名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
目を覚ましたら、アデルに泣かれていた。
少し珍しい。昔はよく泣く子だったけれど、騎士候補生になってからは、人前で涙を見せなくなった。剣の稽古で骨を折ったときも、村長の犬に尻を噛まれたときも泣かなかった。最後の一つは、泣くより先に怒っていた気もする。
「おはよう」
声がかすれた。アデルが顔を上げる。目も鼻も赤い。
「誰が寝ていいと言った」
「ずいぶん難しい注文だね。寝るときは許可を取ったほうがいい?」
「笑うな」
笑ったつもりはなかった。口元が勝手に上がったらしい。身体を起こそうとする。
無理だった。胸が痛い。左脚が動かない。頭の奥で鐘が鳴っている。あまり状態はよくなさそうだ。
「動かないで!」
ミナの声が飛んだ。左側にいる。両手を私の胸へ当て、治癒の光を流していた。頬に涙の跡がある。怒っている。泣いている。たぶん両方だ。
「骨が五本折れてる。脚も。頭も切れてた。分かってる?」
「五本」
「そう」
「アデル、意外と重傷だったんだね」
「これはお前の傷だ!」
アデルの声が礼拝堂へ響く。そうだった。私へ移した。
頭の傷。肋骨。脚。白夜の冷え。それから、木剣の約束。
「アデルは?」
「無傷」
シエナが答えた。私の足元に座り、日記へ何かを書いている。いつもならこちらを見て話すのに、今は頁から目を上げない。
「本当に?」
「傷は」
傷は。記憶は違う。
「火種は?」
尋ねると、レオナさんが祭壇を示した。朝色の結晶はもう浮いていない。代わりに、私の右手首へ細い赤い輪がある。皮膚の下で、淡い火がゆっくり回っていた。
「崩落のあと、あなたが祭壇へ触れた」
「覚えてません」
「意識はなかった。だが火種が自分から入った」
第一の火種は取れた。なら成功だ。アデルは生きている。火種も取れた。私の骨は折れているけれど、骨なら時間をかければ戻る。
「上出来だね」
誰も答えなかった。いつもなら、ミナが「どこが」と怒る。アデルは顔をしかめ、シエナは日記へ失言と書く。今日は沈黙だけだった。
私の声が、礼拝堂の石へぶつかって戻ってくる。
「何をした」
アデルが尋ねた。
「見てたでしょう」
「分からないから聞いてる。瓦礫の下で、私は死にかけていた。お前が触った。それから傷が全部消えて、お前が倒れた」
「傷を引き受けた」
「それだけか」
シエナと同じ問い。
「それだけではないんだろう」
アデルは自分の胸へ手を当てた。
「何かがない」
心臓が痛んだ。折れた骨のせいではない。
「どんな?」
「分からない。分からないものを、どう説明すればいい」
アデルは立ち上がり、礼拝堂の隅へ置かれた私の荷を取った。中を探り、布に包まれた細長いものを出す。木剣の欠片だ。十年前に二人で作った。刃の真ん中で折れたあとも捨てられず、旅へ持ってきた。
「これは何だ」
知らない。声より、その持ち方で分かった。
アデルは昔、自分で削った柄を見分けた。右手に合わせて少し細くし、滑らないよう三本の溝をつけた。今はただの古い木片を見る顔だ。
「木剣」
「見れば分かる。なぜお前が持ってる」
答えたくない。答えれば、消えたことが確定する。黙っていても、もう分かっているのに。
「アデルが作ったから」
「私が?」
「二人で。裏庭の樫を拾って、厨房の小刀を勝手に使って、母さんに怒られた」
「覚えてない」
短い。言葉が胸へ刺さる。
「午前は私が持って、午後はアデル。夜は二人とも寝る。守る役を交代するって決めた」
「覚えていない」
二度目。記憶は戻らない。
分かっている。
「そう」
笑おうとした。口が動かなかった。
「あれ、困ったな」
代わりに声だけが軽くなる。
「せっかくアデルが格好いいことを言ったのに。私一人で覚えてたら、あとで話を大きくできるね」
「フィア」
「泣きながら、夜も私が守るって」
「フィア」
