誰にもあげたくないぐらいに恋焦がれてる姉がいる
そんな姉がある日、男を連れてきた
1
兄や妹、もしくは姉や弟が居る人というのは意外と多いらしい。
人数構成の割合で見ても一人っ子は20%ほどぐらいしかいないというし、自分の身を顧みてもその五分の一に滑り込むことはなかった。
河北海斗には1人よく出来た姉が居る。
ただ、世間一般のそれとは違って少し特別な要素があった。
誕生日が俺と同じなのだ。
それもまた、年齢違いで偶然誕生日が同じだとかそういう訳じゃない。
そうなったが故に必然的に、俺たちは二卵性の双子であったが為に、誕生日が同じということだ。
双子であることを珍しがられることはよくあったし、なんとなく『いいよね、そういうの』と言われるけれど、自分としてはあまりそうは思わない。
そのメリットを当たり前として享受しているからこそ、俺が気づけないというのもあるかもしれないけれど、嫌なことを挙げようとすれば良いことより挙げられるのだから。
良いことをあげるとすれば、その双子の姉が河北 葵であることだろう。
学業も優秀、運動神経も抜群。
茶色がかかった黒髪は昔と違って肩につくぐらいでバッサリ切られてしまったけれども、その程度で損なわれる美貌ではなかった。
俺としては勿体無いなと思っていたのだけれども、邪魔だし、たまに気分転換で結んで遊べる程度あれば良いとは姉の言葉である。
身長はそこまで高くなく小柄、160センチあるという言葉は見栄でありギリギリ159センチに留まっているということを俺は知っている。
もしかしたら性格の面で欠点があるんじゃない?と思われるかもしれない。
確かに、姉の裏面を知っている人は俺が知っている限りでは指で数えるほどだし、家族親族を抜きで姉の友人でそのことを知っているのは果たしているのだろうか?
姉は力の入れどころと抜きどころをちゃんとわかってる。だからこそONとOFFの切り替えがはっきりしているし、悪く言えば学校生活と家での落差が激しい。
だからと言って、少なくとも人に害のある性質とも言えない。今やれることは今やらなければならないみたいな方向性から、明日やれることは明日にやれば良いみたいな真逆に振れるだけ。
少なくとも俺は、姉から他人の悪口を聞いたことがない。
そう考えると姉と真面目で温厚というベースはどこまで行っても変わらないのだから、やっぱり性格で言っても減点されることはないだろう。
立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花と人の目を惹きつけて離さないのだから、弟としてはそんな姉を持って鼻高々である。
まあ、そんな姉と違って俺は何者でもないのだけれども、実際のところ虎の威を借る狐でしかないのだけれども。
俺に優しく、他人に自慢できるほど可愛い姉。
まったく俺には勿体無いぐらい、手放せるなら手放したい。いくらそう思えどもそんなことできないのだから、やっぱり呪いの装備と言って良いのかもしれない。
それが俺が思いつく双子の最大のデメリットだ。
俺と姉が結ばれることはあり得ない、絶対に許されない。
どれだけ好きだろうとも、どれだけ焦がれようとも、認められることはない。
だから、俺は他人からあんな姉がいて羨ましいよという度に、そいつの好感度が少しだけ下がる。
勝手なことを言うなよ、と。
お前がそう言えるのは、お前が俺の身にたっていないだけなのだから。
こちらからしてみれば、煽りにしか受け取れない。
あんな姉がいて羨ましいよ、の後には(まあ、お前と結ばれることはないんだけどな)と暗黙の追記があるに違いないと被害妄想すら抱いている。
まったく本当に、双子じゃなければよかった。
昔、そんなことを過去に姉の面と向かって言ったら、珍しく思いっきりビンタされたのだけれども、今でもつくづくそう思わざるを得ない。
2
クラスメイトの友人と寄り道をして、バーガー店でシェイクだけを頼んで駄弁って時間を潰して、そうして家にゆっくり帰って来たのだから、姉が先に帰ってるのは当然予想がついたけれども、その横に綺麗に並べられたローファーを見てなんだか無性に胸騒ぎがした。
もちろん、姉が女友達を連れ込んでいる可能性はあったけれども、安易にその考えに飛び付けるほど甘くもなかった。
というか先ほど友人と会話をしていた内容が色恋沙汰だったもんだから、速やかにその結論に至った。
もしかして、姉の周りに男の影が忍び寄ってはいないかと。
それでも、どこまで行っても姉は姉だし、俺は弟だ。
姉が誰かを好きになることは当然あるし、弟であるならばそれを祝福するべきなのが正しいとはわかっているけれども、だからといって俺が素直にそのルールに乗る気は無かった。
出来るだけ嫌がらせして、他人の恋路を妨害をするのがモットーだ。罰として馬に蹴り殺されるより先に、蹴落としてやらねばならぬ。
まあそういうモットーを密かに秘めていたとは言え、今まで姉の周りに男の姿は影も形もなかったのだけれども。
どれだけ言い寄られようとも鉄壁ではあったのだが、だからと言って今回もそうとは限らない。蟻の穴から堤は崩れるというし、念には念を入れるべきだろう。
一階のリビングを見たけれども誰もいないのを足早に確認し、急いで二階に上がる。俺の部屋の隣に姉の部屋があり、今その扉は閉められていた。
中から何の物音も聞こえない。ノックもなしにその扉を開けることに躊躇もなかった。
扉を開けて真っ先に目に入ったのはベッドに押し倒されている姉の姿と、その上に覆い被さろうとしている奴だった。
見覚えはなかった。誰だかは知らないけれど、俺と同じ制服を着ているからきっと同じ高校の誰かだろう。
俺がノックもなしに扉を開けたというのに、2人だけの世界に入り込んで俺が来たことに気づく素振りすら見せない。
ただ俺だけがこの場で除け者だった。
その状況を理解した瞬間、頭の中が真っ白になってしまって、もうどうにも動けなくなってしまった。
