独裁者の午後の慟哭と独白。彼等が例外を憎む理由。
「■■■って意味。酷い呼び方よね。此処はこんなにも美しいのに」
東の丘の頂上に生える木が実をつける頃、母は決まって同じ話を私に聞かせた。
木の葉の網の目をくぐり抜けてきた陽光の欠片が私達を微睡みに誘う午後の丘。
どこを見つめるでもなく空に目を漂わせる母。その顔の上を踊る木漏れ日達。
加速と静止が偏在する少し痩せた横顔は、私を撫でる手を止めるとその代替行為のように口を開き始める。
せき止められた川の端から水が漏れていくようだと思っていた。
「此処は、好き?」
首肯、あるいは笑みを以て、その脈絡無き問いに私は返答する。それがいつも長い昔話の始まりを示す合図になった。
それから母がぽつぽつと吐き出す呼気が輪郭を帯びて、葉擦れの音に打ち勝っていく。
「此処に来るのは、違う……此処を作るのはね、とても大変だったの」
細かい表現や順序に差はあれど、話の大まかな流れは決まっていた。
母が大変な苦労をして、この丘の傍の小さな家を手に入れたこと。
私達の家が立っている丘。
丘から見下ろした先に広がる町並み。
市場を彩る青果と、彼等が照り返す陽光の眩しさ。
メインストリートから東に出てすぐにあるとても大きな櫟の木。
その下をくぐって更に東に進むと在る、見る度に違う蒼さを輝かせている入り江。
この場所全てが今の姿になるまで、母を含めた多くの人達のたくさんの努力があったこと。
そうして昔話は、母の苦労と経験を多分に含んだものから、創世神話めいた曖昧な言葉の羅列へと変わっていく。
「誰かが叫んだ。世界はより優れた形にできると」
「誰もが叫んだ。それを成す権利と義務が、自分たちにはあるのだと」
「誰しも疑わなかった。自分たちは、苦しまずに生きる権利を持つのだと」
「すべてのはじまり。最も強く叫んだ者達が、世界を変えてみせた。彼等は海の果てに楽園を築き上げた」
「初めは思い通りにはならなかった」
「あまりにも広くあまりにも深いその場所を照らすのに、私達の、彼らの持っていた太陽ではとても足りず、自由と平和を描き出すはずのキャンバスは無際限に翳る墓所となって希望を弔った」
静かで、それでいて気迫を帯びたトーンで母の口がまくしたてる。
音楽に例えるなら、このあたりはサビなのだろうな。私は他人事のように午後の一風景を俯瞰しながらそんな事を思っていた。
「でもね、太陽はあったのよ。深い深い底にこそ、この場所に必要な光があったの」
母の視線はここで決まって空へ向かう。
木漏れ日の発生源、この丘を包むすぺての暖かさの源へ。
「水底の記憶、清濁の歴史を宿す情報の化石達。それらを火に焚べ得た光と熱は…凄まじかった。ただただ、凄まじかった。その時私達はこう決めたの」
「『焚べ続けよう。燃え残すこと無く、全ての情報を。』」
「光と熱は楽園に遍く行き渡った。凍りついていた地から花々が芽吹き、空の光は全てが祝福だった」
「私達は漸く、全てを捨てて此処に来る事ができた。全ての苦しみと悲しみを……置いて……」
母の顔の上で、光の反射パターンが乱れる。
両の眼孔から涙滴が頬を下る。伴う表情は、安堵や歓喜のそれではない。
「此処に来る前ね」
このあたりで、信者に説く宗教家のような語り口から、いつもの母に戻って来る。
「私には、娘がいたの、あなたの……お姉ちゃんになるかな」
「あの子は来れなかった。だけど私、かけがえのない私の子ども、ずっと此処で覚えて、いようと」
断続的な発話。どうにか言葉を絞り出す母の姿は、喉に引っかかった異物に喘ぐようだった。
「……なくしたの。あの子についての、殆どを。かろうじて、そういう子がいたっていうことだけを覚えてた。此処では忘れる事なんて無いはずなのにね」
「私だけじゃなかった。此処に来た人は皆……大小の欠落を抱えていた。それで、何かとても嫌な予感がしたけれど、私達は調べたの。自分達が何を無くしたのか、知らないまま生き続けるのは怖かった。」
「かろうじて、わかったのは、此処に来る前の在り方に、なくしたモノたちが紐づいていて、此処に来る時に落としてしまったということ。木の枝に洋服を引っ掛けた時、紐が解けたり千切れたりするでしょう?その切れて落ちた紐が、私にとってあの子だった」
「認められなかった。私達の理論に『例外』があったなんて。不完全だと蔑んだあの在り方でしか、持てない記憶があったなんて」