「本当は暗いのが怖くて、一人で寝たくなかっただけだと思うけど」
「やめろ!」
木剣が床へ落ちた。乾いた音がする。
アデルは両手で頭を抱えた。
「そんな顔で、笑うな」
どんな顔だろう。自分では分からない。
ミナの手が胸から離れる。治癒の光も消えた。
「言って」
声が震えている。
「何が起きたの。私が忘れたことも、アデルが忘れたことも、フィアの術のせいなの?」
シエナが日記を閉じた。
「約束した」
第一の火種を取ったら話す。取った。逃げられない。
逃げてはいけない。
「灯替え」
術の名を言う。レオナさんがわずかに動いた。やはり知っている。
「相手の傷や、白夜の呪いを、私へ移す術。触って、名前を呼べば使える」
「代償」
シエナが促す。
「相手の中にある、私との思い出」
ミナが息をのむ。
「助けたぶんだけ、一つ消える。たぶん、命に近いほど大事な記憶が選ばれる」
「たぶん?」
「私にも選べないから」
「いつから知ってた」
アデルの声は低かった。
「十年前」
「最初の白夜から?」
「うん」
「私たちに使ったのか」
答えられなかった。それが答えになった。十年前。
三人を納屋へ運ぶまでに、私は一度ずつ灯替えを使った。アデルから脚の凍結を。ミナから肺の冷えを。シエナから、心臓へ届いた白夜の針を。
あのとき何が消えたか、私は知らない。三人との時間は短く、記憶の数も今より少なかった。それでも確かに何かが燃えた。
「使った」
アデルが一歩下がる。知らない人から距離を取るように。
「私たちは、それを知らないまま十年?」
「言っても、戻らないから」
「だから黙っていた?」
「知ったら、次に使わせてくれないでしょう」
礼拝堂が静かになる。言ってしまった。本当の理由。
三人のためだと思っていた。余計な恐怖を与えないため。戻せないことで苦しませないため。それも嘘ではない。でもいちばんは、拒まれたくなかった。
次に三人が死にかけたとき、自分で助ける道を残しておきたかった。
「当たり前だ!」
アデルが叫んだ。
「私の記憶だぞ。私がお前を忘れるんだぞ!」
「死ぬよりいい」
「お前が決めるな!」
胸が痛い。息をすると骨が擦れる。
それでも、今は目を逸らせなかった。
「じゃあ、あのまま死にたかった?」
「そういう話じゃない」
「同じだよ。使うか、死ぬかだった」
「別の方法を探す時間が」
「呼吸、止まったんだよ」
アデルの顔が白くなる。
「待って、信じて、間に合わなかったら?私、また三人の誰かを置いていくの?」
ネネの顔が浮かぶ。霜に覆われた目。
開かなかった指。
「できないよ」
声が落ちた。
「私は、もう間に合わないのは嫌」
誰も言葉を挟まなかった。言い切ったあとで、自分が泣いていることに気づいた。涙が耳へ流れる。両手が動かないので、拭けない。
困る。人前で泣くと、皆がどうしたらいいか分からない顔をする。
「ごめん。今のなし」
「なしにしない」
ミナが言った。泣きながら、私の涙を袖で拭く。
「フィアが怖いのは分かった。でも、私も怖い」
「ミナ」
「次に目を覚ましたら、フィアのことをもっと忘れてるかもしれないんでしょ。抱きつく理由も、同じ寝台で眠りたい理由も分からなくなる」
ミナは自分の胸を押さえた。
「好きなのに。大好きなはずなのに、その理由がなくなるの、怖いよ」
理由がなくなっても、大好きだと言ってくれる。うれしい。
それを喜んではいけない気がした。
「私たちにも選ばせて」
シエナが日記を開く。
「怪我をする前に話して。危険を避ける。別の方法を探す。使うかどうかは最後に決める」
「最後に決めるのは?」
「全員」
「間に合わなかったら」
「その結果も全員のもの」
シエナは迷わない。
「フィア一人の罰にしない」
胸の奥に隠していたものを、見つけられた。私は三人を守りたい。同時に、十年前の罰を受け続けたい。助けるたびに痛めば、ネネへ少しだけ謝れる気がする。誰かの命を優先し続ければ、あの日の選択が間違いではなかったと証明できる気がする。
