◆
脇腹を風が撫で、私は目を覚ました。不思議な感覚だった。それにベッドが熱い。頭も胸も腰も足も、体のすべてがのたうち回っているようだ。起き上がろうとする前から身体に力が入っている。
「震えてる?」
僅かに腕から生えた産毛が逆立ち、肌がまばらに隆起している。とにかく、気分が悪い。
私は枕元に手を伸ばし、置物と化していた体温計を手に取る。脇に挟んで少し待つと、ピピピッと耳に障る音が鳴った。それを取り出し、映し出された数値を確認する。三十四・二度。私からすれば十分な低体温だ。今までこんなに体温が下がったことは一度としてなかった。
「今、何時?」
そばに置いていたスマホに触れる。指紋認証を通ると目に入って来たのは『七時三十分』と『本体温度が下がるまでお待ちください』の文字列。その表示に少し疑問を持ったが、今はそれどころではない。すぐに家を出ないと学校に遅刻する。
体調不良は我慢すれば問題ない。そう思い身体を起こすと、私が寝ていた箇所のシーツが変色しているのを見た。茶色。少し焦げている?
「……なんだろう」
ダメだ、頭がうまく動かない。これは低体温の影響だろう。何か温かいものを、と思ったが、私は普段暑がりだからそんなものを部屋に置いていない。とにかく登校の用意だ。タンスに入れている下着、クローゼットに入れているいつもの服を着る。
「……この服、寒い」
いつもなら絶対に感じないことだが、今はそれが私の頭を支配している。氷河に調査で行った時に使った上着も着ると、多少和らいだような気がした。顔を洗い歯を磨き、支度もそこそこに家を出る。
昨日までは煩わしく思っていた太陽が、今は私の背中を優しく押してくれているようだった。
何も頭に入らない。教壇で話しているからあれがきっと先生で、先生が話しているならきっと授業なのだろう。
「──が──で──」
先生がモニターにペンを当て何かを書く。一体何を話しているのだろう。どれ程の時間こうしているのかも分からない。
「──は、和泉元さん」
それどころかどうやって自分の席まで来たのかすらも分からない。とにかく、今日は一日中粛々と過ごそう。
「和泉元さん?」
「……はい?」
「答えて下さい」
「……えーっと……」
「おや、聞いていませんでしたか? ちゃんと授業に集中して下さい」
「……すみません」
先生が顔を上に向ける。理想的な粛々とした一日は早々に崩れ去ったようだ。流石に今日は部屋で休むべきだったか。
「──ゃん?」
私の後ろでクラスメイトが話している声が聞こえる。代わりに答えているのだろうが、それにしても中々の大声だ。先生もそれに応えてギアを上げたのか、大きな声を出している。
「……とさん!」
先生が声を緩める気配はなく、むしろその語気は増してすらいるようだ。段々と頭に響く音圧に近づいてくる。私は思わず顔を顰めた。いくら授業に身が入ったとしても、そこまで声を張り上げる必要はないだろう。一刻も早くいつものテンションに戻って私の頭に優しい授業を──
「和泉元さん!」
「……え?」
「大丈夫ですか!? つ、机が……!」
その言葉を聞き、私は顔を下に向ける。私の身体を支えている机が煙を上げていた。
「……煙?」
なぜ机から煙が出ているのだろう。間違えてマッチでも持ってきてしまったのかもしれない。それを確かめるために置いていた腕を上げると、ギブアップだと言わんばかりに激しい炎を上げだした。
心はひどく驚くが身体が情動についてこない。ただ閉じられていないだけの口に唾液が溜まる。それと時を同じくして、今度は私の耳を高音がつんざいた。
寒い、痛い、ここはダメだ。すぐに出ないと頭が割れてしまう。私は机に肘を突いて立ち上がり、逃げるように教室を出た。
「和泉元さん!!」
「ちょっと!!」
沢山の声が私の頭蓋を打つ。質量のある衝撃によって司令塔を失くした体内は、胸の中を巣食う粘性のマグマに好き放題食い散らかされた。それが堪らなくて、叫んでしまいそうで、それでも耐えて歩いた。
「……うぅ……ぐ……ぅぅう!」
歩いて、歩いて、とにかく歩いた。一刻も早くその場から離れたかったのだ。惨たらしく残るわずかな自我だけをよすがに、私はどこかを探していた。
「……どこ、に」
私を鎮めてくれる場所を。
「うぅっ……!」
静かな場所を。
「ぁぁ……」
妥協させてくれる場所を。
気付けば誰の声も聞こえなくなっていた。
「……やっと……」
前方に顔を向けると大きな木が生えているのが見えた。私はその木に近づいてもたれかかる。目を閉じれば少し楽になったが、意識を手放せるほどではなかった。
「……だれ?」
その時、誰かの声が聞こえた気がした。しかし、先程までの頭を割る声ではない。例えるならそう、荒野に咲く一輪の花のような。
「エイミ? どうしたのですか、こんな所で」
私は目を開く。視界はすっかりぼやけているが、それでも誰かすぐに分かった。
「部長」
「はい、あなたの部長です」
「なんでここにいるの……?」
「私が先に質問したのですが。私は全知なので、単位など小指一つで取得出来るのですよ」
「そっ……か」
「……ああ、なるほど。どこか身体に不調があるのですね?」
「なに?」
「体調が悪いのですね?」
「なんでわかったの?」
「……これは重症のようですね。ついてこれますか?」
「……うん」
私は幹に預けていた身体を取り戻した。どうして部長がいるのか分からないけど、部長なら何とかしてくれるかもしれない。
「私の車椅子につかまってください」
「うん」
いつもと変わらない姿勢で部長の車椅子に手を掛ける。いくら異常だと言っても、身体に馴染む形は余り負担に感じない。
「つらかったらいつでも言って下さいね」
「うん」
「……しかし、車椅子に乗っている方が導くなんて珍しい事もあるのですね。エイミ? 大丈夫ですか?」
「ああ、うん……大丈夫」
私を包んでいるのは安心だった。いつも一緒にいるからなのだろうか、部長といると不思議と痛みが和らぐ。
「ここからは少し坂になっているので気を付けてくださいね」
「うん」
