TS憑依ゼンゼ 作:TS好き
翌日、訓練施設の一角には朝からいくつもの標的が並べられていた。木製の人型が五体、その後ろには厚さの違う防御用の板が何枚も設置されており、正面に並べるだけではなく、左右へ分散させ、さらにそれぞれの距離にも差をつけている。
複数の髪をまとめて同じ方向へ動かし、それぞれの先端を標的へ向けたうえでゾルトラークを一斉に発動する、という戦い方はすでに実戦を経て問題ないことが分かっている。追尾術式を組み込んだ髪は動く標的を自動で捉え、複数本が同時に発動しても魔力の経路さえ独立させておけば発射のタイミングがずれることもない。
しかし、今日試したいのはそこではなかった。
髪一本一本へ、まったく別の位置と向きを個別に指定し、それぞれ違う状態を保たせたまま、さらに別の髪へまた別の指示を出す。
自動で標的を追わせるのではなく、こちらの意思で一本ずつ違う配置を組み立てる、という作業にはまだ十分に慣れていなかった。
これまでの自分は、髪を動かすことと魔法を発動することを、ほとんど一つの動作として扱っていた。だから今日は、そこを分ける。
足元まで伸びた髪をゆっくりと広げ、その中から一本だけを持ち上げる。細い銀色の髪が空中で静止し、その先端が正面に置かれた標的へ向いた。
照準を合わせ、その状態を維持したまま魔力を流す。ゾルトラークが一直線に放たれ、標的の中央を正確に撃ち抜いた。
一本なら、すでに完全に安定している。
髪を戻し、次は二本へ増やす。右側の髪を中央の標的へ、左側の髪をその隣の標的へ、それぞれ別々に動かして照準を合わせ、両方の髪がそれぞれの標的を正確に捉えたところで停止させる。
そのまま同時に魔力を流すと、二発のゾルトラークがほぼ同時に放たれ、それぞれ別の標的へ命中した。
問題ない。
次は三本。一本目を正面へ、二本目を右へ、三本目を左へ向け、それぞれの先端を別々の標的へ合わせる。正面の照準を維持したまま右側を動かし、右側を停止させたまま左側を動かし、その間も正面の髪は一切動かさない。
髪一本ごとに違う命令を与える。
最初は簡単だった。しかし、右へ動かしている髪へ停止の命令を出しながら、同時に左の髪を上へ動かし、その間も正面の髪で照準を維持しようとすると、三本しかないにもかかわらず意識の切り替えが追いつかなくなってくる。
先端が僅かにぶれる。すぐに修正する。またぶれる。
そこで魔力を流す。一本目は命中し、二本目も問題なく標的を貫いたが、三本目だけが僅かに照準を外し、標的の肩を削るに留まった。
失敗。けれど、原因は明確だった。発動そのものではない。照準を維持しながら、別の髪へ同時に異なる命令を出すことに問題がある。
記録帳を開き、その場で結果を書き込む。
――三本の個別配置では、照準維持に僅かな遅延。 ――発動そのものは安定。 ――複数の髪へ別々の命令を同時に与える場合、意識の切り替えが負荷になる。
そこで筆を止める。
意識だけで一本ずつ制御しているから難しい。なら、術式側に役割を持たせればいい。
これまで髪の操作は、魔力を流して直接動かすことが中心だった。しかし、すでに髪一本へ複数の術式を組み込めることは分かっている。それなら、髪一本ごとに独立した制御を補助する術式を用意し、細かな動作を自分の意識から切り離してしまえばいい。
命令を受け取る。現在の位置を確認する。指定された方向へ移動する。指定された位置で停止する。そして、その状態を維持したまま次の命令を待つ。
さっそく一本を選び、髪の内部へ新しい術式を組み込んでいく。現在位置を確認するための術式を追加し、そこへ指定方向へ動かすための補助術式を繋ぎ、さらに動作を止めるための制御構造を組み込む。それぞれの術式が干渉しないように魔力の流れを分け、必要なときだけ各術式へ魔力が流れるよう調整していく。
しばらくして、一本の髪がゆっくりと持ち上がった。
「右」
髪が動く。
「止まれ」
静止する。
「下」
「止まれ」
「左」
髪は与えられた命令に合わせて動き、指定した位置でぴたりと停止した。
