名もなき器に、おかえりを   作:朝麦亭の四人目

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水鏡の町

記憶にも値段がある。

 初恋は銀貨十二枚。初めて歩いた日の記憶は、本人が覚えていないので売れない。嫌いな人の顔は銅貨三枚。

 好きな人の顔なら、金貨になる。

 

「高いほど大切ってこと?」

 ミナが、記憶市の価格表を見上げた。ミレイスの中央通りには、両側へ青い天幕が並んでいる。野菜も布も売っていない。棚にあるのは、小さな硝子瓶ばかりだ。赤、青、黄色。

 瓶の中で光が揺れ、ときどき声や匂いが漏れてくる。焼きたての菓子を見つけたときの笑い声。雨の日の土。誰かに名前を呼ばれた喜び。

 全部、誰かの記憶だ。

 

「値段は灯の強さです」

 店番の男が答えた。太った指へ銀の輪を何本もはめ、笑顔だけは細い。

 

「強い感情ほど長く燃える。愛情、恐怖、後悔。このあたりが上等ですな」

 

「幸せな記憶も、嫌な記憶も?」

 

「燃やせば同じ灯です」

 男は棚から桃色の瓶を取った。

 

「こちらなど、花嫁が結婚式を迎えた朝。一晩、家一軒を暖められます」

 

「売った人は?」

 

「別れたそうで。不要になったと」

 瓶の中で、若い女性が笑っていた。自分が笑ったことを、今の本人は知らない。

 

「買ったら、他人の記憶を見られるんですか?」

 

「観賞用にもできます。ただし灯へ変えるほうが一般的です。この町では冬の燃料が不足しておりますので」

 水の町なのに、空気は乾いていた。湖から吹く風は冷たい。通りの家々には青い灯炉があり、記憶瓶を一本ずつ差し込んで燃やしている。思い出が燃えると、煙は出ない。

 匂いだけが残る。知らない家の窓から、母さんのパンに似た匂いが流れてきた。反射的に振り向き、違うと分かる。

 

「あれ、嫌だな」

 口に出ていた。

 

「何がです?」

 店番が聞く。

 

「知らない人の家から、帰る場所の匂いがするの」

 

「記憶は手放した時点で商品です。元の持ち主へ返す必要はない」

 

「そういうところ」

 レオナさんが私と男の間へ入った。

 

「見学は終わりだ。市庁舎へ行く」

 回収隊は町へ入るなり、三人に分かれた。レオナさんと私たちは市庁舎。王都の術式師二人は、水鏡の鐘楼へ入る方法の確認。斥候と騎士は、第二火種を狙う者がいないか調べる。

 私はまだ馬車だ。左脚の板は外れたものの、長く歩くのは禁止されている。市場の中を寝台ごと運ばれるのはさすがに断り、車椅子を借りた。押しているのはアデル。

 

「止めて」

 

「何だ」

 

「あの店」

 天幕の奥に、昨日見た母親がいた。子どもの笑い声を売り、隣にいた自分の子を忘れた人。今は一人で椅子へ座っている。五歳くらいの男の子が、少し離れた柱の陰から見ていた。

 

「お母さん」

 子どもが呼ぶ。母親は顔を上げ、知らない子へ向ける笑顔を作った。

 

「どうしたの。迷子?」

 

「僕だよ」

 

「名前は?」

 

「ロイ」

 

「ロイくんのお母さんはどこ?」

 子どもは答えなかった。唇を噛み、走っていく。追いかけようと車輪へ手をかけた。

 アデルが止める。

 

「何をする」

 

「迷子でしょう」

 

「家を知らない」

 

「本人に聞く」

 

「追いつけない」

 車椅子から立とうとして、左脚が痛んだ。ミナに肩を押される。

 

「私が行く」

 

「一人はだめ」

 

「シエナも」

 シエナはもう走り出している。二人へ任せる。

 そう決めるまで、少し時間がかかった。

 

「あの人に話を聞こう」

 アデルが車椅子を母親へ向ける。

 

「ロイという子を知りませんか」

 母親は首を振った。

 

「先ほど、あなたを母親と呼びました」

 

「似た人と間違えたんでしょう」

 

「昨日まで一緒にいたのでは」

 

「昨日?」

 目が揺れる。記憶はなくても、言葉の形だけがどこかへ引っかかったように見えた。

 

「何を売ったんです」

 レオナさんが店番へ尋ねる。男は帳簿を開いた。

 

「息子の誕生から五年分。笑顔、泣き声、初語、歩行、病、誕生日。まとめて金貨四枚」

 

