人は、存在に名前を付ける。
名前とは、他者を効率よく管理するために用意された記号ではない。
世界にたった一つしかないその人の存在を、一人の人間として認めるためにあるのだ。
番号を使えば、個体を容易に識別できる。性能も数値として克明に記録できるだろう。だが、「あなた」というかけがえのない生命の温度だけは、どんな完璧な番号であっても呼ぶことはできないのだ。
◆
病院棟のラウンジには、ゆっくりとした静かな時間が流れていた。私は浅く息を吐き、ソファの背もたれに身体を預け直す。
那須さんは手元の紙パックへ視線を落としたまま、ぽつりと小さな声で尋ねてきた。
「……管理番号、なんですね」
「ええ」
「地下の研究室では、ずっと……」
「そうだな」
私は自嘲気味に口元を緩めた。
「最初は慣れなくて胸の奥がざわついたんです……最近じゃ『NB9』って呼ばれても、普通に返事をしている自分がいる」
それは紛れもない事実だった。
人は環境に適応する。私はその生存本能を否定したことは一度もない。環境に適応するからこそ人は傷を抱えながら生き延びられ、前を向いて成長できる。
けれど――環境への適応とは、本当にそれだけでいいのだろうか。
「……屍山血河さん」
不意に、透き通るような声で名前を呼ばれた。顔を上げると、那須さんがまっすぐな瞳で私を見つめていた。
「私は」
彼女は一度言葉を区切り、一文字ずつ噛みしめるように言った。
「……その番号では、絶対に呼びません」
その声はどこまでも静かだった。けれど、地下で飛び交うどんな高圧的な指示や大声よりも、力強く私の胸の奥へと響いた。
「私は、屍山さんを知っています」
「那須さん……」
「最初の検査で一緒になって。拙い歩行リハビリをして。ここでこうしてお話しして……失敗しても『じゃあ次を考えよう』って穏やかに笑う人だってことを、私は知っています」
彼女は柔らかく、あたたかな笑みを浮かべた。
「だから……私にとっては、どこまでいっても『屍山さん』なんです」
私はすぐに言葉を返すことができなかった。白衣の研究者たちが間違っているわけではない。
過酷な実験やデータ処理において、管理番号は必要不可欠だ。膨大なデータ管理のため。再現性を担保するため。効率的な研究のため。
彼らも私という人間を否定し、痛めつけたいわけではないのだろう。ただひたすら「効率」と「成果」を追求した結果に過ぎない。
そのロジックが理解できるからこそ、胸の奥が苦しかった。合理性は、悪意を持って人を傷つけようとはしない。ただ無感情に「人を見る順番」をすり替えてしまうのだ。
名前よりも、番号。
人格や生き方よりも、性能と数値。
その小さなすり替えの積み重ねが、人間を少しずつ無機質な「研究対象」へと変質させていく。そして私自身も、その歪んだシステムに無自覚に順応し始めていた。
だからこそ――
那須さんが口にしてくれた「屍山さん」というたった二文字の響きが、たまらなく嬉しかった。
「……ありがとう」
自分でも驚くほど、素直な感謝が口から漏れ出た。那須さんは少しだけ首を横に傾げ、不思議そうに目を丸くした。
「……何に対してのお礼ですか?」
「名前を、呼んでくれたことへのです」
そう告げると、彼女は呆気にとられたように数回まばたきをし、それから困ったようにクスリと笑った。
「ふふ、名前を呼ぶなんて……ごく普通のことですよ?」
「……そうかな、そうだね、普通のことです」
私もつられて笑った。
普通。
本来なら、取り立てて感謝するようなことでもない当たり前の日常。けれど人間は、置かれた環境や過酷な状況によって、その「当たり前」さえ容易に見失い、失ってしまうのだ。
午後の実験の刻限が迫り、ラウンジの自動ドアが開いた。
「――NB9、至急戦闘区画へ移動してください」
廊下に響く研究員の無機質な声。
「了解」と応じ、私は席を立った。
その時だった。
「――屍山さん!」
背後から掛けられた声に、振り返る。
ラウンジの窓際で、那須さんが小さく手に持った紙パックを振っていた。
「行ってらっしゃい!」
ただ、それだけの短い言葉。
それだけなのに、重く沈んでいた胸の奥の不快感が、嘘のようにふっと軽くなるのを感じた。
「……行ってきます」
私は口元を緩め、しっかりと頷いて返した。
冷たい金属音の響く地下実験区画へと戻る。
「NB9、第三区画へ入室」
「NB9、過負荷テストを開始する」
「NB9、戦闘姿勢を維持しなさい」
頭上から、周囲から、無機質な記号ばかりが飛び交う。
私はひとつひとつの指示に対し、機械的に応答していく。
それでも――胸の奥深くには、さっきラウンジでかけられた温かな声が、確かな灯火となって残り続けていた。
――屍山さん。
たった四文字の小さな音節。
それだけで、私は自分が兵器パーツではなく、心を持った「一人の人間」なのだと思い出すことができる。
名前とは、実に不思議なものだ。
自分一人で名乗るだけでは、命の形を成さない。誰かに認識され、温もりを込めて呼ばれて初めて、確かな意味を持つ。
人は、自分一人きりでは「人間」であり続けることができないのだ。誰かが「あなた」と名前を呼んでくれるからこそ、人としての輪郭を保っていられる。
だから私は、ようやく理解した。
人が「人ではなくなる」本当の恐怖とは、身体を機械へ改造されることではない。人格を都合よく書き換えられることでもない。
誰からも名前を呼ばれなくなること。
それこそが、人が人間としての存在を失っていく、最初で最大の失落なのだ。
その日以来。
白衣の研究者たちは、私を最後まで「NB9」と呼び続けた。けれど――この広大な研究所の中で、ただ一人。
那須玲だけは、最後まで変わることはなかった。
「おはようございます、屍山さん」
毎朝交わされるその何気ない一言が、私を単なる実験体「NB9」から、「屍山血河」という一人の人間へと引き戻し続けてくれたのだった。