二人は応急処置を済ませ、ちょっとした小道具を準備した。
相手はデジモンだ。
異世界から来た異形の怪物。
準備は『やりすぎ』ぐらいでちょうどいいのだ。
二人はお手製の秘密兵器をポケットに詰め込み、羽澄のマンションに向かった。
8階建てのオートロックのマンションは夕暮れに照らされて赤く染まり、その外壁は薄暗いレンガ色と化していた。
真下から見上げるマンションは覆いかぶさってくるような威圧感があり、巨大な城壁のような雰囲気を漂わせていた。
「ほわぁ……すごいですね。羽澄さんはこんな大きな家に住んでいるのですか?」
ファンビーモンは目の前にした建造物の大きさに目を丸くする。
そんな『人間世界初心者のデジモン』にゴツモンがしたり顔で説明を始めた。
「へへっ、ファンビーモン。お前知らないのか?これは『マンション』って言って、中で小さな家に区切られてるんだぜ」
「そ、そうなのか?」
「おうよ!こっちの世界ではオイラの方が先輩だからな。頼っていいんだぜ?」
「……うぅん……なぜか釈然としないが……よろしくお願いします」
「おう!任せとけ!」
デジモン達がそんな会話をしている横でウェンは再度『マスター』に電話をして最終確認をしてた。
『マスター』は『Philip.D』に待機し、要所への連絡を担っていた。デジモンでひと悶着あることが確定しているので、周囲への根回しが必須なのだ。
「……はい……今から突っ込みます」
『ウェン君、本当に僕のパートナーを付けなくていいのかい?相手は成熟期だ。僕のデジモンがいれば……」
「ダメです。そっちはバックアップをお願いします。羽澄の家はマンションの8階なんです、逃げ道がない。何かあった時、マスターのパートナーは外にいてくれないと俺達がやばい」
『それは……そうだね……うん、気を付けるんだよ』
「もちろんですよ」
ウェンは電話を切る。
そして、羽澄の方へと目を向けた。
「……行けるか?」
「……う、うん」
頷いた羽澄は自分の二の腕を掴んだ。
やはり、自分の身体が震えているのだ。
「………」
戦うことへの恐怖?
未知の怪物と相対する不安?
違う。
羽澄が怖いのが『母の部屋に入る』ということだった。
最後に母の部屋に入ったのはもう何年も前だ。学校の書類のサインをもらおうと母の部屋に入った。その時は電気スタンドで殴られ、耳の付け根を縫う羽目になった。
それ以来、羽澄は母の部屋に入ったことがない。救急外来で『棚の上のものを取ろうとして怪我をした』と言い張るのはもう嫌だった。
「…………」
羽澄はオートロックを開け、ウェンと共にエレベーターに乗り込んだ。
8階のボタンを押し、エレベーターが上がっていく。数字が一つ進む度に羽澄の顔が青ざめていく。そんな彼女の横顔を見て、ウェンはため息交じりに話しかけた。
「羽澄……」
「……?」
「今度からさ。家に帰るのが嫌な時は『Philp.D』に来たらどうだ?」
「……え……」
「あんな小さな喫茶店だからさ、客がなかなか来なくてよ。お前が常連になってくれると俺も嬉しい。しかも、学割でコーヒー1杯300円だ。なんなら裏に仮眠室もあって泊まり込むこともできる。まぁ、つまり……」
ウェンは言葉を探すように、視線を左右に走らせる。
そして、ふとゴツモンと目が合った。
「避難所だな」
「⋯⋯避難所?」
「ああ、あそこはデジモンを隠す必要がない⋯⋯パートナーと気兼ねなく過ごせる避難所だ」
羽澄は肩口付近で漂っているファンビーモンへと目を向ける。
「⋯⋯⋯⋯」
『パートナーと過ごせる』と言われてもそれで何が変わるのか羽澄にはまだ分からなかった。だが、避難所という響きはとても気に入った。
「⋯⋯ウェンは」
「⋯⋯ん?」
「⋯⋯ウェンも⋯⋯避難してきたの?」
そう言うと、ウェンは自嘲するように笑った。
「そうだな。おかげで喧嘩する相手はゴツモンだけになっちまった」
「だいたいオイラが勝つけどな」
「何言ってやがる。花札激弱のくせに」
「へーん!将棋激弱に言われたくねーな!」
ウェンとゴツモンの視線が交差し、バチリと音が鳴った。
ウェンがゴツモンを蹴った音だった。
エレベーターが8階にたどり着いた後も、2人はお互いを小突きながら先を歩き、羽澄とファンビーモンがその後ろに続く。
「羽澄さん。大丈夫ですか?」
「……うん……」
羽澄は自分の拳を見つめる。
「⋯⋯避難所⋯⋯か」
『家』へと続く廊下を歩く。
どこからか夕飯の香りが子供の笑い声と共に漂ってくる。
羽澄はこの時間が一番嫌いだった。
廊下を一歩歩くたびに周囲からは家族の団欒を象徴するような幸せを嫌でも感じてしまう。
だが、羽澄の羽澄の家にそんなものはなかった。
