・学園パロディー
・比企谷八幡×橘ひなの
・独自設定、設定改変
・恋愛要素
・キャラクター解釈
原作、ご本人、所属団体および関係者各位とは一切関係ありません。
※本作は、作者本人がpixivおよびハーメルンに同一内容を掲載しています。
投稿時期や修正の反映状況により、軽微な表記の違いが生じる場合があります。
俺には、学校内にいくつかの避難場所がある。
人間関係という名の騒音から逃れ、一人で昼飯を食べるための場所だ。その中でも一番気に入っているのが、駐輪場の裏手にある日陰だった。
校舎から少し離れ、運動部もほとんど通らない。古びたフェンスと雑草しかないため、好き好んで寄りつく者はいない。
その日も俺は、いつものように一人で弁当を広げていた。
ひなの:「あ、やっぱりここにいた」
頭上から、聞き覚えのある声が降ってきた。
見上げると、橘ひなのが弁当箱を抱えて立っていた。
八幡:「……なんでわかった」
ひなの:「教室にいなかったから探した」
八幡:「質問への答えになってないぞ?」
ひなの:「人気のない場所を順番に見て回っただけ。校舎裏、体育館裏、それからここ」
八幡:「その労力を、もっと有意義なことに使え」
ひなの:「今のところ、これより有意義な用事なかったし」
そう言って、橘は俺の返事も待たずに隣へ腰を下ろした。
八幡:「……勝手に来るなよ」
ひなの:「じゃあ、来てほしくない?」
そう言って、こちらを覗き込んでくる。
八幡:「……そこまでは言ってない」
ひなの:「素直じゃないね」
橘は満足そうに小さく笑い、持っていた弁当箱を膝の上へ置いた。やたらと大きい。蓋を開ける前から、男子顔負けの容量であることがわかる。
対する俺の昼食は弁当と、自販機で買った黄色い缶。千葉が誇る甘味飲料、マックスコーヒー。通称、マッ缶である。
弁当の横へ置いた途端、橘の視線が黄色い缶へ吸い寄せられた。
ひなの:「……それ、コーヒー?」
八幡:「見ればわかるだろ」
ひなの:「黄色すぎて、コーヒーに見えなかった」
八幡:「マックスコーヒーを知らないのか。これだから千葉への理解が浅い人間は困る」
ひなの:「飲み物一本で千葉への理解を測るの?」
八幡:「マッ缶は千葉県民の一般教養だからな」
ひなの:「そんな教養しらないし、お弁当に合わせる飲み物じゃなくない?」
八幡:「千葉県民なら合わせられる」
ひなの:「味覚にも県民性があるの?」
八幡:「飲んだこともないのに決めつけるな」
ひなの:「じゃあ、一口ちょうだい」
八幡:「断る」
ひなの:「即答じゃん」
八幡:「これは俺の昼食における重要な構成要素だ。卵焼きを一つ寄越せと言われるのとはわけが違う」
ひなの:「……じゃあ、卵焼きならいいの?」
八幡:「なぜそうなる」
ひなの:「だって、今そう言ったじゃん」
橘は当然のように箸を伸ばし、俺の弁当箱を覗き込んできた。
近い。
さっきよりも明らかに近い。卵焼きを狙っているだけだと理解していても、女子の顔が視界の大部分を占めるという状況は、俺の処理能力を簡単に超えてくる。
八幡:「待て。当然のように取ろうとするな」
ひなの:「卵焼き一個くらいいいでしょ」
八幡:「よくない。小町が作った貴重な一品だ」
ひなの:「小町?」
八幡:「妹だ」
ひなの:「へえ。妹さんの手作りなんだ」
橘は伸ばしていた箸を一度引っ込めると、自分の弁当から卵焼きを一つつまんだ。
ひなの:「じゃあ、交換ね」
八幡:「は?」
俺が止めるより早く、橘の卵焼きが俺の弁当箱へ置かれた。そしてそのまま、俺の卵焼きが一つ連れ去られていく。
八幡:「お前、交渉という言葉を知ってるか」
ひなの:「ちゃんと交換したじゃん。等価交換」
八幡:「本人の同意を無視した等価交換は、ほぼ略奪だろ」