部長は私を優しくサポートしてくれた。それはもう過保護なんじゃないかってほど。でも、それがなんだかふわふわして好きだと思った。
「何事もなく到着出来ましたね。本当に良かったです」
「……ここは……?」
「保健室ですよ。そこに座って下さい」
私は部長に促されてベッドの端に座る。頭が少しぐらついたような気がした。
「この温度計を使って体温を測るので。おでこ、失礼しますよ」
「うん」
言われるがままにする。部長の言うことを聞いていると安心した。
「……これは」
部長の強張った声。聞きたくなかった声だ。
「エイミ、これを手で握って下さい」
「うん」
しかし、部長はその不安に反してすぐに指示をくれた。言われた通りに手を握る。
「あの、これを握ってくれませんか?」
「……ああ、ごめん」
差し出された物を握った。一体何なのかは分からないが、細い──
「熱っ!!」
思わず手を離す。床に落ちたそれは、私の心底を目一杯に冷やした。
「……なるほど」
氷柱のような声。私の腸をひどく害する。
「これは、一筋縄では行かないようですね」
無機質な天井を眺める。そんな所に私の求める答えはないが、もはやそうする以外に方法はない。どのくらい時間が経ったのだろうか。
『出来ればこんなことはしたくありませんが。しばらくここで過ごしてもらえると、学者の私としては助かります』
部長がそう言っていた。だからここにいる。
ここは特異現象捜査部部室の一角。といっても普通の部屋ではなく、一言で言えば異常な物品を収容するための檻だ。あるのは布団と監視カメラ、それとモニターだけ。すぐに燃えて使い物にならなくなるのに律儀に新調される布団には、正直うんざりしている。
あれから本当に色々な人が来た。先生だとか、何かの最先端を走っている人だとか。私も色々なことをした。その内のどれかひとつでも糸口になると信じて。しかし、状況が改善する策は見つからなかった。
『──なので申し訳ないのですが、今は解決方法が分かりません』
私の頭を彼女の言葉が駆け巡る。そういえば、一つ気付いたことがあった。
その言葉を聞いた時、実を言うと私はそれ自体を全く恐れていなかった。私が苦しいのは出来る限り耐えればいい話だし、部長なら時間をかけて必ず解決してくれると思ったからだ。でも、そう思っているならあり得ないはずなのに、なぜか私の心はずっと不安でたまらなくて、今この瞬間だって呼吸が絶えず乱されている。その理由が分かったのだ。
なぜ土の塊を飲み込んだような気持ちの悪い精神状態が続くのか。それは、私のせいで部長が笑っていないことが、苦虫を噛み潰したような表情でいることが、何よりも耐えられない代物だったからだ。
これがいつ終わるのかなんて関係のないことだった。今この瞬間も、部長から笑顔を奪っている私が憎い。憎くてたまらない。
ガコン、と音が鳴った。食事の時間だ。私は寝転がった身体を起こし、扉へと向かう。扉には郵便受けのようなものが付いていて、そこから食事を貰う仕組みになっている。私が手を伸ばすと、声が聞こえた。待ち侘びた声だ。
「……本当にすみません。あなたの力になれず」
「全然いいよ。私のために頑張ってくれてるんでしょ?」
良くない。明らかに頑張りすぎだ。でも部長はそんな言葉を求めていないから、私はせめて労いの言葉を掛ける。
「ありがとう、部長」
「……エイミ……」
「なんか、もはや私の方が元気だね。役割交代でもする?」
「……それは、良いかもしれませんね」
「しっかり休息も取ってね。特に、部長は身体が弱いんだから」
声が返ってこない。休息を取る気は毛頭ないのだろう。私も何を言えば良いのか分からなくなった。
「……信じてるから」
それだけ言って、私は用意された食事を取り出した。今日のお昼ご飯はお粥だ。
「……いただきます」
スプーンはすぐに燃えたり溶けたりしてしまうから、顔を突っ込んで直接口に入れる。犬食いというやつだ。正直、もう味なんてものは分からない。ただ口を動かして、咀嚼を繰り返すのみだった。
「ヒマリ部長が倒れました」
食事を取り出そうと伸ばした手が止まる。トキの声だ。言われてみると、盛りつけ方が若干違う気がした。
「主な原因は過労でしょう。ということで、エイミの世話はしばらく私が担当します。何かしてほしいことがあればいつでも言ってください」
食事のトレーに無線機が置かれている。これを使えばいつでもトキを呼べるのだろう。
「それでは、私はネル先輩直々に命令されたC&Cの任務に行ってきますので」
「……うん」
呆然としていると、足音が遠のいていった。
しばらく経ってから食事を取り出し、床に置く。今日はうどんだ。白い管がうねうねと出汁の中を泳いでいる。
不思議と頭は冷静に動いていた。身体の震えもすっかりなくなり、今までの自分が嘘みたいだ。なんだか身軽で、このまま羽ばたけそう。
立ち上がり、私とみんなとの境界線にある鉄の扉に触れる。触れると、簡単に溶けた。
「……な〜んだ」
拍子抜けだ、緊張して損した。私は部屋を出て、歩いて、歩いて、歩いて、歩いた。
簡単なことだったんだ。どうして今まで気付かなかったんだろう。解決策はこんなにも近くにあったのに。部長なら、分かっていても実行しないだろうことにも頷ける。先生だって、他の人達だって。
「いなくなればよかったんだ」
部長の腕を疑った訳じゃないし、トキが担当であることに不満を持った訳でもない。ただ自分が、部長なら解決してくれるって信じて疑わないまま寄りかかった自分が、とても嫌になったんだ。
気付けばそこは砂浜だった。辺りはすっかり暗くなり、海は漆黒のうねりを従えている。
熱い。足の裏が異常に熱い。恐らく火傷をしているのだ。私はその熱から逃げるように水に浸かる。
「……ふふっ」
冷たい水のはずなのに何も感じない。それが今の私にはおかしくて仕方ない。
「あはは!」
笑った。ただひたすら、笑うしかなかった。どうすればいいのだろうか、なんて考えてもどうしようもない。頭が痛い。既に割れたのかもしれない。
「ははっ、はははは、ははは!」
