昭和十六年十月。
阪急浜離宮大回廊。
大回廊の北端に突貫で叩きつけられた、二重板壁の長屋。
二重硝子隔壁の向こう、耐食処理を施した排気筒から、過酸化水素の刺激臭を帯びた白い蒸気が吐き出されていた。
計算室内には、鉱物油の重い臭気が沈んでいる。
三十八台のタイガー計算器。
その前に座るのは、あの「第四班」の生き残りたちだった。
その真鍮歯車が、少女たちの指先に合わせて、絶え間なく回転していた。
真下ミサヲの首が、不意に折れた。
白手袋を嵌めた両手が卓を掻きむしり、酸っぱい胃液が白木の床板へ落ちる。
「……拭いたらアカン! 手袋にしみる」
十七歳の特別気象演算隊取締、石原時子の低い声が落ちた。
時子はミサヲの背をさすりもしない。
胃液で汚れた計算尺を無造作に奪い取ると、己の指先で真鍮の滑り枠を弾いた。
時子の肋骨の奥にも、まだ試験室の差圧が残っていた。
みぞおちを焼き鏝で抉られるような痛みが、呼吸のたびに走る。
だが詰襟をすこしも崩さず、漆黒の牛革編上長靴の踵で床を一つ、硬く鳴らした。
「四交代制。
第六組へ引き継いで。
この班の回転数を落とさない」
少女たちは無言で手袋を温め、真鍮の枠に削られて腫れ上がった指先で、歯車を叩く乾いた金属音を部屋中に充満させていった。
浜離宮の水面が爆ぜた。
跳ねた墨汁が、時子の頬へ黒い点を打つ。
「行く……!」
窓外の灰色の海で、白鶴二型が水煙を引いていた。
背中に据え付けられた二本の黒い鋼鉄薬筒が、いかり肩を張っている。
高度九千。
操縦席の補助噴射挺が倒された瞬間、触媒層へ過酸化水素が流し込まれた。
両翼下が白銀の超高温水蒸気に包まれる。
見えない巨拳が乗員の背中を叩き、身体を座席へ押し潰した。
水蒸気の噴流で一気に高度を稼ぐと、分離火薬が炸裂した。
二トンの死に重りとなった鋼鉄薬筒が切り離され、機体が一万二千メートルの青黒い空へ躍り出た。
外気温零下四十五度、気圧は地上の五分の一。
艇体内部の二重鋼管カプセルが、凄絶な差圧でメリメリと悲鳴を上げる。
観測員の痙攣する指が、鍵盤を叩く。
ト・ト・ツ・ト――。
「試験機より電信。
高度一万一千、風向二百六十度、風速四十五」
「三号計算、直ちに」
時子の喉が掠れた。
三十八人の少女が一斉にクランクを回し始めた。
ミサヲも口元の胃液を袖で拭い、右腕のケロイドを引きつらせながら、歯を食いしばって計算尺の硝子を擦った。
二分半。
時子は帳面へ黒鉛を叩きつけ、電信兵の首筋を突いた。
「同報。『三九二』、照合『ハ』。
風の芯を外し二千下げさせてください」
長波の強電力に乗った三文字が、雷雑音を貫いて南方の空へ飛ぶ。
受話器の奥で、与圧弁の破裂音と耳を突く悲鳴が響いた。
時子は眉ひとつ動かさず、切換器を指先で切った。
昇降計の針は、じりじりと下へ傾き始めていた。
薬筒の使い捨て補助噴射で届く空などたかが知れていた。
一万二千の虚無で、翼はただ悲鳴を奏でているだけだった。
昭和十六年暮。
天保山第四格納庫。
苛性曹達と鉱物油の臭いが澱む暗がりで、黒板に白墨が叩きつけられていた。
「活塞(ピストン)を捨てい!
燃焼瓦斯の噴流で直接後ろを叩くっとじゃ!」
海軍技術将校、種子島時休の薩摩弁が響く。
卓上には、昭和十三年に石原莞爾がローマから持ち帰り、舞鶴の地下で湿気ていた瓦斯輪機関(ガスタービン)の焼損断片が転がっている。
「正気を疑うぞ!」
三菱の久保富夫が卓を叩いた。握りしめたノギスがカチカチと震えている。
「渦輪(タービン)入口で千百度近い燃焼瓦斯だ!
舞鶴のオハ航空揮発油と水酒精をぶち込もうが、あの薄い空じゃ空冷の気筒(シリンダー)ごと頭が吹き飛ぶ!