開けなければよかったなとすら後悔すらあった。あんな邪魔をしてやると意気込んでいたのに、いざ目の当たりにすると予想以上に甚大なダメージを精神に加えられていた。
何事もなければその金縛りに縫い止められたまま、姉さんと俺の知らない誰かがキスをするのを眺めていただろう。
僕は思考停止したまま、その場から動けなかったし、男子生徒は俺が部屋の扉を開けたことにすら気づかないのだから。
だからこの場を打開出来るのは、僕の姉さん以外にほかは誰もいなかった。
その彼女は部屋の扉が開いたことにようやく気づいて、ただちらっとこちらに視線を向けただけで。
そこにはなんの感情もこもっていなかった。
想い人と結ばれる喜びも、俺に見られていることに対する動揺も恥じらいも、何にも写していないように俺には見えた。
でも、それだけで十分だった。
その瞬間、俺と姉さんの視線がぶつかったということなのだから。彼女が俺を認識した、それさえ分かりさえすれば勝手に口が動き始めていた。
限りなく引き延ばされた時間、体感だけならずっと長く感じていたけれども、終わって仕舞えばほんの1秒にも満たない出来事なのだろう。
扉を開けたのがキスをする前なのか、した後なのかはわからないけれど、少なくとも俺の目の前ではそれ以上先に進むことはなかったのだから。
「お取り込み中悪いんだけど、あんた誰?」
思ってたより棘の強い言葉が出たことに我ながら驚いたし、俺が驚きより男子生徒のそれの方が大きかった。
背後に置かれたきゅうりに気づいてびっくりした猫のように、ピョーンと飛び上がりガバッとこっちを振り返る。
彼の顔が赤くなったり青くなったり、信号機のようにコロコロ顔色が変わるのを見て、なんとなく愉快に思えたけれども、その感情もすぐ不快一色に塗り尽くされてしまう。
彼はモゴモゴと弁明を口にするけれども、全く不明瞭で聞き取れない。
こんな奴がいいのかよと舌打ちしそうになるけれども、必死に作り笑いをキープ。
「……大久保くん、今日は帰って」
あまりに見かねたのか、姉もようやくのっそりと体を起こして、大久保何某の背中を押した。
それに突き動かされるように、ちゃぶ台の側に転がった鞄を引っ掴んで、俺の脇をすり抜けてそのまま逃げ出して行った。
あまりの逃げっぷりの良さに思わず呆然としてしまう。そんなことあるのか、帰ってと言われてそんな振る舞いをすることあるのか。
もしかしたらそんなに怖い顔をしていたのだろうかと思い、頬を揉みながら姉に向き直る。
「……姉さん、見る目がなさすぎるだろ」
「海斗は知らないかも知らないけれどあの大久保くん、女子の中では物凄い人気なのよ」
「あの大久保くんがねえ、俺にはとても人気があるようには思えないけれど」
「それは彼の底を見ちゃったからでしょ。しかも、あんなに怖がらせたのは海斗のくせに。まあ、確かにああいうふうになるとは思わなかったけれど、私を押し倒してくる勇気はちゃんとあるくせにね」
嫌なことを思い出させる。
チリっと痛みが走る。
「姉さん、本当にあいつのこと好きなの?」
「海斗は私が好きでもない相手のことを部屋に連れ込むと思う?」
「知らねえよ」
「私に教えてよ、海斗が考えてること」
私の事を応援してくれる?
絶対頷けない言葉をこっちの気も知らずに投げつけて来るのだから、本当に酷いやつ。
「少なくとも付き合いたい相手があいつだって言うんなら、俺は絶対に反対するよ」
きっと、誰だろうとそれは変わらない。
それが大久保くんだろうと、物語に出てくるような王子様だろうと、きっと俺は邪魔をするんだろう。
それを見透かしたのかベッドにまたコロリと転がって、彼女は可愛いものを見たかのようにくすりと小さな笑いをこぼした。
「い・じ・わ・る・ね」
どっちがだよ。
それはこっちの台詞だよ。
姉の部屋を出て数歩で俺の部屋に戻り、そのままベッドに飛び込んだ。
ああ、まったく。
俺と姉が双子じゃなければよかったのに。
2
まったく本当に、双子じゃなければよかった。
その言葉を俺が初めて言ったのは梅雨の時期、よく雨が降っていた頃だったと言う事を良く覚えている。
その時の衝撃ときたら、俺はジーンと痺れる頬を抑えてぼんやりと立ちすくんでいたし、殴り逃げとばかりに姉は部屋に去っていたし、両親もその場面を見ていたと言うのに姉を叱る素振りは一切見せずに、ただ俺の肩をポンと叩いて、お前が悪いよと言うばかりだった。
両親は俺と姉の喧嘩を仲介する気もさらさらなく、俺は仕方なく1人で姉の部屋に向かって謝ることにした。
姉の部屋に着けばベッドの上にはこんもりと布団が盛り上がっており、冬眠中の熊の如く姉はその中に引きこもっているに違いなかった。
昔から姉にはこういう殻に閉じこもる癖があった。それがいつから始まったのかわからないけれども、宥めるためにベッドに腰掛けて一緒に話すのが慣習だった。
「……痛くなかった?」
俺が隣にやって来たことに気づいたのか、そんなくぐもった声が聞こえて来て思わず笑う。
まず心配から入るぐらいなら、ビンタするのも躊躇してくれよと思うけれども、別に叩かれた程度で姉の好感度が変わるわけでもないし、心配してくれた事を踏まえれば寧ろプラスなのだからまったくどうしようもない。
「気にしなくて良いよ、ノーダメージだし」
「それなら良いけど……でも、あんなこと言わないでよ海斗」
ベッドから手が伸びて来て何かを探して彷徨っている。ため息を吐いてその手を握り締めれば、それが正解だったのかぎゅっと握り返された。
「ねえ、何であんな酷いこと言ったの?」
「それは……」
言うか言うまいかほんの少しの逡巡があったけれども、俺は正直に言う事を選んだ。
「俺はね、どこまで行っても姉さんの付属品扱いなんだなぁって思ってさ」
小学校ぐらいの頃なら双子って珍しいねって言われる程度で平穏な日々だった。
双子と言っても姉弟であったから差はあって然るべきだったし、それが他学年ではなく同学年に居たというだけの話。
