教室の照明がゆっくりと落とされ、正面のスクリーンだけが薄暗い室内を照らし始めた。
最初に映し出されたのは、深い森の中だった。
木々の隙間から差し込む光は弱く、太い幹の根元には、
小さな白いフクロウが一羽だけ座っている。
身体に比べて翼は短く、まだ空を飛ぶには十分な力が備わっていないように見えた。
白いフクロウは、枝の向こうに広がる空を見上げている。
その頭上では、他の鳥たちが自由に翼を広げていた。
高く舞い上がる鳥。
木々の間を素早く抜けていく鳥。
風へ身を預け、ほとんど羽ばたくことなく遠くへ進む鳥。
しかし、白いフクロウだけは地面から離れることができない。
教室の前方に立った堀北が、スクリーンへ映し出されたフクロウを見ながら口を開いた。
「ほりぽんは、努力と成長を象徴するキャラクターです」
説明そのものは、すでに一度聞いている。
けれども今回用意された映像は、
合同説明会で使用した簡易的な紹介映像よりも格段に細かく作り込まれていた。
ほりぽんは翼を大きく広げ、地面を蹴る。
身体が僅かに浮き上がるものの、すぐにバランスを崩し、柔らかな草の上へ落ちた。
それでも、すぐに立ち上がる。
もう一度翼を広げ、先ほどよりも強く地面を蹴る。
やはり飛ぶことはできず、今度は前へ転がるように倒れてしまう。
周囲の鳥たちは、ほりぽんの失敗に気づくこともなく空を飛び続けていた。
「努力をすれば、必ずすぐに結果が出るわけではありません」
堀北の声が、静かな教室へ響く。
「正しい方法を知らないまま、同じ失敗を何度も繰り返してしまうこともあります」
映像の中で、ほりぽんは翼を動かし続けていた。
疲れても止まらない。
一度休めば、他の鳥たちからさらに遅れてしまうと思っているのだろう。
やがて翼を痛め、ほりぽんは木の根元へ座り込んだ。
翼を僅かに動かしただけでも痛みが走るらしく、
もう一度飛ぼうとすることさえできなくなっている。
「頑張ることが正しいと思うほど、休むことが怖くなる時があります」
以前の堀北であれば、簡単には口にしなかった言葉だった。
努力を止めること。
誰かに遅れること。
自分だけが前へ進めないこと。
それらを弱さとして切り捨てるのではなく、本人が感じている不安として説明している。
「他人が前へ進んでいるのに、
自分だけが立ち止まれば、置いていかれるように感じるからです」
画面の中で、ほりぽんは飛び去っていく仲間たちを見上げていた。
置いていかれた。
そう思っているのかもしれない。
しかし、やがて一羽の小鳥が空から降りてきた。
小鳥は何も言わず、ほりぽんの隣へ座る。
続いて、森の奥から別の動物が現れた。
その後にも、さらに別の動物が続く。
誰も、ほりぽんへ飛び方を教えようとはしなかった。
もっと頑張れとも、すぐに立ち上がれとも言わない。
傷ついた翼へ布を巻き、食べ物を置き、ただ一緒に休む。
「ほりぽんは、一人で立ち上がったわけではありません」
堀北から説明を引き継いだ平田が、穏やかな声で語り始めた。
「友達に助けてもらいました」
ほりぽんは、しばらく翼を動かさなかった。
数日間、飛ぶための練習を休み、
友達と一緒に本を読み、地面を歩き、時々空を見上げた。
飛ぶための努力をしていない時間。
一見すれば、何も前へ進んでいないようにも見える。
「休んでいる間も、時間が無駄になるとは限りません」
平田の言葉と共に、画面が切り替わる。
「自分にできないことを知り、他の誰かが得意としていることを知る時間にもなります」
運動が得意な鹿。
勉強が得意な兎。
細かな作業を得意とする狸。
ほりぽんは、それぞれから少しずつ助けてもらう。
翼を動かす順番。
風の読み方。
身体を前へ傾ける角度。
飛ぶ前に必要となる筋力の付け方。
それでも、すぐに成功するわけではなかった。
教わった通りに翼を動かしても、最初は転ぶ。
風を読もうとしても、判断を誤る。
また失敗し、もう一度挑戦する。
ただし、最初の頃とは違っていた。
