気がつくと人じゃなかった。
その事実が驚くほど簡単に受け入れられて、精神性まで変容してしまったのか、と理解する。
これまでの人生ではありえない感覚に新鮮さを感じながら、私はどこかのっぺりとした視界で周囲を捉えた。
どうやらここは屋敷の中らしい。随分と荒廃しているが、西洋風のアンティークな家具が配置された直方体型のダイニングは、かつて格調高く整えられていた名残を感じさせる。
十数人で囲むのだろう大きな食卓は、引き裂かれたテーブルクロスと割れた食器に飾られている。
何はともあれ状況把握が先だろうか。
残念ながら、こういった事態にはあまり慣れていない。体の感覚がないことに幾らか動揺しているし、正しい選択を考える余裕はない。
暫定的な判断としてこの屋敷の中を見て回ることにした。
ダイニングから抜け出して、廊下の扉を端から順にすり抜けて中を確認していく。
廊下の窓から映る景色は鬱蒼とした森だ。
別荘か何かなのだろう。
さて、かなり大きなダイニングとは対照的に、廊下や玄関ホールは比較的小さく、サイズ感としては公民館程度だった。
部屋のあちこちに配置されたランプや燭台が破損しているため、屋敷の中はどこも薄暗い。なんというか、ひっそりとした雰囲気には私をどこか落ち着かせてくれる一体感がある。
玄関ホールにある階段が崩壊していたため、二階の探索は諦めることにした。キッチンや風呂場などは一階に揃っているし、恐らくは私室があるのだろうか。
そんなことを考えながらどうしたものかと散策していたのだが、物置の中に割れていない姿見を発見した。
これで自分でもよく分かっていない今の体をようやく理解することができる、そう思ったのだが。
輪郭すらあやふやな半透明の体に、怪しげな赤い眼光だけが一つふよふよと浮かんでいる。
試しに傍らの椅子を持ち上げてみると、映るのは独りでに浮かんだウッドチェア。私の体は空気に溶けたり僅かに出てきたりを繰り返している。
私はつまり幽霊、それも特徴から察するに、ポルターガイストと呼ばれる類のものらしかった。
頭の中身どころか頭丸ごとなかったのでは、確かに精神が揺れ動くことも難しそうである。
変な納得と共に、この体なら二階に浮かんで行けるのではないかと思い至り、実行してみた。
いざ意識してみれば何とも簡単なことだった。幽霊には上下という考えが通用しない。この体を縛っていたのは重力ではなく先入観だったらしい。
ところで考えたのだが、私はこの館の主人だったりするのだろうか。つい先程はこの洋館を初めて見るものと思っていたし、ダイニングで目覚めるまでの記憶はそれを裏付けていた。
だが、それではどうも腑に落ちない。幽霊というのは生きている頃の未練や恨みなどが残った、残滓に過ぎない存在のはずだ。
縁もゆかりもない洋館で目が覚めたということをこの視点から考えると、今保持している記憶こそが偽物なのではないだろうか。
仮にそうでなかったら、とても残念なことに、私は不法侵入者ということになる。
まさか幽霊に住居侵入罪が適用されるとは思っていないが、今まで罪を犯した覚えのない臆病な私には良心の呵責が――あまり感じられなかった。
幽霊になって生来の生真面目さともお別れということだろうか。何と言っても死んでしまったのだから、生来という言葉にミスマッチであるし、命とさえお別れを果たしているということなのだろうし。
そんな風に自己分析の真似事をしてみたが、二階の書斎で見つかった主人の日記を読んでいるうちに、私の希望的推測は間違いであることが分かった。
どうにもこの館の主人は存命らしいのだ。
元来この館は前々から目をつけられていた組織からの隠れ蓑であり、日付が進んでいくに連れて更なる逃亡を計画していたことが書かれている。
どうしても必要な資金のために悪意を持った金貸しにつけ込まれてしまったのが運の尽き、主人は大事なものだけを持って住居を転々としているとか。
恐らくここは家探しで荒らされていただけなのだ。
私は屋敷の中で血糊を見ていない。あまりにも徹底して破壊されている様子から誰かと誰かが争ったのだろうと思っていたが、あれは争った痕跡ではないらしい。
話の大筋は理解した。
それを踏まえて、全く他人――他魂? の私はこの屋敷を出ていくべきだろうか。
書斎を出てしばらく考えていると、突然玄関のドアがノックされた。
「お、お邪魔します」
歳は十五くらいだろう。
およそ現代的な格好ではない、この洋館にどことなく似合っている洋装に身を包み、少女が入ってきた。
ホールの埃被った絨毯に足跡が残る。
窓の外を見れば、どうやら雨が降っているようだ。
雨宿りに来たのだろう。
私が出ては怖がらせてしまうだろう、と考えていたのだが、どうやら人間をやめてしまったことで新たな本能が追加されていたらしい。
ポルターガイストで少女を驚かせたい。
悪戯で怖がらせてみたい。
そんな欲求がありもしない脳髄を満たしてしまったので、私は仕方なく一階へ降りることにした。
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