まあ、あの頃から姉は人目を引いていたのだけれども。
明確な転機はあの受験だった。みんなが行く公立ではなく、中高一貫の私立高校に舵を切ったのが始まりだった。
その選択を後悔しているかと言われたら、俺はどう答えるべきだろうか。
ああ、双子じゃなければよかったのにと思うきっかけは、俺たちが同じ場所に進まなければ生まれなかったものなのだから。
それでもあの日、姉さんから私は中学を受験したいという話を聞いた時点で、必然的に俺も行こうと思ったのだ。
その時、自分が抱いていた気持ちがなんなのかは、今となってはもう思い出すことは出来ないけれども、大体どんなことを考えていたのかは推察が付く。
「負けたくなくて、置いていかれなくて、死に物狂いで勉強して奇跡的に合格してさ、一安心してさ」
茨の道ではあったけれども。
世間一般では名門と呼ばれる場所に記念受験にならなかったのは、きっとそこで人生の運を全部使いつくしたお陰に違いなかった。俺はかろうじで引っかかることができてしまった。
「春に中学に入学してさ、俺もここに入学できるぐらい頑張ったんだぞって自惚れてたんだよ。でもみんな受かってるんだから、そこは最低ラインの基準でしかなかった。俺は毎日勉強についていくだけで精一杯だよ、でも姉さんは初めから違うだろ?」
青息吐息だった俺と違って姉は余裕綽々といった様子で、入学式の日に新入生代表として挨拶をかましていた。
つまりそれぐらい入試の時の成績が良かったと言うことで。それを他の新入生と一緒に下で眺めながら『ああ、俺の姉さんはやっぱり凄いんだな』と感慨を抱くばかりで。
姉の周りには常に人が集まる。
当然だ、成績も良く人当たりも良い、陽だまりみたいな場所に誰もが引き寄せられるに決まってる。
対して俺は俺で成績も中の下であったから特段特徴もないし、学年の人気者である河北香織の双子の弟という付加情報がなければそこら辺のモブでしかない。
付加情報がついたところであんま大差はない、精々レアリティがコモンからアンコモンに格上げされた程度だ。
それなら寧ろ、そんな情報ない方が良かった。
「姉さんが凄すぎてさ、必然的に比較対象に並べられるんだよ。あまりに強すぎて勝負にならないだろ? 姉さんが本体で俺は搾りかす、それならそう比較されるぐらいなら双子じゃなければ良かったのにと思ってさ」
「……馬鹿じゃないの?」
布団に片手以外包まれていたはずが、気が付けば姉の顔がひょっこりと飛び出し、底冷えする冷たい目線で見つめられていた。
思わずひゅっと息を呑む。
「搾りかすってさ、誰かにそう言われたの?」
フルフルと首を横に振ると、それなら良かったと顔がパッと明るくなったのを見て、ほっと胸を撫で下ろした。
俺の様子にまったく気を止めないで、姉は言葉を繋げる。
「私に海斗がいなかったらこんなに頑張ってないの。適当に暮らして、適当に勉強して、適当に頑張ればいい。そうしなかったのは海斗がいるから、頑張れる要素があったから」
握られた手が痛いぐらいに握りしめられるけれども、俺は甘んじてその痛みを受け入れていた。
「私はね、海斗の理想でありたいの。ああ、この人は凄いな。この人が俺の姉で良かったって思っていて欲しいから」
そんなことを姉から聞くのは初めてだった。
別に俺が居ようが居まいが変わらないと思っていたし、彼女の言葉も表面上にものでしかなかったかもしれないけれど、もしそうだったらいいなと思えるぐらいには魅力的な響きがあったから。
「海斗の事を出涸らしなんて言う奴が言ったやつはぶっ飛ばす、海斗なしじゃ私は成り立たないの」
私達は二人で一人よ。
ね、私は海斗の理想の姉をやれてる?
3
懐かしい夢を見た。
高校にエスカレーター式で上がって一年が経った今となっては、遠い日の思い出。
寝ぼけたまなこを擦ってスマホを見れば、もう11時過ぎを指している。
今日は土日である、特に部活の活動も入ってなかったから犠牲になるのは自由時間とそれに一食分の食事ぐらい。
だってもう朝ごはんを通り過ぎて昼飯の時間。
昼ごはんの算段をぼんやりと立て始める。きっと姉は多分部活に出ているだろうから、一人分の昼ごはんを作ればいい。
もう少し惰眠を貪ってからカップラーメンでも適当に作ろうと寝返りを打ったところで、思わず「ひっ」と声を上げてガバリと体を起こした。
姉がベッドの横に立って息を殺して、身じろぎもせずにじっと俺のことを見下ろしていたのだから、驚くのも無理はないだろう。
「な、何か用?」
「……特に何も」
何のようもないのなら俺の心臓に悪いことをするなよと思ったけれども、ぐっと言葉を噛み殺す。
というか、いつからそこにいたんだよ。
勤めて笑顔を保ちつつ、姉の服装が他所行きのカジュアルかつオシャレな服装になっていることにふと気づいた。
白いブラウスにデニムを履いて、片手には唾付き帽子を掴んでいる。
「これからどっか出かける予定でもあるの?」
「それより先にいうことがあるんじゃない?」
「……あぁ、うん。今日も可愛いと思うよ」
「そんなことは言われなくてもわかってるの。そうじゃなくてさ、この服装を見たらこれから私がデートに行くんじゃないかなって海斗は思わないの?」
冗談めかして目を逸らそうとしていた事から、無理やり方向転換をかまして来た。まあ予定を最初に聞いたのは俺だから、どう考えても自分が悪いのだけれども。
それならそれで、変な鎌掛けをせずにストレートに答えてくれれば良かったのに。
「それじゃ、これからデートにでも行くの?」
「海斗はどう思う?」
「知らねーよそんなの、姉さんの予定が何だろうと俺はどうでもいいよ」
投げやりな回答に姉はやれやれと肩をすくめて首を振った。
「デートに行かないでって可愛く引き留めてくれれば、額にキスでもしてあげたのに」
「ガキじゃねーんだから、そんなのご褒美にもならんわ」