ほりぽんは、もう一人ではない。
「ほりぽんのグッズにも、同じ考え方を取り入れています」
松下が前へ出ると、机の上へ用意されていた品物を一つずつ示した。
白い羽根を模した栞。
一週間の目標を書き込める小さな手帳。
鉛筆を形取ったキーホルダー。
「この手帳には、目標だけではなく、休む予定を書き込む欄もあります」
スクリーンへ手帳の内部が大きく表示された。
今日の目標。
今日できたこと。
できなかったこと。
明日へ回すこと。
休む時間。
誰かへ助けを求めたいこと。
「できなかった項目へ、罰や減点が付くことはありません」
松下は手帳のページをめくりながら説明する。
「できなかった理由を考え、次の日に回すことができます。
無理に一日で全てを終わらせるための手帳ではありません」
再び堀北が教室の前方へ立った。
「私たちのクラスも、最初から一つにまとまっていたわけではありません」
教室が静かになる。
その言葉が、単なるキャラクター紹介ではなく、
自分たちのクラスについて語られていることを、全員が理解したからだろう。
「自分だけで進もうとした者がいました」
堀北自身のことでもある。
「他人を信じられなかった者もいました。努力の方法が分からなかった者、
目的を持てなかった者、自分の得意なことを理解していなかった者もいます」
特定の誰か一人を指しているのではない。
このクラス全体の話だった。
「失敗し、対立し、誰かに助けられながら、少しずつ前へ進んできました」
最後の映像が始まる。
ほりぽんは、高い崖の上へ立っていた。
その先には、どこまでも広がる青空がある。
一度は翼を開こうとするものの、恐怖を感じたのか、すぐに身体へ戻してしまう。
後ろには、これまでほりぽんを支えた仲間たちが並んでいる。
しかし、誰も背中を押そうとはしない。
飛ぶかどうかを決めるのは、ほりぽん自身だった。
ほりぽんは何度も空を見下ろした後、ゆっくりと一歩を踏み出す。
その瞬間、教室の横にある別室の扉が開いた。
完成に近い状態のほりぽんが、ゆっくりと教室へ入ってくる。
中へ入っているのは須藤だった。
大きな着ぐるみの構造に合わせ、普段よりも歩幅を小さくしている。
左右の翼は閉じた状態で、机や椅子へ触れないよう慎重に教室中央まで進んだ。
スクリーンの中のほりぽん。
現実の教室へ現れたほりぽん。
二体の動きが重なる。
映像のほりぽんが崖から跳び出す。
しかし、現実のほりぽんは飛ばない。
危険な跳躍を試みることもない。
代わりに、ゆっくりと顔を上げた。
スクリーンには青空が広がっている。
着ぐるみの中で須藤が両手を握ると、閉じられていた翼が半分ほど開いた。
もう一度、しっかりと手を握る。
左右の白い翼が、今度は大きく全開になった。
両方の動きは揃っている。
操作用の紐が引っかかることもなく、翼の先端が周囲の机へ触れることもなかった。
画面の中では、ほりぽんが初めて空を飛んでいる。
「今日の努力が、明日の翼になる」
堀北が言った。
「ですが、今日努力できなかったとしても、明日から始めることができます」
ほりぽんは翼を広げたまま、教室全体を見渡している。
「ほりぽんは、努力できる者だけのキャラクターではありません。
努力できない日がある者、助けを求められない者、
何度失敗しても、もう一度始めたいと思う者。
その全てと共に、一歩ずつ前へ進むキャラクターです」
映像が終わり、教室の照明が戻る。
その直後、大きな拍手が教室内へ広がった。
演技を終えた須藤は、ほりぽんの中で翼を下ろした。
拍手へどのように反応すればよいのか迷ったらしく、
片方の翼だけをゆっくり上げ、小さく左右へ振った。
その動きが、ほりぽん自身が照れながら手を振っているように見えたため、
拍手はさらに大きくなった。
堀北の表情も、僅かに緩んでいる。
「質問を受けます」
ほりぽんは教室の前方へ立ったまま、質問時間へ移った。
最初に手を挙げたのは池だった。