自分が苦しんで済むならそれで十分だって思っていたのに、部長は私のせいで倒れてしまった。もしかしたら『これ』を移してしまったんじゃないかと考えると、私が私じゃいられなくなる。
「はは……ははは……」
涙が出ない。身体はとっくに枯れ切っていた。
なんなんだ。一体なんなんだ。
「……ああ」
恐らく、恐らくだけど、この現象の性質は私の体内にある熱の拡散だ。原因は分からないけど……これは私の領分だ。
「……ぐぅっ……!」
手を強く握り、顔が歪む。
「部長に……頼り切ってたから」
『全知』だからって、いつも助けてくれたからって、完全に気が緩んでいた。
「私が、私が全部……!」
初めから解決法を模索していれば。
「あの時だって……!」
何とかなるからって、部長に寄りかかって。蓋をしたんだ。
「過労じゃないっ……!」
そうとしか考えたくない。
「一番大きな原因は、私だ……!!」
いつの間にか周囲の海水は干上がっていた。背中が痛い。焼けているようだ。
「あぁ、うああぁぁぁ!!」
たまらず私は海の、さらに奥深くに飛び込む。
いつの間にか、私の身体が光っていた。自ら発光し、周囲に電流を放出している。
「……何、これ」
私の知らない感覚だ。知らない感覚なのに、私の身体は絶え間なくその感覚を感知し続ける。
「私なの……?」
分からない。もう、私が何なのかすら分からない。水槽に浮かぶ脳のように、私は海中を漂う私を見つめていた。
しかし、すぐに水槽からはじき出された。またも私の周囲の海水が干上がったのだ。いや、海を割ったと言ったほうが適切かもしれない。
「……範囲が大きくなってる」
もしこのペースで効果範囲が広がるのなら、日が昇る頃には。
「逃げることも、許してくれないんだね」
ほぼ無意識だった。これが効率的な最善手だと本心から思ったからだ。私は両手を首に添えていた。
「……部長の安否くらいは知りたかったけど」
それはもう叶わぬ理想だ。深く息を吸い込み、ゆっくりと吐く。意外と焦りや恐怖はない。もう部長にも先生にも迷惑をかけなくて済むことが、今は心から嬉しい。
「じゃあね」
両手に力を入れる。脳にもやがかかり、思考がゆったりとするのが手に取るように分かる。そのまま、私は意識を──
『エイミ!!!』
思わず両手を離してしまった。ぞわっ、と全身が死の冷気に恐怖する。顔が歪み、息が詰まり、心がひしゃげた。
「……うるさい、うるさいッ!!!」
私はわざとらしいくらいに大きく口を動かし、それらを振り払うように両手で乱暴に首を掴む。
「死ぬ!! 私は今死ぬんだッ!!!」
燃える痛みを誤魔化すために叫ぶ。
「首を、絞めて……!」
自分で死ぬって決めたくせに、私の手は一向に力を込めない。
「ぐぅぅぅぅぅぅ!! なんでっ、なんで!!」
胸部を強く叩き、早鐘を打つ心臓を必死で押さえつける。頭はいくらか冷静さを取り戻していた。
「……はぁ、はぁ、よし。死ぬ、死ぬぞ、死ぬんだ、ここで死ぬんだ……!!」
物分かりの悪い身体に言い聞かせる。
「ここで死んで、それで全部終わりだッ!!!」
身体の震えを誤魔化すために叫ぶ。
「……ぅぅううううう!!!!」
私の腕は掴むばかりだ。
「死ぬ!! 死ぬ!! 死ぬッ!!!」
叫ぶ。叫ぶ。ひたすら叫ぶ。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
怖い。
「はぁ、はぁ、は、は、ぁ、うっ……!」
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!
「そう、そうだ……! スリーカウントで、スリーカウントでいこう!! 大丈夫、大丈夫、死ねる、死ねる、死ねる……!!」
無理やり口角を上げて笑う。もはや、藁にも縋る思いだった。
「さんっ!!!」
もう沢山だ。
「にいっ!!!」
もう沢山なんだ!
「いち……!!!」
どうか神様、私に死ぬ勇気を下さい……!!
目を閉じ、力いっぱい食いしばる。この世に生まれた全てを全力で憎もうとする。
……来た、まただ、またあのもやだ。私を終わりへ導いてくれる、あのもやだ。楽になりたい楽になりたいお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願いしますお願い──
「……かはッ」
ぽとりと両手に何かが触れた。おかしい。私の身体はもう、枯れ切っているはずなのに。
「……うっ」
私はもう、諦めたはずなのに。
「……ぅあっ……! ぁぁぁああああ!!」
気付けば、私は目から大粒の涙を流していた。これを奇跡とでも言うのだろうか。ならば、神様はなんと残酷なのだろうか。
「いやだっ……!! 死にたくない!!!」
口に出す。本当の思いを。
「会いたい!! 部長に会いたい!!!」
砂上にうずくまる。そうしていると、少しだけ温かい気がした。
◆
「……はッ!」
突然身体が大きく脈打った。その衝撃を受け、私は左胸をとっさに押さえる。心臓の鼓動で意識を取り戻したようだ。
「……はぁ……はぁ」
肩で息をする。脳が段々と視界を捉え、情報を集め始める。規則的で白い天井、カーテン、輸液バッグ。すぐに頭が理解した。ここは病室だ。
「どうして」
私はつい先程まで部室にいたはず。誰かがここに連れてきたのか? だとするなら、点滴が必要な状態で私が発見されたということだ。
「……過労、ですか」
過労によって部室で倒れている所を誰かに発見され、この病室に運ばれた。決して有り得ない話ではない。
「……しかし、それが本当なら笑い物ですね。エイミをあんな場所にまで入れて調査したのに、私の方が先に耐えられなかったなんて」
自分の不甲斐なさを自嘲する。当然だが、そんなことをしたところで誰も何も返してはくれない。
身体を起こし、部屋を見回す。私の寝ていたベッドは右奥に位置しているようだ。部屋に明かりは点いていないが、窓枠とベッドの距離がそう遠くないため、ベッドにか細い光を通している。カーテンの隙間に月が見え隠れした。
「何にせよ、今は少しでも多く情報が欲しいですね。ナースコールで看護師さんを──」
言いながら子機を掴み、そこで固まる。
本当に呼んでいいのか?