「あ、そう。とりあえず時間がないから準備しなさい」
腕につけた時計を軽く指で叩いて、姉は何やら不思議なことを言った。
「これから出かける用事は昨日の彼じゃなくて海斗とよ」
「へ、は? 何? 俺もしかして何か予定があることを忘れてた?」
「昨日の夜、私が決めたから海斗は何も知らないわよ」
何じゃそりゃ、という俺の呟きを無視して姉はスタスタと部屋から出ていった。30分で準備して降りて来なさいという言葉を最後に吐き捨てて。
4
適当に身支度を整えて、適当にジーパンをつっかけて、Tシャツの上にシャツを羽織って準備を済ませれば、姉に「30点」と謎の採点を下されたけれども別に知ったこっちゃない。
そのまま姉に連れられるまま、外に出て電車に乗ったけれどもまったくどこに行くのか検討もつかないという状況だった。
少なくともいく方向から計算すると、東京方面に買い物に出かけるとか、学校とかショッピングモールに買い物を行くとか、そういう様子ではなさそうではある。
都合よく開いていた2人分の席に並んで腰掛けて、何を会話するわけでもなく俺たちは電車に揺られていた。
「こうやって2人で出かけるのもだいぶ久しぶりじゃない?」
「まあ、ね」
家族ぐるみで出かけることはあったけれども、二人だけというのは確かに珍しい。
パッと思い出すのは小学校の頃、夏休みにプールの授業があった時の思い出。それより近い思い出はいくらでもあった気がするけれど、もう6月になり夏も近いから、真っ先に思い出すのがそれだった。
「海斗はこれからどこに行くのか聞かないの?」
「聞いたところで、何も変わらないだろ? 行きたくないって反対したところで行き先は変わらないんだから。まあでも、どうせ今日は暇だったから何処でもいいってのが一番大きいかな」
それほど遠い場所ではないだろうという予想であったから、俺はあっけらかんと構えていた。久しぶりに一緒に出かけようと誘われて多少なりとも浮かれていたのもある。
少なくとも今日遊ぶ相手として選ばれたのは俺なのだ、何処ぞの馬の骨ではなく。
最終的に負けが確定していようとも、それだけは確かな事実なのが嬉しかった。
「そう、目的地を聞いたら驚くかなーって思ったんだけれど」
「そんな俺が驚くような場所の行く気か?」
「うん、熱海」
「熱海!?」
驚きのあまりガタリと席から立ち上がる。周りから好奇の視線を向けられて、すぐさま座るも動揺を抑えきれなかった。
「海に行きたいなら由比ヶ浜とか逗子でいいだろ、そもそもまだ海開きもまだなのに! っていうか熱海で何するっていうんだよ!?」
「熱海じゃなきゃダメだから」
「その理由を教えてくれって言ってんの!」
「海斗はおぼえてないの?」
目を合わせようとしなかった姉が不意にこちらに向き直ってきて、先ほどの慌てようもスッと引いていった。
もしかして、本当に何かあるのだろうか。
俺たちが熱海に行かなきゃいけない理由が。
けれども、そんなもん胸の内をいくら探したって見つかるはずがなかった。
「熱海なんて今まで行ったことないし、思い出なんてかけらも無い。強いていうなら終点が熱海行きの電車があるなーってことぐらいだっつーの。あんなの俺からしてみれば地の果てだよ地の果て、この世の流刑地だね」
「……ほんとに覚えてないんだ」
「俺が覚えてないだけ? 本当は家族みんなで行ってたりする?」
姉は首を横に振って言った。
「私も海斗も、熱海になんて行ったことない。だからこそ、これからいくの」
5
「なんか……海臭くね?」
「赤潮ね」
冷静にハンカチで口元を押さえながら、姉はそう言った。確かに言葉の通り海は真っ赤に染まっている。
海開きしてないというのもあるし、臭いがあるというのも理由としてはあるのだろう。昼下がりの砂浜は散歩する人がポツポツいるけれども随分と閑散としていた。
駅から砂浜までの距離は徒歩で行ける距離なのは良かったけれども、海にきたところで全くやることがない。
なんか臭う潮風に纏わりつかれながら、ぼんやりと二人で立ち尽くすしかやることがない。
これだけで片道1500円越え、言葉にすればずいぶん安く思えるけれど来るだけで二時間ぐらいもかかってるんだから全く割に合わない。
とにかく海はもうどうでもよくて、さっさと昼飯を食べて帰りたかった。姉に連れられて海までやって来たけれど、果たして何の意味があったのか、俺には何もわからない。
「用が済んだら昼飯でも食べて帰ろう。わざわざ熱海を選んだから何処か食べに行きたい場所でもある?」
「まだ何も終わってないよ」
そういうなり姉はゆっくりと砂浜と腰を下ろして、被った帽子の唾を後ろから前にずらした。
「私の用が終わるまであと五時間ぐらいは掛かるから」
「……五時間って、日が暮れるよ」
その時間までここに居たところで何をするというのか。げんなりしそうになるのを押さえ、動こうとしない姉の肩を揺する。
「とりあえず飯を食べよう、それからどうするか考えよう」
「ご飯食べたら用が終わるまでここに残ってくれる?」
めんどくせえ、舌打ちしそうになるのを必死に堪える。
「その用次第では考えるよ、何がしたいのかをまず教えてくれなきゃ考えようがないだろ」
「秘密」
そうやって、姉はまた何も教えてくれない。
昨日の彼との関係も、俺をすっかり忘れてしまった何かも、ここに来た目的も、彼女は全部知っているというのに、俺には何にも教えてくれない。
なら俺は何だというのだ。双子という関係性は何の特別性もないというのなら、ただ単に不可を突きつけてくるための障害でしかないじゃないか。
「そうですか、そうですか」
何となく全部吹っ切れたような気がした。ジェンガの抜いちゃいけない部分を抜いてしまったかのように、全部がガラガラと崩れていってしまった。
「姉さんは結局、俺には何にも教えてくれないんだな」
「……海斗、なんか怒ってる?」
「怒ってなんかない、訳がわからないだけだよ。何でこんな場所に俺を連れてくるんだよ、昨日のあいつを連れていけばいいだろ」
