出航の時間が近づき、港では世界政府船の乗組員たちが慌ただしく動き回っていた。
船へ運び込まれる荷物を横目に、メフェリアはタラップの前でベイルと向かい合っていた。
昨日、危うく先に別れの挨拶をされそうになったので、今度こそ本当のお別れである。
「それではメフェリア宮、どうかお気をつけて」
「うん。ベイルもね」
「ありがとうございます」
ベイルはいつも通り、丁寧に頭を下げた。
この島へ来た時には、まさか現地の役人と一緒に市場を歩き回り、倉庫を見張り、最後には漁船に乗って怪しい船を追いかけることになるとは思っていなかった。
メフェリアは船へ乗ろうとして、ふと振り返る。
「ベイル」
「はい?」
「揚げ魚、美味しかった」
一瞬、ベイルが何とも言えない顔をした。
「それが最後のお言葉でよろしいのでしょうか」
「駄目?」
「いえ。メフェリア宮らしいかと」
「また来たら食べる」
「その際には、もっと美味しい店を探しておきましょう」
「ほんと?」
「ええ」
それは楽しみだ。
メフェリアは少し笑って、今度こそタラップを上がった。
甲板へ出ると、ちょうど出航の準備が終わったところだった。太い綱が外され、船がゆっくりと岸壁から離れていく。
メフェリアは手すりのところまで行き、港を見る。
ベイルはまだそこにいた。
軽く手を振ると、向こうもこちらへ頭を下げた。
やがて人の姿が小さくなり、港町そのものが少しずつ遠ざかっていく。
これで、シャムロックから任された仕事は終わり。
あとはマリージョアへ帰るだけだ。
「何事もなければ、数日中には到着する予定です」
近くにいた政府役人がそう告げた。
「途中でどこか寄る?」
「物資は十分にございます。基本的には直接マリージョアへ向かいます」
「そっか」
「残念そうでございますね」
「そんなことないよ」
メフェリアは海を見る。
本当に、そんなことはない。
任務は終わったのだから、帰るのも楽しみだ。
自分の部屋へ戻りたいし、軍子たちが何をしているのかも気になる。
それに――。
「あ」
思い出した。
昨日からずっと引っかかっていたものが、ようやく頭の中に浮かんだ。
「どうされました?」
「お土産」
「お土産?」
「忘れてた」
軍子とキリンガムから、任務へ出る前に頼まれていた。
何か美味しいものがあったら買ってきてほしい、と。
それだけではない。
ソマーズとは、お互いの任務先で土産を買って交換しようと話していた。
ここまでいくつかの土地を回った。
料理もいろいろ食べた。
それなのに。
何も買っていない。
メフェリアはしばらく海を見つめた。
「どうしよう」
「何がでしょうか?」
「手ぶらで帰ることになる」
「よろしいのでは?」
「よくないよ」
少なくともメフェリアにとっては、かなり大事な問題だった。
軍子はともかく、ソマーズは何か買って帰ってきそうだ。
自分だけ何もないのは嫌だ。
「どこか寄らない?」
「寄りません」
即答だった。
「まだ最後まで言ってないよ」
「お土産をご購入なさるために寄港したい、というお話では?」
「そうだけど」
「でしたら寄りません」
「一ヶ所だけ」
「世界政府船は観光船ではございません」
それを言われると弱い。
さすがにメフェリアも、お土産を買うためだけに航路を変えろと言うつもりはなかった。
「マリージョアで何か探すしかないかな」
「それがよろしいかと」
でも、それでは旅先のお土産ではなくなる。
何か違う。
メフェリアは少しだけ不満を残しつつも、諦めて船内へ戻ることにした。
その時は、本当にそのつもりだった。
*
昼を過ぎた頃から、海の様子が変わり始めた。
メフェリアが船室で本を読んでいると、窓の外がいつの間にか暗くなっていた。
朝には青かった空を厚い雲が覆い、波も少しずつ高くなっている。
やがて窓に雨粒が当たり始めた。
船が揺れる。
机の上に置いていたカップが滑り、メフェリアは慌てて手を伸ばした。
「危ない」
何とかこぼれる前に捕まえた。
その直後、また大きな波が船体を揺らす。
扉が叩かれ、先ほどの役人が入ってきた。
「メフェリア宮」
「結構揺れてるね」
「はい。この先、天候がさらに崩れる可能性があるとのことです」
「船、大丈夫?」
「航行自体は可能ですが、安全を考え、一度近くの島へ寄港することになりました」
「島?」
メフェリアの顔が上がった。
役人が一瞬だけ嫌な予感を覚えたような顔をする。
「ここから南西にあるセレノ島です。港がございますので、天候が落ち着くまでそちらで――」
「町ある?」
「ございます」
「お店は?」
「ございますが」
メフェリアの表情が少し明るくなった。
「お土産買えるね」
「メフェリア宮」
「何?」
「天候を避けるための寄港です」