「本人へ、関係ごと失う可能性を説明したか」

 

「規約にございます」

 

「読める人か」

 男は黙った。母親の服は薄い。靴には穴。手の甲へ、白夜病の黒い斑点がある。金貨四枚。薬と、南へ逃げる馬車代。

 子どもを救うために、子どもの記憶を売ったのだろう。

 

「どうして」

 尋ねると、母親は自分の手を見た。

 

「娘がいるんです」

 

「娘?」

 

「三歳。白夜病で、薬が要る。夫は去年亡くなって。売れるものは、もうこれしか」

 息子を売ったとは思っていない。大切な誰かとの記憶を売った。でも誰だったか分からない。

 娘を救うため。

 

「店の人は、あなたに息子がいると知ってた?」

 

「私に、息子?」

 母親の顔が歪む。何かを思い出したわけではない。思い出せないことが怖くなったのだ。

 

「帳簿の契約者欄に、扶養児二名とある」

 レオナさんが頁を示す。

 

「説明していないな」

 

「署名はいただいております」

 

「字を読めない者へ?」

 

「町の正式な商いです。市庁の許可も」

 正式。許可。王国では、正しいことになる。私の灯替えには許可がない。

 でも、やっていることは同じだ。相手を救うためと言って、大切な記憶を奪う。

 あとから説明しても戻らない。

 

「フィア」

 アデルが呼ぶ。

 

「いるよ」

 

「今、何を考えてる」

 答えたくなかった。でも三人には話すと決めた。

 

「私と同じだなって」

 

「違う」

 

「何が?」

 

「お前は金にしてない」

 

「それだけ」

 アデルの声が止まる。

 

「助けるためならいいって決めた。相手が嫌がるかもしれないのに。あとで忘れた本人へ、死ぬよりいいでしょうって言った」

 母親を見る。自分の子を知らない目。

 

「私が三人へしてることと、同じだよ」

 

「同じではない」

 今度はシエナの声だった。戻ってきている。隣にはロイ。ミナが男の子の手を握っていた。

 

「フィアは同じにしないため、今は話してる」

 

「話したのは、隠せなくなったから」

 

「理由が汚くても、変えた行動は消えない」

 シエナはロイを母親の前へ連れてくる。

 

「この子は、あなたの息子。記憶は戻らない。でも事実は残る」

 ロイが母親を見上げる。

 

「僕、迷子じゃないよ」

 母親の手が震えた。伸ばして、途中で止まる。

 

「ごめんなさい」

 

「お母さん?」

 

「分からない。あなたを見ても、何も」

 ロイの目へ涙が溜まる。

 

「でも、私が産んだの?」

 

「うん」

 

「あなたを助けたかった?」

 

「僕じゃなくて、妹」

 子どもは正直だ。母親は泣きながら笑った。

 

「そう。なら、私はひどい母親ね」

 

「違うよ」

 

「覚えていないのに?」

 

「お母さんだもん」

 ロイが手を取る。母親は、知らない子の手を握った。

 昔の親子へ戻ったわけではない。それでも今、二人で立っている。私たちの最後も、こうなるのだろうか。

 三人が私を忘れ、事実だけを聞いて、知らない人として手を取る。それでもいい。そう思いかけた。よくない。

 よくないのに、少し安心した。

 

 *

 

 市庁舎は、町でいちばん暖かい建物だった。玄関には記憶灯が十二個。廊下にも六個ずつ。会議室の暖炉へは、大きな瓶が三本並んでいる。ひとつから、子守歌が聞こえた。

 

「ご不快でしたら、音を切ります」

 市長のバルドさんが言った。五十代くらいの男性で、服も髭も整っている。記憶市の店番と似た細い笑顔。

 

「音の問題ではありません」

 レオナさんは王命を卓へ置いた。

 

「第二火種を回収する。今夜、水鏡の鐘楼へ入る」

 

「残念ですが、入口は閉鎖中です」

 

「なぜ」

 

「白夜が湖底へ入りました。今月、潜った術師が四人戻っておりません」

 

「火種が弱っている証拠だ。なおさら回収する」

 

「火種を持ち出せば、町の防壁はどうなる」

 バルド市長が記憶灯を示す。

 

「この町は百年、第二火種の余熱で湖を凍結から守ってきた。王都へ持っていけば、ミレイスは次の夜に凍る」

 話が違う。四つを王都へ戻せば王国全体が助かる。

 でも戻すまで、火種のあった場所は守りを失う。

 

「記憶灯がある」

 レオナさんが言う。

 

「一時的に防壁を維持できるはずだ」

 