相手は私の体調を第一に考える集団だ。普段であればありがたいことこの上ないが、今呼べば間違いなくここに留まらせられる。最低でも数日はエイミの元に辿り着けないだろう。
「……エイミは今も苦しんでいるはずです。私がぬるい液体で浴している間も、ずっと」
あの場所で──あの鉄の扉の向こうで、エイミは事態の好転を健気に待ち続けている。だから私はエイミのそばにいなければならない。病院の一室で出来る調査には限界がある。
「……もしかしたら、近くにスマホが置いてあるかもしれませんね」
最もらしい言葉を口にして子機を手から離す。しかし、ベッドや机の上を探しても、スマホはおろか電子機器すら見当たらない。
ここだけでは足りない。
左腕を見る。私の血管に刺さっている一本の針、そこにつながる管。言うなればこれは、私をここに閉じ込めるための鎖だ。それがひどく腹立たしい。一刻も早くエイミの元に辿り着きたいのに、どうして私の邪魔をするのか。
綺麗に貼られたテープを剥がし、翼状針を持つ。慎重に引き抜くと、針の先から液体が漏れ出した。ベッドに置いたそれがシミを作る。
「これで行動範囲が広がった訳ですが。どうしましょうか」
大前提として、ベッドの周囲に車椅子が無いために移動方法は匍匐前進に限られる。もしその様子を職員に発見されでもしたら一発アウトだ。見つからない環境作りが最も重要だろう。しかし、そのためにはハッキングデバイスが必須だ。ハッキングデバイスを手に入れるには、匍匐前進で探索する必要がある。つまり、堂々巡りだ。何をするにしても、見つかるリスクが大きすぎる。
「どうにか、抜け出せる方法は……」
何か手掛かりはないかと、部屋の隅々を舐めるように見つめる。しかし、やはり何もない。リスクなしに行動は出来ないということか。
「……ですが、見つかる訳にはいきません」
苦虫を噛み潰したような顔をしたその時、ふと、窓が目に留まった。カーテン、更に向こうの月光。ほんの一瞬、揺らめいた。
私は淡く輝く空に導かれ、そこに行こうと身体を動かす。下半身が動かないにも関わらず、不思議と身体は軽かった。丁度、月を頼りに空を飛ぶカゲロウのように。
ベッドの柵を持ち、続いて窓枠を持つ。互いの距離を空けておかないなんてここの職員は随分と不用心なものだ、などと考えながら、私は外を視界に入れた。
「……いやいや」
最初に出たのは乾いた笑いだった。直後に強い重力を両手に感じ、胸が締め付けられる。
奈落だ。地上に広がる街の高低など些事に過ぎない。全て均されたマットのようで、しかし一切の快楽を決して許さない剣山だ。風の殴打を肌が想像する。凍てつく大気を肺が想像する。そうして私がぐしゃっと潰れるのを、頭が想像する。『六階』だ。
大したことはないと思ったのだ。いつもいるミレニアムタワーに比べれば、この程度の高さは鼻で笑える程なのだから。だが、窓の向こうに頭を出した時、何かしらの簡単な外的要因さえあればいつでも身を投げ出せると知った時、『六階』はいつもの生ぬるいそれとは全く違う側面を見せた。
「これは、いくらなんでも無謀と言う他ないでしょう。この高さを……飛び降りるなんて」
自ら口にしたはずなのに、『飛び降りる』という単語に身体が激しく反応する。心拍がペースアップし、胃が圧迫されて苦しい。
真下を見る。私がぶつかるだろう場所は街路樹に挟まれた土手だ。細い川が通っていて、車が通行するための橋が架かっていた。樹木、坂。落下ポイントとしては申し分ない。
「……まだ、廊下を這う方が数段マシでしょう」
だが、這ってどうする? 運悪く誰かに見つかればその時点でおしまい、見つからなくても出入口の突破は至難の技だ。
「この高さからなんて……そんなことをすれば私、し、死ぬかも」
なら、他に十分な可能性のある脱出の手立ては思い付くのか? そうじゃないのなら、廊下に出ることだって無謀だ。
「……はぁ、はぁ、はぁ」
呼吸が荒い。私の思考が冷静なものなのかも分からない。こんな危険な案に合理性を感じられる訳もないが、しかし私はこれしか望みがないことも理解していた。
「そうです。こんな危険な案、エイミが望まないでしょう。……きっと私を馬鹿な奴だって止めてくれますよ」
心底恐ろしい自分に言い聞かせる。窓枠を握る手に強い力が入った。風が乗り出した私の背中を大きく煽る。
「だから私。どうか、これは、これだけは……やめませんか?」
目の周りが熱くなり、声が震える。怖い。
「……お願いします、やめてください……!」
怖い、怖い、怖い、怖い、怖い!