ひなの:「細かいなあ。ほら、私のも食べてみてよ。それ、私が焼いたやつだから」
八幡:「自分で作ってるのか」
ひなの:「毎朝ね。何かおかしい?」
八幡:「いや。容量から察するに、業者かと思っていた」
ひなの:「失礼すぎるでしょ」
文句を言いながらも、橘は期待するようにこちらを見ている。
女子と弁当のおかずを交換する。文字にすれば、それだけのことだ。
だが――
ひなの:「……なんで固まってるの?」
橘が探るように顔を覗き込んでくる。
ひなの:「もしかして、照れてる?」
にやりと口元を緩める。
八幡:「違う。糖分の摂取で体温が上がっただけだ」
ひなの:「まだマッ缶飲んでないじゃん」
八幡:「これから上がることを予測した」
ひなの:「言い訳が苦しすぎるでしょ」
橘は楽しそうに笑いながら、奪った卵焼きを口へ運んだ。
ひなの:「ん、おいしい」
八幡:「当然だ。小町製だからな」
ひなの:「比企谷くんも、私の食べてみて」
八幡:「……仕方ない」
俺は弁当箱へ増えていた卵焼きを口に入れた。
少し甘い。直後にマッ缶を飲めば、さらに甘い。口の中で甘味が交通渋滞を起こしていた。
ひなの:「どう?」
八幡:「マッ缶との相性は悪くない」
ひなの:「卵焼きの感想を聞いてるんだけど」
八幡:「……うまい」
ひなの:「そ。ならよかった」
小町の卵焼きを褒められるのと、自分で焼いた卵焼きを褒められるのとでは、意味が違う。
そのことに気づいたのは、橘が満足そうに口元を緩めたあとだった。
たかが卵焼き一つを交換しただけだ。それなのに、マッ缶よりも厄介な甘さが、しばらく口の中に残っていた。
そして気づけば、橘との距離も近いままだった。
俺は弁当とマッ缶を持ち上げ、何も言わずに腰一つ分だけ横へずれた。
ひなの:「……今、避けた?」
八幡:「マッ缶の安全を確保しただけだ」
ひなの:「私、もう奪わないけど」
八幡:「信用できるか。卵焼きは既に一つ略奪されている」
ひなの:「ちゃんと交換したじゃん」
八幡:「本人の同意を無視した交換は略奪だと、さっき説明したはずだ」
ひなの:「それだけで、そんなに逃げる?」
八幡:「逃げてない。必要な緩衝地帯を確保している」
ひなの:「何センチが必要なの?」
八幡:「少なくとも、教室の机一つ分」
ひなの:「広っ。野生動物みたい」
八幡:「不用意に近づくと、主に俺が社会的に死ぬ」
ひなの:「噛む側じゃなくて、死ぬ側なんだ」
橘は呆れたように笑ったあと、俺が空けた分だけ当然のように腰をずらしてきた。
八幡:「なぜ詰める」
ひなの:「本当に私から離れたのか、確かめようと思って」
八幡:「確認方法が力技すぎるだろ」
ひなの:「だって、何も言わずに逃げるから」
八幡:「逃げてない。戦略的撤退だ」
ひなの:「同じじゃん」
橘は不満そうに唇を尖らせたあと、今度はほんの少しだけ離れた。拳二つ分ほどの譲歩である。
教室の机一つ分には程遠いが、これ以上要求すれば、俺のほうが雑草の中へ追いやられそうだった。
ひなの:「これでいい?」
八幡:「……最低限な」
ひなの:「面倒くさいなあ、比企谷くん」
そう言いながらも、橘は別段気を悪くした様子もなく、再び弁当へ箸を伸ばした。
女子と二人で昼飯を食べているところを見られれば、周囲は勝手な意味をつけるだろう。何より危険なのは、周囲より先に俺自身が意味をつけることだった。
橘は一人で食べているクラスメイトを見つけ、何となく隣へ来ただけ。そう定義しておく。定義は大事だ。曖昧なまま放置した設問ほど、採点時に事故が起きる。
しばらく、会話が途切れる。
気まずい沈黙ではなかった。風が古びたフェンスを揺らす音と、遠くから聞こえる運動部の掛け声が、会話の隙間を埋めていた。
