名もなき器に、おかえりを 作:朝麦亭の四人目
旅立ちから七日目、私はようやく自分の足で歩いた。
十歩。そこでミナに見つかった。
「なにしてるの?」
声だけなら普通だ。普通すぎるのが怖い。
「朝の散歩」
「脚、折れてるよね」
「つながりかけ」
「折れてるよね」
「はい」
問答は短く終わった。肩を貸され、馬車へ戻される。つながりかけの左脚は、地面へつくたび鈍く痛んだ。でも痛みより、自分で歩けたことのほうがうれしい。
この調子なら、湖の町へ着くころには松葉杖で動ける。
「うれしそうな顔しないで」
「久しぶりに歩いたから」
「無茶したからでしょう」
「十歩は無茶に入らないよ」
「昨日は三歩って言ってた」
「成長しました」
ミナがため息をつく。
「なんで隠れてやるの」
「隠れてはいません。皆が寝てる時間を選んだだけ」
「それを隠れてるって言うの」
馬車の中には、まだアデルとシエナが眠っている。アデルは壁へ背を預け、腕を組んでいた。目を閉じても眉間の皺が消えない。木剣の欠片は外套の内側に入れている。
記憶のないものを持ち歩くのは、どんな気持ちだろう。尋ねていない。聞く資格がないと思ってしまう。
それも勝手に決めるなと言われそうだ。
「アデルを起こす?」
ミナが私の視線を追った。
「寝かせておこう。昨日、最後の見張りだったから」
「シエナは?」
「シエナも」
「私は起こしたのに?」
「起きてたでしょう」
「フィアが外へ出る音で」
つまり全員を起こす約束を、さっそく半分破った。
「ごめん」
「次は?」
「呼ぶ」
「三人」
「はい」
ミナは満足せず、私の小指へ自分の小指を絡めた。
「約束」
「約束」
子どものころは、約束なんて口だけだと思っていた。破ったらまた結び直せばいい。明日には忘れる。今は違う。忘れることが、いちばん怖い。
「ねえ」
ミナが指を離さないまま言う。
「私、フィアと最初にした約束って何?」
胸が止まりかけた。
「どうしたの、急に」
「昨日、日記を読んでて。アデルは木剣。シエナは、墓地の鳥」
「猫」
「どっちでもいい」
シエナが聞いたら怒る。
「私だけ分からないなって」
「小さかったから」
「フィアは覚えてる?」
覚えている。三歳のミナ。
両親を白夜病で亡くし、親戚の家へ引き取られたばかり。朝麦亭の裏で泣いていた。どうしたのと聞くと、お腹がすいたと言った。パンを半分に割って渡した。
『明日もくれる?』
『明日もお腹すくの?』
『分かんない』
『じゃあ、すいたら来て。半分あげる』
それが最初の約束。たぶん灯替えで消えた。
「覚えてないなあ」
嘘をついた。ミナの小指が離れる。
「そっか」
寂しそうに見えた。私と同じように。でも本当のことを言えば、思い出せない自分をもっと責める。
だからこれでいい。たぶん。
「最初は忘れてても、今の約束があるでしょう」
「うん」
「次にお腹がすいたら、半分あげる」
「なにを?」
「朝ごはん」
「半分じゃ足りない」
欲が出た。
「では一枚」
「二枚」
「交渉は一から始めましょう」
ミナが笑う。それでいいと思った。馬車の後ろから、遠い蹄の音がした。
*
追いついてきたのは、リーネ村の猟師だった。ダンおじさん。
父さんと同じくらいの歳で、冬になると朝麦亭へ鹿肉を持ってくる。代金を受け取らず、酒と交換しろと言って母さんに怒られる人だ。
「フィア!」
馬から降りるなり、私の頭を乱暴に撫でた。
「生きてたか」
「失礼だなあ。出て七日だよ」
「お前は七日あれば三回は死にかける」
「二回です」
「威張るな」
