大聖堂から続く絢爛たる大広間では、歴史の転換点に歓喜する臣下たちと軍人たちの歌声と、重々しい杯の響き合う音が絶え間なく鳴り響いていた。
後に、巨大な帝国となる『統一王朝』の誕生。
初代皇帝となるコンラート皇太子と、その傍らで息を呑むほど気高き微笑をたたえる皇后となるロザリア王妃。
王国の偉大な未来を約束された二人の門出を祝う宴は、夜の闇が訪れようとも果てる気配を見せていなかった。
だが、その狂騒と熱気に満ちた祝宴の喧騒を避けるように、いつもの二人は王城の静寂に包まれた噴水広場へと抜け出していた。
傾きかけた太陽が、空を濃密な茜色と紫紺のグラデーションに染め上げていく。
微風が中庭の白薔薇を揺らし、冷えた噴水の水面を波立たせていた。
「……ふう」
白銀と濃紺の絢爛たる正装の襟元をわずかに緩め、白手袋を外した人狼の騎士アルフレッド・ベルンハルトは、噴水の縁に腰を下ろしていた。
その指先には、太い葉巻が一本、揺らめく紫の魔力を宿して燻っている。
胸元に所狭しと飾られた無数の勲章が、彼が身体を揺らすたびにカシャリ、カシャリと甲高い金属音を奏でた。
隣では、ロザリアから贈られた繊細なレースのドレスを纏ったエルフの大魔法使いミリアルデが、石造りの縁に浅く腰掛け、陶器の酒瓶から直接琥珀色の液を滑り込ませていた。
朝の光の中でアルフレッドの心を奪ったあの幻想的な美しさは、夕闇の影が落ちることで、かえって一層の妖艶さと深みを増していた。
薄金色の髪が風になびき、透き通るような肌が夕映えの光を受け、琥珀色に優しく輝いている。
「……ふう、生き返るわ」
酒瓶を口元から離し、湿った桃色の唇を舌でなぞりながら、ミリアルデが満足げに吐息を漏らした。
「あんな息の詰まるような祝宴、長居する者じゃないわね。どいつもこいつも権力だの領地だの、醜い欲望と見栄のぶつかり合いで、お酒の味が台無しになるところだったわ」
「……同意する。落ち着いて、葉巻もできん」
アルフレッドは冷たく、短く返した。
「俺のような死神がいつまでもあの場にいれば、王族や貴族どもの胃に穴があくだけだ……弟子の……コンラート殿下のお顔を立てるための義理は、これで十分に果たした」
二人は静かに酒と葉巻の香りを共有し、夕暮れの中庭に流れる悠久の静寂に身を浸していた。
人間たちの歴史がどれほど激しく回転しようとも、不老不死の時を生きる二人にとって、この風の冷たさと酒と葉巻の深みこそが確かな現実であった。
ミリアルデは酒瓶を抱え直し、煙草の煙の向こうにあるアルフレッドの黄金の瞳をじっと見つめた。
昼間の大聖堂で見せた、ロザリア王妃の吹っ切れたような、けれど自らの魂をこの狼に捧げた者の神聖な微笑。
そして、それを受け止めて深々と頭を下げたこの男の横顔。
ミリアルデは、抱えていた疑問を静かに口にした。
「……これでよかったの?」
その問いは、あまりにも短く、けれど二人にとって膨大な意味を含んでいた。
アルフレッドの返答は、迷いのない、冷酷なまでに整った言葉だった。
「コンラート殿下は、この王国を統べるに相応しい覇王の道を歩み始めた。ロザリア殿下もまた、王国の安寧と発展のために、世界で最も気高き王妃として立つ覚悟を決められた……二人の選択に、何の一点の後悔もあるまい」
「あんた自身の心は?」
ミリアルデが重ねて尋ねる。
アルフレッドは、懐から小さな銀の小箱を取り出し、蓋を開けた。
中に転がる、最後の一粒となった白い砂糖菓子。
それを指先で摘まみ上げ、口の中へ静かにほうり込む。
「……俺は、三百年前から何も変わっていない。死んだ許嫁との約束を果たし、王家の影としてこの身を破滅させるその日まで、ただ戦場を駆け抜けるだけだ……ロザリア殿下が俺に遺された熱情も、殿下が示された覚悟も、すべて俺のこの呪われた肉体とともに墓場へ持っていく。それで十分だ」
砂糖菓子の甘さが、紫煙の苦みと混ざり合い、彼の舌の上で溶けていく。
完璧な臣下であり、絶対的な怪物。
(……本当に、どこまでも愚直で、どこまでも美しい男ね)
ミリアルデは心中で静かに呟いた。
昼間、この男が私のドレス姿を目にして「ああ、綺麗だ、ミリアルデ」「今までどうして気づかなかったんだろうな」と溢した、あの飾りのない素直な一言。
数千年の忘却の海を漂い、あらゆる愛執や欲望を風化させてきた大魔法使いの心が、あの瞬間に激しくはじけ飛び、甘く熱い衝動で満たされた感覚は、いまだに彼女の胸の奥で火照り続けていた。
この不器用な狼は、他人の愛や覚悟には敏感でありながら、いま自らの隣にいる「光」の存在がどれほど自分に惹かれているかには、あまりにも無頓着であった。
噴水広場に座っていたミリアルデは少しいたずらをしてやろうと思った。
普段の怠惰で洒脱な顔の裏に、一人の女としての妖艶な情熱を宿らせて。
彼女は抱えていた酒瓶をそっと足元へ置くと、半目になりながら、ゆっくりと脚を組み替えた。