眩しいものを見るように、姉は俺のことを見上げたけれども、結局何も言わないで首を横に振るだけだった。
「適当に飯食って俺は帰るよ、どうせ海を見に来ただけなんだろ?」
「……うん、でも海斗と一緒に観に来たかったの」
「そういう台詞は俺じゃなくて彼氏に言ってあげると喜ばれるよ」
姉を置いて、俺は砂浜から上がって歩道へ出た。そこで一度だけ振り返ると、さっきと変わらない位置で小さく体育座りをしているのが見えた。
後ろ髪を引かれる思いを振り切って、俺は駅の方に向かって歩き始めた。
6
俺は何をしているのだろうかと、はたと足を止めた。砂浜を離れて、ご飯も食べずに熱海の町中をうろうろと歩き回っているなんて。
ぐーっと飯に急かすように腹がなったけれども、適当に店に入る気もなく再び歩き始めた。
きっと姉はまだ、あそこに座っているだろうから。つまりはまだ何も食べていないだろうから、彼女に先んじて何かを食べるなんて許されるはずがない。
飯を食べないということはつまり、まだ熱海に残るということで。
またあそこに戻らなきゃいけないということを、ちゃんとわかっていた。適当に駅近くにあるマックで一人腹を膨らませて姉を置いて家に帰るなんて正気の沙汰ではない。
問題はこれからどうするかということだった。
今すぐ戻って時間まで残る保証をするから飯を食いに行こうというのが一番手っ取り早いけれども、姉の要求を全部飲むのも癪だから。
それはあんまりよろしくない、少なくとも何らかの折衷案を出したいところ。
例えば、姉がどういう目的でここにやって来たのかが分かれば、連れて来たのが俺である理由が分かればいい。
その用が死ぬほどくだらないことであれば、さっさと帰ることが出来る。本当に何もなく、ただドラマとかに影響されてここにやって来たかったとかなら、もうくだらなすぎてさっさと帰ろうと切って捨てられるのだけれども。
わからない、全く心当たりがなかった。
おぼえてないの?と電車の中で尋ねられたけれども、こんなふうに1人トボトボ町中を歩いても何一つ見覚えがない。
だからやっぱり彼女の言葉の通り、俺はここに来たことがないのだろう。それなら何故、『来たことがないからこそ来る』に繋がるのかが分からない。
思考の堂々巡り、その途中で不意に着信音が割って入った。慌ててスマホを取り出して思わずため息をつく。
「もしもし母さん、なんか用?」
『もしもし、海斗? ちょっとお願いがあるんだけど、今海斗も葵も家から出てるでしょ? それなら帰りにお使いを頼みたいのよ』
「お使いって言われても、俺も姉さんも帰るのに時間がかかると思うよ」
『ああ、葵がどこに行ったのか知ってるの? 先に掛けたけど電話が繋がらなくて』
第二候補かよ、俺は。
ぼやきそうになるのを抑えて、母さんにどう答えたもんかと悩む。俺と姉さんが一緒に熱海に行ってることを素直に伝えたほうがいいだろうか?
何となく、めんどくさいことになりそうな気がした。一緒にここに来てることを伝えるにしても、俺からではなく姉さんから伝えて貰えばいいだろう。
「俺は今熱海に来てるから、戻るのは遅くなるけど少なくとも今日中には帰る」
嘘は言わずに情報だけ絞って伝えればいい、冷静に考えれば俺も姉さんも帰るのが遅くなるって言ってしまったから、冷静に考えれば二人一緒にいるんじゃないかと推察されるかもしれないけれど、俺は今熱海に来てると伝えれば、姉から話が逸れるに違いなかった。
果たして、その予想はズバリ的中した。
『熱海って今の時期に行っても何も、温泉ぐらいしかないんじゃない?』
「そ、物は試しで来て見たけれど海開きもまだだし赤潮で臭いし、こんな場所にきても一人だと何もやることなさそうだよ」
『そりゃまあ、海斗に彼女がいたら話は別なんだろうけどね』
「うるさいよ、母さん」
マイク越しに母さんの笑い声が聞こえて、思わず通話を切ろうとしたけれども、次の言葉を聞いて俺は思わず足を止めた。
『でも、熱海ねぇ。もうずいぶん懐かしいよ』
「……懐かしい? 俺って熱海に来たことあったっけ?」
『覚えてないの? 海斗と葵が小学生の頃、みんなで家族旅行で行こうとしてねえ』
小学生の頃、家族旅行。
その二つのフレーズだけで記憶に一気に光が差し込んでくるきた。
くるりと天と地がひっくり返るような感覚がする。母親のその一言で忘れていた記憶が瞬く間に刷り直されていく。
『でも、葵が直前に――』
7
布団にくるまってぐずっているの姉を見て、俺は途方に暮れていた。
原因は姉にあったけれども、引き金を引いたのは自分だったから多少の負い目もあったからこそ、居た堪れない気持ちになってしまう。
明日に家族旅行が差し迫ったというのに、こういう時に限って姉が調子を崩して、なんか様子がおかしいなと気づいたのは俺だけだったから。
いつもより顔があからんで見えたし、気分がハイになりすぎていたのだ。父さんも母さんもほよ姉の姿を見て、明日が楽しみすぎて浮かれていると思っていたけれども、いつも二人でいたからこそ自分だけが異常に気づいてしまった。
だから軽率に忠告してしまったのだ。「姉ちゃん、熱出てるんじゃないかな」って、両親に向かって。
その告げ口がきっかけで彼女はあっさりと確保され、体温計を脇に差し込まれたのちに御用となった。
明日になれば元気になっているなんて浅い希望を抱くわけでもなく、一人欠けるなら必然的に明日の熱海旅行も中止にするかと親に切り出されて、姉は逆にキレた。
私が全部悪いみたいになるじゃん、と。
まあ実際そうだけれども、みんなは仕方ないと納得できるし、そう言われたところで姉が納得できないのもまた事実だった。
じゃあどうしろというのだと、仕方ないことだろうと代替案を尋ねれば、姉は「私はお婆ちゃん家に行くから」と宣い始めた。
まあ確かに歩いて行ける距離にはあるし、今からでもお婆ちゃんに子守りを任せれば、他は一泊旅行に行くことはできなくもないだろう。
