意識の底すら存在しない、光も音もない無の深淵。僕の意識はそこに落ちていた。
(流石に死んだ……か。まぁでもクリスちゃん達を助けられたならそれで良かったのかも)
身体を粉々に砕いた激痛すら、あまりの過酷さに麻痺して届かない。カ・ディンギルが放とうとした創世の光と、それを拒むかのように少女たちが叩きつけた絶唱の余波——その相克によって、地球を覆っていた『バラルの呪詛』という古代の概念の檻が一瞬だけ大きく歪んでいた。その途切れた概念の隙間から零れ落ちた太古の意思が、泥のように擦り切れた詩音の精神領域へとなだれ込んでいた。
『——滑稽である。人間という欠陥品が、これほど壊れ尽くした状態で生に縋りついているとは』
暗闇のただ中に、視界を灼くほど苛烈な黄金の残光が弾けた。
「僕は他の人間とは違うからね。なにせ1度死を経験してる……死ぬ事自体は怖くない。だから戦えただけさ」
物理的な姿形はない。だが、そこに逃げ場のない「絶対の威圧」が存在していることだけが、詩音の摩耗した魂に直接刻み込まれる。古代のアヌンナキ、かつて世界を統括しようとした全知なる存在——シェム・ハ。バラルの呪詛に生じた一瞬の綻びと、詩音のアヴァロンが引き起こす肉体と精神の「死ねない異常性」が、奇しくもこの不気味な夢の邂逅を引き寄せていた。
『怪訝である。死を免れる聖遺物アヴァロン……その欠片を身に宿しながら、為すことが他者の痛みを喰らう肉の盾か。本来であれば神の威光を写し取る器が、これほど泥と血で薄汚れておるとはな』
冷酷な嘲笑を含んだ意念が、詩音の破綻しかけた精神を舐め回す。
詩音の精神圏は、すでに何千回と肉体を砕かれ、アヴァロンによって不完全に繋ぎ止められ続けたことで、擦り切れて灰のように脆くなっていた。しかし、神の圧倒的な存在感に押し潰されそうになりながらも、その奥底にある「歪んだ自我」だけは微動だにしなかった。
「……誰だか……知らないけど…………」
虚無の闇の中で、詩音は爛れた腕を持ち上げるようにして、低い意識のまま言葉を返した。
「……僕の……命の使い道に……口を出すな……。僕は……あいつらの……響ちゃんやクリスちゃん……翼や奏の……肉壁になれれば……それでいい……」
壊れかけた魂から絞り出されたのは、己の存在理由を投げ打った自虐の強迫観念。神という絶対者を前に救いを乞うでもなく、死を恐れるでもない。ただ「少女たちの代わりに擦り切れる道具」であることを妄信的に貫く詩音の精神構造に、シェム・ハの意念が一瞬、不快感と不気味な興味に揺れた。
『クク……闘魂であるか。自らを『道具』と定義し、肉と精神を削ぐことに悦びを覚える狂人か。バラルの呪いが解けた先で、お前たちが求める絆の果てがこの惨状とは……実に反吐が出るほどに愛おしい」』
黄金の光が狂おしく輝き、詩音の意識の核を穿つように圧迫する。
『いいだろう下賜である。アヴァロンの器よ……その破滅に満ちた身代わりの劇で、どこまで血を流し続けられるか見届けてやる。我という『真の神』が、再びこの星の言語を統括するその時までな……』
「……消えろ……。彼女達の……邪魔をするな……ッ」
『運命である。我はお前を得よう。人の身でありながら呪われし者よ……時を待て』
神の冷笑が遠ざかり、再び底のない激痛と黒い昏睡の泥が詩音を呑み込んでいく。
夢から覚めた先に待つのは、さらに爛れていく少女たちとの関係と、絶え間なく身を苛む肉体の激痛。だが詩音は、神の呪詛すら己の盾で受け止めるように、深い深い暗闇の底へと再び落ちていった。