「ほりぽんは飛べるようになった後、どこへ行くんだ?」
堀北はすぐに答えた。
「一人で遠くへ行くのではなく、まだ飛べない仲間のところへ戻るわ」
「飛び方を教えるのか?」
「一方的に教えるのではなく、一緒に練習するの」
「ずっと飛べない奴がいたら?」
「その人が飛ぶことを望んでいるなら手伝うわ。
飛ぶ必要がないと考えているなら、別の道を一緒に探す」
以前のほりぽんは、努力することを促すだけのキャラクターだった。
今は違う。
飛ぶこと自体を強制しない。
軽井沢が手を挙げた。
「きよぽんみたいに、ずっと休んでたら?」
教室から笑いが起きる。
堀北は少しだけ眉を寄せたものの、真面目に答えた。
「ほりぽんは、最初に理由を聞くわ」
「きよぽんは喋らないよ」
「なら、隣で教科書を読む」
「勉強させようとはしないの?」
「自分から始めるまで待つわ」
ほりぽんがきよぽんと友達になったことで、
きよぽん側の価値観が、ほりぽんにも少し加わったらしい。
佐藤が手帳について尋ねた。
「グッズの手帳は、勉強以外にも使える?」
「使えるわ。運動や趣味、人間関係、生活習慣など、
目標であれば何を書いても構わない」
「休む予定だけ書いてもいい?」
堀北は一瞬だけ言葉に詰まった。
「毎日全てを休みにすることは推奨しないわ」
教室に笑いが広がる。
「ただし、本当に休息が必要なら構わない」
最後に、プレゼンへ参加していた平田が手を挙げた。
「ほりぽんが一番大切にしていることは何かな?」
堀北は少しだけ考えた。
スクリーンには、ほりぽんが仲間たちと並んでいる絵が映し出される。
「飛ぶことではないわ」
堀北はそう言った。
「自分で選んだ一歩を、誰かと一緒に踏み出すことよ」
質問時間が終わり、ほりぽんは別室へ戻っていく。
扉を通る直前、広げた翼の先端が入口へ当たりかけた。
補助員として側にいた平田が、すぐに身体の角度を修正する。
最後まで完璧ではない。
しかし、その小さな失敗さえも、ほりぽんらしいものに見えた。
◯
十分間の準備時間を挟み、次はいよいよ、きよぽん陣営の発表となった。
オレは長谷部、三宅、幸村、佐倉と共に別室へ移動した。
完成に近いきよぽんの着ぐるみが、部屋の中央へ置かれている。
「清隆くん、大丈夫?」
佐倉が心配そうに尋ねる。
「ああ」
「暑くなったら、すぐに合図してね」
幸村も、安全確認表を見ながら動作を確認する。
「右手を三回動かせば中断だ。視界が曇った場合は、その場で止まる。
無理に出口まで歩こうとするな」
「分かった」
「転びそうになった場合は?」
長谷部が答える。
「補助員はみやっち」
「俺は映像操作の担当じゃなかったか?」
「映像が始まった後は自動再生に設定したよ」
「初めて聞いた」
「さっき変更した」
三宅は呆れたように息を吐いたものの、オレの背後へ回り、胴体フレームを支えた。
きよぽんの胴体へ身体を入れ、肩の支持具、腕、脚部を一つずつ装着していく。
「肩は痛くないか?」
「問題ない」
「前側のフレームは?」
「ある程度なら屈める」
「右腕を動かしてくれ」
腕を上げると、外側の短い腕も持ち上がる。
左腕も同様に動かす。
幸村は問題がないことを確認し、チェック表へ印を付けた。
佐倉は、頭部を装着する前にきよぽんの顔を最後まで整えている。
頬。
目。
口元。
縫い目。
長谷部が横から確認した。
「少し右の頬が下がってない?」
佐倉が指先で位置を直す。
「これでどう?」
「いいと思う」
長谷部が答える。
「清隆くん本人には見えないよね」
「頭部を被る前なら見える」
オレは、正面に置かれたきよぽんの顔を見た。
眠そうな目。
大きく変化しない表情。
それでも、以前の簡単な落書きと比べれば、随分と柔らかな印象になっている。
佐倉が考えた顔だった。
「悪くない」
オレが言うと、佐倉は少しだけ嬉しそうに笑った。
「ありがとう」
「本人公認」
長谷部がすぐに言う。
「今は外見について評価しただけだ」