「分かってるよ」
もちろん分かっている。
お土産のために航路を変えたわけではない。
たまたま天候が崩れた。
たまたま近くに島があった。
たまたまそこへ寄ることになった。
そして、たまたま町に店がある。
何もおかしくない。
「嬉しそうでございますが」
「気のせいだよ」
「左様でございますか」
「うん」
メフェリアは窓の外を見る。
雨はどんどん強くなっていた。
天気が悪いのは困る。
本当に困る。
ただ、セレノ島という名前は覚えておこうと思った。
*
世界政府船がセレノ島へ到着した頃には、雨もかなり弱くなっていた。
雲の隙間から夕方の光が差し込み、濡れた港を照らしている。
メフェリアは甲板から町を眺めた。
思っていたより大きい。
港には漁船だけでなく商船も停泊していて、船から降ろされた荷物が次々と倉庫へ運び込まれている。その奥には店の並ぶ通りも見えた。
「本日はこのまま停泊いたします。出航は天候を確認してからとなります」
役人の説明を聞きながら、メフェリアはすでに外套を羽織っていた。
「降りてもいい?」
「港から大きく離れない範囲でしたら。ただし、護衛をお連れください」
「分かった」
「随分とご準備が早いですね」
「そう?」
「はい」
気のせいだ。
多分。
*
雨上がりのセレノ島は、潮の匂いが強かった。
港から続く通りには、船乗り相手の店がいくつも並んでいる。
魚屋、雑貨屋、酒場に食堂。少し先には衣服や保存食を扱う店も見えた。
メフェリアは二人の護衛を連れて通りを歩く。
「まずお菓子探そう」
「お土産でございますか?」
「うん。日持ちするやつ」
軍子たちへ持って帰るなら、それが一番大事だ。
ここからマリージョアまで何日かかるか分からない。生菓子を買って傷んでしまったら意味がない。
どこかに良さそうな店はないだろうか。
そう思いながら歩いていると、風に乗って香ばしい匂いが漂ってきた。
メフェリアの顔が自然とそちらへ向く。
通りの端に、小さな屋台があった。
鉄板の上で肉を焼いている。
香辛料をまぶした肉を平たいパンに挟み、野菜と一緒に食べるらしい。
メフェリアは少しだけ歩く速度を落とした。
今日はお土産を探しに来た。
自分の食事を探しに来たわけではない。
そのまま通り過ぎようとする。
「お嬢ちゃん、焼きたてだよ!」
店主から声をかけられた。
止まった。
後ろを歩いていた護衛も一緒に止まる。
「この島の香辛料を使ってる。船乗りにも人気だよ」
この島の香辛料。
メフェリアは鉄板を見る。
肉の表面が香ばしく焼け、脂が落ちるたびに小さな音を立てている。
「一つください」
「毎度!」
護衛の一人がこちらを見る。
「メフェリア宮、お菓子を探されるのでは?」
「探してるよ」
「では、そちらは?」
「食べながら探す」
何も問題はない。
出来上がったものを受け取る。
温かいパンの間には、薄く切った肉と野菜がたっぷり入っていた。
一口食べる。
最初に肉の旨味が広がり、少し遅れて香辛料の辛さがやってくる。そこに野菜の酸味が加わるので、見た目よりも食べやすい。
メフェリアはもう一口食べた。
「美味しい」
「だろ?」
店主が嬉しそうに笑った。
「この島の料理?」
「昔から船乗りがよく食ってるよ。片手で食えるからな」
「なるほど」
確かに便利だ。
船の上でも食べやすそうだった。
メフェリアは食べながら、ふと思いつく。
「お土産にできるお菓子売ってるところ知らない?」
「菓子か?」
「日持ちするやつ」
「だったら、この先の角を右に曲がったところに焼き菓子屋があるぞ。果物を使った菓子が有名だ。船乗り向けの保存が利くやつも売ってる」
ちょうどいい。
「ありがとう」
目的の店も見つかった。
メフェリアは残っていたパンを食べながら歩き出す。
「これでお土産も買えそうですね」
護衛が言った。
「うん」
「寄港できてよかったですね」
「天気悪いのはよくないよ」
「それはもちろんですが」
メフェリアは少し考える。
確かに雨は困った。
出航も遅れる。
でも、お土産を買えるようになったのは助かった。
「ちょっとだけよかった」
護衛が小さく笑った。
メフェリアは気にせず、教えてもらった店を探して歩いていく。
軍子には何がいいだろう。
キリンガムは甘いものなら何でも喜ぶだろうか。
ソマーズには、向こうが持って帰ってくるものに負けないくらい、この島らしいものがいい。
考え始めると、少し楽しくなってきた。
任務は終わった。
あとはマリージョアへ帰るだけ。
その途中にできた、予定外の寄り道。
今夜くらいは、お土産を探しながらこの島を歩いてみてもいいだろう。
メフェリアは雨上がりの市場通りを、少しだけ弾んだ足取りで進んでいった。