名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
骨を五本折ると、旅が少し豪華になる。
まず馬車を一台、ほとんど一人で使える。毛布は三枚。枕は二つ。食事は寝たまま運ばれてきて、食べ終わるまで三人が見張ってくれる。おまけに、少しでも起き上がろうとすると怒られる。
「これ、もしかして貴族の暮らし?」
「違う」
シエナが即答した。
「貴族は寝返りを打っても怒られない」
「では囚人かな」
「囚人も骨が折れていたら、もう少し静かにする」
それは偏見ではないだろうか。古砦を出て三日。私たちは湖の町ミレイスへ向かっていた。第一の火種は右手首にある。傷は左脚、肋骨、頭、両手の凍傷。痛みは少しずつ減っているけれど、治癒魔法が効きにくいせいで歩けない。
馬車の揺れは、折れた骨にあまり優しくない。車輪が石を踏むたび、胸の内側へ小さな金槌が落ちる。
顔に出さないようにしていた。
「痛い?」
ミナが聞く。
「三」
「十で?」
「十で」
「さっきは?」
「二」
「増えてる」
「よく気づきました」
褒めてもごまかされてくれない。ミナは馬車の床へ膝をつき、胸に手を当てた。治癒の光が骨の周りを包む。完全には届かなくても、痛みを鈍らせることはできる。
「どう?」
「二と半分」
「増えてるじゃん」
「冗談」
「そういう冗談やめて」
本気で怒られた。最近、使える冗談が減っている。痛みは笑わない。怪我も。
忘れることも。残るのは食べ物と、アデルの方向音痴くらいだ。
「私は方向音痴ではない」
御者台から声がする。聞こえていたらしい。
「昨日、川と反対へ行きました」
「斥候の指示だ」
「斥候は右と言いました」
「私から見て右だった」
「皆、同じ向きでしたよ」
アデルは答えなくなった。まだ話してくれる。灯替えを告白した日、しばらく口をきいてくれなかった。木剣の欠片を取り戻しても、触れずに荷へしまった。怒っている。
でも馬車の速度が上がると、御者台から「大丈夫か」と聞く。夜は私の毛布がずれていないか見に来る。記憶がなくても、アデルはアデルだ。
そう思うと安心する。記憶がなくても変わらないなら、消えてもいい。そこまで考えて、やめた。
よくない。三人が怒ったことを、もう忘れたふりはできない。
「今日もやる?」
ミナが日記帳を出した。昼休みは、四人の昔話を照合する時間になっている。シエナの提案だった。
忘れたものは戻らない。だから、今ある穴の形を調べる。いつ、誰が、どんな場面でフィアを忘れたのか。灯替えの規則を知る手がかりになる。私は反対した。三人の口から「覚えていない」を何度も聞くのは、正直かなりつらい。それも言った。
言ったうえで、調べると決まった。三人だけで進めず、私もいる場所でやる。
それが今の約束だ。
「今日のお題は?」
「雪」
シエナが日記を開く。馬車の後ろに乗っている。揺れても字が乱れない。少し悔しい。
「リーネ村で、四人に関係する雪の記憶」
「多くない?」
「北の村だから」
アデルが御者を王都の騎士へ代わり、馬車へ入ってきた。四人で輪になる。私は寝たままなので、三人の顔が逆さに見える。
「では古い順」
シエナが言う。
「私から。五歳。初めてフィアと話した日。共同墓地で雪像を作っていた」
「墓地で?」
ミナが首を傾げる。
「雪だるまを作る場所がなくて」
「墓地はあるの?」
「人が踏まないから雪がきれいだった」
シエナは昔から、考える順番が少し独特だ。
「何の雪像?」
「大きな鳥」
「猫だったよ」
口を挟む。シエナがこちらを見る。
「鳥」
「耳があったでしょう」
「翼」
「尻尾も」
「長い翼」
お互い譲らない。あの日、私は一人で雪を丸めているシエナへ話しかけた。完成した形は、猫にも鳥にも見えなかった。
シエナは猫だと言った。私は鳥だと言った。
「逆」
シエナの声が低くなる。
「私が鳥。フィアが猫」
「そうだっけ」
「日記にある」
古い頁を見せる。
『墓地でフィアという子と会う。私の鳥を猫と言った。見る目がない』
たしかに書いてある。
「私が間違えてたね」
「珍しい」
「そこは喜ばなくていいよ」
私は覚えていた。少し違っただけで、消えてはいない。胸が軽くなる。
「次、アデル」
シエナが促す。