「同じだよ」
「違う」
頭部が持ち上げられる。
オレは少し屈み、その上からきよぽんの頭部が下ろされた。
視界が狭くなり、肩へ新たな重量が加わる。
後頭部に取り付けられた小型送風機が作動し、弱い風が首元へ届いた。
「聞こえる?」
長谷部の声。
「ああ」
「声は出さない約束だからね」
オレは頷いた。
「でも、状況によっては説明した方が――」
首を横へ振る。
「分かったって」
本当に分かっているのかは怪しい。
やがて教室側から、茶柱先生の声が聞こえてきた。
「次。きよぽん陣営」
別室の扉は、まだ閉じられている。
最初は映像と説明だけで進め、オレが入るのは後半からだ。
頭部の中からスクリーンを見ることはできない。
ただし、音声は聞こえる。
教室の前方へ立った長谷部が、プレゼンを始めた。
「きよぽんは、最初から立派なキャラクターだったわけではありません」
意外な導入だった。
「最初は、丸くて、眠そうで、ヨーグルトを被っているだけでした」
教室から笑いが起きる。
「今も大体同じじゃねぇか」
着ぐるみから出て教室へ戻った須藤の声が聞こえた。
「見た目はね」
長谷部も笑っている。
「でも、最初のきよぽんには名前しかありませんでした」
スクリーンには、長谷部が最初に描いたきよぽんが映し出されているのだろう。
丸い身体。
点のような目。
頭に載ったヨーグルト容器。
簡単な落書き。
「私が、綾小路くんをゆるキャラにしたら面白いと思って描きました」
「認めたな」
別室で小さく呟いたが、外には届かない。
「本人は、何度も違うと言いました」
教室から再び笑いが起きる。
おそらく、スクリーンにはオレと長谷部のやり取りが表示されている。
『きよぽん』
『違う』
『きよぽんが勝手に?』
『使い方が違う』
そのやり取りを紹介した後、長谷部の声が少し変わった。
「でも、みんながきよぽんへ、少しずつ何かをくれました」
佐倉が描いた目。
三宅が作った身体の骨組み。
幸村が整理した設定と安全管理。
軽井沢たちが考えたステッカー。
クラスメイトが集めたヨーグルト容器。
それだけではない。
ほなわんのお友達カード。
森下の観察記録。
龍園が用意した端末ケース。
ひよりが考えた、ぶっくまるとの交流。
堀北クラスだけで作ったキャラクターではなくなっていた。
「きよぽんは、一人では何もできません」
少し表現が違うように感じた。
きよぽんの設定上、困っている者へ気づき、誰にも知られずに助けることもある。
一人でも、何もできないわけではない。
ただし、長谷部が言いたいのは別のことだった。
「きよぽん自身が、一人では作られなかったという意味です」
幸村が補足した。
「長谷部一人の案だけでは、現在の形にはなりませんでした。
誰か一人が、全てを決めたキャラクターではありません」
三宅の声も聞こえる。
「胴体の骨組みは、俺と何人かで作った。
俺は別に、ゆるキャラが好きだったわけじゃない」
教室から少し笑いが起きる。
「今も詳しくはない。でも、自分で作った部分が実際に動くと、少し嬉しかった」
続いて佐倉が話し始める。
声には緊張が残っている。
それでも、途中で止まらずに続けた。
「私は、きよぽんの顔を描きました。最初は、清隆くんに似せようと思っていました」
教室が少し静かになる。
「でも、途中から少し変えました」
初期の目と、現在のきよぽんの目が並べて表示されているらしい。
「清隆くんより、少しだけ優しく見えるようにしました」
教室から笑いが起きた。
「本人より?」
軽井沢の声。
「ち、違うの。清隆くんが優しくないって意味じゃなくて」
佐倉が慌てている。
「分かってるよ」
「きよぽんは顔を動かせないから、最初から少しだけ柔らかく見える方がいいと思ったの」
眠そうで、表情の変化も少ない。
それでも、僅かに穏やかな印象がある。
「頬の色も、よく見なければ分からないくらい薄くしました」
長谷部が引き継ぐ。