「考えるのを……こんな馬鹿なことを考えるのを、やめてください!」
賢すぎる頭というのは時に自らに牙を剥く。私の頭は直観的でない正解が存在すると既に知ってしまっていた。だからやめない。本能が拒絶する手段しか導き出さない。
「この手を離して、ベッドに戻るだけで良いのに! どうしてっ──」
その瞬間、バキッ、と音を上げて窓枠が折れた。
重心が宙に浮いた身体は重力に従い、質量を持って下側に落ちる。
「ぐッ!!!」
腹部が窓枠に乗り、一命を取り留める。すぐさまひどい吐き気が私を襲った。
「……う……うう……」
苦しい。痛い。怖い。
「……おええええ……!」
堪えきれず、病院の外に透明な液体を吐く。食物は一欠片も含まれていない。
「あ……あああ……」
喉の奥がザラザラして気持ち悪い。たった十センチ落ちただけでこのザマだ。
「……いたい……!」
頬を水滴が伝う。情けない。
「こんなの、むりですよ。いたくて、こわくて、もう……!!」
長時間冷たい死の瘴気に曝され、私は半ばパニックに陥っていた。だが、仕方がない。これは今選べる択ではない。
私は再度両手に力を入れ、身体を──
『……信じてるから』
ベッドに戻ろうとしたはずの身体が固まる。
あの声だ。そういえば、彼女はそんなことを言っていた。
「……すぅー、はぁー」
苦痛を脱ぎ捨てるために深く、深く息をする。しかし全身の感覚は鈍くならず、むしろ鋭くなるばかりだ。
「……さん」
煽られたカーテンが軽快なステップを踏んで月光のダンスを踊った。人々の熱を吸い込んだ青嵐が背中を叩き、翔べよ翔べよと高らかに歌った。
「……にい」
街中の煌めくフットライトが足元を照らす。今宵は正に、私という名の即興劇の見せ場であった。
「いち」
エイミ。貴方のために。貴方だけのために。
「ゼロ」
明星ヒマリより、愛を込めて。
痛い、とは思わない。そう感じないからだ。痛覚が強い衝撃によって麻痺している。
私は木に飛び込み、土手を転がって川底の上で仰向けになった。耳鳴りはひどいが、幸いにも水深が浅く、呼吸は問題なく行える。首を回すと、橋の下に放棄された車椅子が見えた。
「……リスクに見合う報酬ですね」
うつ伏せになり、地面を這う。着ている服が擦れ、車椅子に手が触れた頃にはすっかり濁った色を見せていた。
「はぁ……はぁ……」
車椅子の向きを直し、壁際に少しずつ寄せていく。この運動だけで精一杯だ。
「エイミ……エイミ」
踏ん張るためにその名前を呼ぶ。呼んでいる間、着実に前に進んでいる気にしてくれた。
「はあ……はぁ……よし」
車椅子が壁にぶつかり動きを鈍くした。後はこれに乗るだけだ。キャスターから伸びた鉄棒を掴む。
「それが一番、大変なんですが」
正直な所、もう車椅子に飛び乗る気力は残されていなかった。ただでさえ下半身が使えないから大変なのに、おまけに落下のダメージもある。
「ふっ! ……ぐぅっ!」
力を入れて必死に動かすが、身体が上に上がらない。車椅子が壁に擦れ、ガタガタと音を鳴らした。
「ふんっ! ふんっ! うぐぐぐぐ……わっ!!」
力の入れ所が悪かったのか、車椅子は大きな音を立てて体制を崩した。思わず小さく溜息を吐く。
「中々手強いものですね。しかし、絶対に諦めませんよ」
すぐさま私は下半身を擦り、倒れた車椅子の元へ向かった。
「私なりに、責任を取るんです」
再び向きを戻すために車椅子に手を掛ける。
「誰かいるの?」
その時、背後から聞き慣れた声がして、思わず呼吸が止まった。ここにいるのは想定外だ。
「ヒマリ!? どうしてここにいるの!?」
「……先生」
連邦捜査部、シャーレの先生がそこにいた。スーツは着用しておらず、ワイシャツの袖を肘まで捲っている。
「やはり、私を運んだのは貴方だったのですね」
「そうだけど、私が運んだのは病室だよ!?」
「申し訳ありません。どうしても急がなければいけない用事がありまして」
「……それはエイミのことだよね?」
「はい」
笑みを浮かべ、極めて穏便に、冷静に返答する。
「先生、少しお願いがあるのですが……この車椅子に私を乗せて頂けないでしょうか?」
「乗ってどうするの?」
「どう、と言われましても。私は何をするにも、まず車椅子に乗っていないと困りますから」
無言。先生はそういう人だ。もし有り得るなら車椅子に乗っていなくても困らなくなってほしいと心から願っているからこそ、何も返さない。
「それとも、先生はこの超天才清楚系病弱美少女を土混じりの冷水に浸すのがお好みですか?」
「……仰向けになって」
「理解が早くて助かります」
上を向き、私に近づく先生の首に両腕を伸ばす。背中と膝の裏を支えられ、私は容易く持ち上げられた。
「ふふっ。先生にお姫様抱っこをされてしまいました」
「辛くない?」
身体が重い。服が泥水を含んだからだろうか。だが、ここで先生に悟られる訳にはいかない。笑顔を貼り付けて、何事もないのだと、今すぐエイミの元へ向かっていいのだと思わせなければ。
「いえ、とても心地良いですよ。ありがとうございます」
嘘のコツは本当を織り交ぜること。先生にお姫様抱っこをされて心地良くなっているのは本当だ。
「それは良かった」
先生は綿を撫でるような優しい声を出した。腹の下は分からないが、悪くない状況ではあるはず。
そう思った矢先、先生が橋の外を見た。
「……先生? 車椅子はこちらですよ?」
確認の声を出すが、先生は反応する素振りを見せない。それどころか私を抱えてあらぬ方向に歩き始めた。嫌な予想が頭をよぎる。
「もしや、私を病室に──」
私が抗議の声を上げるが早いか、すぐ左に私の車椅子が見えた。
「……え?」
先生は混乱する私をゆっくりと車椅子に座らせ、片膝をついて両手を握る。まっすぐ私を見つめ、瞳孔をピクリとも動かさない。そこには一種の気迫が宿っていた。
「ヒマリ」
私の名を呼ばれる。お説教をされた時の前置きとそっくりな流れに、真面目な話をするのだと脳が感づいた。
「……はい」
覚悟を決め、先生を見つめ返す。何を言われるのかまでは想像が付かないが、例えどんな言葉を受けたとしても自分を曲げないという強い覚悟の目だ。
そうして不動の、静けさすらとっくに追い越してしまったほどに気が遠くなるような一瞬を辿った先、先生の開いた唇に赤が滲むのが見えた。