「六歳。大雪でパンの配達が止まり、四人で村の家へ運んだ」
「私は四歳?」
「ミナは籠に入ってた」
「パンと一緒に?」
「寒いと泣いたから、フィアが入れた」
覚えている。籠の半分にパン。残り半分へ毛布で包んだミナ。途中でミナがパンを二つ食べ、配る数が合わなくなった。
「私、食べてない」
「食べたよ」
「覚えてない」
ミナが日記へ印をつける。欠落かもしれない。
「ほかは?」
シエナがアデルへ聞く。
「フィアが先頭で雪を踏んだ。私は後ろで籠を押した。シエナは家の数を数えた」
「合ってる」
「途中、坂で籠が滑った」
アデルが言葉を止める。
「そのあとが、分からない」
「アデルが転んで、私が一緒に滑った」
「ミナは?」
「籠ごと雪の山へ。泣いてなかった。パンを食べてたから」
「やっぱり食べてる」
ミナが自分の日記へ『たぶん食べた』と書く。アデルは笑わなかった。
「お前が私の手をつかんだ?」
「うん」
「感触はある」
自分の右手を見る。
「雪へ落ちたことも。誰かに引かれたことも覚えている。顔だけがない」
私だけが抜けている。アデルの記憶の中で、手を伸ばした人が白い空白になっている。
「灯替えを使った場面ではないよ」
「なら、なぜ」
「六歳の冬、そのあとアデルが肺炎になった」
シエナが自分の日記を読む。
「フィアも同じ日に寝込んだ」
使った。アデルの熱を一部引き受けた。死にかけてはいなかった。ただ、息が苦しそうで、見ていられなかった。
灯替えは救命だけではない。私が耐えられないときにも使っていた。
「ごめん」
アデルの目が上がる。
「そのときも使った」
「私は死にかけていた?」
「そこまでは」
「では、なぜ」
「苦しそうだったから」
「それだけで、私から取ったのか」
言葉が鋭い。
「小さかったから。代償も、よく分かってなくて」
「十年前には知っていたと言った」
「使うと忘れることは。でも、どのくらいかは」
「知っていて使ったことは変わらない」
正しい。言い訳を重ねても、アデルの中から私を消した事実は変わらない。
「うん」
それだけ答えた。アデルは御者台へ戻った。
幕が閉じる。馬車の中が少し暗くなった。
「今日は、やめる?」
ミナが聞く。
「続ける」
シエナが答えた。私を見ている。
「フィアは?」
逃げてもいいと聞いてくれている。逃げたい。でもアデルが怒った理由を、また私だけで小さくしたくない。
「続けよう」
自分の番。
「七歳の初雪。四人で屋根へ上った」
「危ない」
ミナが言う。
「母さんにも同じことを言われた。下りてから」
「見つかったんだ」
「アデルがくしゃみして」
御者台から「お前もした」と声が返ってくる。聞いている。
「四人で煙突の横へ座った。屋根の雪をかじったのはミナ」
「また私?」
「食べ物に関する思い出は、だいたいミナがいる」
「覚えてない」
ミナは笑ったあと、すぐ真顔になった。
「屋根へ上ったことは覚えてる。アデルが先に上って、シエナが縄を結んでくれて」
「私は?」
「……分からない」
予想していた。それでも痛い。
「フィアが言い出した」
シエナが記録を読む。
「冬至の朝、村でいちばん先に朝日を見るため」
「そう。屋根なら山より高いと思ったんだよね」
「山より?」
「七歳なので」
ミナは日記へ書く。
「今、聞いたから覚えた」
「うん」
「でも思い出した感じはしない」
「うん」
同じ話を知っていることと、思い出があることは違う。私が説明すれば、空白の形は埋められる。でも温度は戻らない。
屋根の瓦が冷たかったこと。ミナの鼻が赤かったこと。朝日が出た瞬間、アデルが大声を出して母さんに見つかったこと。私が感じた温度を話しても、ミナのものにはならない。
「どの灯替え?」
シエナが尋ねる。
「その冬、ミナが雪へ埋まった。屋根とは別の日」
「私、よく危ないことしてる」
「今もね」
「フィアに言われたくない」
ミナが唇を尖らせる。少し笑えて、少し救われる。
「全部、あなたに関係する記憶」
シエナが一覧を見た。
「でも灯替え一回につき一場面ではない。近い記憶がまとめて欠けることもある」
「命の重さ?」
「たぶん。ミナの霧凍結では、看病と川。どちらもフィアがミナを温めた記憶」
似た意味の記憶が燃えた。温める人。
守る人。