あるのはただ、痛みを伴う沈黙のみ。同じ家に住んでるだけの赤の他人同然。いや、暴力が日常的に行われていたことを考えると他人以下だ。
そんな『家』とも言えない場所への帰り道は苦痛でしかなかった。
でも……
「……もう……帰らなくてもいい……のかな」
呟いたその言葉はウェンにも聞こえていたらしい。
ウェンは振り向き大きく頷いた。
「そういうこと。っていうか、別に喫茶店じゃなくてもいいんだよ。ダチの家でも、ネカフェでもなんでもいい。逃げ場所ってのはいくつも作っておくもんなんだ」
「……ウェンはいくつ持ってるの?」
「……まぁ……あの喫茶店だけだが……」
ウェンはそう言ってバツが悪そうに笑った。
「とにかく、あの場所の居心地の良さは保証する。『マスター』がちょいとウザいのだけが玉に瑕だがな」
「……そうなの?」
「ああ。そのうちわかってくるよ……だからまぁ……」
ウェンは8階の角部屋の前に立つ。
その隣に羽澄が並ぶ。
「さっさとお前の親を助けちまおう。お前もこれ以上親経由で変なデジモンに粘着されたくないだろ?」
「…………うん」
羽澄は自分の『家』の前に立つ。
「いくぞ」
「……うん……」
日に焼けた『和歩』の表札を横目に羽澄はドアのカギを開け、扉をあけ放った。
家の中は相変わらず人が生活している空気がまるでない。ただ、ゲームの爆音だけが廊下の奥から聞こえてくる。
「靴は履いたまま上がれ」
「……うん」
羽澄は15年過ごしてきた自分の家に土足で踏み込む。ここに、大事な思い出など微かにしか残っていない。羽澄は一歩ごとに自分の歩んできた道を踏み潰す心地であった。
そして、羽澄とウェンは一つの部屋の前に立つ。ゲーム音が鳴り響き、強い光が漏れるその扉の前でウェンと羽澄は顔を見合わせた。2人の隣にはパートナーデジモンが臨戦態勢を取っていた。
「……どうせシェイドモンは気づいてる。どうする?」
「……私が開ける」
その羽澄の声に有無を言わせぬ響きを感じ取り、ウェンは僅かに身を引いた。
羽澄は深呼吸をして、ドアノブを握る。
「…………」
ドアノブを握る手が震えていた。長年に染みついた恐怖がその扉を開けることを拒む。
羽澄はなけなしの勇気を振り絞り、両手でドアノブを握った。
「……っ!!」
羽澄は意を決してドアノブを回し、ドアを押し開け、部屋に飛び込んだ。
まず視界に入ったのは『目』だった。
螺旋を描いた瞳を持つ赤い目。それが壁に、床に、天井に、全てを覆いつくすように広がっていた。だが、その異変を無視すれば部屋の中は羽澄が記憶していたものとそう大きく変わっていなかった。床に脱ぎ散らかされた服。皺くちゃになった布団の乗ったベッド。窓は昔の夫婦喧嘩でPCを投げ捨てられた時に割られたままになっており、段ボールとガムテープで目張りがされていた。
その部屋の片隅にラフな格好でゲーミングチェアに座ってPCに没頭する女性が一人。彼女はこの部屋の異変などまるで見向きもせずにゲーム画面に向かっていた。
「お母さん!!」
羽澄が声を張った。だが、ゲーミングチェアに座った女性はまるで反応を示さない。食い入るようにPCを見つめ、時折右上に設置したライブカメラに向けて視線を送るばかりだ。
「お母さん!……お母さん!……」
それが無駄だとわかっていた。だが、呼びかけずにはいられなかった。
そんな羽澄をあざ笑うかのようにシェイドモンの嗄れ声が部屋そのものから響いた。
「シャシャシャ……無駄だ無駄。この女にそんな声が届くものか……」
「……シェイドモン……」
羽澄が手近にあった瞳を踵で踏みつける。だが、シェイドモンは応えた様子もなく、笑い声をあげた。
「シェシェシェ、ようこそ我が腹の中へ。歓迎しよう。和歩 羽澄」
「……私の……名前」
「知っているとも、当然だろ。和歩 羽澄……それとも『ヤナギ』と呼んだ方がいいか?シェシェシェ!」
「……っ!!」
羽澄が唇を噛む。次の瞬間、ウェンが動いた。
激しい音を立てて床を蹴り、たった一歩で部屋を横断してみせる。
ウェンは大きく身体を捻り、羽澄の母が座る椅子に向けて痛烈な回し蹴りを叩き込んだ。
「……っち!」
だが、椅子はびくともしない。黒い霧だ。羽澄の母や周辺のPCなどを覆うように黒い霧が完全に包んでいた。ウェンの蹴りはその霧に阻まれたのだ。
「……野蛮人め……お前とゴツモンに散々邪魔されたのだ……これ以上私を苛立たせるな!」
部屋の壁や天井、床を覆うシェイドモンの身体が触腕のように変化した。それらが四方八方からウェンに襲い掛かった。
「ゴツモン!」
「わかってらい!」
