王宮での重厚な会議を終え、オルクセン首都ヴィルトシュヴァイン――オルクセン語で「野猪」の名を冠する巨大な都市の街並みは、にわかに降り始めた煤混じりの雨に濡れていた。
その中を黒塗りの貴賓馬車が滑るように駆け抜けていく。
馬車の向かいの座席には、キャメロット連合王国が誇る名門中の名門――ウィンドミル侯爵家の嫡子であり、自らも儀礼称号として『ウェザーバリー伯爵』の名を戴く男、アーチボルト・ライオネル少佐――改めオルクセン国軍客員大佐が腰かけていた。
彼は豪奢な
その気品に満ちた佇まいは、どれほど異国の血と硝煙に塗れた場所にあろうと、彼が生まれながらの絶対的支配者階級――最高峰の
ヴィルトシュヴァイン駅に到着した二人は、人混みを避けるようにして、ヴァルターベルクのダークエルフの居留地へと向かうオルクセン国鉄の特別急行列車へと案内された。
一等客室のコンパートメント。
重厚なマホガニー材の木枠と、深緑のヴェルヴェットが敷き詰められた狭く密閉されたその部屋に、重い扉が静かに閉ざされる。
線路を噛む鋼鉄の車輪が「ガタゴト、ガタゴト」と規則的で重い低音を刻み始め、列車は滑らかに滑り出した。
対角線上に向かい合って座る二人の間には、濃密で重苦しい沈黙が横たわっていた。
ライオネルは長躯をゆったりとシートに預け、すでに一本の美しい葉巻をふかしている。
彼が吐き出す紫煙は、一等コンパートメントの天井に描かれた天井画へとゆらゆらと立ち上がり、芳醇な木樽と熟成された蜜のような香りを部屋中に充満させていた。
対するディネルースは、黒い将軍服の胸ポケットにそっと手を伸ばしかけ――そして、静かにその手を引き戻した。
彼女のポケットの中には、亡命の旅路の中で手に入れた、安価で質の悪い細巻きの葉巻が仕舞われていた。
白エルフの追撃から逃れ、草を喰み、死線を潜り抜けてきた彼女たちにとって、それは束の間の緊張を紛らわせるための粗末な気休めに過ぎない。
(……この男の持っているものと、比べられるのは嫌だ)
ディネルースの胸底に、かすかな、しかし苛烈な意地を張ってしまう。
目の前で揺らめくライオネルの葉巻は、一目見ただけで最高級品と解る逸品だった。
それに比べて自分の持つ細巻きは、あまりにも頼りなく、貧相だ。
いまそれを出し、火を点ければ、己の背負ってきた貧苦や亡命者としての惨めさを、この洗練された短命種の貴公子に見下されるような気がしたのだ。
ディネルースは固く口を結び、視線を車窓の外へと逃がした。
だが――そのわずかなためらい、胸元へ伸びて途切れた指先の動きを、向かいに座る『ウェザーバリー伯爵』が見逃すはずもなかった。
「――ん? これは気が利きませんで」
ライオネルが、滑らかなテノールで短く呟いた。
彼は深くシートに背を預けたまま、薄い微笑を唇に浮かべると、仕立ての良い[[rb:赤衣 > チューダー・レッド]]の内ポケットから、重厚な純銀製の
刻印されたウィンドミル侯爵家の紋章が、車内のランプの光を浴びて妖しく輝く。
「どうぞ、アンダリエル少将。南センチュリースター産――我が国の植民地で特別に栽培された、最高峰の葉巻ですよ。お口に合えば良いのですが」
ライオネルはケースの蓋を開け、太く艶やかな褐色を帯びた葉巻を一本、長くてしなやかな指先でつまみ出すと、ディネルースへと差し向けた。
ディネルースは眉をひそめ、冷ややかな視線を男へと向けた。
「お気遣いなく、顧問殿。私は――」
「遠慮なさる必要はありませんよ」
ライオネルは彼女の言葉を優雅に遮ると、今度はもう片方のポケットから小ぶりの銀製品を取り出した。
艶消しの銀で覆われた、極めて精緻な
ライオネルが親指でその側面の小さなレバーを押し込むと、
――パチン。
硬質で、短く静かな金属音が、狭いコンパートメントの空気を一瞬で切り裂いた。
