『全て黒く焼き尽くす鳥』と『鳥籠』   作:あばなたらたやた

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第十話:名前を呼ぶ人

 

 

 人は、存在に名前を付ける。

 名前とは、他者を効率よく管理するために用意された記号ではない。

 

 世界にたった一つしかないその人の存在を、一人の人間として認めるためにあるのだ。

 番号を使えば、個体を容易に識別できる。性能も数値として克明に記録できるだろう。だが、「あなた」というかけがえのない生命の温度だけは、どんな完璧な番号であっても呼ぶことはできないのだ。

 

     ◆

 

 病院棟のラウンジには、ゆっくりとした静かな時間が流れていた。私は浅く息を吐き、ソファの背もたれに身体を預け直す。

 那須さんは手元の紙パックへ視線を落としたまま、ぽつりと小さな声で尋ねてきた。

 

「……管理番号、なんですね」

「ええ」

「地下の研究室では、ずっと……」

「そうだな」

 

 私は自嘲気味に口元を緩めた。

 

「最初は慣れなくて胸の奥がざわついたんです……最近じゃ『NB9』って呼ばれても、普通に返事をしている自分がいる」

 

 それは紛れもない事実だった。

人は環境に適応する。私はその生存本能を否定したことは一度もない。環境に適応するからこそ人は傷を抱えながら生き延びられ、前を向いて成長できる。

 けれど――環境への適応とは、本当にそれだけでいいのだろうか。

 

「……屍山血河さん」

 

 不意に、透き通るような声で名前を呼ばれた。顔を上げると、那須さんがまっすぐな瞳で私を見つめていた。

 

「私は」

 

 彼女は一度言葉を区切り、一文字ずつ噛みしめるように言った。

 

「……その番号では、絶対に呼びません」

 

 その声はどこまでも静かだった。けれど、地下で飛び交うどんな高圧的な指示や大声よりも、力強く私の胸の奥へと響いた。

 

「私は、屍山さんを知っています」

「那須さん……」

「最初の検査で一緒になって。拙い歩行リハビリをして。ここでこうしてお話しして……失敗しても『じゃあ次を考えよう』って穏やかに笑う人だってことを、私は知っています」

 

 彼女は柔らかく、あたたかな笑みを浮かべた。

 

「だから……私にとっては、どこまでいっても『屍山さん』なんです」

 

    

 

 私はすぐに言葉を返すことができなかった。白衣の研究者たちが間違っているわけではない。

 

 過酷な実験やデータ処理において、管理番号は必要不可欠だ。膨大なデータ管理のため。再現性を担保するため。効率的な研究のため。

 

 彼らも私という人間を否定し、痛めつけたいわけではないのだろう。ただひたすら「効率」と「成果」を追求した結果に過ぎない。

 

 そのロジックが理解できるからこそ、胸の奥が苦しかった。合理性は、悪意を持って人を傷つけようとはしない。ただ無感情に「人を見る順番」をすり替えてしまうのだ。

 

 名前よりも、番号。

 人格や生き方よりも、性能と数値。

 その小さなすり替えの積み重ねが、人間を少しずつ無機質な「研究対象」へと変質させていく。そして私自身も、その歪んだシステムに無自覚に順応し始めていた。

 

 だからこそ――

 

 那須さんが口にしてくれた「屍山さん」というたった二文字の響きが、たまらなく嬉しかった。

 

 

「……ありがとう」

 

自分でも驚くほど、素直な感謝が口から漏れ出た。那須さんは少しだけ首を横に傾げ、不思議そうに目を丸くした。

 

「……何に対してのお礼ですか?」

「名前を、呼んでくれたことへのです」

 

 そう告げると、彼女は呆気にとられたように数回まばたきをし、それから困ったようにクスリと笑った。

 

「ふふ、名前を呼ぶなんて……ごく普通のことですよ?」

「……そうかな、そうだね、普通のことです」

 

 私もつられて笑った。

 普通。

 本来なら、取り立てて感謝するようなことでもない当たり前の日常。けれど人間は、置かれた環境や過酷な状況によって、その「当たり前」さえ容易に見失い、失ってしまうのだ。

     

 

 午後の実験の刻限が迫り、ラウンジの自動ドアが開いた。

 

「――NB9、至急戦闘区画へ移動してください」

 

 廊下に響く研究員の無機質な声。

 

「了解」と応じ、私は席を立った。

 

 その時だった。

 

「――屍山さん!」

 

 背後から掛けられた声に、振り返る。

 ラウンジの窓際で、那須さんが小さく手に持った紙パックを振っていた。

 

「行ってらっしゃい!」

 

 ただ、それだけの短い言葉。

 それだけなのに、重く沈んでいた胸の奥の不快感が、嘘のようにふっと軽くなるのを感じた。

 

「……行ってきます」

 

 私は口元を緩め、しっかりと頷いて返した。

 冷たい金属音の響く地下実験区画へと戻る。

 

「NB9、第三区画へ入室」

「NB9、過負荷テストを開始する」

「NB9、戦闘姿勢を維持しなさい」

 

 頭上から、周囲から、無機質な記号ばかりが飛び交う。

 私はひとつひとつの指示に対し、機械的に応答していく。

 それでも――胸の奥深くには、さっきラウンジでかけられた温かな声が、確かな灯火となって残り続けていた。

 

 ――屍山さん。

 たった四文字の小さな音節。

 それだけで、私は自分が兵器パーツではなく、心を持った「一人の人間」なのだと思い出すことができる。

 名前とは、実に不思議なものだ。

 自分一人で名乗るだけでは、命の形を成さない。誰かに認識され、温もりを込めて呼ばれて初めて、確かな意味を持つ。

 

 人は、自分一人きりでは「人間」であり続けることができないのだ。誰かが「あなた」と名前を呼んでくれるからこそ、人としての輪郭を保っていられる。

 

 だから私は、ようやく理解した。

 人が「人ではなくなる」本当の恐怖とは、身体を機械へ改造されることではない。人格を都合よく書き換えられることでもない。

 誰からも名前を呼ばれなくなること。

 それこそが、人が人間としての存在を失っていく、最初で最大の失落なのだ。

     

 

 

 その日以来。

 白衣の研究者たちは、私を最後まで「NB9」と呼び続けた。けれど――この広大な研究所の中で、ただ一人。

 那須玲だけは、最後まで変わることはなかった。

 

「おはようございます、屍山さん」

 

 毎朝交わされるその何気ない一言が、私を単なる実験体「NB9」から、「屍山血河」という一人の人間へと引き戻し続けてくれたのだった。

 

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