「一人で背負わないで」
「……はい?」
予想外。完全な死角から狙い撃たれ、私は狐につままれたような顔をする。
「ここで怒って引き留めるのが大人としては正しいんだと思う。でも、それじゃダメなんだ」
「病室に連れ戻さないのですか?明らかに何かがあった見た目だと言うのに」
「私はヒマリだけに背負ってほしくない」
先生の手に力がこもる。少し温かい。
「協力すると言っておきながら、ろくに成果を出さなかった私にも責任はある。だからもし乗ってくれるなら、私と一緒に頑張ってくれたら嬉しいな」
「……それが先生というものなのですね」
「ううん、私はただのお節介な大人だよ。ちょっぴり夢見がちのね」
くしゃっとした笑顔でその人は笑う。それが精一杯なのだと、痛いほどに分かった。私は応えるために震える喉に無理矢理唾を飲み込ませ、言葉を紡ぐ。
「……エイミはどのような状態ですか?」
「それが、ヒマリが意識を失ってる間に抜け出したみたいなんだ」
「……ぇ?」
どれだけ痛覚が鈍くとも、血の気が引く感覚というのは鮮明に味わえるらしい。エイミがあの部屋から無断で出たという事実はすなわち私との決裂を意味する。本人にその気があったのかどうかは分からないが。
「でも、どこに行ったのか分かってるし……何より、症状に変化もあったらしい。これが一番重要だ」
「……それは一体、どのような」
「抜け出した後に発熱の範囲がしばらく拡大した。今は止まってるんだけど、恐らく拡大も停止も、エイミの感情が深く関係している」
「感情……なるほど」
「もしかしたら、そこから解決の糸口を掴めるかもしれない」
「推測だとしても、それ以外の手立てはないということでもあるのですね」
「あはは……そういうことだね」
先生は力無く肩を揺らす。その行動に直感する。この人も責任──いや、それ以上に申し訳なさを感じているのだ。苦しんでいるエイミに何もしてあげられなかった無力感。生徒の信頼を裏切った罪悪感。何より、彼女の笑顔を引き出せなかった辛さと言ったら。
気付けば、私は先生の頭を撫でていた。髪の流れに沿い、さらさらと滑らかに手の平が動く。
「ヒマリ!? どうしたの!?」
「何だか私を見ている気がしたのです。まだ大きな成果を上げてはいませんが、これくらいの労いはあって良いでしょう?」
鏡合わせのその人に微笑みかける。少し逡巡した後、笑顔を浮かべて私の頭を撫で返してくれた。少し口角の上がった、柔らかい笑顔だ。
「ふふっ。この光景、なんだか可笑しいですね。互いに頭を撫で合っているなんて」
「……そうだね。全く、可笑しいや」
互いに触れ合い、笑い合う。こんなにも尊く、こんなにも儚い一時。エイミ、どうかその中に貴方も混ざっていてほしい。夢のような世界に、貴方がいてほしい。
「ヒマリ、そろそろ行こう」
「そうですね、向かいましょうか」
◆
どれほど時間が経ったのか分からないが、それを気にする意味がないくらいに虚が心を埋めていた。
最低だ。私は優柔不断な馬鹿野郎だ。
あれだけ迷惑をかけて大した好転も見せないで、それで勝手に抜け出してはやっぱり怖いと泣き喚く。会長が見込んで得意現象捜査部に入れた頃の私の姿はもはやどこにもなく、醜く哀れな肉塊が転がっているのみだ。
「……何がしたいんだろう」
意味のない言葉で自分を慰める。何がしたいのかなんて、分かりきっているのに。
「ヒマリに会いたいのではなくて?」
「……え?」
驚き、目を見開く。声の在処を確認するために周囲を見回すと、二メートル先で白い円盤が宙に浮かんでいた。ライトの付いたカメラにAMASの印字。
「数時間前、貴方がそう言っていたわ。もしかして気が変わったのかしら?」
軽いノイズが混じったマイクから伝わる、純粋故に神経を逆撫でする音。間違いない。今ここにいるのはセミナー現会長、調月リオ先輩だ。
「……言ってみただけ」
「そう。なら良かったわ」
極めて淡白な返事だ。初対面から一切変わらないその言動にはむしろ感心すら覚える。なぜここに会長がいるのか、いつから聞いていたのか、そもそもなぜドローンは溶けずに行動出来るのか、聞きたいことは山ほどある。しかし、
「しばらく一人にしてほしい」
俯き、暗い一言をこぼす。今の私には会長の歯に衣着せぬ言葉を受け止めきれない。そのくらい弱って、擦れて、もう立てないのだ。
「勝手なことばかりしてるのは分かってる。分かってなんて言わないし、分かってほしいとも思わない」
頭を上げられない。会長を見ることが出来ない。罪悪感が支配した身体は鉄を背負ったように重く、罰と罵倒を受ける瞬間を健気に待っている。
「お願い」
膝を突き、頭を突き、手の平を砂に付ける。私は人生の中で初めて土下座をした。交渉材料など何もない、情に訴えかけるだけの極めて醜い土下座だ。
「エリドゥでのことは覚えているかしら?」
「エリドゥ? なんで今──」
「私はアリスがキヴォトスに終焉を招くと思い、対抗策として要塞都市を建設したわ。結果はそうはならなかったけれど」
会長は構わず言葉を続ける。私のお願いを却下したということなのか。分からない。彼女の考えが読めない。
「あの時、私が先生から何について叱られたか分かる?」
「……いや」
「結論を思い込みで補完したことよ」
思い込み。その一言が胸にずんと沈む。その瞬間、あらゆるものに指を差されている気がしてぞっとした。
「アリスは確かにキヴォトスを終焉に招く存在だったわ。でもそれは、その行為が出来るというだけ。アリスが危険であることとアリスが招くことは似ているようで違う。科学を志す者でありながら、私はそこを疑おうともしなかった。既存の理論の上に胡座をかいて、それが一つの結果だと決めつけたのよ」
視界が揺らぐ。違った。彼女は変わっていないなんて、そんなはずがなかったのだ。
「必ず一つの結果に収束するというのは理論上有り得ない話ではないからこそ、私達は理論すら疑ってかかるべきで……つまり、便宜上は結論と称して区切りがつくけれど、本当の意味での結論を出す瞬間はないの」
彼女は成長していた。生徒会長に登り詰めるほどの頭脳を、経験を、合理性を以てして、確固たる一歩を踏みしめていたのだ。