頭をもう一度押された。ダンおじさんは大きな袋と、手紙を渡した。
「オルガからだ。北の街道へ使いが出ると聞いて、ついでに持ってけと」
「おじさんが?」
「湖まで毛皮を売りに行く」
袋から、甘い匂いがする。ミナがすでに隣へ来ていた。
「焼き菓子?」
「鼻がいいね」
「獣人じゃないよ」
「ミナは食べ物だけ分かる」
「悪口?」
「褒めてます」
ダンおじさんは私の固定された脚を見た。
「二回のうち、どっちだ」
「二回目」
「一回目は」
「凍傷」
「オルガへは?」
「書きました。元気だって」
「なら俺が正しく伝える」
「待って」
止める前に、ダンおじさんはアデルへ顔を向けた。
「帰ったらオルガに殴られるぞ」
「私が?」
「三人ついてて、こいつがこれだ」
「……返す言葉もない」
「アデルのせいじゃありません」
「知ってる。お前のせいだ」
私へ戻ってきた。
「はい」
そのとおりなので、素直に答える。手紙を開いた。母さんの字は大きい。紙の端まで使い、食料庫の在庫を書くみたいに短い文が並んでいる。四人とも食べているか。
フィアは自分を人数へ入れているか。アデルは道を間違えていないか。
ミナは蜂蜜を使い切っていないか。シエナは夜に寝ているか。一行ごとに、それぞれの顔が上がる。
「母さん、見てた?」
「書いたのは出発前だ」
ダンおじさんが笑う。全部当たっている。最後のほうには村のことが書かれていた。
凍った井戸は使えるようになった。白夜へ触れた畑は、春麦が黒く枯れた。北の森で動物が消えている。夜になると霧の声を聞く子がいる。
白夜が近づいている。文字にはそう書いていない。
でも分かった。
「村は?」
「今は無事だ」
ダンおじさんの声が変わる。
「だが北の見張り台が、昨夜ひとつ凍った。人は逃げた。霧だけが少しずつ南へ来てる」
リーネ村へ。
「火種は?」
「一つ」
右手首を見せる。赤い輪が光ると、ダンおじさんは目を細めた。
「なら残り三つだな」
「簡単に言うね」
「お前らが四人で帰ってくるよりは簡単だろ」
意味が分からない。
「四人で帰るほうが簡単でしょう」
「そう思ってるならいい」
頭を撫でられる。今度は乱暴ではなかった。
「村は俺たちが見てる。急いで死ぬな」
「急がなくても死にません」
「そういう意味じゃない」
皆が同じことを言う。私はそんなに分かりにくいだろうか。それとも皆が、私より私に詳しいのだろうか。
「袋、開けよう」
ミナが待ちきれずに言う。焼き菓子は四枚。丸くて、掌より少し大きい。表面には一枚ずつ名前が焼き印されていた。
アデル。ミナ。シエナ。フィア。
最初から四人ぶん。私の名前もある。
「よかったね」
ミナが言う。
「なにが?」
「数えなくても、フィアのあるよ」
「私はいつも数えてます」
「自分だけ抜く」
「最近は入れてる」
「今日、朝ごはん半分くれるって言った」
「あれは約束の話」
「ほら」
何が「ほら」なのか分からない。けれど焼き菓子を四つへ割り直す必要はない。自分の名前が入った一枚を受け取る。かじると固かった。
「母さん、焼きすぎ」
涙が出そうになったので、味のせいにする。
「おいしい」
アデルが言った。
「歯、丈夫?」
「これくらい普通だ」
「普通の菓子は音がしないよ」
ミナの焼き菓子が、ぱきんと割れた。
「保存食だから」
シエナは真面目に食べている。皆で笑った。
ダンおじさんも一枚分けてもらい、「これは矢尻を研げる」と言った。母さんの焼き菓子を囲み、道端で四人が揃っている。村へ帰りたい。
思ったより強く、そう思った。仕事を終えてからではない。世界を救ったご褒美でもない。ただ帰りたい。