「何人分、燃やせばいいと?」

 

「院の試算では、冬至まで一万二千瓶」

 

「この町の人口は九千です」

 一人一つでは足りない。逃げられない人は、大切な記憶を何度も売る。

 

「だから南へ避難を」

 

「馬車代を誰が出す。老人は。病人は。湖でしか生きられない漁師は」

 市長の言葉には嘘がなかった。守りたいのだ。方法が、人の記憶を燃やすことでも。

 

「フィアさん」

 急に呼ばれる。

 

「はい」

 

「あなたなら分かるでしょう。少数の大切なものを差し出し、多数を救う。それが灯守の役目だ」

 何も答えられなかった。アデルの手が、車椅子の背へ触れる。ミナが隣へ寄る。

 シエナは市長を見た。

 

「フィアに決めさせない」

 

「では誰が?」

 

「全員」

 市長が笑った。

 

「九千人へ尋ねる時間はない」

 

「だから売る前に決める人を増やす。避難、記憶灯、火種の回収。数字を出して、選ばせる」

 

「混乱する」

 

「知らないまま奪うよりいい」

 シエナは変わらない。声は小さくても、引かない。

 

「今夜の鐘楼は?」

 私は尋ねた。

 

「入ります。火種を取るかは、中を見てから決める」

 

「王命へ逆らうのか」

 レオナさんが私を見る。

 

「回収はする」

 厳しい声だった。

 

「ただし町を捨てない方法も探す。術式師を防壁へ回し、必要な記憶灯の数を再計算する」

 バルド市長は納得しなかった。それでも、水鏡への鍵を出した。青い硝子の鍵。

 

「月が真上へ来たとき、湖へ挿しなさい」

 

「湖に鍵穴が?」

 ミナが聞く。

 

「映った月が鍵穴です」

 

「難しい」

 

「たぶん、見れば分かるよ」

 私は鍵を受け取ろうとした。市長が引く。

 

「灯守へは渡しません」

 

「どうして?」

 

「あなたは火種を持ち出す」

 

「では私が」

 アデルが受け取った。記憶のない木剣と同じ側の手で。

 

 *

 

 市庁舎を出ると、外はもう暗かった。満月が湖へ昇っている。水面の中の鐘楼は、昼よりはっきり見えた。逆さの塔の窓に、青い火が一つずつ灯っていく。

 入口が開くまで、あと一時間。

 

「食べよう」

 ミナが言った。

 

「今?」

 

「今だから。水の中でお腹すいても困る」

 正しい。湖岸へ敷物を広げ、保存食を出す。母さんの焼き菓子は食べ終えたので、固いパンと塩漬け肉。私は四人ぶんを分けた。

 自分のぶんも。

 

「覚えてる」

 アデルが言う。

 

「何を?」

 

「朝の配達。全部ではないが」

 突然だった。

 

「雪。籠。誰かに手を引かれた。顔はない」

 

「うん」

 

「今、お前がパンを分けるのを見て、その手だと思った」

 記憶は戻っていない。でも今の私と、昔の空白がつながった。

 

「たぶん、私」

 

「記録にもそうある」

 

「信じる?」

 アデルは少し考えた。

 

「信じたい」

 十分だった。

 

「私も」

 ミナがパンを持ったまま言う。

 

「最初の約束、思い出せない。でも今度から、お腹がすいたらフィアのところへ来る」

 

「自分のパンも持ってきてね」

 

「二枚持ってく」

 

「私のぶんは?」

 

「一枚あげる」

 昔と逆だ。シエナは日記を開き、今日の頁へ書く。

 

「何を?」

 

「新しい約束」

 

「私のも」

 アデルが言う。

 

「次に木剣を作るなら、二本作る」

 

「午前と午後で交代しない?」

 

「しない。ずっと並ぶ」

 新しい約束。失ったものの代わりではない。

 今日、選び直したもの。湖へ月が昇る。水面の月へ、鍵穴の形が浮かんだ。

 私たちは立ち上がる。アデルが車椅子の前へ回り、しゃがんだ。

 

「乗れ」

 

「車椅子では水へ入れない?」

 

「階段だ」

 

「自分で」

 

「十歩」

 昨日のことまで覚えている。仕方なく背へ乗った。肩へ腕を回す。

 

「重い?」

 

「軽い」

 

「それも失礼」

 

「もっと食べろ」

 湖面へ、青い鍵が挿し込まれる。水が左右へ割れた。底へ続く階段が現れる。

 記憶を燃やして生きる町の下へ。第二の火種が待っている。

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