「貴方にも、思い当たることがあるはずよ」
「……ごめんなさい」
いつの間にか、私は謝罪の言葉を口にしていた。
「ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ……!!」
否、それは懇願であった。もうどうしようもありません、私には何も出来ませんでした、なのでどうか怠惰で愚かな私を許してください、と傲慢な言葉を無様に喚き散らす。
「何もしてなくてごめんなさい、何も出来なくてごめんなさい、部長の……あの人の笑顔を奪ってしまってごめんなさい……!!」
唇を噛み、必死に激情を抑える。がたがたと震える身体が情けない。あれだけ後悔しておいて、私はまだ待つことしか出来ないのか。
「……何を謝っているの?」
その言葉からは軽蔑も、冷笑も感じ取れない。まるで、ただ疑問を呈しているかのようだ。
「……ぇ……?」
思わず頭を上げ、ドローンを見る。
「ごめんなさい。本当に分からないの。私は、ただ貴方を元気づけようと思って……」
「……今の言葉が?」
心の底から湧き出た言葉が口をついた。しかし、ドローンのカメラもライトも何一つ変わらない。
「気に障ったのなら謝るわ。でも、私が言いたいことは変わらないし、一つだけよ」
何一つ変わらないはずなのに、彼女の目が私を射止めた気がした。
「貴方を結論づけて、その中の最善で妥協するなんてダメ。どうか貴方を諦めないでちょうだい。貴方の未来を決めるのは、貴方が適任なのだから」
「……諦め、ないで」
「そう、それが私の言いたいことよ」
勝手に自分に見切りをつけるな、諦めるな、未来を決めるのは自分自身。分かるよ、そんなことくらい。でも。
「……でも、それじゃ部長に迷惑がかかっちゃう」
部長は私の発熱にかかりきりになって、次第に笑顔がなくなって、余裕もなくなって、そして倒れた。
「未来を決めるのは私だけでも、その結果は他の人達皆も被る。もちろん、部長だって」
自ら皆の足を引っ張る。それが一番嫌だ。最も非効率だ。
「だからさ、もう、一人にして?」
俯き、消え入る声で呟く。何も出来ない中で、唯一出来るお願いをする。しかしやはり、望んだ答えは返ってこない。
「貴方は大きな勘違いをしているわ。その程度、大した迷惑ではないのよ」
「──えっ」
顔を上げるが既にドローンはそこになく、少し欠けた月が鈍く光っていた。
「待って、どこに──」
「エイミ!!!」
背後から切羽詰まった声。それなのに、胸が詰まって仕方がない。止まったのだ。身体の震えも口元も、ぴしりと固まった。嘘だ。今は倒れているはずだ。こんな所にいるわけがない。
何もかもが崩れ、ぐちゃぐちゃの津波になった心が静まる。不規則な図形が物体に変わり、境界のないビビッドカラーが繊細なグラデーションに変わり、許しを乞うのみの頭が判断能力を取り戻した。
部長だ、と。
「大丈夫ですか!? 意識はありますか!?」
恐らく海岸沿いの歩道を走っているのだろう声が、私のことなんか少しも待たずにぐんぐん近づいてくる。
「エイミ、返事をしてください!!」
恐ろしいほどにまっすぐだ。まっすぐで、だからこそ振り向きたくない。振り向いたらきっと、揺らいでしまうから。
「はぁ、はぁ、エイミ、エイミ──!!」
私は振り向かないまま立ち上がった。私達の距離はかなり近く、大体五十メートルは切っただろう。気持ち悪い。
「良かった、意識があるのですね!!」
嬉しそうな声。きっとはち切れんばかりの笑顔だ。見たい。見たくてたまらない。気持ち悪い、気持ち悪い、心底気持ち悪い。
「心配しましたよ、エイ──」
「来ないでッ!!!」
拳を握り、裏返った声でがなる。急ブレーキをかけた車椅子がざりざりと音を立てた。
「お願いだから……来ないで」
「……どうしてですか?」
困った声。まただ。また私は迷惑をかけた。
「一緒にいたら、部長をダメにしちゃうよ」
「そんなこと──」
「あるよ。危ないのに私の近くまで突っ込んでくるのがその証拠。それに、ずっと私にかかりきりで看病して……それで倒れた。私のこれは移ってないみたいだから良かったけど、それならご飯も食べないほど余裕をなくしてたってことじゃん」
「……そうですね」
「私が何をしても……ううん、何もしてなくても、部長の足を引っ張ってたことは火を見るよりも明らか。それなのに、戻って何になるの? 部長は私の面倒を見るだけの存在じゃない。『全知』の称号を持ったミレニアムで指折りの戦力なんだよ。部長が私に手を焼いている間に、一体どのくらいの利益の損失が起きているのかも分からない」
溢れ出る。心から、口から、不満、不満、不満。
「非効率なんだよ、私を匿うのは。時間を浪費して、機会を浪費して、気力を浪費して、それで飽き足らずに、部長の……部長の笑顔まで……!」
私という存在は今この瞬間も着実に部長を蝕んでいる。それは揺るぎない真実で、ならば原因を取り除くという手段は実に効率的だ。
「……エイミ」
「とにかく、もう話すことはないから。部長と私は、ここでさよなら」
部長に会えた。それだけでも十分な奇跡だ。だからこそ、これ以上を望むのはダメだ。別れの言葉を吐き捨てるように言い残し、足を動かす。どこかへ、ここではないどこかへ。
「……待ってください……!」
震える声。らしくもない。それじゃあ自ら証明しているようなものじゃないか。
「……待たないよ」
一歩一歩、砂を踏みしめる。足取りが重くても、歩かなきゃ。そう決めたんだから。
「待てと言っているでしょうッ!!」
瞬間、私の身体がばさっと大きな音を立てた。何かがかかった?背中を右手でさすり、目の前に持ってきて理解した。砂だ。砂をかけられたんだ。普段の部長からは考えられない暴力的な行動。私はそれに驚き、思わず振り向いた。
──それは、大きな失敗だった。
「やっと、私を見てくれましたね」
生糸を束ねたように滑らかな白髪。餅雪のように白くハリのある柔肌。象牙のように高く整った鼻と耳。孔雀の羽のように一際目を引く長い睫毛と、それに隠されたファウンテンブルーの深い眼。
目が離せない。否、離したくないのだ。
「先程から黙って聞いていればグチグチグチグチと……そんなことをずっと考えていたんですか?」