「きよぽんは、感情がないわけではありません。表へ出すのが少し苦手なだけです」
オレ自身について話されているようにも聞こえる。
しかし、きよぽんは、すでにオレだけを模した存在ではなくなりつつあった。
「きよぽんには、大きな夢がありません」
画面には、他のキャラクターが並んでいるのだろう。
空を飛ぶことを目指すほりぽん。
多くの人と友達になろうとするほなわん。
クイーンを目指すありすぽーん。
世界中へ本を届けたいぶっくまる。
その横で、座ってヨーグルトを食べているきよぽん。
「学校を象徴するキャラクターなのに、夢がないのはどうなのかと思うかもしれません」
長谷部は、自分たちの弱点を隠そうとはしなかった。
「きよぽんは、みんなを引っ張りません。頑張れとも言いません。
努力をすれば何でもできるとも言いません」
佐倉が制作した新しい映像が始まる。
一羽の兎が、一人で座っている。
少し離れた場所では、他の動物たちが楽しそうに遊んでいる。
兎は輪の中へ入ることができない。
自分から入ろうともしない。
そこへ、きよぽんが歩いてくる。
話しかけない。
励まさない。
兎から少し離れた位置へ座る。
二体は、別々の方向を向いている。
「一人でいたい時もあります」
長谷部の声が続く。
「誰かに励まされたくない時もあります。
大丈夫と言われることさえ、苦しく感じる時もあります」
映像の中で時間が進み、森は夕方へ変わる。
きよぽんは、まだ兎の隣にいる。
何もしていない。
「きよぽんは、無理に元気にしようとはしません。
ただ、その人が一人きりにならないよう、少し離れた場所にいます」
きよぽんが、自分のヨーグルトを一つ取り出す。
続いて、もう一つのヨーグルトを出した。
第二形態。
教室から小さな笑いが起きる。
「ここで第二形態なのか」
須藤の声。
「大事だから!」
長谷部は真剣に答えた。
映像の中できよぽんは、予備のスプーンを兎の前へ置いた。
兎はすぐに手を伸ばさない。
きよぽんも急かさない。
時間が過ぎた後、兎がようやくスプーンを取る。
二体は隣に座ったまま、一緒にヨーグルトを食べ始めた。
「何も解決していません」
幸村が言った。
少し意外な説明だった。
「兎が抱えていた問題は、そのままです。
きよぽんは、問題を全て解決できる万能な存在ではありません」
画面の中で、兎が僅かに顔を上げる。
笑顔にはならない。
ただ、隣にいるきよぽんの方を見る。
「一人で抱えていた時間を、少しだけ二人で過ごした。それだけです」
幸村は淡々と続けた。
「それだけでも、意味がある場合があります」
長谷部が再び前へ出る。
「きよぽんの夢は、今も決まっていません。でも、それでいいと思っています」
教室が静かになる。
「夢がない人もいるからです」
今、何をしたいのか分からない人。
周囲のように頑張ることができない人。
将来の目標を見つけられない人。
「きよぽんは、その人たちへ夢を持てとは言いません。
一緒に探すとも言いません。いつか見つかるまで待つとも約束しません」
長谷部の声は、最後まで迷わなかった。
「ただ、夢が決まっていなくても、ここにいていいと言います」
映像が暗くなる。
最後に、きよぽんの眠そうな目だけが映し出される。
その下には、見慣れた文章。
『違う。きよぽんが勝手に』
教室から笑いが起きた。
ただし、以前とは少し意味が変わっている。
何かをしたと認めず、自分の功績にせず、周囲が勝手に意味を与えたキャラクター。
「最後に、きよぽん本人に出てきてもらいます」
長谷部の言葉と共に、別室の扉が開いた。
三宅がオレの背後へ付く。
「段差はない。前方三メートル」
小声の案内を聞きながら、オレは歩き始める。
一歩ずつ教室へ入る。
狭い視界の隙間から、多くの生徒がこちらを見ていることが分かった。
以前、骨組みだけを被った時。
制服姿の身体へ頭部だけを載せた時。
教室には笑いが起きた。
今は違う。
丸い身体。
短い手足。
頭へ載せたヨーグルト容器。