ゴツモンがそれを迎撃し、ウェンは再び羽澄の母へと向かう。だが、それを阻むようにウェンの足元から触腕が顔を出した。ウェンは急ブレーキをかけて後退する。
ウェンは唇の端を持ち上げ、シェイドモンに向けて手招きをする。
「どうしたシェイドモン。上から
「……貴様らにはわかるまい。この女の熟成し、腐り果てた『希望』が……」
「あん?」
部屋に広がっていたシェイドモンの赤い目が羽澄の母の元の近くへと集まり、その顔を四方八方から舐めるように見つめた。
「……仮想の世界にのめりこみ、現実を全て失って、画面の向こうの顔も知らぬ男たちに媚びを売る。世界がまだ自分を認めているという錯覚を求めて、毎日のように全てを捧げて仮想の深みにはまっていく。これ以上に腐り果てた希望があるものか。そして、何よりの決め手は……お前だ……和歩 羽澄!!」
赤い瞳の視線が一斉に羽澄に注がれる。
「貴様の作った『男』は最高だ!!この女の理想そのもの!!この女の希望の象徴であり、日々仮想の世界を歩く原動力!!それが、『実の娘』であるとこの女に告げる日がどれほど楽しみかわかるか!?熟した希望が、腐った絶望に色を変える瞬間の香ばしさがお前らに理解できるか!?肉も果実も腐りかけが最も旨いのだ。極上の絶望。お前らには渡さん」
シェイドモンの触腕が彼女を守るように揺れ動く。
「救いようがねぇな」
ウェンがそう言い、羽澄も頷く。
「……こんな奴に……狙われた自分が恥ずかしい……」
「シャシャシャ……」
シェイドモンが瞳を歪ませて笑い声をあげる。
「……和歩 羽澄……お前の『絶望』も美味かったが、まだ味が若い。フレッシュすぎる。後、10年したら、お前も食らってやろう……ここ数日の記憶を消してやる。そうすれば、お前の日常はまた静寂の中に戻る。そこでたっぷりと『希望』を育てるがいい……『家族がまた揃う?』『温かな食卓を囲む?』私がその希望を叶えてやる!叶う直前まではなぁ!」
触腕が羽澄に向けて一斉に伸びる。
「……っ!」
「させません!」
触腕と羽澄の間にウェンとファンビーモンが割り込んだ。ウェンが両腕で触腕をさばき、それを突破した触腕の先端をファンビーモンが撃ち落とす。
「ゴツモン!こっちはいい!!さっさとあの母親を!」
「任せろ、『アングリーロック』!!」
ゴツモンは単騎で攻勢を狙い、容赦なく羽澄の母へと石礫を放った。だが、シェイドモンの黒い守りを突破することはできない。
「羽澄、そういや今更聞くけどさ、お前の母親ぶん殴っていいよな?」
「……うん……ファンビーモンも……容赦しなくていい」
「了解!!」
「ファンビーモン、守りは任せる!ゴツモン!接近戦だ!!突っ込むぞ」
「アイアイサー!」
ウェンは触腕を潜り抜け、ゴツモンと共に再度接近を試みる。ゴツモンを進化させても良かったが、ゴーレモンはこの部屋に対して大きすぎる。マンションの床が抜ける可能性も考えるとその選択肢は最後にしておきたいところだった。とにかく、今は羽澄の母を助けることが最優先だった。
「ゴツモン!リンクだ!」
「おう!」
ゴツモンとウェンの身体が
ウェンが前蹴りを放ち、ゴツモンが鋭いストレートを放つ。ファンビーモンも針を飛ばして援護するが、やはり薄い靄のようなものに弾かれて、母までは届かない。
「シェシェシェ!!無駄だよ、無駄無駄ァ!!」
ウェン達に目掛けて触腕が殺到する。それをウェンは冷静にさばき、数本の触腕を腕の中にからめとった。
シェイドモンの触腕は不気味な感触だった。ゴムのように弾力があるようで、霞のように存在感が希薄だ。数本束ねて持っているはずなのに重量はほとんど無い。それでいて生物の生温かさが確かに感じられるのが生理的嫌悪感を助長した。
「影の生き物」と呼ぶに相応しい身体だった。
ウェンは悪寒と嘔気を飲み込みながら、その触腕を手繰り寄せシェイドモンを壁の中から引きずり出そうと試みた。
だが、触腕は薄く伸びるばかりでまるで手応えがない。
ウェンは手のなかで触腕が蠢くのを感じ、これ以上は埒が明かないと判断した。
「ゴツモン!」
「おうよ!」
掛け声と共にゴツモンが跳躍する。ゴツモンは大上段に手刀を振り上げ、ウェンの握った触腕目掛けて全体重を乗せて振り下ろした。
ゴツモンの一撃はシェイドモンの身体を用意に引き裂き、触腕をただの黒い影へと離断する。
「ゴツモン、どうだ?」
「手応えねぇぜ」
「だろうな」
ウェンの手元に残った触腕の欠片が黒い燐光となって消えていく。
だが、シェイドモンの瞳から愉悦を孕んだ視線を消し去ることはできない。
シェイドモンは身体そのものがこの部屋と同化している。
だが、相手はデジモンだ。その実体は必ず存在している。
そして、影の中に潜むものを白日の下に晒すには?