「そうだよ。部長はどうしようもない馬鹿で、だから私はこれ以上馬鹿がひどくならないようにって考えてたの」
「私のために?」
「部長のために」
睫毛がわずかに畳まれ、彼女の眼はいっそう深い色を見せた。そうして息を吐き、
「私を侮るのも大概にしてください!!」
彼女が発したのは怒りだった。
「私を誰だと思っているんですか!! 超天才清楚系病弱美少女ハッカーであり『全知』の称号をほしいままにしている明星ヒマリですよ!? 余裕をなくしたから何ですか、過労で倒れたから何ですか!! それが私の限界だと!? 私は貴方の安っぽいリスクヘッジにすっぽり収まる女だと!?」
腕をぶんぶんと振り、顔を赤くして叫ぶ。こんな姿は初めて見た。
「甜めないでください!! 高嶺の花である私から見た貴方なんて、麓の山火事程度なんですから!!」
「なにそれ!! ぜんぜん意味分かんないし、結構被害デカいじゃん!!」
私も負けじと叫び返す。自分の主張を押し通すために。
「それは麓から見た場合の話です!! 上に立つ者の視点では大したことないんですよ!!」
「大したことないなんて嘘だよ!! あの部屋にいた時、部長の顔すら見えないのに辛そうにしてたのが簡単に分かった!!」
部長の顔が少し歪む。
「ほんとは強がってるだけなんでしょ!? 私がいる間ずーっとあのままいるなんて、そんなの、割に合わないよ!!」
「強がっていることの何が悪いんですか!? 私は嫌々やらされている訳ではありません!! 貴方と一緒にいたいんですッ!!!」
喉が痛い。視線が痛い。胸が痛い。
「一緒にいたいから!!! 貴方と一緒にいたいから、どんなにつらくても諦めたくないんです!!」
「……当たり前だよ」
もう無理だ。これ以上隠すなんて、無理だ。
「一緒にいたいなんて……そんなのあたりまえにきまってるよ……!!」
「なら──」
「でもどうしろって言うの!? 私はおかしくなっちゃって、もう普通になんて無理で、一緒になんて、もう、もう……!!」
今の私は、きっとひどい顔をしている。それはもう、この世で一番不細工なほどに。
「……部長に保健室に連れて行ってもらって、それから部室でお世話をしてもらって、安心してた。きっと部長だから大丈夫だろうって、部長なら何とかしてくれるだろうって。甘かったんだ。私は部長の手に負えないほどの問題児だった。私がいる限り、部長は笑えないんだと思った。そう思ったらさ、もうさ、いなくなるしかないじゃん。私が部長を殺す前に、死ぬしかないじゃん」
「……エイミ」
「でも出来なかった。何回やっても、私の中の部長が引き戻すんだ。私の名前を呼んでさ。エイミ、エイミって。情けないよね。どうしようもない馬鹿は部長じゃなくて私なんだよ」
「そうですね。貴方はどうしようもない馬鹿で問題児です」
「だから、部長の目の前からいなくなった方がいいんだよ」
「私はエイミと一緒にいたいです」
「……一緒にいたら迷惑ばかりかけちゃうよ」
「私はエイミに迷惑をかけられて、それに悪戦苦闘しながら日々を過ごしていたいです」
「私のせいで死んじゃうかもしれないんだよ!?」
「超天才清楚系病弱美少女ハッカーは、後輩の可愛い癇癪程度で死んだりしません」
「……でも、でも──」
「エリドゥでのことは覚えていますか?」
「……エリドゥ?」
「アリスがキヴォトスに終焉を招くと思い込んだリオが、要塞都市を建設した時のことです」
「諦めないで、って?」
「いいえ、私の言いたいことはそれではありません」
「じゃあ、何を言いたいの?」
「『アリスは大切な後輩です』」
部長は大きく両腕を広げ、笑顔を浮かべた。
「私は貴方を──異常な高熱を振りまく貴方を、かけがえのない大切な仲間として迎え入れます」
ざりざりと音が鳴る。車椅子が近づく。私は両腕を前に突き出し、精一杯の抵抗のポーズをとった。
「……ダメ、だよ。これは治せない異常で、近づいたら危ないから……!」
「そうではありません。やっと気付いたのです」
部長は構わず距離を詰める。柔らかい物腰で、優しい口調で。
「貴方のそれは、治す必要のある病気ではありません」
声が近づき、息がかかり、彼女は私を抱きしめる。血の通った命の感触がした。
「謂わば成長痛のようなもので、貴方がこれから受け入れ、私達も受け入れる、個性なのですよ」
「……ぅう、うあっ……!!」
全身の力が抜け、大きな嗚咽を漏らした。
「ああぁぁぁぁぁ!!!」
涙が溢れる。暖かい。それは肌を焼くような熱ではなく、心の臓の奥の底から湧き上がる熱だった。
「……どうやら、わたしの才能溢れる頭脳は無事に正答を導いたようですね」
いつぶりだろうか、私は確かにここにいた。
「ひどい有様ですね、全ての扉が溶けているではありませんか」
「……ごめん」
「構いませんよ。丁度、買い替えようと思っていた所ですし」
「扉に買い替え時とかあるんだ……」
ここは特異現象捜査部の部室。そう、私達は戻って来たのだ。あの後たまたまいたと白々しいことを言う先生に病院まで連れられ、二人仲良く入院した一週間後である。
「しかし、何とかなるものですね。ここまで上手く行くとは正直思っていませんでした」
「それは私も。なんというか、拍子抜けだよね」
「……ここまでの道のりを考えると一切拍子抜けだとは思いませんが。まあ何にせよ、無事で何よりです」
軽い雑談を交わしながら二人であの部屋に入る。床はもちろん、壁も熱で変色していた。
「ここもかなり汚れてるね。全部替えた方が良いかも」
「そうですね。というかエイミ、この部屋寒くありませんか?」
「そう? 私は別に、むしろ暑いくらい」
「はあ、言うと思いました。……お願いします」
「はいはい」
部長の肩に両手で触れ、後頭部に力を入れると、私の一部が、私の熱が全身を動くのを感じた。
「どう?」
「すごく温かいです。ありがとうございます」
「全然いいよ。そう言えば、ずっと気になってたんだけどさ。なんで部長は私がどこにいるのか分かったの?」
「先生が教えてくださったんですよ」
「……やっぱり、たまたまいたんじゃなかったんだね」
「それと──いえ、こっちは良いでしょう」
「何?」
「言わなくても伝わる、というやつですよ」
部長がいたずらっぽく笑った。