完成に近いきよぽんが教室へ入った瞬間、歓声と拍手が起こった。
オレは教室の中央まで進み、そこで止まる。
右手を上げて、ゆっくり左右へ振る。
短い腕が揺れると、教室から笑いが起きた。
「可愛い!」
佐藤の声。
「思ったよりちゃんとしてる!」
池が言う。
「思ったよりは余計だよ!」
長谷部がすぐに言い返した。
「きよぽんは、一人では大きな丸を作れません」
オレは両腕を上げた。
腕が短いため、頭上で手が届かない。
一度、丸を作ろうとする。
もう一度試す。
それでも届かない。
演技ではない。
構造上、本当に不可能だった。
教室から笑いが広がる。
「でも、友達に手伝ってもらうことはできます」
長谷部、三宅、幸村、佐倉の四人が、オレの周囲へ移動した。
昨日まで何度も練習した形。
ただし、今日は最終プレゼンだった。
長谷部が左。
佐倉が右。
三宅と幸村が、その外側へ立つ。
四人が腕を上げ、大きな輪を作る。
「きよぽんは、友達に手伝ってもらいます」
オレも両腕を左右へ伸ばした。
長谷部と佐倉の手へ、短い腕の先端が触れる。
全員の腕が繋がり、オレたちの周囲に大きな丸が完成した。
教室から拍手が起こる。
合同説明会の時よりも、朝の撮影時よりも大きな輪だった。
「きよぽんは、一人で何でもできるキャラクターではありません」
長谷部は輪を作ったまま続けた。
「でも、一人でできないことを恥ずかしいとは思いません。
友達へ手伝ってと言うのも、少し苦手です」
そこで長谷部は笑った。
「だから、友達の方から勝手に手伝います」
頭部の中で、少しだけ笑いそうになった。
本人の意思を確認せず、勝手にキャラクターへし、勝手に設定を増やし、勝手に手伝う。
確かに長谷部たちらしい。
「その時、きよぽんは言います」
長谷部がこちらを見る。
嫌な予感がした。
オレは声を出さないと約束している。
しかし、長谷部はオレへ台詞を要求しなかった。
「違う。きよぽんが勝手に」
自分で言った。
教室から笑いが起こる。
約束は守ったらしい。
「発表は以上です」
全員が腕を下ろし、教室へ頭を下げた。
オレも身体ごと僅かに前へ傾ける。
安全に戻れる十五度程度。
再び拍手が起こった。
ほりぽんの時と同じくらい大きい。
どちらが上なのかは、拍手だけでは判断できなかった。
質問時間へ移る。
最初に手を挙げたのは松下だった。
「きよぽんは、学校の公式キャラクターになったら何をするの?」
長谷部が答える。
「頑張れない人や、一人でいたい人のための休憩場所を作ります」
「具体的には?」
「学園祭できよぽん休憩所を作る」
教室から笑いが起きる。
「本当に作るの?」
「椅子とクッションを置いて、話さなくてもいい場所にします」
幸村が補足した。
「混雑した行事では、静かに休める空間にも一定の需要がある。
キャラクター設定と、実際の用途を一致させることができる」
単なる冗談ではない。
人混みが苦手な者。
騒音に疲れやすい者。
一人になりたい者。
学園祭の中に、何もしなくてもいい場所を用意する。
「ヨーグルトは?」
池が尋ねる。
「食品の配布には許可が必要なので、現時点では予定していない」
幸村が現実的に答えると、長谷部は残念そうな顔をした。
「容器だけ展示する」
「何の意味があるんだよ」
「きよぽんの聖地」
「作るな」
声は出さず、頭部を横へ振った。
「きよぽんが嫌がってる!」
軽井沢が笑う。
「中身の意思だろ」
須藤が指摘する。
長谷部は、当然のように答えた。
「きよぽんと中身は一体だよ」
「別だ」
反射的に声が出た。
きよぽんの頭部の中で声が響き、教室が一瞬静まり返る。
その直後。
「喋った!」
池が勢いよく立ち上がった。
「きよぽんが喋った!」
「本人の声じゃん!」
軽井沢まで笑っている。
長谷部が小さな声で尋ねた。
「声を出さない約束は?」
「反射的に出ただけだ」
幸村は冷静に音量を確認している。
「声は十分に外へ聞こえるな」