親は渋っていたけれども、目を離したすきに姉から直接話を取り付けて、なし崩しに姉を残して三人で熱海行きという流れに乗っていた。
もういつもなら寝ている時間ではあったけれども、申し訳ない気持ちに駆られて俺はまだ姉の部屋にいた。
冷房の動作する音だけが響く、何をいうでもなくただ二人きりの時間。
「……姉ちゃんごめん」
結局絞り出せたのはそんな言葉だけで、姉は鼻水を啜りながら「なんで海斗が謝るのよ」とくぐもった声が布団越しに帰って来た。
「あんたはなんも悪いことしてない。私も薄々気づいてたし、体調悪いことを隠して旅行に行こうとしてたんだから。でも、そうしてたらきっとみんなに迷惑かけてたってのもわかるの」
「でもさ、俺は姉ちゃんに迷惑かけられても一緒に海に行きたかったよ」
「いいなー海、一泊二日……かき氷に焼きそば、美味しいものもたくさんあるんだろうな」
ゆらゆらとベッドの上で掛け布団が揺れている。
ぜんぜん未練たらたらじゃんと思いつつ、俺は口を開いた。
「俺もさ、家に残るよ」
「何? 私を哀れでお情けでも掛けてあげようってつもり? そんなことされたって喜ぶわけないし、一緒に行かないって言ったところで、親に普通に連れてかれるわよ」
俺の言葉に食いついたのか、姉が布団からのっそりと顔を突き出して来た。
「言うだけタダだと思ってるなら、どうせ行っても連れてかれるとわかっててそんな言葉を吐いてるなら迷わずぶっ飛ばすけど、私が納得できる理由をちゃんと説明できるよね?」
熱に浮かされて視線も定まっていないけれども、確かに殴りかかってくるだけの気力はありそうに見えた。
まあ、むざむざと殴られる気は無いのだけれども。それに、少なくとも口だけでそんなことを言い出したつもりはなかった。
「結局さ、俺が海に行きたかったのはさ。同じぐらい姉ちゃんも楽しみにしてたって知ってたからなんだよ」
この土日の旅行を楽しみにしてたのは間違いなく、俺より姉の方だった。
わざわざ新しい水着を母親と二人で買いに行くまでもして、学校用のでいいじゃんと言われていたけれども、買ってもらうために家事の手伝いをして無理やりねじ伏せていたのだから。
俺は姉が海に行くまでを指折り数えて楽しみにしていたのをちゃんと見ていたし、だからこそ、明日の旅行を楽しみにしていた。
「姉ちゃんも一緒に海に行けなかったら意味ないよ。俺はさ、結局姉ちゃんが楽しんでいるところを見たかったんだから」
「……」
「それにさ、今回海に行くのをあれだけ楽しみにしてたのってさ、これが初めてだからだろ?」
泳げはする。学校のプールの授業もあったし、姉も自分もスイミングスクールに通っているのだから。
それでも、本物の海に行くのはこれが初めてだった。海が無い県では無いけれども、不思議と海には縁がなかった。
「これからさ、俺たちは海に行く機会は何度でもあると思う。でも初めて海に行くって言う体験は一回しかできないし、思い出も一回しか残せないんだよ」
「俺が明日さ、姉ちゃんをここに置いていったらさ。初めて海に行った時には、隣に姉ちゃんがいなかったって思い出が残っちゃうんだよ」
姉は俺の顔をじっと見つめて、無言で話を聞いていた。どれだけ真面目に受け取られてるかは全く読み取れなかったけれども、初めから最後まで俺はずっと本当に思っていたことしか言葉にしていない。
それが伝わればいい、そう思いながら必死に口を動かしていた。
「姉ちゃんもそのうち行く時が来る。でもその時に海に行けたとしても、海に初めて来た私だけが浮かれていたとかそういう悲しい思い出になっちゃうだろ」
「……海に行った程度で浮かれないわよ」
「わざわざ水着を準備をしてたのに……冗談だよ」
拳を振り上げようとしてるのを見て、慌てて俺は話を元に戻した。
「もしかしたら、今度姉ちゃんが海に行った時には隣に俺はいないかもしれない。それは少しだけ、悲しいんだ」
「……何で?」
どっちのことだろうと一瞬迷ったけれども、姉ならばずっと俺が隣にいると思い込んでいてもおかしくなさそうだし、きっと後者の方だろう。
「明日海に行けるのが楽しみだったのはさ、俺と姉ちゃんで共通の思い出が残せると思ったからだよ。一人だけ俺が明日行っても、別の日に俺を置いて姉ちゃんが行ったとしても、それじゃダメなんだ」
「初めて海に行った時に俺も隣にいて、俺も姉ちゃんもそれが初めてだった。そうありたいなって思ったから」
「だから明日は残りたいんだ、まだどうすればいいのかわからないけれども」
「もしそうできたらさ、代わりに今度二人で海に行こう、一緒に初めての海を見に行こうよ」
言いたかったことは全部言った。多少気恥ずかしいことも言ってしまったような気がするけれども、嘘偽りのない言葉を綺麗に並べられたと思う。
気が付けば姉の顔も布団のうちに引っ込んでいた。俺の言葉に対するリアクションは芳しくないけれども、無言ということはマイナス評価ではないような気がして、ちょっとだけ嬉しかった。
数分返事を待ったけれども、姉からの返事はなく、仕方なく部屋から出て行こうとしたところで布団からにゅっと手が出て来てちょいちょいと手招きをした。
気づいたからには無視できるはずもなく、引き寄せられてベッドの縁に腰掛けるとそのままむんずと腕を掴んで強引に布団の中へと引き摺り込まれる。
おおよそ病人とは思えない力。
まあそれだけで力を使い果たしたのか、布団の暗闇の中で姉はぜいぜいと息を切らす音だけが聞こえた。
逃げようと思えば逃げれたけれたはずなのに、俺は蛇に睨まれたカエルの様に動くことができなかった。
その代わりにけたたましく心臓だけがフルスロットルで動いていて、きっと耳を澄ませれば姉にも俺の鼓動が聞こえたに違いなかった。
無理やり落ち着かせようとしても、こんな状況で落ち着けるはずもない。
気が付けば姉にぎゅっと抱きしめられて、身動きも取れなくなっていた。
