……何故、あの時貴方を選ばなかったのだろう。
唐門が滅び、あなたとあなたの夫しか唐門最後の外弟子を知らなくなった頃、あなたの頭に浮かぶのは、何故という問いだけだった。
……機会なら幾らでもあった。貴方はいつも私を待ってた……ごめんなさい、師兄……死ぬ間際だというのに……私、もう貴方の顔しか思い出せないわ。
まず、香りを忘れた。次に、温度を忘れた。そして、声を忘れ、最後に残ったのは特徴的なあの顔だけだった。彼はいつも自分の顔を卑下していたが、あなたは神に感謝した。あの顔でなければ、もう彼のことを思い出せなくなっていたかもしれない。それが堪らなく怖く、同時に悔しかった。
あなたは頭髪も白くなり、小さかった背は更に折れ曲がり、今にも消えてしまいそうだ。だが、不思議と怖くは無かった。むしろ、漸く解放される事に感謝していた。
……私、来世はきっと蟲か魚ね。でも、それで良い。……父さん、師兄、師姉……随分と遅くなってしまいました……私も今逝きます。
目を閉じると、どんどんと意識が遠のいて行くのが分かる。そして、あなたの意識は暗転していった。
……わがままだと知ってるけど……
……もう一度、過去に戻って、貴方に逢えたら……
……一回だけで良いの……
……たった一回だけ……
■ ■ ■
「――小師妹、小師妹ったら!今日はどうしたの?寝坊なんて珍しいじゃない……やだ、泣いてるの?何か嫌な夢でも見た?」
「……ぇ……?」
あなたは混乱した。今まさに逝去する間際だったのだ。そうすると、ここは冥府なのだろうか?
「……ここは、その、黄泉の国なの?」
「……随分と辛い夢だったみたいね……大丈夫よ。私もいるし、師姉師妹もいるわ。貴方を脅かすものはここに無い」
師姉に抱きしめられ、あなたは途方に暮れた。あの長く辛い日々は、果たして夢だったのだろうか。だが、あなたには確認しなければならない事がある。
「師兄……師兄は!?」
「師兄?……もしかして趙活の事?……炊事でもしてるんじゃない?ってちょっと!?」
聞くや否や、あなたは師姉の腕から飛び出して厨房へと向かう。気が付けば身体は老婆ではなく、あの懐かしい日々の中の姿であった。
唐門を懐かしむ事すら惜しんであなたは厨房へ向かう。
何故こうなったか、理屈は分からない。神仏が憐れんで、死ぬ間際に走馬灯を見せているのだろうか。
「師兄!」
果たして、厨房に彼は居た。あなたは思い出す。彼の後ろ姿は、こんなにも安心できるのだという事を。
「小師妹?どうした?鈴の音が聞こえたと思ったから、探しに行こうかと思ったんだが、そっちからやってくるとは……ま、まさか俺の事が「好き!!!」あぁエッエェッ!?エッ!?へぇあっ!?!?!?!?!?」
振り向いた彼へと飛び込み、しっかりとその躰を掴んだ。あなたは思い出す。匂いを、声を、温度を。
長い長い時の中で、あなたはようやく家へと帰ってきた。
「師兄、私……やっと帰ってこれたの……」
「ゑェッ……??そ、そうか……何か怖い夢でも見たのか?」
「うん。とてもとても怖い夢だった。唐門が滅んで、し、師兄も、死んじゃって……」
「おうおう、分かった。……怖かったな。泣くな、小師妹。俺たちは君を置いて、何処にも行きはしないさ」
あなたは咄嗟に嘘吐き、と言いそうになった自分を恥じた。彼らを見捨てた自分に、彼らを責める事が出来るだろうか?