橘は静かに飯を食べている。普段の豪快な笑い声がないだけで、別人のようにも見えた。
何か話したほうがいいのだろうか。
男女が二人で食事をするときの一般的な会話例など知らない。天気の話は空を見れば終わるし、趣味を聞くには距離感が近すぎる気がする。
散々迷った末、最も無難そうな疑問を口にした。
八幡:「……お前、教室で友達と食べなくていいのか」
ひなの:「今日はいい」
八幡:「喧嘩でもしたのか」
ひなの:「してないよ。ただ、ずっと喋ってると疲れる日もあるでしょ」
意外な答えだった。
八幡:「お前でも疲れるんだな」
ひなの:「どういう意味?」
八幡:「常時最大出力で生きてるのかと思ってた」
ひなの:「普通に失礼だから。……私だって、静かにしたいときくらいあるよ」
そう言った橘は、しばらく黙って空を見上げた。さっきまでマッ缶を面白がっていた顔から、ふっと力が抜けている。
教室で見せる明るさが嘘だとは思わない。ただ、それだけが橘ひなのの全部でもないらしい。
何も話さず空を見上げる横顔を、俺はしばらく盗み見ていた。
◇
翌日、俺は場所を変えた。
別に橘が嫌だったわけではない。ただ、一度見つかった避難場所は、避難場所としての機能を失う。それに昨日のような時間を当たり前だと思い始めるのも、あまりよろしくない。
俺は図書室裏の非常階段、その踊り場へ移動した。
昼休みが半分ほど過ぎた頃、階段の下から足音が近づいてきた。
ひなの:「あ、いた」
見下ろすと、橘が弁当箱を抱えて立っていた。
八幡:「……お前、探知機でも積んでるのか」
ひなの:「駐輪場裏にいなかったから、次にいそうな場所を考えただけ」
八幡:「なぜそこまでして探す」
自分で思っていたよりも、ずっと刺々しい声が出た。
橘は階段を上がる途中で足を止めた。
わずかに眉が寄り、それまで浮かんでいた笑みが消える。こちらを見上げる目は強いままだったが、弁当箱を抱える指に少しだけ力が入った。
ひなの:「それ、本気で迷惑って言ってる?」
口調は普段と変わらず強い。
俺は返答に詰まった。
迷惑だと言えば、こいつはもう来ないかもしれない。それは本来、俺が望んでいたはずの結果だ。
なのに、その一言だけがどうしても口から出てこなかった。
八幡:「……そうじゃない。ただ、理由がわからない」
そう答えた瞬間、橘の眉間からわずかに力が抜けた。
だが、俺が何か言うより先に、橘はいつもの調子へ戻っていた。
ひなの:「理由なんて、そんな大げさなものじゃないよ」
橘は再び階段を上がってくると、俺の隣から一段空けて腰を下ろした。昨日の緩衝地帯に関する抗議を、少しだけ覚えていたらしい。
ひなの:「一人でいたい人と、誰にも見つけてほしくない人って、違うでしょ」
八幡:「何が言いたい」
ひなの:「比企谷くんは一人が好きそうだけど、見つけられるのまで嫌そうには見えなかった」
そんなことはない、と否定しかけた。
だが、声が出なかった。
昨日の俺の反応だけで、よくもまあそこまで勝手な理屈を組み立てられるものだ。
的外れだと言ってやればいい。
それなのに、すぐにはその言葉が出てこなかった。
八幡:「勝手な解釈だな」
ひなの:「外れてた?」
八幡:「……知らん」
ひなの:「じゃあ、今のところ半分正解ってことにしとく」
橘はようやく普段の調子を取り戻し、弁当箱を開けた。
俺はそれ以上何も言えなかった。
◇
それから俺は、隠れ場所を変えるのをやめた。駐輪場裏の日陰は、俺一人の特等席ではなくなった。
翌日も、その翌日も、橘は当たり前のように隣へ座った。ただし最初の日とは違い、拳二つ分ほどの距離は空ける。本人なりの譲歩らしい。