「……男に二言は無いよね」
首を縦に振れば、彼女は嬉しそうに俺の頭を撫でた。
布団の中は暗闇で息苦しく、姉の顔は見えなかったけれども、きっと嬉しそうに微笑んでいたに違いない。
汗の匂いとそれに混じってふっと甘い匂いがした気がしたけれども、それが何なのかわからない。
俺も姉も同じ洗剤を使っているはずなのに。
「明日、海斗が私と一緒に残る方法なら私が出してあげる」
あんたも病気になっちゃえばいいのよ、姉は囁く様にそう言った。
確かに物理的に行けなくなって仕舞えば、感情に頼る必要もないのだけれども。
わざわざ体調を崩したくはないが、俺が代案を出せるわけもなく、姉に従う他なかった。
「……ほんと馬鹿。あなたがそのつもりなら、あんたの初めては私が全部もらう。他の誰にも誰にも渡さないんだから」
ぎゅっと俺を抱きしめる力が強くなって、姉の熱をより一層深く感じた。いまだに落ち着かない俺の鼓動と同じぐらい、それ以上に姉は早く脈打っていて少しだけホッとした。
それならきっと、俺が動揺しているのもバレないだろう。
「何をするのも全部一緒よ、どこに行ったって逃さない。あんたは私のもの、いいよね?」
「……うん」
悪くない言葉だと思った。
人によっては呪いみたいな言葉だけれども、少なくともこの姉ならば自分を託してもいい様な気がしたのだ。
8
息を切らして砂浜に戻ったけれども、姉の姿はどこにも見えなかった。
スマホを取り出して電話をかけてみるも、電源の有無及び電波の届かない場所と言われるばかりで繋がらない。
遮二無二、再び走り出す。
きっとまだここら辺にいるはずだ。姉の用が何なのかはまだわからないけれども、その時間はまだまだ先。
砂浜から駅に向かって息を切らして走る走る。
歩道橋を越えて、曲がりくねった道を駆け抜けて、ふと視界の端に何かが映った様な気がした。
絡れそうになる足を必死に踏ん張って方向転換。姉と見知らぬ男の間に割って入って、「俺の連れです!」とだけ吐き捨てて腕を引いてスタスタと歩き始める。
そうしてしばらく歩いて、ようやく足を止めた。姉が何か文句を言おうと口を動かしていたけれども、こっちから先に言わなきゃ行けないことがあった。
「約束を!」、姉の話を遮って言葉が迸る。
「今更だけど、忘れていた約束を思い出したんだ」
不機嫌そうな顰めっ面は変わらなかったけれども、少なくともそれ以上文句を言われることはなかった。
大きなため息をついて、姉は呟いた。
「……ようやく? ほんともう、遅いよ」
それなら教えてくれればよかったのに、もうちょっとヒントがあればきっとすぐに思い出せたのに。
でも教えてくれなかった理由は何となく分かるのだ、彼女は俺が忘れていたことを許せなかった。
だから、教えてくれなかった。
代わりに猶予をくれたのだ、俺が思い出すまでの機会を。
「ようやくここまで一緒に来れたね」
姉が俺を置いて歩き始めて、慌てて後を追う。
「あの日来れなかった熱海は楽しい?」
「思ったより普通だよ、海は広いし空は広いけど今はもうなんとも思わない」
だって海に行くのはもう初めてではないのだ。
結局、あの後無事に俺も熱を出して二人ともお婆ちゃん家に預けられて、その熱海に行けなかった代わりに、ここよりずっと近い海水浴場にまとめて連れて行かれたのだから。
熱海のことを今まですっかり忘れてしまったのはそのせいだろう。
代わりの旅行があったことと、俺が熱を出して寝込んだからその前後の思い出が朧げになってしまったから。
なら、約束も忘れてたのも仕方ない様な気がするがそんな言い訳が通じるとも思わないし、する気もなかった。
「もう私たちも子供じゃ無いから。まあ夜まで待てば少し変わるんだろうけれど、泳げないし見るだけの海はやっぱり微妙だね」
「……姉さんはさ」
「下の名前」
「私みたいにさ、海斗も私のことを下の名前で呼んでくれなきゃ何も答えないよ」
数回、口で言葉を弄ぶ。
葵、俺の名前と対になる様に組まれた名前だけれども、姉を呼ぶ時は決まって姉さんとしか呼ばなかったから全く言い慣れてない。
立場が逆だったら、多分普通に名前を呼んでいたのだろう。弟や妹のことを代名詞で呼ぶのは何となく珍しい気がするし、自然と名前で呼べるんじゃなかろうか。
「葵はさ、結局、昨日のあいつと付き合うつもりか?」
綺麗にターンを決めて、姉は俺の方へと振り返った。被った帽子の唾を後ろに戻して、「そうだったらどうするの?」と尋ねてくる。
どうしようもない、という事は俺にだって彼女にだってわかっていだはずだった。
それでも何とか答えようとして。ほんの一瞬の思考の間隙をついて、気が付けば姉が至近距離まで踏み込んできていた。
疑問を発するより先に、物理的に何も言えない状況に陥っていた。先ほどの帽子の向きを変えた理由が今更追いついてきた。
なるほど、確かにキスをする時に唾が前を向いていたら邪魔になるだろう。
確かに納得の理由だった。現実逃避にそんなことを考えていれば、既に彼女は元通りの距離へと戻っていた。
まるで白昼夢を見ていたかの様に。何事もなかったかの如く彼女は俺を先導してどこかへ向かって歩き始めた。
変わったところと言えば、姉の耳が真っ赤に染まってるぐらいで、そこを除けば何も変わっていない様な気がした。
「信じてもらえないかもしれないけど、これが私のファーストキスだから」
その言葉を聞いて、ぴたりと足を止まった。
後ろに足音が続いていないことに気がついたのだろう、彼女もすぐに立ち止まってイタズラっぽく微笑みながら振り向いた。
「ファーストキスってさ、レモンの味がするっていうけどなんも味しないんだね」
冗談めかして姉はそんなことを言ったけれども、俺は全く笑えなかった。嬉しさというよりどうしても困惑が勝っていた。
「……なんでキスしたんだよ」
「ほら約束したじゃん、戻ってきたってことはあの時のことを思い出したんでしょ」
俺はあの時、何を約束した?