(奴の名前は聞けなかった。でも……バラルの呪詛と奴は言った。なら姿は見えなくても正体はアイツだ。僕は中々に厄介な相手に)
その名を告げなかった事が幸運なのが不幸なのかは誰にも分からない
◆◆◆
絶望の灰が舞い散る荒野に、奇跡の歌声が降り注ぐ。
『カ・ディンギル』は崩落し、月への照射は阻止された。だが、崩れ去る瓦礫の渦中で、ネフシュタンの紫黒の光を激しく撒き散らすフィーネが惨殺の殺意を掲げる。その圧倒的な威圧に対し、クリス、翼、そして響の胸の奥から溢れ出たフォニックゲインが世界を塗り替えていく。少女たちの命を灼く歌声と人々の祈りが結晶し、装者たちを究極の姿——【エクスドライブ】へと昇華させていった。
「なんだその姿は! お前達が纏うその力はなんだ! 私が作った物だと言うのか!」
「シンフォギアアァァ!!! 」
響達の純白の光翼と虹色の燐光が夜空を包み込む。だが、その神聖な光芒が真っ先に届いたのは、焦土の泥の中に転がる物言わぬ肉塊——櫻羽詩音の倒れる場所だった。意識の底、神シェム・ハとの微睡みの接触を経た詩音の魂に、少女たちの切痛な叫びが温もりとなって響く。
(そうだ僕が……眠っている場合じゃない……あいつらを……一人で戦わせるわけにはいかない……ッ)
詩音の意思に応えるように、エクスドライブの極大フォニックゲインがアヴァロンの欠片を強行再起動させた。
しかし——そこに広がったのは、かつてのような生々しい肉骨の破砕音でも、血の惨劇でもなかった。
**——スゥッ……。**
詩音の肉体から、生々しい悲鳴も、血の飛散も、破裂する肉芽の音すら消え去っていた。
「再生が……速い……?」
シェム・ハとの接触によって魂に刻まれた神の残滓と「寵愛」が、アヴァロンの機能を根本から変質させていた。傷口から溢れ出たのは生血ではなく、神聖なまでに静けさをたたえた黄金の燐光。不快な音を立てて繋ぎ合わされていた骨も肉も、一切の苦痛の余韻を残さず、滑らかに、神の御業のごとき完璧さで瞬時に復元していく。
「まるで神の如き現象……ならあの行動は……」
シェム・ハの最後の言葉が頭を過るがいまは時間が無い。
「な……なに……!? 傷が塞がり……血が……流れていない……!?」
フィーネの嘲笑が瞬時に凍りつく。泥臭く傷つき、生身の地獄を撒き散らしながら縋り付いてきた「不壊の盾」が、いまや一滴の血すら流さぬ神の領域の「絶対なる不壊」へと変貌を遂げていた。
「あり得ない! 詩音貴様……何故立っている! 私はお前を叩き潰した! 精神的にも肉体的にも2度と立てぬ程に砕いた! 再生限界すらも把握しておいた……なのに何故立てる!」
へし折れていたはずの大剣アロンダイトはシンプルな片手剣へと変貌していた。アロンダイト握り締め、詩音は無音のまま静かに立ち上がる。そこに激痛への呻きも、耐え忍ぶ葛藤すら存在しない。
「お兄……さん……?」
背後でエクスドライブの光を纏う響の足が、思わず止まる。
「詩音……本当に生きてるんだよな!? あたしの夢じゃないんだよな!?」
覚醒したクリスは詩音の復活に目に涙を浮かべて飛び込んだ。
「大丈夫……夢じゃないよ。僕はここにいる。さぁ……最後の戦いを始めるよ!」