そこへゾルトラークの術式を接続する。照準を維持したまま発動。魔法が標的へ突き刺さる。
成功した。
ただし、まだ一本だけだ。制御用の術式が増えれば、それだけ髪一本あたりの魔力消費も増える。移動している間だけ魔力を使い、停止している間は最低限の魔力で位置を維持し、発動するときだけ蓄えていた魔力をゾルトラークへ流す。役割を分けることで、髪一本へかかる負担はかなり抑えられるはずだった。
それから何度も術式を組み替え、魔力の流れを調整し、余計な部分を削り、必要な部分だけを残していく。ようやく一本分の調整が終わると、同じ術式をもう一本へ組み込み、右と左、それぞれへ別の方向を指定して動かしてみる。
二本とも、狙い通りに命中した。
さらに三本、五本。五本になると制御は難しくなるものの、一本ずつの動作を完全に意識する必要がなくなっている。髪そのものに組み込んだ補助術式が細かな動作を支え、指定した方向へ動かし、指定した位置で停止させ、発動命令を受けた髪だけがゾルトラークを放つ。
十本。右上、左上、中央、右下、左下、奥、手前、そして残りは待機。十本の髪がそれぞれ違う動きを始め、一本が標的を狙う間に別の一本がその横へ移動し、さらに一本が上空へ伸びる。その状態を維持したまま発動準備を進めていくと、やがて十本すべての術式が完成した。
発動。連続した轟音が訓練場に響き、木製の標的が次々と砕けていく。
十本、すべて命中した。
息を整えながら、記録帳へ結果を書き込む。
――髪一本ごとの独立した個別配置制御に成功。 ――照準維持と移動指示を分離可能。 ――十本程度であれば、実戦を想定した操作が可能。 ――さらなる本数の拡張は今後の課題。
これまで、複数の髪をまとめて同じ方向へ動かすことはできていた。標的を自動で追わせることもできていた。だが、一本ずつまったく違う配置を組み立て、それを保ったまま次々と新しい指示を出すという操作は、今日ようやく形になった。
攻撃、探知、防御、待機――これまで役割ごとに分けてきた髪の使い方に、さらに細かい制御が加わったことになる。
次に必要なのは、この精密な個別制御を、実際に動き回る相手に対しても発揮できるかどうかだった。
その機会は、思っていたよりも早く訪れることになる。
◇
数日後、聖都シュトラールの魔法協会へ、魔物討伐の依頼が一件届いた。
依頼先は聖都から南へ半日ほど進んだ山道で、街道を利用する商人や旅人が、ここ最近になって何度も魔物に襲われているらしい。被害そのものはそれほど大きくなく、商隊が数台襲われて荷物をいくつか奪われた程度で、今のところ死者も出ていないという話だったが、問題は魔物の数が少しずつ増えていることだった。
討伐対象として記載されているのは低級から中級程度の魔物だったが、目撃情報によれば十体以上が群れで行動しているらしく、数の多さを考慮して協会から複数の魔法使いが討伐へ向かうことになった。
馬車を降りると、山道特有の冷たい風が吹き抜け、周囲に並ぶ背の高い木々がざわざわと葉を揺らしていた。
「この先です」
同行していた協会の魔法使いが地図を広げる。
「昨日もこの辺りで商隊が襲われています。目撃されたのは十数体で、おそらく、まだ近くにいるはずです」
「分かった」
足元まで伸びている髪を数本だけ地面へ這わせ、探知術式を起動する。
周囲の地形が魔力の反応として浮かび上がってきた。木。岩。斜面。そして、その奥に複数の魔物。
街道を挟むように左右へ分かれている。
こちらを囲むつもりらしい。
「来る」
そう呟いた直後、木々の間から一体の魔物が飛び出してきた。
その後ろからさらに二体、左右からも別の魔物が現れる。
予想通り、群れだった。
「下がってください!」
同行していた魔法使いが杖を構える。
しかし、その必要はなかった。
足元まで伸びた髪が静かに広がり、その中から十本ほどがそれぞれ別の方向へ伸びていく。
追尾術式がそれぞれの標的を捉える。
魔物が進路を変えるたびに髪も軌道を変え、こちらが細かな動きを一つずつ指示する必要はない。