冷たく澄んだその音が、ディネルースの鼓膜を心地よく、しかし鋭く刺す。
ライオネルの手つきには、一切の無駄がなかった。
最高級の葉巻の
再び、短く澄んだ金属音が響き、綺麗にカットされた葉巻の端が落ちた。
「葉巻というものはですね、少将閣下」
ライオネルはカットした葉巻を指に挟み、マッチ箱から一本の長尺マッチを擦った。
シュッ、と小さな摩擦音とともに黄色の小さく揺れる炎が立ち上がる。
「直接、炎を葉に叩きつけるような真似をしてはいけません。それは葉の持つ繊細な油脂と香りを殺してしまう、野蛮な行為だ」
彼はそう言いながら、吸い口側ではなく、葉巻の先端を炎からわずかに離した位置に保持した。
そのまま、しなやかな指先で円を描くように葉巻をゆっくりと、均一に回転させていく。
直接触れ合わない炎の熱だけが、葉巻の先端を少しずつ、じわじわと焦がしていく。
熟練した職人のような、息を呑むほど滑らかで美しい手つき。
先端がじんわりと赤く熱を帯び、極上の熟成葉が放つ甘く芳醇な香気が、一気に車内へ広がっていた。
ライオネルは炎を吹き消すと、熱を帯びたばかりのその太い葉巻を、ディネルースの目の前へと差し出した。
「さあ……お吸いなさい」
低い、密やかな声。
ディネルースは息を呑み、差し出された葉巻へとおずおずと手を伸ばした。
受け取るその一瞬、彼女のしなやかな褐色の指先が、ライオネルの白く冷ややかな指に掠めるように触れた。
――熱い。
まるで灼熱の鉄に触れたかのような錯覚。短命種の体温というだけではない、この男の内底で渦巻く異様な熱量が、指先を通じて直接彼女の神経へと叩き込まれた気がした。
拒絶しようとしたはずの唇が、目の前に提示された圧倒的な美学と、立ち上がる濃密な香気に気圧され、抗う術を失っていく。
彼女はゆったりと身体を前へ傾け、差し出された太い葉巻を、己の薄い唇でそっと咥え込んだ。
唇に触れる、葉巻のなめらかな感触と、僅かな熱。
次の瞬間、ライオネルが再び新たなマッチを擦り、その小さな炎を彼女の顔のすぐ近くへと掲げた。
「軽く息を吸い込みながら……炎を呼び寄せるように」
彼の囁きに引き寄せられるように、ディネルースは顔をさらに近づけた。
二人の距離が、一瞬にして消失する。
息が触れ合うほどの至近距離。
目の前には、ライオネルの
吸い込まれるような知性と、狂気を孕んだその双眸が、至近距離でディネルースの赤い瞳を射抜いている。
コンパートメントの中の時間が、完全に停止したかのような錯覚。
列車の振動も、車輪の重低音も、すべてが遠い世界の出来事のように掠れていく。
ディネルースは言われた通り、ゆっくりと息を吸い込んだ。
彼女が吸い込むと同時に、先端の熱が真っ赤な爆発を起こすように強く発光し、ライオネルが掲げた炎をぐっと吸い寄せる。
じわじわと焼き焦げる葉の香。
舌の上に広がるのは、これまで味わったこともないような、重厚で、濃密な甘みと渋み、そしてスモーキーなコク。
白い煙が、ふたりの極小の隙間を漂い、ライオネルの端正な顔立ちを妖しく霞ませる。
背骨を、ゾクゾクするような強烈な電流が駆け抜けていった。
ただ葉巻に火を点けられただけだ。
それだけの所作に、この男はどれほどの美学と、支配的な圧迫感を込めているのか。
単なる好色や甘い戯れではない。
これは、戦場で刃を交える前の「静かな殺し合い」であり、己の圧倒的な教養と洗練をもって相手の精神をひれ伏させようとする、貴族騎兵ならではの儀式なのだ。
ライオネルは、ディネルースの瞳の奥に灯った強烈な葛藤と昂ぶりを見逃さず、唇の端を満足そうに吊り上げた。
「……良い吸い筋だ、アンダリエル少将」
彼は自身のシートへゆっくりと身体を戻し、再び太い葉巻を口に咥えた。