低空で大量の油をドブに捨てて、どうやって水面を離れるつもりだ!」
引き戸が細く滑り、冷たい海風が入る。
重厚な外套を纏った時子と、下駄を鳴らす小林一三だった。
時子は足元の黒い油溜まりを編上長靴で静かに避け、黒板の図面を見上げた。
「みなさん、声おおきぃ」
男たちの熱病のような怒号が静まり返る中、時子が帳面を開き、黒鉛の芯を黒板の数値へ突きつけた。
「……そんな噴射ダダ漏れやから、燃料足りんのちゃいます?
熱量の貸借が合ってへん。
高高度で空気が薄かろうが、その爆風をそのまま捨てたら帳簿の数字をドブに捨てるのと同じです。
その噴射で軸を回して、推進器(プロペラ)叩けばいいやないですか」
場違いなほど素っ頓狂な響きが、油臭い格納庫の空気を止めた。
久保が顔を真っ赤に歪め、卓を蹴り上げた。
「理屈を舐めるな!
一万五千回転の爆風で軸を回せば、減速歯車にかかる荷重は莫大だ!
一瞬で歯面が焼き付き、粉々に砕け散る!」
だが、種子島の巨体が硬直していた。
へし折れた白墨を握り直し、黒板に凄まじい勢いで線を引いた。
「……千度で刃が持たんのなら、住友の耐熱鍛造鋼を使う。
圧縮機から抜いた空気を渦輪(タービン)翼へ導き、翼を内側から冷やす!
七百五十度まで力任せに冷やす!」
種子島の薩摩弁が裏返る。
「高高度じゃ活塞発動機を焼き付き手前まで絞れ!
排気噴流で渦輪(タービン)を回し、その軸出力で推進器を駆動して、不足する推力を全額引っ張る!
……噴流軸出力発動機、じゃ」
「減速函はどうする!」
久保が叫ぶ。
「一万五千回転を二千まで落とす減速歯車を誰が作る!
ねじり振動と瞬間荷重で一瞬で粉々だ!」
「舞鶴の実験結果と阪急の金がある」
小林一三が竹扇子をパチンと鳴らし、鋼鉄の塊をドスンと置いた。
「阪急の瑞西製歯車研削盤を三班交代で回させた。
斜歯の遊星歯車を百組、創成研削で仕上げてある」
久保は歯車をむしり取り、測微器(マイクロメーター)を押し当てた。
そして、鼻で笑った。
「歯面の振れ三微米(ミクロン)。
電車屋の浅知恵だ。
噛み合いの逃げもない平面歯じゃ、軸が撓んだ瞬間に端からむしり取られて終わりだ」
昭和十七年春。
三菱第一工場。
地下高高度試験室。
一万三千回転。
一万四千回転。
減速函の外殻から黒油が吹き出し、激震とともに鋼鉄の歯車が破砕した。
「一万五千の共振の頂点を舐めるな!
歯根の疲労破断だ!」
久保が破片を顕微鏡へかざす。
「歯元の曲率を変えろ!
歯端にも丸みをつけて、噛み合いの端当たりを逃がす。
軸受の剛性も見直せ!
遊星歯車の荷重を均等に分散させるんだ!」
昭和十七年秋。
二次試運転。
一万五千回転の共振を耐え抜いた減速歯車の先で、燃焼器が失火した。
未燃焼ガスが燃焼室に滞留し、遅れて爆発的に再着火した。
燃焼室の圧力が跳ね上がり、千三百度の燃焼瓦斯が逆流した。
鋭利な鋼鉄片が防音硝子を突き破る。
焦げた極圧油の酸っぱい臭いが立ち込め、久保の右頬から白木の床板へ血が重い音を立てて落ちた。
時子は防音硝子の破片を編上長靴の底で踏み砕き、手帳を久保の胸元へ突き出した。
「……数値を見てください。
燃焼器の主流路を三ミリ広げないと、冷却空気が勝ちます」
久保は血みどろの顔で時子を睨みつけた。
だが時子の視線は久保の裂けた頬には一切向いていなかった。
冷徹に機関数値を測る瞳だけがあった。
昭和十七年冬。
要求される計算精度が上がり、浜離宮の計算量は膨張を続けた。
東北出身の十四歳のサトが、極度の疲労と差圧試験に肺をやられてタイガー計算器の上に倒れ伏した。
ミサヲがクランクから手を離しかけた。
時子はミサヲを手で制し、手帳を開いた。
「サト」の文字に黒鉛で一本の横線を引き、「市川房枝経由、静養」と記した。
その下に、「第四班・代替計算要員、三十七名」と書き足した。
「補充は呼べへん。
この班の回転数を落とさん」
時子の声に、ミサヲは弾かれたように自分のクランクを握り直した。