距離が縮まる。
発動条件を満たした。
「撃つ」
一本の髪からゾルトラークが放たれ、魔物の胸部を正確に貫いた。
魔物の身体が魔力の粒子となって崩れ、その場から消えていく。
ほとんど同時に、別の髪から二発目、三発目が放たれた。
二体が消える。
残った魔物たちが足を止めた。
仲間が一瞬で倒されたことで、こちらの戦力を警戒したのだろう。
ただ、少し遅い。
髪はすでに次の標的を捉えている。
正面から三体、右から二体、さらに一体が木の陰へ回り込む。
複数の標的が同時に動いたにもかかわらず、髪は乱れなかった。
それぞれの髪が独立して動き、担当した標的を追い続けながら照準を維持している。
正面の魔物が飛びかかってきた瞬間、一本の髪が反応した。
ゾルトラーク。
魔物が消える。
残った二体が左右へ散ると、それぞれを別の髪が追い始めた。
右側の魔物が木の陰へ隠れ、視界から完全に消えた。
それでも探知術式は途切れていない。
一本の髪が進路を変え、木の向こう側へ回り込む。
魔物が再び姿を見せた瞬間、髪が反応した。
ゾルトラーク。
左側の二体は、互いに距離を取っていた。
一本ずつがそれぞれを追う。
片方が速度を上げれば追従し、もう片方が反対方向へ逃げれば別の髪が追う。
ほぼ同時に二つのゾルトラークが放たれ、二体が消えた。
残るは三体。
そのうち一体が戦況を理解したのか、森の奥へ逃げ始めた。
「逃がさない」
二本の髪が木々の間を縫うように進み、逃げる魔物の前方へ回り込む。
魔物が右へ曲がる。
髪も曲がる。
左へ逃げる。
今度は反対側から髪が回り込む。
最後に魔物が振り返った瞬間、二方向からゾルトラークが飛んだ。
魔物の姿が消える。
静かになった。
……まだ一つ。
探知術式に微かな反応が残っている。
一本の髪をそちらへ向けると、地面に伏せた魔物が僅かに動いた。
まだ終わっていない。
髪が伸びる。
発動。
反応が消えた。
そこでようやく探知術式を解除する。
周囲に敵の気配はない。
「……終わった?」
同行していた魔法使いが呆然とした顔で周囲を見回している。
「たぶん」
「たぶんって……」
戦闘の痕跡は残っているものの、先ほどまでいた魔物の姿はもうどこにもない。
髪を一本ずつ確認していく。
目立った損傷はない。
術式にも大きな乱れはない。
標的のように一定の動きをしてくれるわけではない魔物を相手に、独立した追尾と個別配置の両方が問題なく機能した。
その場で記録帳を開き、結果を書き込む。
――実戦投入。複数標的への独立追尾、問題なし。
――遮蔽物越しの探知から再照準まで対応可能。
――複数同時発動、発動後の再照準も可能。
――現時点で、実戦運用に大きな問題なし。
「その髪です。どうやって、そんなに正確に動かしてるんですか?」
「術式」
「それだけ?」
「それだけ」
同行者は何か言いたそうな顔をしていたが、結局それ以上は聞かなかった。
協会へ戻ると討伐結果を報告する。
「十数体を確認。すべて討伐しました」
「一人で……ですか」
「同行者もいました」
職員が報告書へ目を通しながら、少し困ったような顔をする。
「魔法の種類は?」
「ゾルトラーク」
「……それを、髪から?」
「そう。十本くらい」
職員が報告書へ何かを書き込んでいく。
訓練場では、十本を使った場合にまだ精度が落ちることがあった。
しかし実戦では問題なかった。
魔物の動きは複雑だったし、地形によって視界まで遮られていた。それでも髪はそれぞれの標的を追い続け、こちらは発動するかどうかを判断するだけで済んだ。
髪は、それぞれが独立した術式媒体として機能していた。
照準、追尾、発動、そして再照準。
すべてが成立している。
なら、ここから先は本数を増やすだけではなく、より難しい相手を試していけばいい。
協会を出ると、夕方の聖都には帰宅する人々の姿が増えていた。
長い髪を揺らしながら、その中を歩いていく。
髪一本を独立した攻撃魔法の媒体として扱う。
その基礎は、確かに完成した。