三人を使って。
「すぐには、約束できない」
正直に言った。アデルの眉が動く。
「また使うかもしれない。たぶん、同じ場面なら使う」
「フィア」
「でも話す。使う前に、話せる時間があれば」
小さな約束。十分ではない。
それでも今できるのは、そこまでだった。
「日記に書いて」
シエナへ言う。
「灯替えのことも。今日、アデルから消えた記憶も。私が隠してたことも」
「全部?」
「全部」
「私たちが怒っていることも書く」
「少しやわらかく」
「そのまま」
「はい」
シエナが書き始める。ミナは私の手を握り直した。アデルは床へ落ちた木剣を拾わない。拾ってほしい。
でも知らない思い出を大切にしろと頼むのは、残酷だ。
*
礼拝堂の崩落で、回収隊にも二人の負傷者が出た。幸い、命に別状はない。第一の火種が罠を止めたあと、皆で瓦礫を取り除き、地上へ戻った。私は板へ乗せられた。
「歩けます」
「脚が折れてる」
ミナに言われる。
「片方だけ」
「一本折れたら普通は歩けないの」
「もう一本ある、は使えない?」
「使えない」
アデルの真似だった。本人は反応しなかった。板の前を持ち、黙って歩いている。
木剣の欠片は、礼拝堂へ置いたままだ。取りに戻りたいと言えなかった。地上へ出ると、空は夕焼けだった。火種が私の手首で赤く光るたび、砦へ積もった雪が少しずつ溶けていく。凍っていた窓から水が落ち、長いあいだ止まっていた旗が風に揺れた。
空の鎧が、訓練場の中央で待っている。私たちを見ると、また胸へ手を当てた。
「火種は取りました」
声をかける。返事はない。
「あなたが守っていたもの、王都へ届けます」
鎧の霜が割れる。中から何かが落ちた。小さな銀の札だった。
レオナさんが拾い、汚れを拭う。
「名前がある」
「なんて?」
「エッダ・ラン」
女の人だった。三百十二人の一人。
名を失っていた砦の守り手。
「エッダ」
呼んでみる。鎧の空洞で、朝色の火が一度灯った。
それから金属が静かに崩れた。もう動かない。百年ぶんの仕事を終えたのだ。
「お疲れさま」
誰かに名前を呼ばれるまで、どんな気持ちで待っていたのだろう。私は三人を見た。
アデルは前を向いている。ミナは手を握っている。シエナは日記へ、エッダの名を書いた。
いまはまだ、私の名も三人の中にある。でも火種は一つ。残りは三つ。何度、灯替えが必要になるだろう。
「次は湖の町だ」
レオナさんが地図を開いた。
「ここから九日」
九日。骨がつながるには短い。記憶を守る方法を探すには、もっと短い。
「監察官」
シエナが呼び止めた。
「灯替えを知ってるでしょう」
レオナさんの目が私へ向く。
「百年前の記録に名だけある」
「代償も?」
「欠落している」
「嘘」
シエナは言い切った。レオナさんの護衛たちが動く。
「構わない」
彼女は片手で止めた。
「私が閲覧できる記録にはない。ただし封印指定の記録が王都にある。灯守候補を七人調べながら、院がその内容を我々へ開示しなかった」
「なぜ?」
「知られて困るからだろう」
レオナさんは自分の外套の紋章を見た。
「私は、その理由も調べる」
味方だと言ったわけではない。でも院の命令だけを信じている人でもないらしい。
「フィア」
アデルの声がした。
「はい」
すぐ答える。振り返ると、アデルは古砦の入口を見ていた。
「木剣を、取りに戻ってくれ」
胸が詰まる。
「覚えてないんでしょう」
「ああ」
「なら、無理しなくていいよ」
「お前が覚えている」
アデルはこちらを見た。
「今は、それで十分だ」
回収隊の斥候が礼拝堂へ戻り、木剣を探してくれることになった。記憶は戻らない。
約束も、アデルの中にはない。それでも捨てないと選んでくれた。私は泣かなかった。
今日はもう、泣きすぎた。
「ありがとう」
冗談にせず言った。アデルは少し迷ってから、うなずいた。