空いたサトの分の計算を、残りの三十七人が黙々と分担し始める。
歯車を回す速さが一段階上がった。
誰一人、不満を口にする者はいなかった。
一週間後。
蒼白な顔をしたサトが、房枝の手配した栄養食の香りをかすかに纏って長屋へ戻ってきた。
無言で自分の席へ座り、腫れ上がった指で計算機を握り直す。
時子自身、深夜の長屋で血を吐いた。
みぞおちを抉る痛みに膝をつくが、汚れたボロ布で床と口元を淡々と拭い取り、屑籠へ投げ入れた。
洗面所で口をすすぐと、新しい白手袋に滑らかに手を滑り込ませ、そのまま計算尺を握り直した。
誰も死なせない。
だが、誰も逃げられない。
第四班の少女たちは、自らその歯車となることを選んでいた。
昭和十八年初夏。
浜離宮沖。
白鶴二型の背に据え付けられた流線型の包み――完成した噴流軸出力発動機、千二百馬力試作型『フ-1200』が、澄んだ高周波の駆動音を響かせていた。
四発の活塞発動機が咆哮し、排気に混じる水酒精の湿った匂いが風に流れた。
背中のフ-1200が、低く唸りながら軸出力を補い始めた。
薬筒の煙すら使わない。
艇底を補強された二重与圧カプセルが凄絶な差圧を封じ込め、艇体は滑らかに水面を離れた。
一万。
一万一千。
一万二千。
外気温零下五十度。
四発の活塞発動機は気筒の焼損を防ぐべく低い唸りへと絞られ、背中のフ-1200が唸りを増し、減速函を介して推進器へ軸出力を送り始めた。
機体は時速四百五十キロの水平巡航を完璧に保った。
「減速函油温、安定……!
高度一万二千、巡航入ります……!」
与圧室で、右頬に黒い縫い痕を残した久保が、震える指で回転計を撫でた。
種子島は包帯だらけの手のひらを握りしめ、無言で天井を見上げた。
浜離宮の木造長屋。
雲を切り裂く高周波の駆動音が、屋根を震わせて降り注いだ。
卓上の墨汁に、緻密な波紋がどこまでも広がる。
十八歳になった時子は、受話器をそっと置いた。
三十八人の少女たちの金属音が、長屋の奥で止まない。
時子は白手袋を外す。
親指の腹には硬いタコと、変色して潰れた指甲がこびりついていた。
胸ポケットから、すり切れた緑色の星型フェルトを取り出す。
昭和七年、雨の白梅館。
わさじいから貰ったレンズ拭き。
湿った空気の向こうで、大石和三郎の佐賀弁が耳奥に揺れた。
――あの風の川に乗って、亜細亜も、西洋も、ひとっ飛びたい。
「……できたで、わさじい」
かすかな、だが研ぎ澄まされた声。
時子は痛む胃を一度だけ手で押さえ、靴を揃えて帳面へ向かい合った。
筆先へ黒墨を含ませる。
紙へ、滑らかに吸い込まれていく。
「良」
寸分の狂いもない骨組み。
だが、潰れた指甲が支える筆の軸は、最後のひと跳ねで紙の繊維を僅かに削った。
漆黒の線の端に、研ぎ澄まされた刃の欠けのごとき、小さな掠れが残った。
二分後。
三宅坂陸軍省。
地下二階。
湿ったコンクリートと蓄電器の酸っぱい匂いが澱む暗がりで、自動電送機の真鍮歯車がカタカタと爪を打った。
吐き出された一尺の紙片を、白手袋の手が静かに掬い上げた。
浜離宮から専用有線で送られた試験完了報告。
国家戦略院院長、井上成美だった。
硝子眼鏡の奥で薄い唇をわずかに結び、印字された「良」の文字を一瞥する。
井上は紙片に折り目ひとつつけず、黒塗りの大卓へ滑らせた。
大卓の上には、常磐要塞、東日本全域の送電線網、首都防衛陣地を重ね合わせた巨大な統制図面が広がっていた。
卓の反対側に、陸軍大臣、石原莞爾が立っていた。
白襟を硬く留めた軍服のまま、太い両腕を胸の前で組んでいる。
硝子玉のような眼光が、電球の黄色い光を反射して怪しく光っていた。
井上は静かに背筋を伸ばし、顎を引いた。
「……整いましたな、大臣」
井上の隙のない敬語が、地下室の冷えた空気をわずかに震わせる。
石原は返事ひとつ返さない。
ただ腕を解くと、ゴツゴツとした親指の腹で、「良」の紙片を図面へ押さえた。
紙片が置かれたのは、図面の中央――帝都・三宅坂の真上だった。
石原は、紙片から手を離さなかった。
(第二部 完)