反逆の王子は実力至上主義の世界で優しい世界を望む 作:evejanjan
綾小路は、軽井沢を見た。
濡れた髪が頬へ張りついている。
肩はまだ小さく震えていた。
意識はある。
呼吸も乱れてはいるが、会話ができないほどではない。
「立てるか」
軽井沢は床へ手をついた。
腕へ力を入れようとして、すぐに動きを止める。
「……無理」
「そうか」
綾小路は軽井沢の前へ膝をつき、濡れた手首へ指先を当てた。
皮膚は冷えていた。
呼びかけへの反応と呼吸を改めて確認した。
長く屋上に留めていい状態ではなかった。
「龍園から聞いた」
軽井沢の指が僅かに動く。
「何を?」
「俺の名前を言わなかったらしいな」
軽井沢は答えなかった。
俯いたまま、濡れた袖を握る。
「俺がお前を見捨てたと聞かされても、言わなかった」
「……言ったら」
声が掠れた。
「言ったら、本当に終わると思った」
「何がだ」
「全部」
軽井沢は顔を上げない。
「あんたに見捨てられたって言われた。もう助けには来ないって。名前を言えば、少しは楽になるかもしれないとも思った」
「それでも言わなかった」
「……最後くらい、自分で決めたかったの」
軽井沢は濡れた袖をさらに強く握った。
「何をだ」
「名前を言わないこと。最後まで、怖さに選ばされたまま終わりたくなかった」
「俺を守ったつもりか」
「違う」
返事だけは早かった。
「私が自分で選んだことを、一つくらい残したかっただけ」
綾小路を守るためだけの忠誠ではない。
恐怖に支配される中で、自分の意思を一つ残すための選択だった。
その結果として、軽井沢は綾小路の名前を守った。
同時に、目の前の苦痛を弱める可能性を自分から捨てたことになる。
合理性だけでは説明できない選択だった。
「助けに来ると思っていたのか」
「分からなかった」
軽井沢は正直に答えた。
「来ないかもしれないって思った。でも、それでも言いたくなかった」
綾小路は軽井沢を見る。
自分の安全を守るために、軽井沢の秘密を利用した。
連絡役として使い、必要な情報を集めさせた。
軽井沢も、自分に守られる価値を失わないために従っていた。
互いの必要が一致しているだけの関係だと考えていた。
だが、軽井沢は守られる保証を失ったあとも、こちらの名前を守った。
自分の意思を守るための選択でありながら、その結果は綾小路の秘密を守ることへつながっている。
利用価値が消えれば切り離せる存在。
これまでは、そのように分類していた。
だが、軽井沢の行動は、その分類から外れた。
予測を越えた行動を取る存在は、単純な道具として扱うことができない。
だからといって、別の感情へ名前をつける必要もなかった。
現時点では、評価を更新すればいい。
二人の声は風に紛れ、閉じた扉の外まで内容が明瞭に届く大きさではなかった。
綾小路が口を開く前に、屋上扉が動いた。
◇
扉が開く。
最初に入ってきたのはスザクだった。
屋上全体を一度見渡し、倒れている四人と、座り込んだ軽井沢を確認する。
迷わず軽井沢の側へ向かった。
「軽井沢」
呼びかけに反応がある。
スザクは自分の上着を脱ぎ、軽井沢の肩へかけた。
濡れた布の上から、上着の前を閉じる。
「今からいくつか聞く。答えられる範囲でいい」
軽井沢が僅かに頷く。
「頭を打った?」
「打ってない」
「吐き気は?」
「ない」
「息苦しさや、手足の痺れは?」
「寒いだけ……たぶん」
「目眩は?」
「立ったら、分からない」
「分かった。急に立たなくていい」
スザクは、なぜ怯えているのかを聞かなかった。
過去に何があったのかも聞かない。
今、意識があるか。
呼吸に問題がないか。
身体を動かして悪化する状態ではないか。
必要なことだけを確認していた。
「ここから中へ移る。立つ時は支える。無理ならすぐ座っていい」
軽井沢はもう一度頷いた。
命令に従ったというより、自分で選んだ小さな反応だった。
ルルーシュはスザクより遅れて屋上へ入った。
最初に見たのは軽井沢だった。
次に龍園。
アルベルト。
石崎。
伊吹。
ルルーシュは一人ずつ名前を呼び、返答と視線の合い方を確認した。
続けて、今いる場所を短く答えさせた。
全員に呼びかけへの反応があり、屋上にいることも理解していた。
「頭を強く打った者や、吐いた者はいるか。視界の異常、手足の痺れ、呼吸の異常、止まらない出血、骨折を疑う痛みがあるなら今言え。自力で歩けない状態も同じだ。隠すために治療を遅らせるつもりはない」