「その南センチュリースター産は、苛烈で、どこか野性的で……しかし、極限まで磨き抜かれた気品がある。まさしく、あなたとあなたたちの旅団に相応しい香りだと思いませんか?」
ディネルースは指間に挟んだ葉巻を見つめ、それから煙の向こうに座る男を凝視した。
「……言葉巧みな男だな、ウェザーバリー伯爵」
ディネルースの口から漏れたのは、冷徹な、しかしどこか弾んだ声だった。
「このような高級品で我らの牙を抜こうとしたのなら、計算違いだ。我が同胞は、こんな煙の一本で飼い慣らせるほど甘くない」
「ハハッ! 飼い慣らす? まさか」
ライオネルは心底楽しそうに笑い、紫煙を天井へと吹き上げた。
「明日から始まるヴァルターベルクでの訓練……容赦はしませんよ、少将閣下。あなたのその綺麗な褐色肌と栗色の髪が、土と汗と馬の油で汚れ、二度と落とせなくなるほど黒く染まるまで叩きのめす」
「望むところです」
ディネルースは再び葉巻を咥え、深く煙を吸い込んだ。
口内に広がる……苦くも甘い味。
復讐への飢えと、この目の前にいる狂気的な男への対抗心が混ざり合い、彼女の血管を流れる血液を熱く昂らせていく。
ライオネルは紫煙を口の中でくゆらせると、ゆっくりと列車の窓に向けてそれを吹き出した。
いつの間にか、帝都ヴィルトシュヴァインを濡らしていた煤混じりの雨は止んでいた。
窓の外には、暗雲の切れ間から差し込むかすかな夕光を浴びて、ヴァルターベルクの地へと続いていく黄金色の小麦畑が地平線まで広がっていた。
果てしない風が波打たせるその豊かな穀倉地帯の風景を、ライオネルは目を細めて眺めた。
「いい景色ですね。私の故郷を思い出しますよ」
「キャメロットのどちらから?」
ディネルースが葉巻の端から細く白い煙を吐き出しながら尋ねる。
ライオネルは車窓に視線を置いたまま、どこか懐かしむような、しかし自嘲的な響きを込めて口を開いた。
「南部の外れに広大な領地がありましてね。緑豊かなオークの森と、どこまでも続く牧草地がある場所です。そこで生まれて育ちました……まあ、なにぶん嫡男ですのでね」
彼は深く言及せず、ただ軽く説明しただけだった。
ウィンドミル侯爵家という、キャメロット連合王国の政財界・軍部に絶大な影響力を持つ血族。
その長男として生まれ、最高峰の家庭教師と社交界の羨望に囲まれて育った男の口から出た「嫡男ですので」という一言には、他者が窺い知れぬほどの重圧と無聊が隠されているようでもあった。
「若い頃から騎兵になりたくてね、そればかり夢見てきましたよ。乗馬学校でも、王立騎兵連隊の士官学校でも、馬と突撃のことしか頭になかった。周囲の者たちは侯爵家の跡取りが戦場の先頭に立つことなど反対しましたが……まあ、押し切りました。そして念願かなって騎兵少佐。そして、今や他国の軍人を指導する客員大佐 兼 軍事顧問という立場になれた」
ライオネルは振り向き、ディネルースの美しい褐色の顔立ちをまっすぐに見つめた。
「しかも……麗しいダークエルフの女性たちを指図する、最高に刺激的な立場にね。――グスタフ王に誘われた時は、まさかと思いましたがね」
彼はそう言って、爽やかに笑った。
だが、その会話を聞きながら、ディネルースの胸中には別の、もっと不気味で切実な疑問が渦巻いていた。
彼女は葉巻の煙越しに、ライオネルの洗練されすぎた横顔を凝視した。
(この男……そしてグスタフ王……)
疑問を言葉に出すべきか、否か。
ディネルースは思考を巡らせた。
オルクセンの絶対的指導者であり、全魔人種の父たる巨漢の王、グスタフ。
そして、
二人のやり取り、王宮の執務室で見せたあの絶妙なまでの阿吽の呼吸。
正規の軍令系統を完全に無視し、王直属の秘密の軍事顧問としてこの男を招き入れたという、あまりにも破格の特別待遇。
(……この男とグスタフ王は、何か秘密の関係があるのではないか?)