「ダンおじさん」
呼び止める。
「母さんに伝えて。四人で帰るからって」
「分かった」
「私も入ってます」
「それも伝える」
言葉にすると、少しだけ現実へ近づいた。
*
ダンおじさんと別れたあと、私たちは地図を広げた。湖の町まで残り二日。白夜はリーネ村の北へ近づいている。王都の北鐘が止まるまで、三十三日。
「予定を一日縮める」
レオナさんが言う。
「夜も交代で進む。ミレイスで補給後、すぐ第二火種へ」
「フィアの骨は」
ミナが反対する。
「私なら大丈夫」
「聞いてない」
「もう歩けます」
「十歩で捕まった」
ばれていた。
「馬車で進むなら、私の怪我は関係ないよ」
「揺れる」
「横になっていれば」
「痛みは?」
アデルが聞く。少し迷う。
「三」
「十で」
「本当に」
「嘘なら止まる」
アデルの目は厳しい。でも怒りだけではない。自分の傷が私へある。記憶も。
この人は、私を見ればその両方を考えるのだろう。
「じっとしていれば三。揺れると五。大きな石で七」
正直に言った。ミナが顔をしかめる。
「やっぱり止まろう」
「村に霧が近づいてる」
「でも」
「フィアが決めるなと言った」
シエナが言う。
「私たちも決めない。全員で選ぶ」
地図の上へ指を置く。
「街道を夜進む危険。村へ白夜が近づく危険。フィアの傷」
「馬車の車輪も」
斥候が付け足す。
「夜道で破損すれば、かえって二日遅れる」
レオナさんは考え、進路を指した。
「北東に狩人小屋がある。今日はそこまで。夜明け前に出る。一日ではなく半日縮める」
誰か一人の希望どおりではない。だから、たぶんいい答えだ。
「賛成」
アデル。
「フィアがちゃんと薬を飲むなら」
ミナ。
「日記の時間も取る」
シエナ。三人が私を見る。
「賛成」
答える。私一人なら、夜通し進むと決めた。痛みくらい我慢すればいい。車輪が壊れたら直せばいい。今は十人で選んだ。
その違いに、まだ慣れない。でも悪くなかった。
*
二日後の夕方、湖が見えた。地平線まで水が続いている。北の村で育った私には、海にしか見えない。風が吹くたび、灰色の水面へ細い波が走る。その中央に、白い塔が逆さに映っていた。
「あれが第二火種?」
ミナが御者台から身を乗り出す。岸には塔がない。水面の中だけに建っている。
「水鏡の鐘楼」
レオナさんが言う。
「第二火種は、湖へ映る側の塔にある」
「映る側?」
アデルが眉を寄せた。
「本物は百年前に沈んだ。今も月が出る夜だけ、水鏡の中へ入口が開く」
今夜は満月。湖畔の町ミレイスは、白い壁に囲まれていた。門の前には長い列ができている。入る人ではない。出ていく人の列。
荷車、家畜、泣く子ども。皆、南へ逃げようとしている。
門の上には大きな看板があった。
『不要な記憶、高く買います』
「なに、あれ」
ミナが読む。シエナは日記を開いた。レオナさんの顔が険しくなる。
「記憶市だ」
「売れるんですか?」
「ミレイスでは、記憶を灯へ変えて売買する。白夜を防ぐ燃料にしている」
私の右手首で、第一火種が熱くなった。いらない記憶。売ってもいい思い出。そんなものがあるのだろうか。
列の脇で、一人の母親が小さな瓶を渡していた。瓶の中には、子どもの笑い声が入っていた。
母親は代金を受け取る。隣にいる子どもの顔を見て、首を傾げた。
「あなた、誰?」
子どもが泣き出す。母親は、もう理由が分からない。
ミナの手が私の腕をつかんだ。アデルも、シエナも、何も言わない。私たちは同じものを見ていた。
私が三人へしてきたこと。それが町の入口で、値札をつけられていた。