「偉そうに仕切ってんじゃねえよ」
伊吹が床へ片手をついたまま言う。
「動けるなら、なおさら答えろ」
ルルーシュは声を荒らげない。
「この場を伏せることと、必要な処置をしないことは別だ」
伊吹は舌打ちした。
「吐き気はない。頭も打ってない」
「石崎」
「だ、大丈夫だ。顎と膝が痛いだけだ」
「アルベルトは?」
アルベルトが一度だけ頷く。
呼吸も先ほどより戻っている。
最後にルルーシュは龍園を見る。
龍園は仰向けのまま笑った。
「心配してくれんのか?」
「ここで誰かに後遺症が残れば、隠せるものも隠せなくなる」
「結局、そっちか」
「安全を確認したうえでの話だ」
ルルーシュは屋上の出入口と、倒れている四人の位置を確認した。
「今は誰も外へ連絡するな。自力で動ける状態を確認するまで、無理に立つな」
「命令か?」
龍園が聞く。
「提案だ。拒否して外へ情報を流すなら、軽井沢への行為と、集団で綾小路を襲った事実も同じ相手へ伝わると思え」
「ククッ……分かりやすいな」
「秘密を守るために、軽井沢やお前たちの状態を悪化させる気はない。必要なら医務室へ運ぶ」
「そこまでやれば、全部表に出るぞ」
「その時はそれでいい」
ルルーシュは即答した。
「情報を守ることより、身体を優先する」
龍園は一瞬だけ黙った。
それ以上、ルルーシュの判断を試そうとはしなかった。
◇
スザクは軽井沢の前へしゃがんだまま、綾小路を見上げた。
「一つだけ聞く」
「何だ」
「軽井沢が狙われる可能性を、知っていたのか」
「可能性は理解していた」
「それでも、先に止めなかった」
「龍園がXを探す限り、別の形で続くと判断した」
「だから、軽井沢がここまで追い込まれる危険も受け入れた?」
「必要な危険だと判断した」
スザクはすぐに言い返さなかった。
綾小路の方法を肯定したわけではない。
倒れた龍園たちと、濡れたまま座り込んでいた軽井沢を見る。
結果として救出できたことだけで、そこへ至る手段まで正しいとはしなかった。
「結果として軽井沢を救えたことと、その手段が正しかったかは別だ」
「そう考えるのは自由だ」
「同じ状況でも、僕なら別の方法を探したと思う」
「それも否定しない」
「でも、今は軽井沢を中へ移す。身体を温めた方がいい」
「ああ」
短い返答だった。
礼ではない。
同意だけだった。
スザクは軽井沢へ向き直る。
「肩を貸す。立てそう?」
「……やってみる」
軽井沢が手を伸ばす。
スザクは急に引き上げず、軽井沢自身が力を入れるのを待った。
足元が揺れる。
綾小路が反対側から腕を支えた。
軽井沢の身体が一瞬固まる。
だが、腕を振り払わなかった。
二人に支えられ、ゆっくり立ち上がる。
膝が一度沈みかける。
「無理なら座る?」
「……大丈夫」
軽井沢は自分の足で床を踏み直した。
◇
「最初から扉の外にいたのか」
綾小路が聞いた。
答えたのはルルーシュだった。
「お前が屋上へ入ったあとに来た」
「戦闘が始まっても入らなかった」
「すぐに入る理由がなかった」
綾小路はスザクを見る。
戦闘中、取っ手から手を離していなかった。
扉を開ければ、すぐに屋上へ入れる位置にいた。
「必要なら介入するつもりだったのか」
「そうだ」
スザクが答える。
「軽井沢に新しい危険が向いた時か、お前が動けなくなった時には入った」
「俺が勝つと考えていたわけではない」
「そこまでは判断できなかった」
スザクは軽井沢を支えたまま言う。
「だから、すぐに入れる位置で待っていた」
綾小路は確認窓の向こうにあった影を思い出す。
勝てると信じて待っていたのではない。
少なくとも、自分が動けなくなった場合に備えていた。
無条件の信頼ではない。
だが、見捨てるつもりでもなかった。
ルルーシュは、その会話へ余計な言葉を加えなかった。
何をどこまで想定していたのか。
なぜ、すぐには介入しなかったのか。
その判断の全てを、今ここで説明するつもりはないらしい。
綾小路も、それ以上は聞かなかった。
軽井沢を先に屋上から出す必要がある。
残った四人の処置と、この場の情報をどう扱うかも決めなければならない。
話すべきことは、まだ残っていた。
綾小路はルルーシュを見る。
ルルーシュも視線を返した。
ルルーシュは、綾小路が隠していた力を見た。
綾小路は、ルルーシュが勝利ではなく失敗へ備えていたことを見た。
互いに、相手が何を見たのかを理解した。
それはまだ、信頼ではなかった。