そう考えると、すべての辻褄が合ってしまう気がした。
二人は、男同士で愛し合っているのではないか――。
王がこの男を手元に置くため、あるいはこの男が王の寵愛を得て野望を果たすために、この「ダークエルフ騎兵旅団の創設」という壮大な大義名分を作り上げたのではないかという、暗い疑念。
もしそうであるならば、自分たち一万二千の同胞の命運は、王と一人の美貌の士官の「個人的な情戯」の道具として使われていることになる。
そのような不埒な思惑に、命を懸けることなど到底容認できない。
ディネルースの胸の奥で、復讐心とは異なる激しい不快感と警戒の火が燻り始めた。
ライオネルは彼女の表情の急変を素知らぬ顔で受け流し、南センチュリースター産の葉巻を実に旨そうに味わっていた。
「お気に召しましたなら、後で道具と一緒に一セット届けましょう。交友の贈り物としてね」
だが――ディネルースの頭の中の疑問は、もはや抑えきれない熱となって彼女の理性を突き動かしていた。
この男の腹の底を確かめなければならない。
自分たちの命と復讐を託す相手が、単なる寵姫のごとき男なのか、それとも本物の軍人なのかを。
ディネルースは煙を強く吹き出すと、真っ直ぐにライオネルの[[rb:灰緑色 > ヘーゼル]]の瞳を射抜いた。
「顧問殿」
「何でしょうか、少将閣下」
「あなたと王とは……どのようなご交友で?」
静かなコンパートメントの中に、その問いが落とされた。
質問の意図――その下底に潜む「男色」や「寵愛」への疑念。
ライオネルは個人的な領域に踏み込まれたことで、一瞬だけ、整った眉をぴくりと動かし、わずかに不快そうな顔をしかめた。
人間の貴族にとって、あるいは軍人にとって、自らの至誠や名誉に踏み込まれることは侮辱に等しい。
だが――男の瞳に宿ったわずかな苛立ちは、一瞬にして消え去った。
ライオネルはディネルースの固い眼光と、その奥にある「同胞の命を背負う者としての警戒」を瞬時に読み解いたのだ。
(ふ……なるほど。そう来たか)
ライオネルは口元に苦笑を浮かべ、深くシートへ背を預け直した。
恐らく、この気高き黒エルフの将軍が何を懸念しているのかを完璧に看破したのだ。
「……王とは、我がキャメロットに来訪された際に、色々と――ええ、表の公式行事では決して足を踏み入れぬ『とあるところ』へも、ご案内して差し上げたのですよ」
ライオネルは指に挟んだ葉巻を軽く揺らしながら、語り始めた。
「数年前、グスタフ陛下が我が国の工業地帯や陸海軍の視察のために極秘裏にお越しになった折り、王立騎兵連隊の演習場で最初にお会いしました。私は当時、連隊の少佐として、最新式の乗馬術と騎兵銃を用いた機動演習を披露したのです」
彼の眼光に、懐かしさと純粋な情熱が戻ってくる。
「陛下は巨躯に似合わず、極めて精緻で合理的な軍事思想の持ち主だ。蒸気機関と大砲が戦場を支配するこれからの時代において、巨大なコールドブラッドに跨る重騎兵がいかに限界を迎えるか……そして、諸兵科連合戦術の中で機動力と火力を兼ね備えた『新たな軽騎兵』がいかに不可欠であるかを、王は既に見抜いておられた」
ライオネルは窓の外の地平線を指さした。
「私と王は、共通点を見つけましてね……そう、時代遅れと嘲笑されつつある『騎兵』という兵科を、現代戦において最凶の兵器として再定義するという、狂気じみた美学ですよ。それ以来、個人的に手紙や軍事論文のやり取りをしておりました。今回の派遣も、その積み重ねの果てに実現したものです」
ライオネルはディネルースへと向き直り、その薄い唇に、どこか悪戯っぽい、しかし絶大な自信に満ちた笑みを浮かべてみせた。
「……もちろん、やましい関係ではありませんのでね。その点については潔白ですよ、アンダリエル少将」
完全に看破されていた。
自らの妄想めいた疑念をあっさりと見透かされ、真っ直ぐに打ち返されたことに、ディネルースの褐色の頬がわずかに熱くなった。
「……失礼を言った」