覚えてる、今はちゃんと思い出すことができたのだから。
「あんたの初めては私が全部もらうって」
「ほら、ちゃんと覚えてるじゃん」
「私はね、ずっと海斗のことが好きだから」
9
それまでは朧げだったけど、あの時初めてちゃんと認識したんだ。私は海斗に恋してるって。
わかってる、これが正しく無いことだって。
だから距離を取ろうとした。
ずっと一緒なんてありえない。そんな子供の約束をしたところでさ、私よりずっと魅力的な人が海斗の前に現れる時が来るんだよ。
そもそもの話で、双子で結ばれるなんて絶対ムリなんだから。
海斗は私のもの。でもね、だからこそ、捨てるのも私の自由だと思うことにしたの。
でもね。
なんで海斗はさ、私に着いてきちゃったの?
無理やり道を分けようとしたのに、そうすればずっと一緒なんてありえないと諦めがついたのに。
目指しても届かない場所に行けばいいと思った、中学校に上がるタイミングは絶好のチャンスだった。
……葵に憧れてたから、できるだけ近くにいたいと思ってたからって、なにそれ。
ほんと、馬鹿じゃないの?
でもさ、私の詰めが甘いのも確かだった。
行くなら女子校に行けば物理的に来れなくなるし、念には念を入れるのなら。そうするべきだったっていうのはわかってる。
でも、本当は。
本当は共学なら、海斗も頑張ってついてきてるんじゃないかって胸の片隅で期待していた。
苦しい、結ばれないなんてわかってるのに、一緒にいることがこんなに苦しいなんて。
あんな場所じゃ、息もできない。
だからね、すっぱり諦めることにしたの。
他に好きな相手が出来れば変われると思った。
だから昨日、あの人を部屋に連れ込んだの。
初めは少し話すだけだと思った。
他人より少し仲がいい程度で、テスト前の勉強会みたいな感じで少しずつ段階を踏めればいいと思った。
でも私が思ってるのと、他人が同じかどうかなんて分かるはずがなかった。
彼はそれをokサインだと誤解しちゃったから。
ベットに押し倒されて、ようやく何かを間違ったことに気づいた。
でも、どうなってもいいじゃんって思うんだ。どうせここで躊躇ったところで何も変わらないんだから。
それなのに、さ。
ねえ、海斗。
どうして間に合っちゃったの?
間に合わなければよかったのに。
そうしなければこんなどうしようもない思いをぶちまけなくて済んだのに。
誰も傷つかなくてよかったのに。
10
すっかり日も暮れて、砂浜に観光客が集まってきている。
その時間になって仕舞えば、彼女が何を見たかったのか尋ねるまでもなく答えは目前に提示されていた。
風に吹かれて寄せては返す波。
青く光る波が砕けるたびに青い光が砂浜に散乱して振りまかれていく。
「夜光虫ってさ、プランクトンの群れなんだよ」
隣に並んで立つ彼女が、まるで自分に言い聞かせる様に小さく呟いた。
町全体に漂う変な匂いの原因だった赤潮が、いよいよ本領を発揮していた。それこそ、多分今この瞬間以外にそれらに益はないのだろうけれども。
「あんなに綺麗なのにさ、あの中じゃ他の生き物は息が苦しくてたくさん死んじゃうんだよ」
波打ち際を歩けば、足を下ろす先がパッと一瞬薄く光っては消えていく。
目を少しでも離せば、姉がパッといなくなってしまいそうで、不安に駆られて手を伸ばした。
握られた右手を見て彼女はふっと淡く微笑んで、手を解くわけでもなくただ繋ぎ方を少しだけ変えた。
「まるでさ現実の縮図みたいじゃない? あそこで生きられない生き物が私達みたいに思えるんだ」
ずっとここにいようよ。
家に帰らないで二人で終わりまで行こう。
姉のその誘いに素直に頷けたらよかったのに。
そうすることができなかったのは、そうしたところで彼女が幸せに慣れないとわかっていたから。
それが一番幸福だとわかってるなら、迷わず頷いただろう。そのまま終点まで突っ走ることが出来た。
「でもさ、俺は今ここで息をしているよ」
それは逃避でしかなかったから、選べない。
安易な道を選んで、後悔なんてしたくなかった。
「こうやって遠くでそれを眺めてさ、そうやって静かに生きていくこともできるんだよ」
生きられないなんて事はないのだから。
あの夜光虫でいっぱいに思える海の中にも、確かに他の生き物は生きているのだから。
「家に、帰ろう」
恋人繋ぎで絡められた手を、俺はぎゅっと握りしめた。
「高校を卒業してさ、大学に行ってさ。そしたらその途中で、葵にも好きな人ができるかもしれない。俺よりずっといい人なんて世の中に幾らでもいるんだから」
返事はない。
「でも、それでも、本当にどこにも見つからなかったのなら」
一度唇を舐めて、俺は言った。
「その時はこうやって遠くに行こう、ずっと遠くに行って静かに暮らそう」
暗がりの中で、彼女が俺のことをじっと見上げていた。
「約束、してくれる?」
「約束も何もさ、とっくの昔にそう決めたんだろ」
きっとあの時、やっぱり俺は呪われていたのだろう。
「葵がそうしろって言ったら俺はそうするよ。だって俺は、葵のことが好きだから」
あんたは私のものって言われて否定しないぐらいに、ずっと昔から好きだったのだから。