その答えはいつの時代も同じだ。
「羽澄!!使うぞ!」
ウェンが合図すると同時に羽澄がファンビーモンと共に目を覆う。
次の瞬間、ウェンの手から小さな電球のようなものが零れ落ちた。
そして、それが床に触れた刹那――――
部屋に白熱の光が叩き込まれた。
「ぎゃぁぁああああああああああああああああ」
それは絹すら裂きそうな絶叫だった。
ウェン達が用意していたのはカメラのストロボを改良した簡易版のフラッシュバン。
本物の閃光手榴弾には遠く及ばないが、通常のカメラのフラッシュの数十倍の閃光が一瞬のうちに部屋全体を染め上げた。シェイドモンは無数に増やしていた視界の一つ一つに太陽を直接叩きつけられたような激痛を浴びて叫び声をあげたのだ。
部屋の壁からシェイドモンの触腕が解けるように消えていき、唯一残った影こそが―――
「そこだ!!ゴツモン!!」
ウェンが示したのは部屋の片隅。
壁にへばりついた黒い影こそがシェイドモンの本体だ。
そこに向け、ゴツモンの放った石礫がめり込んだ。
「ぐあぁああああっ!!てめぇぇぇっぇらぁぁぁぁぁあああ!よくもぉぉぉおお!」
赤い瞳から血の涙を流しながらシェイドモンが吠える。
それをウェンは鼻で笑い、ゴツモンが挑発するように自分の尻を叩いた。
「んだよ、自分から正体を明かしてたんだ。弱点付かれて逆ギレしてんじゃねぇよ」
「そうだそうだ、影らしく地面這いつくばってろっての!」
「……………………」
砂嵐のような雑音が響いた。それはシェイドモンの放つ殺意を伴った吐息だった。
だが、それを受けてなおウェンは周囲の状況を冷静に把握していた。
作ってきたフラッシュバンはまだ予備があるが、決定打を打ち込む為にとっておきたい。ベストな選択肢はシェイドモンを挑発しておびき出し、屋外で決着をつけることだ。
ウェンはシェイドモンを不敵な顔で睨み、かかってこいと挑発する。
その時、シェイドモンの嗄れ声が響いた。
「………………お前の『絶望』を食らってやる」
「……あん?」
ウェンが眉間に皺を寄せたその時だった。
ウェンの背後で何かが急速に動いた。
ウェンが振り返るのと羽澄の腕がシェイドモンの触腕に捕まるのはほぼ同時だった。数本の触腕が羽澄の腕と足に絡みつき、そのまま彼女を窓へと投げ飛ばした。
ウェンの背筋が凍りついた。
時間が酷く引き伸ばされたような感覚。全てがスローモーションで動く中で必死に伸ばした自分の腕は羽澄の手を掴むことはできなかった。
羽澄が窓めがけて放り投げられる。段ボールで目張りされていた窓を羽澄は突き破り、ベランダの柵を越え、8階の宙空へと身体が投げ出される。
「……あ」
放物線を描いて急上昇した身体は支えとなるものを掴むことなくそのまま落下を初めていった。1秒にも満たない僅かな浮遊感。きっと人生最期の景色。羽澄の目が吸い寄せられたのは、たった一人の肉親だった。
羽澄と母の目が合う。
それはただの偶然だったのかもしれない。目張りしていた段ボールが吹き飛んで注意が向いたのかもしれない。だが、確かに羽澄は数年ぶりに母と目を合わせたのだ。
そして、その僅か一瞬の間に―――
目を、逸らされた。
羽澄の顔が苦渋に歪む。
「……………シャハッ」
シェイドモンの瞳が歓喜に揺れた。