そして、繊細なレースが施された淡いドレスの裾を、白手袋を嵌めていない細い指先でそっと持ち上げたのだった。
夕闇の影が深まる中庭において、その動作はあまりにも劇的であった。
ふわりと広がった薄手の生地の隙間から、白く眩しい太腿が惜しげもなく露わになる。
数千年の時を経てもなお、みずみずしい生命感と神聖な色気を放つ、エルフの大魔法使いの完璧なまでの肉体。
滑らかな肌の曲線が、茜色の光を受けて微かに桃色に色づいていた。
ミリアルデは、何事かと驚愕に固まる人狼の視線を真っ向から受け止めると、可憐な唇を優美に歪め、濡れた瞳で囁いた。
「どう、狼さん、食べたくなる?」
「――っ!?」
アルフレッドの黄金の瞳が、激しく揺れ動いた。
喉の奥で息が詰まり、指先に持っていた葉巻の紫煙が彼の指先からポロリと落ちていった。
百戦錬磨の死神。
数万の敵を前にしても、己の首を刎ねられようとも動じなかった不老不死の怪物が、目の前のエルフが描いたわずかな不道徳と極上の官能の前に、完全に言葉を失っていた。
「……ミ、ミリアルデ……お前、何を……っ」
アルフレッドの声が、低く、かすれて震えた。
「何をって……見てのとおりよ?」
ミリアルデは持ち上げたドレスの裾を降ろすことなく、むしろさらに少しだけ持ち上げ、白く眩しい脚をくねらせて見せた。
長く尖った耳の先端をほんのりと赤く染めながらも、その緑色の瞳には、この狼の理性を根底から焼き尽くしてしまいたいという、甘く狂おしいまでの熱量が宿っていた。
「あんたはいつもそう。死んだ許嫁の砂糖菓子だの、コンラートくんの忠義だの、ロザリアちゃんの覚悟だの……過去と他人のことばかり背負い込んで、自分の目の前にあるものを見ようとしないんだから」
ミリアルデの声が、吐息混じりに低く、甘く響く。
「ねえ、人狼さん。あんたは『血に飢えた怪物』なんでしょう? だったら……この目の前にある肉に、噛みついてみせたらどうなの?」
挑発。
そして、数千年の孤独を生きてきた女が、目の前の男に求める「真実の証明」。
アルフレッドの体内から、魔剣フェンリスの不吉な紫の脈動が漏れ出し、白銀の礼装を微かに震わせる。
人間の男であれば、この至近距離でミリアルデの放つ圧倒的な魔性と美に触れれば、呼吸すらできずに屈服していただろう。
アルフレッドはゆっくりと、落とした葉巻を拾って揉み消すと、その素手を伸ばした。
その手には、無数の戦場で刻まれた無骨なタコと、不老不死ゆえに消えぬ傷跡が残されていた。
「……ミリアルデ」
アルフレッドの手が彼女の白く眩しい太腿のすぐ傍ら――薄いドレスの生地の上へと置かれた。
彼の掌から伝わる、人狼特有の凄まじい体温。
ミリアルデの身体が、一瞬だけビクッと甘く跳ねた。
「……俺を試すような真似をするな」
アルフレッドの声は、地の底から響くような重厚さと、どこか恐ろしいまでの熱を帯びていた。
「俺は、三百年前に心を捨てた化け物だ……一線を超えれば、俺はお前を二度と放さなくなるぞ」
その黄金の瞳に宿っていたのは、ただの戦場の冷酷さではない。
昼間、ミリアルデの美しさに心を奪われたあの瞬間の熱情が、不滅の炎となって彼の魂を燃やし尽くしそうとしている証であった。
彼女は、その熱い掌の感触を嚙み締めるように、そっと目を細めた。
(……ああ、やっぱり)
ミリアルデは心の中で、満たされたような笑みを浮かべた。
この男は、決して自分を食い散らかすだけの野卑な獣にはならない。
どれほど己の感情を爆発させようとも、その底には、自分という存在に対する圧倒的な敬意と、決して裏切ることのない「愛」が満ちているのだ。
「放さなくて……いいと言ったら?」
ミリアルデは囁き、差し出された彼の腕に自分の細い腕を絡めると、その顔をアルフレッドの胸元――無数の勲章が重なり合う白銀の正装へと押し当てた。
ジャラ……と金属が擦れ合う音が、二人の距離をゼロにする。
「数千年の時なんて、退屈で死にそうだったわ……だけど、あんたといる数時間だけは、退屈したことなんて一度もないの」
彼女はアルフレッドの首筋に顔を埋め、彼の体内に染み付いた紫煙と、かすかな鉄の匂いを愛おしそうに吸い込んだ。
「ロザリアちゃんがあんたの煙を吸っていったなら……私は、あんたの永遠を奪ってあげる。いいでしょう……上級騎士様?」
「……勝手なエルフだ」
アルフレッドは苦笑を漏らすと、彼女の細い腰へと手を回し、強く、壊れ物を抱くかのようにしっかりと抱き寄せた。
茜色の空が完全に没し、王城の上空には澄み切った満月が上がり始めていた。
中庭の噴水が風に揺れ、キラキラと月光をはじき返す。
祝宴の遠い喧騒も、歴史のうねりも、この二人の超然とした怪物たちの前には、何の意味も持たなかった。
(第12話に続く)
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