「確認するな」
教室に笑いが起きた。
質問が再開される。
平田が手を挙げた。
「きよぽんが、一人でいたい人の隣へ座ることで、
逆に相手の負担になる場合はどうするのかな?」
佐倉が答えた。
「少し離れた場所へ座ります」
「それでも嫌がられたら?」
「もっと離れます」
「完全に一人にする?」
佐倉は少しだけ考えた。
「見えるところにはいるけど、近づかないと思います」
きよぽんは、助ける側の満足を優先するキャラクターではない。
相手が一人を望むなら、無理に関わろうとしない。
幸村が続けた。
「きよぽんは、誰にでも必要なキャラクターではありません」
自分たちの代表に対する説明としては、随分と正直だった。
「元気な者、積極的に励ましてほしい者、
明確な助言を求めている者には、他のキャラクターの方が合う可能性があります」
万能ではないと認める。
「それでも、他のキャラクターが届きにくい層へ寄り添える。それが、きよぽんの独自性です」
最後に手を挙げたのは堀北だった。
長谷部の表情が少し変わる。
最大の競争相手。
「きよぽんが、ずっと頑張らないままだったら?」
教室が静かになった。
きよぽんは、休む者を否定しない。
しかし、学校のキャラクターである以上、何もせず、前へ進まず、
立ち止まり続けることまで肯定するだけでいいのか。
長谷部は、すぐには答えなかった。
やがて、ほりぽんが待機している別室の扉へ視線を向ける。
「その時は、ほりぽんが来ます」
堀北が僅かに目を見開いた。
「ほりぽんが、きよぽんの隣で勉強します。無理に勉強させることはしません。
でも、自分が頑張っている姿は見せます」
「きよぽんが少し興味を持ったら?」
「一緒に教科書を見ます」
「興味を持たなかったら?」
「また次の日に来ます」
「それでも駄目なら?」
「その次の日です」
「いつまで続けるの?」
長谷部は迷わず答えた。
「きよぽんが、自分から動くまで」
そして、もう一度ほりぽんのいる方を見る。
「きよぽんは、一人だけで完成するキャラクターじゃないから。ほりぽんが必要です」
教室の中で、誰も笑わなかった。
代表に選ばれるのは一体だけ。
それでも二体は友達だった。
ほりぽんが頑張りすぎた時には、きよぽんが休ませる。
きよぽんが立ち止まり続けた時には、ほりぽんが自分の背中を見せる。
互いに欠けている部分を、もう一体が補う。
「回答は以上?」
堀北が尋ねる。
「うん」
長谷部が頷く。
堀北も、小さく頷いた。
「分かったわ」
質問時間が終わり、オレは三宅に支えられながら別室へ戻った。
頭部を外される。
狭かった視界が一気に明るくなり、額や首元へ溜まっていた熱も外へ逃げ始めた。
「大丈夫?」
佐倉がタオルを差し出す。
「ああ」
「お疲れ」
三宅が背中側の留め具を外していく。
幸村は着用時間を確認していた。
「十五分二十二秒。送風機は機能していたが、頭部内の湿度はかなり高い」
「休憩なしで長時間使うのは無理だな」
三宅が言う。
「本番では十五分活動し、十分休憩することを目安にすべきだ」
幸村の指示に従い、きよぽんの着ぐるみから完全に出る。
長谷部は、タオルで汗を拭くオレの前へ立った。
「ありがとう」
「まだ投票前だ」
「プレゼンに出てくれたことへのお礼」
「制作に関わった者として、必要だと判断しただけだ」
長谷部は嬉しそうに笑う。
「やっぱり、清隆くんも制作班だね」
以前なら、すぐに否定していたかもしれない。
しかし、骨組みの調整も、着用試験も、設定の確認も行った。
合同説明会にも、最終プレゼンにも出た。
「完全には否定しない」
長谷部の動きが止まった。
「今、何て言った?」
「聞こえたはずだ」
「もう一回言って」
「言わない」
長谷部は、しばらく驚いた顔をしていた。
その後、きよぽんの頭部を見ながら、嬉しそうに笑った。
「きよぽんも喜んでる」
「それは違う」
否定はした。
しかし、その言葉は、以前とまったく同じ意味ではなかった。