自分たちの代わりに血を吐き、ボロボロになって傷ついていた男。その泥臭い惨劇は永遠に失われ、そこにあるのは人間離れした静寂の再生。痛みを肩代わりして守られていた歪んだ安心感は絶たれ、「二度と傷つくことすら許されず、人ならぬ神の領域へと引き摺り込まれていく」という、新たなる無機質な絶望が少女たちの胸を冷たく侵食する。
「全力を叩き込めと言ったはずだよ……響ちゃん」
振り返った詩音の瞳には、もはや激痛の色すら浮かんでいない。シェム・ハの寵愛という神威の絶望を抱えた不壊の盾は、黄金の静寂を纏いながら、フィーネの最後の一撃へと向かって静かに踏み出した。
◆◆◆
「認めるものか……! 私の数千年の執念を、そんな化け物に塗り替えられてたまるかぁぁぁッ!!」
フィーネの咆哮とともに、ネフシュタンの鎧が紫黒の光を爆発させた。平原を埋め尽くすほどの光帯が幾重もの螺旋を描き、空間そのものを磨耗させながら、正面の詩音へ集中的に解き放たれる。神をも屠るはずの絶対の殺意。だが、詩音はただ静かに足を踏み出した。
——一閃……フィーネへと斬撃を飛ばし牽制する。
殺戮の光帯が詩音の胸を穿ち、その肉体を蒸発させようとした瞬間、彼の身体から溢れ出たのは黄金の神輝だった。かつてのように骨が砕ける重い音も、吹き出す生血の惨劇もない。穿たれた傷口は、光が撫でるそばから滑らかに織り直され、一切の物理的威力を無に帰していく。痛みに眉をひそめることすらなく、詩音は光の渦を割りながら前進する。
「な……なんなのよ、あなたは何なのよッ!?」
狂乱するフィーネの目の前まで歩み寄ると、詩音は黄金の輝きを纏ったへし折れの大剣アロンダイトを振り上げた。その刃はフィーネの攻撃を完全に遮断し、広範な不可侵の領域を背後に作り出す。
「今だ……響ちゃん! クリスちゃん! 翼!」
「あたしたちの歌を……喰らいやがれぇぇッ!!」
イチイバルから解き放たれた虹色の弾雨が、空を埋め尽くしてフィーネの防壁を打ち砕く。間髪を容れず、翼のアメノハバキリが音速の閃光となって交差させ、ネフシュタンの脚部を完全に切り離した。
「これが……私たちの、絶唱の先にある希望だぁぁぁッ!!」
そして、背後から飛び出した響の拳が、エクスドライブの全エネルギーを宿して黄金の光芒を放つ。詩音の盾が開き、無防備となったフィーネの胸腔の核心へ、響のエクスドライブ全開の一撃が強烈に叩き込まれた。
——ズドフォォォォォォォンッ!!
ネフシュタンの鎧が耐えかねて粉々に砕け散り、フィーネの肉体が光の粒子となって崩壊していく。消えゆく間際、フィーネは黄金の光の中で揺るぎなく立つ詩音の姿を見つめ、旋律のような叫びを残して果てた。
「そう……あなたもまた……神の呪いに囚われた……哀れな傀儡……」
爆風が去り、荒野に静寂が戻る。カ・ディンギルは崩れ去り、世界は救われた。
しかし、立ち尽くす響、翼、クリスの瞳に映っていたのは、勝利の歓喜ではなかった。
一滴の血も流さず、傷ひとつ残さずに佇む詩音。神のごとき黄金の静寂を纏うその姿は、かつて自分たちのために痛みを吐き出し、泥を啜っていた「不壊の盾」とはあまりにもかけ離れていた。触れれば消えてしまいそうな、人間性を捨て去ったかのような冷酷な美しさ。
「……詩音……さん……?」
響の手が震えながら伸びる。救われた世界の中心で、少女たちの胸に宿ったのは、彼を遠い神の領域へ奪われてしまうという、終わりのない狂おしい絶望だった。
シェムハの先行登場です。はい……詩音君は気に入られました
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