「そのうち誰かが、そんな『例外』は存在しないって言い出した。それを証明しなければいけないと。なくしたものを取り戻すためか、あるいはなくしたものなど無いって確信するため」
母を構成する全てが深い後悔を纏っていた。
輝ける午後の丘、庇にしている木の影の中で母の輪郭はいっそう暗い影を帯び、ずっと心の奥に堆積し育んでしまった後悔の念を少しずつ少しずつ削ぎ落としては捨てているようだった。
一度だけ。
母の話に疑問を差し込んだことがあった。
「元いた場所に戻って、その子や、その子を知ってる人を探そうとはしなかったの?」
直後、母は広げた右手を振りかぶって、私の顔に勢いよくそれを叩きつけた。それがどういう意味を持つ行動なのかはわからなかったが、母が悲しんでいる事は理解できた。
「あなたは、あなたは最初から此処にいるから知らないだろうけどね、あそこは、あそこより恐ろしい場所なんか無いのよ。あの汚れた世界!常に死ぬことと殺されることに怯え続けなければいけない地獄より!」
「何もしてないのに私達から奪ってくるやつがいて、ずっとずっと互いに殺し合って、国一つまともに治められない連中が大手を振って生きているあそこに戻る?!馬鹿なことを言わないで!!」
母がどうして声を大きくしたのかはわからなかった。
私は母がいた場所を知らないから。
私は此処で生まれたから。
見開いた母の目はモグラの巣穴よりも暗く見え、私の困惑と恐怖を写し取ることは無かった。
『此処』の素晴らしさと、『あそこ』の恐ろしさ。
母の語りはその対比を経て、忘れてしまったかつての家族への後悔と懺悔に終わった。
その話をした日は決まって母は、母の胴よりも大きな皿にいっぱいのラザニアを作ってくれた。私の家のオーブンが必要以上に大きいのは、この大皿でラザニアを作るためなのだと思う。
覚えていないけれど、おそらく無くした娘の好物だったのだろうと母は言っていた。此処に持ち込めたのはレシピと皿だけだったのだろうと。
私もそれが好きだったので、母が繰り返す昔話を楽しみにすらしていた。
歯ごたえのある生地が積み重なり、その隙間を満たす2色のソース。
塩気と旨味が満ちた断層を前歯で裁断し、舌の上で一つになるそれら。
私は母のラザニアを口にする度に、内心で感謝を述べた。
ありがとう。
名も姿も知らぬ母の娘よ。
母と共に生きてくれてありがとう。
此処に来ないでくれてありがとう。
母の前から消え失せてくれてありがとう。
あなたがいないから私は生まれた。
あなたが消えたから私は生まれた。
あなたが生まれそして消えてくれたから、私はこうして平穏な春の午後に揺蕩うことができる。
「母さんが元いた場所に残った人達は、此処の事を知っているの?」
「知らない。知られないようにあらゆる手を尽くした……いや、知っているかもしれないけど、多分全く違う形で伝わっていると思う。木の実を見て、その種や、元々の幹の中がどんな形をしているかまではわからないでしょう?」
「此処はどんな場所だって伝わっているの?」
「多分、場所とすら思われていない。ただ、一度だけこう呼ばれているのを聞いたことがあるわ」
母の発した単語は聞き慣れないものだった。
呆けた私の顔を見て、母は苦笑しながらこう続けた。
「『共食い』っていう意味なんだって。酷い呼び方よね。此処はこんなにも美しいのに」
412回目の春に、母は私の前から姿を消した。
「もう私は、此処で欲しい幸せは全て味わった」
「上に分解希望者が出て、セクション変更の申請が漸く通ったの!だから、私は行くね。新しい生活を始めるの」
私はどうなるのかと問うた。
「え?あー……あなたは此処で生まれた省情報型自律人格だから、すぐに分解とかにはならないと思う。取り扱いが私の個人保有枠から公共枠になるから、一括整理の対象になるまでは此処で暮らし続ければいいんじゃない?」
「じゃあね。貴方と過ごせて楽しかった」
東の丘の木がまた実をつける。
3824回目の春が来た。
私は2人の母と3人の父、2人の姉に愛され、全て彼らを見送った。
私を上位セクションに連れ出そうと試みてくれた場合もあったが、いずれも計算資源の逼迫が原因で却下され、彼等は身一つで此処を去っていった。
春の風は柔らかい。
此処よりも美しく優しい場所が存在するのか疑問に思いながら、私は次の家族を待ち続けている。