「いいえ。同胞の未来を託す相手の背後関係を疑うのは、指揮官として当然の態度です。不問に付しましょう」
ライオネルは鷹揚に頷いた。
だが、ディネルースの胸中に残ったのは、気まずさだけではなかった。
彼とグスタフ王の間にあるのは、不潔な情愛などという矮小なものでは到底なかった。
それは――「次代の戦争の姿」を先取りし、合理主義と軍事美学の極致において互いを唯一無二の理解者と認めた、極めて危険で濃密な『思想的同志』の絆であったのだ。
(この男は……グスタフ王と同じ高みに立っている……)
ただの貴族の道楽者でもなければ、王の寵童でもない。
男色や下劣な情愛などよりも、戦術思想で結ばれている関係の方が遥かに危険で恐ろしい。
己の狂気と誇りを胸に、大陸の歴史を塗り替えるための「完璧な歯車」として、自らこのオルクセンの地に乗り込んできた本物の怪物。
神経が、再びゾクゾクと昂っていくのを感じた。
「……納得して頂けましたかね?」
ライオネルが、葉巻の煙の向こうから問いかけてくる。
「ええ……十分すぎるほどに」
ディネルースは葉巻を強く吸い込み、濃厚な煙を吐き出した。
「あなたが本物の狂人であって安心した。それほどの執念を持つ男でなければ、我が同胞の血と汗を受け止めることなどできない」
「ハハッ! 最高の褒め言葉として受け取っておきましょう」
ライオネルは心底愉悦に満ちた声を上げて笑った。
その言葉には、寸分の揺らぎもなかった。
ディネルースの頭の中にあった下世話な心配事を完璧に見破り、軽やかに受け流してみせたのだ。
そして――。
「――ただ、一点だけ……申し上げておきましょう……」
ライオネルの声のトーンが、急速に体温を失った。
彼は手にしていた最高級の葉巻を、コンパートメントのテーブルに置かれた銀の灰皿へと運んだ。
そして次の瞬間――。
ジュッ、と擦れる鈍い音とともに、煙を上げる葉巻の先端を、灰皿の底へ乱暴になすりつけ、無惨に押し潰して消した。
葉巻の美しい形が崩れ、灰と焦げた葉が汚らしく散らばる。
最高峰の紳士としての品性とマナーを根底から覆す、あまりにも不作法で、粗暴な動作。
ディネルースは目を見張った。
目の前に座る、真っ赤なキャメロット連合王国の騎兵軍服を着た男は、いま自らの手で、さきほどまで纏っていた「洗練された貴族」という薄皮を、容赦なく剥ぎ取ってみせたのだ。
灰皿の上に煙が細く立ち上る。
ライオネルはゆっくりと顔を上げた。
その
そこに広がっていたのは、底知れぬ狂気と、滾り立つ戦慄すべき悦楽の光であった。
「少将閣下……私は楽しくてならないのですよ」
ライオネルの低く掠れた声が、狭い個室の空間を強烈に圧迫した。
「私は、魔人種の国で、魔人種の女に、騎兵戦術を叩きこむんですからね。あなた方が果たして私の後についてこられるかが、これから先の私の評価も、この国の運命も決めることでしょうね」
彼は長くしなやかな指先で、自身の
「エルフィンドでの虐殺から逃れてきたあなた方には、働いてもらわないと困るという陛下の御意向。そして何より……あなた方の『存在意義』が問われるわけだ」
ライオネルは身を乗り出し、ディネルースの顔を覗き込んだ。
その顔に浮かんでいたのは、見る者を凍りつかせるような、圧倒的な情熱と歪んだ愛おしさの混ざり合った、完璧な悪魔の笑みだった。
「たまらない……愛おしくて、たまらない……あなた方の、その『御不幸』がね」
「……っ!」
ディネルースの背筋を、激しい氷の爪が駆け抜けた。
この男は本物だ。
ただの貴族の道楽でも、兵隊ごっこでもない。
自分たちダークエルフが背負う凄惨な迫害、同胞の流した血、奪われた故郷、そして消えることのない不倶戴天の復讐心――その過酷な『不幸』と『怨念』こそが、この男にとって最高の戦術的素材であり、至高の騎兵を作り上げるための極上の燃料なのだ。
他者の絶望と不幸を愛おしみ、それを極限の技術と暴力へ昇華させようとする、圧倒的な狂信者。
(狂っている……この男は、根本から狂っている!)