「なぁ、小師妹、俺は朝餉を作らないといけない。二師兄からなんて言われるか分からないからな……だからそろそろ手を離してくれないか?汁物が吹きこぼれそうだ」
「やだ。絶対
「エェ……ッスか……」
鍋の蓋がコトコトと鳴っていたが、あなたは無視した。今はただこの至福に浸っていたい。
「おい趙活!今朝は随分と美味そうな匂い、が……」
「だ、大師兄!違うんだ!小師妹が勝手に!」
どうやら大師兄があなた達の逢瀬を邪魔しに来たようだ。彼はいつもあなたの邪魔をする。なくなく彼の腹から顔を離し、氷点下の眼差しで大師兄へと視線を移す。
「……大師兄、邪魔。来ないで」
「趙活!?いつかやると思ってたが、お前遂に小師妹に毒を盛ったのか!?!?」
「本当に違うんだ!!!ど、どうした小師妹!?様子が変だぞ!?」
「変じゃない。変なのは師兄。嫁にすると言ってたのは嘘だったの?」
「ェッい、いやそれはなんていうかそりゃしたいけど余りに急過ぎるだろ!?何が起きてる????」
「じゃあ問題無い」
あなたは鍋の火を止め、彼の隣へと立つ。手を握ると汗で滲んでいた。生意気にも咄嗟に手を離そうとしたので思い切り握り返す。武功で今の彼があなたに勝てる訳がない。
「唐錚ー!早く来てくれー!小師妹が発狂した!」
「……おい、クズ共、朝っぱらから私の邪魔をした理ゆうをぁああア!?」
二師兄は発狂した。騒ぎはいよいよ止められない規模となり、掌門の知るところとなった。
■ ■ ■
「……黙鈴よ、お前の気持ちは分かった。だがそれだけで嫁ぎ先を決めれる程唐門の血は「じゃあ師兄と一緒に山を降りる」「エッ!?」……」
あなたは唐門が好きだ。だが今となってはそれは定食に食後の甘味もあると嬉しい程度のもので、彼と共に生涯を終えられないのであれば、迷わず捨てられる程度のものである。
一方でこれに一番驚いたのは趙活である。彼は当然あなたを世界で最も愛しているが、同時に大侠となって世界を変えたいという大望もある。当然唐門以外の門派に入門出来るならそうするが、このような形で唐門から離れるかもしれないとは思いもしていなかった。
当然あなたの父、中翎もこれには驚いた。急にパパっ子だった娘がパパより彼氏の方が好き(しかもその彼氏も今日付き合い始めた)と言い出すも同然の回答。脳へのダメージは計り知れない。
中翎直伝の弟子四人も心ここに在らずといった風で、正心堂は混乱を極めていた。
「逆に、父さんは何で師兄を外弟子のままにするの?師兄はもう十分強いと思う」
「それは……むぅ……」
中翎は悩んだ。漢と漢の約束である。心に仕舞っておくのが礼儀だろう。しかし、この事を言うなとまでは言われなかった。言えば状況は好転するやもしれない……。
悩んだ末、中翎は話した。趙活が唐門へ来た際、彼の父が最後の家畜を差し出して、彼を弟子入りさせないでくれと頼んだ事を。
「いや知れて納得はしたけど状況が訳わかんな過ぎて噛み砕けない……!」
「師兄、落ち着いて。私に考えがある。私が掌門になれば全部解決する」
「「「!?!?!?」」」
一同、驚愕。
大師兄はその手があったかと小師妹の考えに諸手を挙げて喜び、二師兄は小師妹に手を掛ける可能性が出てきて再度発狂。三師兄は掌門・あなた・趙活の三人を目で追って目を回し、四師兄は理解の範疇を超えたので如何に結婚式であなた達から金をぶんどるかを考えていた。
趙活はいよいよ限界を迎え、立ったまま気絶した。
「いやでもまだ貴方は余りにも幼い!確かに武功は私よりも高いですが、掌門となるには早過ぎます!」
「……要するに、私に実績が無いからでしょう?」
「そ、そういう事です」
「いやいや、実績なんて後追いで良いだろ?外の連中がなんて言おうと、唐門には唐門のやり方がある」
「お前は掌門になりたく無いだけだろう、クズが」
「バレたか。でも良いだろ?あの小師妹が初めて我儘言ってんだ。少しは叶えてやろうと思わないのか?」
「掌門の結婚式ともなれば……ひぃふぅみぃ……」
「鎮まれ」
正心堂に中翎の声が響く。大声ではない筈なのに、それは妙に響いた。
「一年。一年時間をやろう。その間に江湖で名を馳せて来い。弱者を助け、強きを挫く。これが出来ぬ者に唐門の掌門は務まらん」
「はい!この黙鈴。必ずや父上の期待に応えます!」
「ッハァーッ。……何処で教え方を間違えたか……陞、一杯付き合え」
「はは、久しぶりですな」
「何をしておる。早く行かんか!一年経ってダメなら、そのまま帰って来るな!」
「では、一年後!」
あなたは趙活を抱えて山を降りる。道に迷う娘はもう居ない。あなたには、歩むべき道がハッキリと分かった。
続きません。