二週間もすると、教室で橘が俺を探す姿を見かけた生徒から、「また比企谷くんのところ?」と声をかけられるようになった。
八幡:「お前、俺と一緒にいると変な噂が立つぞ」
ひなの:「どんな?」
八幡:「物好きだとか」
ひなの:「事実だから問題ないね」
八幡:「否定しろよ」
ひなの:「じゃあ、友達と昼ご飯を食べてるだけって言えばいいじゃん」
友達。
その単語が、胸の内側へ小さく刺さった。
ただし、友達という言葉ほど定義の広いものもない。毎日話す相手から、一度同じ班になった相手まで、発言者の都合で伸縮自在である。橘の友達判定が広いだけかもしれない。
勝手に特別な意味を足すな。これは中学時代に、身体へ刻み込んだ基本原則である。
視線を弁当へ落としたまま、どうにか聞き返す。
八幡:「……いつから友達になったんだ、俺たち」
ひなの:「……今?」
八幡:「今かよ」
ひなの:「今。文句ある?」
八幡:「ない、けど」
ひなの:「じゃあ決まりね」
橘はそう言うと、俺の返事を待たずに卵焼きを頬張った。
◇
その日の午後、数人ずつ班を作ることになった。
いつものように、俺だけが余るはずだった。
だが、教師が「まだ組んでない人」と声を上げるより先に、教室の反対側で椅子を引く音がした。
友人たちの輪から抜けた橘が、迷うことなくこちらへ歩いてくる。
ひなの:「比企谷くん、私たちと組も」
一瞬、返事が出なかった。
橘なら、余った人間が誰であっても同じように声をかけたのだろう。そう考えるのが妥当だ。
八幡:「……俺でいいのか」
ひなの:「比企谷くんがいいから来たんだけど」
わざわざ主語を限定するな。
心の中で抗議したが、声にはできなかった。
クラス中の視線が、一斉に俺たちへ集まる。
◇
橘が俺を班へ連れていったことで、活動は滞りなく始まった。
問題は、その後だった。
女子生徒A:「橘さん、そっちの人も班に入るの?」
同じ班の女子が、俺を見て言った。
そっちの人。
新学期から二週間以上、同じ教室で過ごしているにもかかわらず、名前が出てこないらしい。
女子生徒A:「あれ、えっと……ごめん。なんて呼べばいいんだっけ」
慣れている。
そのはずだった。
八幡:「……比企谷だ」
女子生徒A:「あ、そうだそうだ。比企谷くん。ごめんね、私、人の名前を覚えるの苦手で」
悪気はない。だから責める理由もない。
俺はいつものように「別に」と答え、配られたプリントへ目を落とした。
橘の手が止まった。
さっきまで残っていた笑みが消え、目がすっと細くなる。
ひなの:「二週間も同じクラスなのに?」
普段より低い声だった。
女子生徒A:「橘さん?」
ひなの:「比企谷八幡。隣の席だし、さっき先生も名前を呼んでたでしょ」
女子生徒A:「ご、ごめん」
ひなの:「私に謝ることじゃないけどさ。名前を知らないなら、せめて『そっちの人』じゃなくて、先に聞けばいいじゃん」
周囲の空気が固まった。
八幡:「橘、もういい」
ひなの:「よくない」
八幡:「俺は慣れてる」
そう言うと、橘は俺を睨んだ。
ひなの:「慣れなくていいことに、慣れる必要ないじゃん」
言葉は真っ直ぐだった。俺が長年かけて作り上げた理屈や諦めを、何のためらいもなく貫いた。
班活動が終わったあと、橘は何事もなかったように購買のパンの話を始めた。
俺だけが、さっきの一言を処理できずにいた。
◇
放課後、自分の机に残されたプリントの端へ、意味もなく名前を書いた。
比企谷八幡。
見慣れているはずの文字が、妙に他人のもののように見えた。
自分の名前を正しく呼ばれただけで、こんなにも心が揺れる。
それ以上に厄介なのは、俺の代わりに怒った橘の言葉が、いつまでも頭から離れないことだった。
第二話でした。
お読みいただきありがとうございます。