だが――その恐ろしい言葉を聞いた瞬間、ディネルースの胸の底で、押し殺していた血がぐつぐつと煮え立った。
畏怖ではない。
怒りでもない。
戦士として、一族の長として、この狂気の男の圧倒的な熱量に触れ、彼女の全身の神経が、生まれて初めて迎える最高潮の昂ぶりへと叩き直されていた。
「……ハッ」
ディネルースは口元に、野性味あふれる凶暴な笑みを浮かべた。
彼女は指間に挟んだままの南センチュリースター産シガーを唇にくわえ、紫煙をライオネルの顔へ向けて堂々と吹きかけた。
「言ったはずだぞ、ウェザーバリー伯爵」
ディネルースの声は、武者震いに微かに震えていた。
「我が同胞を甘く見るなと……あなたのその狂気、丸ごと飲み込んで見せる。ついていけないのは、貴方の方かもしれないぞ?」
「ハハ……ハハハハハハッ!」
ライオネルは頭を仰いで、抑えきれない爆笑を上げた。
その声には、最高峰の騎兵素材を手に入れた歓喜と、これから始まる苛烈な戦場への熱狂が溢れていた。
「素晴らしい! 完璧だ、アンダリエル少将! やはり君たちは……最高だ!」
ライオネルはポケットから絹のハンカチを取り出すと、指先についた灰を丁寧に拭い去った。
紳士の仮面が、再び彼の顔へと貼り直されていく。
しかし、その瞳の奥の火種は、二度と消えることはなかった。
「誓いましょう。君たちのその美しくも恐ろしい復讐の火を……大陸全土を震撼させる史上最強の『黒き騎兵』へと変えて見せると」
「フン……口先だけでないことを祈るよ、ウェザーバリー伯爵」
ディネルースはフッと鼻を鳴らし、再び車窓の外へと視線を向けた。
窓の外では、夕陽が小麦畑の地平線へと沈みかけていた。黄金色に輝く広大な平原が、やがて来る夜の深い紺碧へと飲み込まれていく。
列車は速度を落とすことなく、ヴァルターベルクへと続く一本の鋼鉄の軌道を駆け抜けていく。
一等コンパートメントの室内には、灰皿になすりつけられた不完全燃焼の煙と、ディネルースが燻らせる最高級葉巻の甘い香気が混ざり合い、異様で濃密な空間を作り出していた。
真っ赤な軍服を纏うキャメロットの貴族将校と、黒い将軍服を身に纏うダークエルフの女少将。
二人の間に存在するのは、甘い情愛などではない。
復讐と、美学と、戦争の破壊力に対する絶対的な狂信――それだけが二人を固く結びつけていた。
ガコン、と大きく車体が揺れ、遠くの暗闇の中にヴァルターベルクの街灯りがポツポツと灯り始める。
疾走する列車の車輪が、激しく線路を叩き、歴史の歯車が、音を立てて噛み合い始めていた。
暗い決意と復讐の炎が待つヴァルターベルクへと、真紅の狂気と黒き不屈を乗せた列車は、加速しながら突進していった。
(第4話に続く)