「アデルは木剣。守る役を交代する約束」
「今朝の配達も、フィアに引かれた記憶」
「同じ分類かも」
シエナは新しい頁へ三つ書く。温める。手を引く。守る役を交代する。
私が三人にとって何だったか。灯替えは、そこから順に奪う。
「次に使ったら」
ミナの声が小さくなる。
「私、フィアに抱きつく理由を全部忘れる?」
答えられない。
「分からない」
「使わないで」
すぐに言われた。
「少なくとも、私が起きてるときは。嫌だって言うから」
「うん」
「約束して」
灯替えを使わないとは約束できない。使う前に話すと約束した。でもそのとき、ミナがやめてと言ったら。
「返事して」
ミナが私の名を呼ぶ。
「フィア」
「いるよ」
「約束」
逃げ道がなくなる。
「ミナが起きていて、話せるなら、勝手には使わない」
「寝てたら?」
「起こす」
「起きなかったら」
「そのときは、私に決めさせて」
ずるい答えだ。ミナは納得しなかった。でも、うなずいた。
「絶対、起きるから」
強く言う。
「フィアに決めさせない」
私は笑った。うれしかった。
怒られているのに。
*
その夜、街道沿いの礼拝所で休んだ。レオナさんが見張りをしている。火のそばへ座り、第一の火種が宿った私の手首を見ていた。
「眠れない?」
声をかける。
「それは私の台詞だ」
「私は昼に寝てるから」
「怪我人は夜も寝ろ」
「少しだけ」
隣へ座る。左脚は板で固定されている。松葉杖で来たことが知られたら、ミナに怒られる。火へ手をかざす。火種の赤い輪が明るくなる。
「これ、どのくらいで消えます?」
「王都の暁鐘へ納めるまで」
「では、しばらく一緒ですね」
第一火種は温かい。身体の凍傷を治してはくれないけれど、冷えを少し遠ざけてくれる。
「灯替えの記録」
レオナさんが言った。
「古砦を出たあと、伝令を王都へ戻した。封印庫の開示を求める」
「許可されます?」
「されないだろう」
「では」
「拒否された記録が残る」
断られることにも意味があるらしい。王都の人は難しい。
「あなたは、私を連れていくのが仕事でしょう」
「そうだ」
「危ない術を使っても?」
「今は火種を運べる唯一の人間だ」
人間。道具とは言わなかった。
「仕事だから守る?」
「それもある」
「ほかは?」
レオナさんは火へ枝を入れた。
「私にも妹がいる。三十歳になるのに、会うたび私の食事量を確認する」
「いい妹さんですね」
「うるさい妹だ」
口元が少しだけ緩む。
「お前の三人と同じ顔をする」
「どんな?」
「自分の心配が迷惑だと思われている顔だ」
私は火を見た。
「迷惑ではないよ」
「なら言え」
「言ったら、もっと心配するでしょう」
「それを決めるな」
また同じことを言われた。私が決めるな。三人の生死。三人の記憶。
三人の心配。どこまでが私の選ぶことで、どこからが三人のものなのだろう。
「灯守の最後を知っています?」
話を変えた。
「冬の魔女になったことしか」
「名前も?」
「公的記録にはない」
百年前の灯守。四つの火種を集めた人。
そして、冬の魔女になった人。その人も灯替えを使ったのだろうか。大切な人に忘れられたのだろうか。
「名前が分かったら、教えてください」
「なぜ」
「呼びたいから」
エッダと同じだ。誰にも呼ばれなくなった人の名を、せめて一度。
「約束する」
レオナさんは短く答えた。この人の約束は、たぶん日記に書かなくても残る。礼拝所の扉が勢いよく開いた。
ミナが立っている。
「フィア!」
「はい」
「なにしてるの」
「火の番」
「レオナさんがいる」
「二人なら安心でしょう」
「そうじゃない!」
怒られた。抱えられるようにして寝床へ戻される。
「松葉杖で勝手に歩かないで」
「起こすのも悪いかと」
「起こして。勝手にいなくならないで」
ミナの肩へつかまる。小さいころとは逆だ。昔は私が手を引いた。今はミナが支えてくれる。
この記憶だけは、消したくない。消さないためには、三人を危険から遠ざけるしかない。
また私一人で決めようとしている。
「明日から、夜に起きたら呼ぶね」
「うん」
「誰か一人」
「三人とも」
「全員起こすの?」
「私たちの選択」
ミナが得意そうに言った。困った。少しだけ、うれしい。
「分かりました」
今度は嘘ではなかった。